■素晴らしき世界(上・下)/マイクル・コナリー 2022.1.17
マイクル・コナリーのミステリーには、“人生がある”。
物語の登場人物のひとりひとりに人生があり、それが感動を呼ぶ。
短い人生のほとんどは、悲劇であり、悲しみにあふれている。
対象者は人間回転草
風邪に吹かれるままに転がっていく
あすは遠くへ吹き飛ばされ
いなくなろうとだれも惜しまない
それを記したパトロール警官は、カードにT・ファーマーと記名していた。気がつくとバラードは、ファーマーの哀愁を帯びたストリート・レポートをもっと読めるよう、彼の職質カードを探していた。
「出てこなかったと思うが……それほどたくさんの名前を調べたわけじゃない。きみが言っているのは、ティム・ファーマーのことか?」
「ええ、知り合い?」
「おれは彼といっしょにポリス・アカデミーに入ったんだ」
「ファーマーがそんな年だったとは思わなかった」
バラードはすぐに自分がなにを言ったのか悟った。
「ごめんなさい」バラードは謝った。「つまり、ほら、そんなに長く警察にいた人間がまだパトロールの現場にいたのはどうしてなんだろう、と」
「なかには現場を諦められない人間がいるんだ。知っているだろ、ファーマーは……」
「ええ、知っている。なぜそんなことをしたの?」
「だれにわかる? あの男は退職まで一ヵ月だった。一種の強制的な退職だったと聞いている……もし定年延長をしても、内勤にされるだろうな。それで退職の書類を提出し、最後のパトロール勤務の最中に自裁したんだ」
「ひどく悲しい話ね」
「たいていの自殺はそうだ」
「彼の書き様が好きだった。シェイク・カードに書かれた彼の所見は詩のようだった」
「多くの詩人が自殺する」
「そうみたいね」
ロス市警ハリウッド分署深夜勤務女性刑事レネイ・バラードは、ボッシュと出会い、未解決のディジー・クレイトン殺人事件を調べ直していく。
「あなたが知っておくべきことがある」ソトが言った。「その事件を調べている別の人間がいるの。市警に所属していない人が」
「あら、そう?」バラードは言った。「それは何者?」
「わたしの元のパートナー。名前はハリー・ボッシュ。彼はもう引退しているけど……その仕事をする必要にかられている」
「その手の人間ということね? わかった。ほかになにか知っておくべきことがある? この事件はボッシュが担当していた事件なの?」
「いえ、だけど、彼は被害者の母親と知り合いなの。母親のために調べている。くわえた骨を離さない犬のようにしつこく」
「いい情報ね」
ボッシュが未解決事件見直し作業の一環として、その事件のファイルをひらいたとき、彼は異なるアプローチをした。ボッシュは、この世ではだれもが価値があり、そうでなければだれも価値がないという原則につねに従って、捜査に当たっていた。その信念は、どの事件にも、どの被害者にも最善の努力を払わなければならない、と命じた。
彼女の娘は身の毛もよだつ形で殺害されたのだ。昨年、ボッシュはエリザベス・クレイトンを救出したと思った。中毒状態から脱するのに手を貸し、いまの彼女は薬が抜け、健康だった。だが、薬物依存が現実の衝撃を和らげてくれ、娘の殺害について考えずに済むようにさせてくれていた。ボッシュは、エリザベスに彼女の娘の殺害事件を解決するつもりだと約束したのだが、薬で抑えていたたぐいの苦しみを感じさせずに事件について彼女に話すことができないと気づいていた。自分は彼女を救ったのかどうかという疑問を抱きつづけた。
悲しい話もあった。親友が引っ越して、デイジーをひとりきりにした話を彼女はボッシュにした。デイジーが父親を持たずに成長したことについてボッシュに伝えた。
学校でのいじめと麻薬について、いいことも悪いことも、すべてひっくるめて、母と娘の両方にボッシュを近づけていき、ボッシュにとってデイジーはたんなるその死以上の大事な存在になり、事件を追及する際におのれを熱くしてくれる炎を燃やしつづけさせた。
「いかないでほしい」ボッシュはささやいた。「たとえこういうことが二度と起こらないとしても。たとえこれがあやまちだとしても。いかないでくれ。まだ」
ディジーの母親、エリザベスの苦悩を身近で見ているボッシュの迷いが良く解る。
「まあ、俗に言うように、隠蔽は元の犯罪よりまずい。かならず最終的に自分にはね返ってくる」
『どうしてわれわれは仲よくやっていけないんだ?』
物語は、下巻へと続く。
『 すばらしき世界(上・下)/マイクル・コナリー/古沢嘉通訳/講談社文庫 』
マイクル・コナリーのミステリーには、“人生がある”。
物語の登場人物のひとりひとりに人生があり、それが感動を呼ぶ。
短い人生のほとんどは、悲劇であり、悲しみにあふれている。
対象者は人間回転草
風邪に吹かれるままに転がっていく
あすは遠くへ吹き飛ばされ
いなくなろうとだれも惜しまない
それを記したパトロール警官は、カードにT・ファーマーと記名していた。気がつくとバラードは、ファーマーの哀愁を帯びたストリート・レポートをもっと読めるよう、彼の職質カードを探していた。
「出てこなかったと思うが……それほどたくさんの名前を調べたわけじゃない。きみが言っているのは、ティム・ファーマーのことか?」
「ええ、知り合い?」
「おれは彼といっしょにポリス・アカデミーに入ったんだ」
「ファーマーがそんな年だったとは思わなかった」
バラードはすぐに自分がなにを言ったのか悟った。
「ごめんなさい」バラードは謝った。「つまり、ほら、そんなに長く警察にいた人間がまだパトロールの現場にいたのはどうしてなんだろう、と」
「なかには現場を諦められない人間がいるんだ。知っているだろ、ファーマーは……」
「ええ、知っている。なぜそんなことをしたの?」
「だれにわかる? あの男は退職まで一ヵ月だった。一種の強制的な退職だったと聞いている……もし定年延長をしても、内勤にされるだろうな。それで退職の書類を提出し、最後のパトロール勤務の最中に自裁したんだ」
「ひどく悲しい話ね」
「たいていの自殺はそうだ」
「彼の書き様が好きだった。シェイク・カードに書かれた彼の所見は詩のようだった」
「多くの詩人が自殺する」
「そうみたいね」
ロス市警ハリウッド分署深夜勤務女性刑事レネイ・バラードは、ボッシュと出会い、未解決のディジー・クレイトン殺人事件を調べ直していく。
「あなたが知っておくべきことがある」ソトが言った。「その事件を調べている別の人間がいるの。市警に所属していない人が」
「あら、そう?」バラードは言った。「それは何者?」
「わたしの元のパートナー。名前はハリー・ボッシュ。彼はもう引退しているけど……その仕事をする必要にかられている」
「その手の人間ということね? わかった。ほかになにか知っておくべきことがある? この事件はボッシュが担当していた事件なの?」
「いえ、だけど、彼は被害者の母親と知り合いなの。母親のために調べている。くわえた骨を離さない犬のようにしつこく」
「いい情報ね」
ボッシュが未解決事件見直し作業の一環として、その事件のファイルをひらいたとき、彼は異なるアプローチをした。ボッシュは、この世ではだれもが価値があり、そうでなければだれも価値がないという原則につねに従って、捜査に当たっていた。その信念は、どの事件にも、どの被害者にも最善の努力を払わなければならない、と命じた。
彼女の娘は身の毛もよだつ形で殺害されたのだ。昨年、ボッシュはエリザベス・クレイトンを救出したと思った。中毒状態から脱するのに手を貸し、いまの彼女は薬が抜け、健康だった。だが、薬物依存が現実の衝撃を和らげてくれ、娘の殺害について考えずに済むようにさせてくれていた。ボッシュは、エリザベスに彼女の娘の殺害事件を解決するつもりだと約束したのだが、薬で抑えていたたぐいの苦しみを感じさせずに事件について彼女に話すことができないと気づいていた。自分は彼女を救ったのかどうかという疑問を抱きつづけた。
悲しい話もあった。親友が引っ越して、デイジーをひとりきりにした話を彼女はボッシュにした。デイジーが父親を持たずに成長したことについてボッシュに伝えた。
学校でのいじめと麻薬について、いいことも悪いことも、すべてひっくるめて、母と娘の両方にボッシュを近づけていき、ボッシュにとってデイジーはたんなるその死以上の大事な存在になり、事件を追及する際におのれを熱くしてくれる炎を燃やしつづけさせた。
「いかないでほしい」ボッシュはささやいた。「たとえこういうことが二度と起こらないとしても。たとえこれがあやまちだとしても。いかないでくれ。まだ」
ディジーの母親、エリザベスの苦悩を身近で見ているボッシュの迷いが良く解る。
「まあ、俗に言うように、隠蔽は元の犯罪よりまずい。かならず最終的に自分にはね返ってくる」
『どうしてわれわれは仲よくやっていけないんだ?』
物語は、下巻へと続く。
『 すばらしき世界(上・下)/マイクル・コナリー/古沢嘉通訳/講談社文庫 』