■ささやかな手記/サンドリーヌ・コレット 2017.8.14
こんなことが、この時代に起こるわけがない。この二十一世紀に起こるわけがない。このフランスで起こるわけがない。この俺に起こるわけがない。
しかし、何とも不幸なことに俺の身に起こってしまったのだ。
「こ、ここで、奴隷になってるって言うのか?」
「信じられないんだな?」
俺は黙り込んだ。
鎖の音がして、相手が身体の向きを変えたのがわかった。小さなうめき声も響いてきた。やがてしわがれた声が消え入るように言った。
「すぐにわかるさ。気の毒だが、すぐにわかるはずだ」
そもそもバジルはもう、俺を犬と呼ぶことすらない。ヒュッと口笛を吹くだけだ。
すると俺はバジルのもとに駆けつける。
俺はいまや、犬のような存在になりはてていた。
犬としての生活が淡淡として、続く。
派手なアクションシーンがあるわけでもなく、山奥での労働の日々が続き、俺は絶望と呪詛を吐き続ける。
ゆっくり話ができるのは、労働から解放された夕方や夜になってからだ。交わされる会話はそれほど多くない----疲労のせいで、数語だけということもしばしばだ。息がつけるようになったときだけ、ぽっり、ぽっりと話をする。それでも俺たちのあいだには不思議な絆が結ばれた。それは命を維持するまで不可欠とも言えるほどの大切なものだ。それはただ、ふたりのほうがひとりより弱くはないからなのだろう。
「俺は、どうなってしまうのか。もう、そろそろ何かが起きてもいいはずだ」と本を置くことが出来ない。ページは進む。結局、最後のページまで読んでしまった。
さて、俺の運命は、......。
だから子どものころ、俺はずいぶん泣いた。
たぶん大人の人生は子どもの人生ほど残酷ではないからだろう、この何年か、運の悪さがやわらいだような気になっていた。ただちょっとついていない人、ぐらいになっていた。だが、ふたたび不運につきまとわれるようになることを覚悟しておくべきだったか?よくわからない。というのも、運の悪さとはきっぱり縁か切れた可能性もあったのだから。それに運が悪いとはいえ、自分がまさか、呪われた運命にあるとは思わなかった。たぶん、そのことをちゃんと自覚するべきだったのだ。たぶん。
ぼくが、『ささやかな手記』で一番印象に残り、かつ笑ったのは、次の部分です。
俺の性格もよく表現されています。
教会の教理問答の授業で読んだ、一九六〇年代に書かれた一篇の詩。ある男が死後、自分の歩んだ人生を空から眺めている。広大な砂浜に点々と足跡がついている。足跡は彼の人生をあらわしている。自分の足跡のとなりにもうひとつ、別の足跡がついている。神の足跡だ。神が寄り添って歩いていたのだ。だが人生でもっともつらい時期には、なぜか自分の足跡しか見あたらない。だから男は神にたずねる。わたしがあなたを一番必要としていたとき、なぜあなたはわたしを見捨てたのですか。すると神はこう答える。おまえを見捨ててはいない。あの時期、わたしはおまえを抱え持って歩いていたのだ。
だいたいこんな内容の詩だったと思う。
だが俺は、俺の人生の最後の時期に俺を抱え持っていたなどとうそぶく神を、はたして信じることかできるのか。俺は猜疑心が強く、すっかりひねくれた性格になってしまったものだから、砂地に一対だけつけられた足跡が、神と並んで歩いていたときのものよりも砂中に深く刻まれているかどうか確かめようとするだろう。俺を抱えているのなら、神は当然、重みを増しているはずだから。
ずっと昔、神父は言っていた。疑うのは、悪魔が勝利したからだと。
だが俺はもう、悪魔も信じちゃいない。
悪魔ですら、俺を見捨てたのだ。
おもしろいミステリでした。
『 ささやかな手記/サンドリーヌ・コレット
/加藤かおり訳/ハヤカワ・ミステリ 』
こんなことが、この時代に起こるわけがない。この二十一世紀に起こるわけがない。このフランスで起こるわけがない。この俺に起こるわけがない。
しかし、何とも不幸なことに俺の身に起こってしまったのだ。
「こ、ここで、奴隷になってるって言うのか?」
「信じられないんだな?」
俺は黙り込んだ。
鎖の音がして、相手が身体の向きを変えたのがわかった。小さなうめき声も響いてきた。やがてしわがれた声が消え入るように言った。
「すぐにわかるさ。気の毒だが、すぐにわかるはずだ」
そもそもバジルはもう、俺を犬と呼ぶことすらない。ヒュッと口笛を吹くだけだ。
すると俺はバジルのもとに駆けつける。
俺はいまや、犬のような存在になりはてていた。
犬としての生活が淡淡として、続く。
派手なアクションシーンがあるわけでもなく、山奥での労働の日々が続き、俺は絶望と呪詛を吐き続ける。
ゆっくり話ができるのは、労働から解放された夕方や夜になってからだ。交わされる会話はそれほど多くない----疲労のせいで、数語だけということもしばしばだ。息がつけるようになったときだけ、ぽっり、ぽっりと話をする。それでも俺たちのあいだには不思議な絆が結ばれた。それは命を維持するまで不可欠とも言えるほどの大切なものだ。それはただ、ふたりのほうがひとりより弱くはないからなのだろう。
「俺は、どうなってしまうのか。もう、そろそろ何かが起きてもいいはずだ」と本を置くことが出来ない。ページは進む。結局、最後のページまで読んでしまった。
さて、俺の運命は、......。
だから子どものころ、俺はずいぶん泣いた。
たぶん大人の人生は子どもの人生ほど残酷ではないからだろう、この何年か、運の悪さがやわらいだような気になっていた。ただちょっとついていない人、ぐらいになっていた。だが、ふたたび不運につきまとわれるようになることを覚悟しておくべきだったか?よくわからない。というのも、運の悪さとはきっぱり縁か切れた可能性もあったのだから。それに運が悪いとはいえ、自分がまさか、呪われた運命にあるとは思わなかった。たぶん、そのことをちゃんと自覚するべきだったのだ。たぶん。
ぼくが、『ささやかな手記』で一番印象に残り、かつ笑ったのは、次の部分です。
俺の性格もよく表現されています。
教会の教理問答の授業で読んだ、一九六〇年代に書かれた一篇の詩。ある男が死後、自分の歩んだ人生を空から眺めている。広大な砂浜に点々と足跡がついている。足跡は彼の人生をあらわしている。自分の足跡のとなりにもうひとつ、別の足跡がついている。神の足跡だ。神が寄り添って歩いていたのだ。だが人生でもっともつらい時期には、なぜか自分の足跡しか見あたらない。だから男は神にたずねる。わたしがあなたを一番必要としていたとき、なぜあなたはわたしを見捨てたのですか。すると神はこう答える。おまえを見捨ててはいない。あの時期、わたしはおまえを抱え持って歩いていたのだ。
だいたいこんな内容の詩だったと思う。
だが俺は、俺の人生の最後の時期に俺を抱え持っていたなどとうそぶく神を、はたして信じることかできるのか。俺は猜疑心が強く、すっかりひねくれた性格になってしまったものだから、砂地に一対だけつけられた足跡が、神と並んで歩いていたときのものよりも砂中に深く刻まれているかどうか確かめようとするだろう。俺を抱えているのなら、神は当然、重みを増しているはずだから。
ずっと昔、神父は言っていた。疑うのは、悪魔が勝利したからだと。
だが俺はもう、悪魔も信じちゃいない。
悪魔ですら、俺を見捨てたのだ。
おもしろいミステリでした。
『 ささやかな手記/サンドリーヌ・コレット
/加藤かおり訳/ハヤカワ・ミステリ 』