ゆめ未来     

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ジャックはここで飲んでいる/古代末期のローマ帝国/テロ

2016年10月29日 | もう一冊読んでみた
 今週は、この3冊。
 ジャックはここで飲んでいる/古代末期のローマ帝国/テロ

ジャックはここで飲んでいる

ジャックはここで飲んでいる』を読みました。
8編を収めた、短編集です。
ぼくが良かったと思った話は、この本の表題にもなっている「ジャックはここで飲んでいる」と「五月最後の金曜日」です。

 「関係を作ったからには、それをどうやって維持させるか。それこそが、関係と言うものだから」
 「消える関係はないのですか」
 「あるよ。そしてそれもまた、関係の一部さ」
 「関係とは人生。人生とは、いろんな関係」

 「知恵や直感、センス、経験、判断のしかた、言葉の選びかたなど、すべてがそこに投入される。 関係とは、自分以外の人たちのことだから。したがって人生は、じつは自分の外にある。 人生もなにもかも、すべては自分の内側にある、と思っている人がじつに多い。したがって、うまくいかない人生が、じつに多い。 うまくいかない人生でも、なしくずしで寿命となる」


作家と編集者の関係が、第三者を呼び込み、話はふくらむ。
登場人物は、自分の心の内を打ち明けることはなく、映画を観ているように、物語は進行していく。
あたかも、むかしのハードボイルド小説を読んでいるかのようだ。

 「いけばいいのに」
 「機会がないんだよ」
 「ついでの機会など待たずに、それだけのためにそこへいけばいい」
 「バーボンだけのために」
 「そうさ」


あの時、もしたずねていれば、機会をつくってでも………、この歳になると過去を振り返り、こんな思いに後悔し涙する、それもたくさん。
「もし、あの時こうしていれば、今のぼくは、もっと」という思いをしたくないので、出来ることはなるべく、即、実行するように心がける。
何たって、お金はないけど、時間は充分あるのだから。

 「時間をこの窓が止めておいて、いまの私のために再現してくれています」
 「過去が現在へと延長されています。過去はほぼそのまま現在です。 あの過去は最高に良かったの。おもてのバス通りの美容院にいた三年間、アパートの同じ部屋に住んで、おなじ銭湯へ行きました。 そしていまの私は、あの銭湯へ行ってきたばかり。 あの頃はもうないけれど、その続きを生きることは出来ます。それがいま始まっています。現在や未来のなかで、あの過去を壊したくないです」
 銭湯からの帰り道、過去の続きとしての現在の始まり、ということについて、三津子は語った。


大変詩的な文章です。
幸せの昨日を生きた人は、今日、たとえ傍目にはあまり幸せそうに見えなくとも、自分は絶対に生きたくない人生でも、本人は意外に心豊かな今を生きているのかも知れない。

 『 ジャックはここで飲んでいる/片岡義男/文藝春秋 』

  

古代末期のローマ帝国

ローマ帝国に関係する本で、しかも白水社の出版物ですから読みました。
「古代末期」に関する知識がないと、一度読んだだけでは、なかなか理解することが難しい。
「訳者あとがき」は、「古代末期」を知るうえで大いに参考になりました。

 古代末期とは、ローマの没落と存続の双方を経験した時代である。

 ラテン語のインペリウムとは秩序をもたらす力を意味し、帝国は大規模な支配であった。正義なくしては帝国はギャングであり、略奪品分配のために指導者と法に従うことで保たれていたに過ぎなかった。しかし、帝国にも使い道がある。というのも、社会秩序、ときとして権力は、不完全な人間の平和を維持するために必要だからだ。

強欲は、いつの時代にもあったことが知れる。

 人類を顧みることなく、毎年毎月毎日というにとどまらずほとんど毎時毎瞬、私腹を肥やし増やすことに邁進している凶暴な貪欲をば無制限に燃え盛らす諸事を、………(「ディオクレティアヌスの最高価格令」)

 コネと好意は常に重要であったが、贈収賄行為を防止し密告を奨励しようとした証拠も、法資料からはいくつか得られる。

 皇帝コンスタンティヌスから属州民に宛てて。官僚の強欲な手をただちに止めなくてはならない。あえて言う、彼らの手を止めなくてはならないと。もし、警告しても止めなければ、その手は剣で切り落とされるべきである。………(『テオドシウス法典』)

 キリスト教の修道生活は古代末期の社会革命のひとつである。
 彼らは個人の財産を持たず、祈りと聖書研究と貧民への配慮に献身する生活を選んだ。このような生活は、女性にとってまったく新しい可能性となった。女性の伝記が書くに値するものとなったのはこれが初めてのことであるが、それは彼女たちの霊的努力が家庭生活より面白い題材だったからである。

 『 古代末期のローマ帝国/ジリアン・クラーク/足立広明訳/白水社 』



テロ

フェルディナント・フォン・シーラッハの戯曲、『テロ』を読みました。

緊急発進した空軍少佐ラース・コッホは、独断で空対空ミサイルで、テロリストにハイジャックされたルフトハンザ機、エアバスA320-100/200を撃墜する。
乗客百六十四人を犠牲にして、サッカースタジアムの観客七万人を救うために。
果たして、彼は英雄か?


人間の尊厳は不可侵である。

この人物はみなさんと同じように夢を抱き、欲求を持ち、幸福を追求しているのです。

法治国家の原則とは何か。

原則は個々の事例に優る、原則は生命よりも重要だ、と。原則には分別があり、おそらくはたいていの場合正しくもあるでしょう。しかし今回の件で原則に準じるのは、常軌を逸していないでしょうか。わたしはその人殺しに嘘をつくでしょう。友を救うことを優先します。

この戯曲のような状況になったとき、我が日本国は、どのような判断をするのでしょうか。
国は、頬被りをして誠実な自衛官の判断に任せるのでしょうか。
この戯曲のコッホ少佐のように、彼が誠実な軍人ならきっと取るであろうと予測される行動をみこして。

 『 テロ/フェルディナント・フォン・シーラッハ/酒寄進一訳/東京創元社 』

コメント
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