鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

中条藤資の動向1

2020-06-30 19:37:18 | 和田中条氏
和田中条氏の系譜が藤資-景資-房資=景泰であるとした前回を踏まえ、これから複数回にわたり藤資の動向について考察していきたい。

明応3年(1494)上杉常泰安堵状(*1)で中条弥三郎として父定資よりの土地譲与が認められたものが藤資の初見である。この時定資から藤資へ譲状が出されたということだろうか。『中条氏家譜略記』などに藤資当時三歳とあるのは、明応3年後も定資の活動が史料上見られること、過去に定資も幼年で寛正5年(1464)に父朝資より譲状(*2)を受けている例もあることから、妥当である。それらの資料に伝わるように、藤資は明応元年(1492)生まれであろう。

明応9年(1500)に胎内川の戦いで当時中条氏を率いていた「中条土佐守」の討ち死が確認できる(*3)が、これは藤資祖父で土佐守を名乗る朝資とみられる。朝資は宝徳2年(1450)もしくは享徳2年(1453)に父房資から譲状を受けこの時既に弾正左衛門尉を名乗ることから10代から20代と思われる。とすると、討ち死の時は60代から70代となり高齢での出陣であったことが窺われる。胎内川の敗戦後幼少にして藤資が中条氏を率いることとなる。

文亀3年(1503)藤資12歳の時中条弾正左衛門尉の名で伊達尚宗より援軍要請を受け(*4)、長尾能景、黒田良忠より伊達氏の動きと府内情勢について報告を受けている(*5)藤資が中条氏家督として活動していることがわかる。永正4年(1506)の長尾為景と上杉房能、八条氏らとの抗争に際して、揚北衆でも色部氏本所氏竹俣氏が為景に反抗するが藤資は為景に付き戦後上杉定実より知行を宛がわれている(*6)。特に色部氏との戦いでは「就色部要害落居之儀(中略)中条弾正左衛門被官人等数十人討死之由候、無是非候」といわれるように被害を出しながらもその鎮圧に貢献していた(*7)。永正6年(1509)の関東管領上杉可諄の越後侵攻に際しても一貫して為景・定実に味方した(*8)。

永正9年(1512)と思われる鮎川式部入道の反乱でも、為景に味方し派遣された山吉能盛らと共に鎮圧にあたった(*9)。

さらには永正10年(1513)の為景と定実が対立した時には9月に「対為景御名字御余儀有間敷候」と起請文を提出し、その立場は鮮明である(*10)。ただ、その前8月19日に長尾為景より藤資へ起請文(*11)が届けられており、領主としての独立性が確認できる。直前の8月8日には弾正左衛門尉の名で見えており(*12)、これが越前守の初見である。同じく8月には大見安田氏の安田弥太郎実秀から藤資へ別心無いことを起請文で表し(*13)、10月に為景と定実が交戦に入ると揚北衆の一人新発田能敦より「何篇にも御覚悟を承可致其心得候」と頼られるなど揚北で藤資の存在感が増していることを窺わせる(*14)。11月には為景方に敵対する大見安田但馬守を水原氏ら共に攻め落とした(*15)。藤資は為景味方としてさらに進軍し翌年1月16日には上田長尾房長、古志長尾房景らと共に上田庄六日町で上杉定実に与する「八条左衛門佐殿、石川、飯沼以下千余人被討留」という戦果を挙げ、藤資自身も「殊其方御手へ七十余人討捕、験(首)注文越給候」とある活躍をした(*16)。数字に誇張はあるだろうが、乱終結に藤資が大きく貢献したのは間違いないだろう。

また、藤資が伊達氏と関係あり為景からも伊達氏の動向について尋ねられる場面が度々確認される(*17)

[史料1]『越佐史料』三巻、641頁
就越中発向之儀、長尾弾正左衛門尉方江合力之事申談候、可然様自他御取合馳走憑入候、尚委細能登守可被申候、恐々謹言、
七月十日     勝王
中条殿

[史料1]永正15年(1518)には長尾為景、能登畠山義総と協力し越中制圧を目指し出陣していた畠山勝王より藤資への協力要請である。藤資が国外からも認識される一勢力であったことを示し、長尾為景への「合力」と「御取合馳走」が求められていることから、藤資が自立した存在であったと同時に長尾為景への従属関係が深化を遂げている様子が示唆される。[史料1]からも、永正16年、17年の二度にわたる畠山氏と為景の越中出陣に藤資も従軍したことが想定されよう。


*1)『新潟県史』資料編4、1852号
*2)同上、1826号
*3)同上、1317号
*4)『中条町史』資料編1、1-484号
*5)『新潟県史』資料編4、1318号
*6)同上、1320号
*7)同上、1426号
*8)同上、1322号、『越佐史料』三巻、519頁
*9) 『新潟県史』資料編4、1432号
*10) 『越佐史料』三巻、590頁
*11) 『新潟県史』資料編4、1861号
*12)同上、1324号
*13)同上、1862号
*14) 『越佐史料』三巻、596頁
*15)同上、603頁
*16)同上、605頁
*17) 『新潟県史』資料編4、1427号1431号

和田中条氏の系譜

2020-06-28 12:20:50 | 和田中条氏
戦国期越後の和田中条氏の系譜関係は後世の所伝において、中条藤資を中心とする詳細な記述がみられる。それらを元に今日、通説的には藤資-景資=景泰とされているように思える。しかし、この系譜では納得のいかない部分がありこれから数回にわたって後世の所伝(*1)や当時の書状類を交えて検討したいと思う。

まず、結論から言うと、和田中条氏は次のような系譜関係が想定される。

藤資(生年:明応元年~没年:天文4年頃)弥三郎、弾正左衛門尉、越前守
-景資(生:永正10年頃~没:永禄11年)牛黒丸、弥三郎、弾正忠、山城守
-房資(生:享禄5年~没:天正元年)市満丸、弥三郎、越前守
=景泰(生:永禄元年~没:天正10年)沙弥法師丸、与次、越前守

中条藤資は明応3年に父定資から土地を譲られ(*2)、『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』によればこの時三歳であったという。中条氏において幼少の子へ譲状が出される例があり(*3)、所伝に従えば藤資の生年は明応元年となろう。

大永6年に中条藤資は長尾為景へ起請文を提出するわけだが(*4)、その中に系譜を辿る手がかりがある。起請文の第一項に「至于罷成御縁家、対申長尾為景御子孫、奉引弓不可致不儀事」とあり、中条氏が府内長尾氏と婚姻関係を築いたことが明らかになる。『中条家由緒書』には藤資が高梨正頼(政頼)の婿とあり、『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』には景資が高梨刑部大輔政頼の娘で上杉輝虎の養女と結婚、とある。年代的に合わない部分もありそのまま受け取ることはできないが(*5)、府内長尾氏と中条氏に婚姻があったことは確実であろう。所伝によれば娘の相手は藤資か景資のどちらかとなるが、この時点で藤資は受領名越前守を名乗り35歳に達しており長尾氏からの妻を取るにはふさわしくないように思える。

さらに、起請文の第三項を見ると「御出陣之時、各々事者、番替致在陣候共、某事者、親子一人しかと可致在陣事」とある。胎内川の戦いで「土佐守」の戦死によりこの時点で藤資の上の世代はいないことから「親」が藤資にあたり、一人で在陣することのできる「子」が存在したことがわかる。35歳藤資の息子であり、在陣できる程度であることから、少なくとも10代前半に達すると推定されようか。この「子」ならば大永6年時点で妻を娶るのに適当である。

藤資の次の当主とされる景資は『中条氏家譜略記』に享禄5年(1532)の誕生とあり、これを正しいとすれば大永6年まだ生まれていないことになる。さらに、『中条越前守藤資伝』では景資を嫡子としさらに二人の弟がいたとする。しかし、享禄5年(1532)では藤資は41歳であり第一子誕生には遅い印象があり、40歳をすぎてから嫡子を含める3人の男子が生まれるというのは不自然さを感じる。

[史料1]同上、1446号
直和家風小柴下人之儀、其元退散候処、相拘不返之由候間、其身参府之上、従和州房資方へ、色々理之旨候間、書中差越候、彼才覚之様於爰元承届候、子細不可入候、早々彼者方へ可被渡返事、不可移時日候、尚重而可申越候間、不具候、謹言、
七月十五日     房資
築地彦七郎殿まいる

ここで、注目されるのが[資料1]である。「越後文書宝翰集」築地氏文書に伝来する書状で、後代の張紙に「中条房資」とあるものの『新潟県史』では未詳とされる文書である。文中の「直和」は直江大和守景綱を指し、永禄中期から天正初期の文書である。宛名の築地彦七郎は、『中条分家系図』で天正前期に文書上でも所見される築地修理亮資豊が仮名彦七郎を名乗ったとしており、この人物に比定できる。よって、伝来経路や内容、宛名から房資は永禄から天正にかけての中条氏の当主であるといえる。天正2年から吉江氏からの養子景泰が当主であることは史料上明らかであるから(*6)、天正元年頃の死去であろう。これは『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』に伝わる景資の年代と完全に一致する。すなわち、所伝における景資は房資という人物と混同したものだったとわかる。

ここで景資の存在が浮いてしまうことになるが、前述の年齢的な不自然さを鑑みると藤資と房資(所伝における景資)の間にはもう一代存在したとの想定が妥当である。従って、為景の養女を娶ったと推定した「子」こそ景資であると考えられる。景資は永正年間に藤資の嫡子として誕生し、大永6年以前に元服し、婚姻や軍役を果たせる年齢に達していたと推定できる。『中条氏家譜略記』などから仮名は弥三郎であろう。所伝で景資の弟とされる二人は、実際には房資の弟であろう。

景資は中条景泰の実父吉江景資との混同されがちで、中条景資の発給文書とされるものとして波多岐庄の「越後文書宝翰集」上野氏文書に伝来する名字状(*7)があるが、その花押型は吉江景資と同型であり(*8)、比定は誤りである。しかし、『中条氏家譜略記』では中条景資と景泰の実父「吉江織部佐景資」をはっきり区別しており、後世において混同はあるが別人として存在していたと考えられる。

名字状は吉江景資のものであるから中条景資についてその実名を記す一次史料がないということになるが、複数の所伝が一貫して「景資」と伝え、長尾氏から「景」字を与えられて然るべき関係であることから、藤資の子は実名景資であったと考えたい。

では、この系譜関係を踏まえ法名を整理しよう。『桓武平氏諸流系図』と『中条氏家譜略記』を比べる景資=月宗(月秋)は同じであるが前者は藤資と景資の間に梅坡を別人として存在させているため、遡ると両者に一つズレが生じている。両者ともに景資は越前守房資を指すと考えられ、梅坡は景資の法名であろう。とすれば、『桓武平氏諸流系図』の法名は実名と同じ人物を指し、『中条氏家譜略記』での法名は一つ前の世代の人物を指すことになろう。よって、藤資=徳岸、景資=梅坡、房資=月秋という法名となろう。

以上より、

中条藤資-景資-房資=景泰

という系譜関係が矛盾なく浮かび上がるのである。後世の所伝は藤資と景資と房資を複雑に混同してしまったといえる。その理由として、発給文書が中条藤資以降ほとんど残っていないこと。仮名、官途名、受領名が親子故に三人とも似ていること、景資という人物が中条景泰の実父にいたこと、房資という人物が応永から宝徳にかけての中条氏当主として存在すること、などが挙げられるだろう。

しかし、実名を記さずとも一次史料に三人の痕跡は様々に残っている。次回から中条氏の史料を詳しく追跡しながら系譜関係の根拠を詳解し、この三人の動向を具体的に検討してみたい。


*1)『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』『中条家由緒書』などを検討の材料としたが、後世の所伝であり明らかな誤りも散見される。
*2)『新潟県史』資料編4、1852号
*3)同上、1826号
*4)『新潟県史』資料編3、237号
*5)『高梨系図』、志村平治氏『信濃高梨氏一族』より、高梨氏として文明から政盛が永正10年まで活動し、永正9年から大永3年に死去するまで澄頼が存在した。澄頼の跡を政頼が継いだと考えられている。
*6)『上越市史』別編1、1211号
*7)同上、1243号
*8) 同上、1338号の吉江景資花押と比較した。


※20/10/29 高梨氏に関する部分を改訂。
※23/6/18 高梨氏に関する注釈の一部を削除。

長尾景虎の戦国大名化について

2020-06-25 20:08:53 | 長尾景虎
長尾景虎は家督相続後越後を統一しその活動範囲を関東や北陸へ広げていくわけだが、それに必要な権力集中を戦国大名化と捉えその過程を考察してみたい。

まず、家督相続前の長尾晴景の政治体制をみる。晴景は為景の死去や伊達時宗丸入嗣問題、古志郡における反乱による混乱を乗り越え、天文13年の後奈良天皇綸旨と御心経の下賜(*1)を以て越後の静謐を実現したとされている(*2)。弘治2年の長尾宗心(景虎)書状(*3)に「奥郡之者、上府不遂」とあることから奥郡の独立性が想起されるが、奥郡とも一定の関係は保っていたと考えられる。ただ、それは長尾氏の権力確立とは言い難かった。当時の政治体制は天文13年10月10日に同時に出された上杉玄清知行宛行状(*5)と長尾晴景副状(*6)に見られるように守護上杉氏と守護代長尾氏が補完しあうことで形成され、それは晴景期における守護勢力の復権を意味していた(*7)。この、守護上杉玄清と守護代長尾晴景による融和的政治が景虎の家督相続まで続いたと考えられる。そして、その玄清-晴景体制を崩壊させたものは黒田秀忠の台頭による反抗であったことは前に述べた。

次に、家督相続直後の景虎の政治体制をみていく。

[史料1]『上越市史』別編1、23号
西古志郡内山俣三拾貫分之事、為本地連々御詫言、先以可有御知行候、 御屋形様御判之儀者、追而可申成候、恐々謹言、
十一月六日     長尾平三景虎
平子孫太郎殿

[史料1]は天文18年に出された安堵状である。「御屋形様御判之儀者」より依然として守護代景虎と守護上杉玄清の二人によって認められる必要があったことを示している。一方で、「追而可申成候」という文言により木村氏(*8)は長尾為景の発給文書と同様に「守護御判の裏付けのない守護代文書」と位置づけている。同氏は「景虎が兄晴景の時に見られた守護代長尾氏が守護上杉氏を排除できなかったのとは異なり、守護代長尾景虎が実質的な権利をもった」としている。その契機は、以前考察した天文17年から18年にかけての黒田秀忠の乱や上田長尾政景との抗争に勝利したことが挙げられるだろう。他に、景虎と玄清の関係を示すものとしては平子孫太郎宛本庄実乃書状(*9)「御屋形様(上杉玄清)へ為御音信被仰立候、則景虎披露被申候」とあり、景虎が玄清と領主間の取り次ぎを行っていたことがわかる。景虎の守護との関係は為景期の対立関係、晴景期の並列関係とも異なるものであった。

[史料2]『上越市史』別編1、24号
就平子殿御本領山俣之義、従 殿様(景虎)被成御書候、被任其旨、無相違早々被進渡候者、可然候、為其一筆令啓候、恐々謹言、
十一月八日   大熊備前守朝秀
        小林新兵衛尉宗吉
        庄新左衛門尉実乃
松本河内守殿 御宿所

[史料2]は天文18年に比定され、[史料1]に登場した山俣について当時領有していた松本河内守についてその明け渡しを命じたものである。これを初見として、景虎の政治体制の中で三名連署の発給文書が見られるようになる。さらに、同年4月には府内大橋の橋の利用の管理を目的にする長尾景虎掟書(*10)と同日の長尾景虎安堵状(*11)により、府内に対して都市掌握と流通統制のための政策も打ち出されている。従って、家督相続後天文18年の内に行政機構を整備したといえるだろう。

諸領主との関係はどうだったであろうか。上述の山俣をめぐる相論の解決は天文22年まで長引くことになる。松本氏は長尾景虎書状(*12)より「謹言」という書止めであり長尾氏に近い関係であり、それ故早い段階での所領問題への介入が可能であったが、それでも長尾氏の命令に従わなかった。従って、景虎の権力は比較的近い地域においてもこの段階ではまだ浸透していなかったといえる。これは、関東管領上杉氏の要請を受けて関東出陣が計画されながらも実行されなかったことからも、景虎体制が固まってなかったことが示されるであろう。さらに小泉荘に至っては、天文20年の時点で本庄繁長が小河長資を切腹に追いやり、本庄氏鮎川氏色部氏間で独自に起請文を交換していることから景虎の影響力は弱かった。

天文19年2月には、「天文上杉長尾系図」や「上杉御年譜」により上杉玄清の死去が確認される。守護の断絶という越後の権力構造を揺るがす事態に対し、景虎は前年からの政治体制の構築に加え幕府より守護の格式である白傘袋・毛氈鞍覆の免許を獲得し権威上昇を図ることで対応した。勿論、免許の御礼として景虎は金品を献上している。このやり方は為景のものを継承している。景虎と幕府を仲介した僧の愛宕山下坊幸海は書状(*13)「愚僧事、従為景御代致御祈念事候」と述べており、景虎が為景の構築したパイプを用いて交渉していたこともわかる。為景は中央に権威を求めただけでなく大館氏や女房衆など幕府関係者から広橋氏といった朝廷の実力者まで幅広い人脈を形成していったと指摘されている(*2)。

さらに天文21年には幕府より従五位下の位階と弾正少弼の官途を与えられる。その後、例に違わず景虎は御礼として金品を献上している。戦国時代は身分制社会であり身分と権力は連動していたとされ(*18)、戦国大名化は武力のみでは為し得なかった。

天文21年には景虎に大きな動きがみえる。まず、ひとつは関東出陣という遠征の実行であり、もうひとつは黒川氏と中条氏の所領相論への介入である。関東出陣についてであるが、これは景虎の国内諸領主への軍事指揮権掌握と捉えられる。為景期晴景期を通じて永正7年に軍勢が派遣された所見が唯一でありそれが越後国内情勢の安定化なしには実現できなかったものであろう。また、所領相論への介入は佐藤博信氏(*14)に「大名裁判権の行使の一形態」と評され、仲介を色部氏へ命じたことも「(揚北諸将を)個別的に一応掌握した反映」とし、「当段階の景虎の権力が領域的支配権力として成立していた」とする。小泉荘の本庄氏においても天文22年に景虎へ初めて拝謁するとの記録(*15)もあり、天文21年を境として越後一国においてその権力が広く浸透したとみていいだろう。中郡において景虎がそれまで領地の安堵ばかりが目立っていた平子氏に領地の明け渡しを命じた(*16)のもこの年である。よって、この年に景虎は領域的支配権力すなわち戦国大名として必要な、軍事指揮権と裁判権を確立したとみられる。

この頃の景虎の領主層との関係は、官途の祝儀の返礼(*17)にその一端が見える。平子氏や毛利安田氏には「恐々謹言」書止めと宛名に「謹上」がつく丁寧な形であり、一方志駄氏と力丸氏は「恐々謹言」書止めであるものの「謹上」の文字はない。領主にも格式の違いが存在したことを表すものであり、それは祝儀に毛利安田氏が百疋、志駄氏が二十疋と差が見られることからそれが勢力の大小に関連することが示唆される。天正3年「上杉家軍役帳」に力丸氏が松本氏の同心として見えるようになるのは、景虎が寄親寄子制に基づき大領主を中心に小領主の再編成を進め謙信と名乗る天正期までにそれを完成させたということだろう。

守護権力の消滅、守護に相当する権威の獲得、黒田氏や上田長尾氏など敵対勢力に対する勝利、この三点を以て天文21年頃はじめて越後の戦国大名としての長尾景虎が誕生したといえる。黒田基樹氏(*18)は幕府-守護体制の崩壊によって戦国大名が現出したとするなど守護上杉氏の権力消滅は景虎の戦国大名化に不可欠であった。為景期に既に形骸化されていたといえ越後において守護勢力の存続は天文末期にまで及び、その断絶が景虎の権力飛躍の契機になったことは間違いないだろう。関東などと比べると室町幕府体制が遅くまで残っていたということになり、佐藤氏も、長尾氏も戦国大名制の淵源は守護上杉房定・房能の段階に求められると指摘しており、その点黒田氏の研究する後北条氏などの戦国大名制と景虎のそれは異なった展開を遂げたとも考えられ注意が必要かもしれない。しかしどちらにしろ、戦国大名とは在地の発展により室町時代の制度が限界を迎えた故の産物であると考えられる。

以上より、栃尾城時代の被官庄田氏や本庄氏らと府内長尾氏の被官であった直江氏らを譜代家臣として権力基盤とした景虎は、政治機構の整備と敵対勢力の排除を実現した上で守護権力の消滅によって、為景期より実力的に獲得していた公権力と、幕府を後ろ盾とした身分上昇が合致し、越後における領域的支配権を確立した、とまとめることができよう。

*1)『新潟県史』資料編3、776号
*2)長谷川伸「長尾為景と晴景」、『定本上杉謙信』、池亨・矢田俊文編、高志書院、2000
*3)『上越市史』別編1、134号
*5)『新潟県史』資料編2、1495号
*6)同上、1496号
*7)木村康裕氏「守護代長尾氏発給文書の分析」、『戦国期越後上杉氏の研究』、岩田書院、2012
*8)木村康裕氏「上杉謙信発給文書の分析」、同上
*9)『上越市史』別編1、20号
*10)同上、15号
*11)同上、16号
*12)同上、22号
*13)同上、33号
*14)佐藤博信氏「戦国大名制の形成過程」『上杉氏の研究』阿部洋輔編、吉川弘文館、1984
*15)「本荘氏記録」、『本庄氏と色部氏』、渡邊三省、戒光祥出版、2012
*16)『上越市史』別編1、94号
*17)同上、86号、88~90号
*18)戦国大名概念は(*14)佐藤氏と黒田基樹氏「戦国期外様国衆論」『戦国期大名と外様国衆』戒光祥出版、2015年、を参考にした。


栃尾城主長尾景虎の動向とその支配について

2020-06-22 20:27:05 | 長尾景虎
[史料1] 『越佐史料』三巻、866頁
細々音信満足之至候、爰元無油断療治、早々平癒可心安候、其地(栃尾ヵ)陣所之儀、皆共談合堅固之仕置肝心候、珍儀候者、急度注進相待候、万吉重而謹言、
追而、景虎近日可取出候由、勝利眼前候、以上、
八月十八日     晴景
本庄新左衛門(実乃)殿


[史料1]は、天文12年に比定される長尾晴景書状である。「景虎近日可取出候由」を以て天文12年に景虎が栃尾城に入城したとされる。景虎は後日の書状(*1)において「宗心(景虎)事、幼稚之時分、後父、無程古志郡ニ罷下候処、見懸若年、近郡之者共従方々向栃尾取立地理或不慮之致備間、及防戦候」と述べている。[史料1]と(*1)は栃尾周辺の抗争であることから同じ合戦を指すだろうと考えられる。

私が気になるのは、[史料1]「景虎近日可取出候由」の「由」という表現である。これにより、晴景が景虎の派遣を本庄実乃に伝えているというより、実乃から景虎の出陣を聞きそれに晴景が応答した、と捉えられる。すなわち8月の時点では景虎が栃尾城で軍事活動を催していたと考えられる。「細々音信」が実乃からの景虎出陣の報告などのことであろう。

ここで改めて景虎の栃尾入城の時期を考えてみると (*1) より天文10年12月為景死去(年月日は『越後過去名簿』による)の後程なく、と述べられているから天文11年中の可能性もあったかもしれない。景虎の栃尾城入城は、天文11年以降で天文12年8月よりは遡ると考えられる、と示しておきたい。

天文12年頃に越後国内で抗争があったことは、晴景が天文13年4月に越後静謐についての後奈良天皇綸旨と御心経を獲得したこと、天文13年10月上杉玄清(*2)が揚北衆大見安田長秀へ「今度一乱以来、守前々旨走廻、致忠信」したことに対し知行が宛がわれていることからわかる。同日に長尾晴景からも添状(*3)が出されており、そこで「先年国中各以同心、対府内雖企不儀、被相守前々筋目、被抽忠功」と表現されていることから、玄清のいう「今度一乱」は「先年」から続いた組織的で大規模な府内政権への反乱であったと考えられる。景虎の動向や大見安田氏の活躍を考えると、中郡から奥郡にかけての領主の反乱であろうか。ただ、(*1)に「道七(為景)死期之刻、膝下迄凶徒働至体ニ候間、寔着甲冑調葬送候」とあり、長尾為景の葬式は当主晴景によって本拠地春日山周辺で行われたであろうから、為景死去の動揺も相俟ってか上郡に反抗的な勢力存在していたとわかり、天文12年頃の反乱の際上郡にも影響が及んでいたことは想定される。

※24/5/11 追記
その後、長尾晴景と天文11年の乱 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~において越後における抗争を検討し、紛争は天文11年を中心に展開したことを示した。[史料1]が天文12年とする通説には確実な根拠はなく、天文11年8月であった可能性もありそうである。その場合長尾景虎の栃尾城入城も天文11年8月までのこととなる。


[史料2]は景虎の栃尾城主としての支配を示す文書であり、これにより[史料1]「勝利眼前候」の言葉通り天文12年9月ころには景虎は勝利を収め周辺の支配のため活動を始めたと考えられる。

[史料2]『新潟県史』資料編5、2689号
今度(長尾)実景以後之判形等、無紛失被成所持、神妙ニ存候、先代任判形旨、殊更御忠信故、亡父数カ所之御寺領、於末代不可有相違候也、
天文十二年
九月二十日      景虎
本成寺侍従阿闍梨日意御坊

[史料3]同上、2686号
当寺之事、任亡父久盛判形之旨、諸役等已下甲乙人等違乱之義、不可有之者也、仍件如、
永正八年九月十七日    (山吉)正盛
本成寺

[史料4] 同上、2685号
当乱中山吉被仰合、御加世儀具承候、無比類存候、然者大面庄内村上分薄曽祢并新堀・上条・吉野谷令寄進候、御知行於末代不可有相違候也、仍件如、
永正七年三月七日     為景
本成寺


次に、景虎の栃尾城入城後の支配がどのようなものだったかを考えたい。[史料2]は三条の本成寺に宛てた安堵状である。景虎の入部後[史料2]が発給されたわけだが、これは内容的に[史料3]に類似するものであることより、山吉氏の支配権を継承したものと捉えられよう。永正8年には山吉正盛が[史料3]安堵状を発給していることから、本成寺は景虎の入部以前は山吉氏の支配下にあった。三条は府内長尾氏の被官山吉氏が支配していた。[史料4]永正7年長尾為景書状の「当乱中山吉被仰合、御加世儀具承候」からも読み取れる。景虎は栃尾城入城に伴い古志長尾氏(栖吉長尾氏)を継承したことは阿部洋輔氏「古志長尾氏の郡司支配」(*4)などで指摘されているが、同時に三条山吉氏を始めとする蒲原郡諸氏へも支配権を持っていたと推測する。栖吉長尾氏は古志郡司を務めており、山吉氏も本成寺宛山吉正盛書状(*5)に「三ヶ条之人体出来之時者、科人計渡給」とあるように蒲原郡司を務めていた。従って景虎の継承した諸々の支配権とは、蒲原、古志両郡の郡司として権力であったと考えられる。ただ、蒲原郡司山吉氏自体は健在であり、景虎が郡司の上位権力として地域的な支配を行ったと類推される。

また、栖吉長尾氏の継承は母を栖吉長尾房景娘とする血縁関係から実現したと考えられる。上田長尾氏への仙洞院婚姻と並ぶ府内長尾氏の国内勢力取り込みの一環だったとも想定できよう。

ここで、より具体性を出すために他家の支配体制とこの時期の景虎のそれを比較し考察してみたい。当主の一門として10代前半にして前線に派遣され領域支配を任されたという点で、相模北条氏康の弟である玉縄城主北条為昌が挙げられる。黒田基樹氏「北条為昌の支配領域に関する考察」(*6)によると、北条為昌は12~13歳で当時江戸城を最前線とする後北条氏領国の中で有力一門北条氏時の跡を継承し玉縄城に入城、相模において東郡、三浦郡、武蔵において久良岐郡、橘樹郡、都筑郡を支配した。それは当主一門という背景を元に領域支配権が譲与され、従来の支配体制である郡代大道寺氏、山中氏、笠原氏の上位権力として君臨する形をとった。黒田氏はこれを事実上の郡代北条為昌、代官に元郡代という体制とみる。以上を景虎と比較してみると、有力諸家栖吉長尾氏の後継に入り複数の郡を一門の立場から支配、その配下に郡司山吉氏を伴うなどよく似ていることがわかる。後北条氏と府内長尾氏では天文10年頃では戦国大名として成熟度に大きな差があり二人が同じ論理で存在したとは言えないが、前述した景虎の支配体制についての推論を補強するものにはなるだろう。

次は、具体的に景虎が継承したと思われる郡司権力はどのようなものだったか考えたい。その支配が開始されたのは[史料2]を「代替わりの安堵」と捉えて、天文12年9月と推測できる。

[史料5]『上越市史』別編1、2号
吉日を以きしん申候、かんはらくん(蒲原郡)内玉虫新左衛門分一せき、すもん大明神奉末代進候、恐々敬白、
天文十三年甲辰二月九日     平景虎
   藤崎分六

[史料5]は景虎が守門神社へ玉虫新左衛門分の一跡を寄進したことを表す書状である。文明後期の「長尾飯沼氏等知行検地帳」では高波保に長尾能景被官として玉虫新左衛門尉の所領が確認される。するとこの書状は蒲原郡内の闕所を宛がっている文書と捉えられ、景虎の蒲原郡における闕所地の知行宛行権を持っていたことがわかる。天正9年には上杉景勝が当主として「任先例之旨玉虫新左衛門尉分令寄進候」(*7)と同一の土地を安堵していることや、玉虫氏が府内長尾氏の被官であったことなどから本来は当主に帰属する権利と考えられ、この知行宛行権は景虎が当主より委任されたものと考えられる。景虎の蒲原郡と古志郡における領域支配の一端が示される。

[史料6]同上、59号
去霜月廿日火事、御文書以下御失候事、笑止存候、雖然御寺領等本地新地共、不可有相違候、以次 御上判可有御申候、仍件如、
天文二十一年
四月三日      (山吉)政応
本成寺 参

[史料6]は景虎の家督相続後に発給された山吉恕称軒政応の証状である。景虎の「御上判可有御申候」とあり、景虎の安堵が求められたとわかる。家督相続後も栃尾入城時に獲得した蒲原郡古志郡の領域支配権を維持し、山吉氏の代官としての立場がより鮮明になる文書であると考えている。

家督相続後も両郡への影響力を保持したことから、後に戦国大名化を図る景虎の強い権力基盤となっていたことが想定されるであろう。例えば、庄田定賢や五十嵐盛惟といった栖吉長尾氏関連の武将や古志郡の本庄実乃、蒲原郡の山吉豊守、吉江忠景、金津新右兵衛尉といった重臣らの活躍がそれを裏づけていると思う。近接する山東郡の直江氏、松本氏、神余氏(大積保に所領があった)らの活動にも無関係ではないかも知れない。さらには、のちに家中で高い地位にあった揚北衆中条氏との関係もこの頃生まれた可能性がある。景虎が反抗勢力との戦いの中で自らの権力基盤を固めっていったと考えられる。


長尾景虎は天文12年頃の不安定な国内情勢に伴い栃尾城に入城し周囲の敵対勢力と交戦、天文12年9月には周辺を鎮静化させその支配を開始した。それは府内長尾氏一族且つ栖吉長尾氏を継承する者として蒲原郡と古志郡に対しての領域支配であった。そこで築かれた勢力は景虎が戦国大名への転化を遂げるに至っても重要な権力基盤と成り得るものだった。以上が栃尾城を拠点とした景虎の部将としての姿である。


*1)『上越市史』別編1、134号
*2)『新潟県史』資料編4、1495号
*3)同上、1496号
*4) 『上杉氏の研究』戦国大名論集9
*5)『新潟県史』資料編5、2687号
*6)『戦国期東国社会論』戦国史研究会編
*7)『新潟県史』資料編5、2727号

※20/8/14 長尾為景の没年に誤記があったため訂正した。
※20/11/7 玉虫新左衛門尉について加筆した。また、只見氏を景虎期以降所見がないことから景虎へ反抗した存在と推測したが、『上杉御年譜』に味方として名前が挙げられているため撤回した。
※21/1/10 「古志長尾氏」という表記を、「栖吉長尾氏」に変更した。

栗林次郎左衛門尉と「房頼」

2020-06-14 11:03:46 | 栗林氏
永禄中期から天正中期にかけて栗林次郎左衛門尉が所見される。また、謙信死後上杉景勝の元で栗林政頼がみえる。栗林政頼は治部少輔、のち肥前守を名乗っている。広井造氏「謙信と家臣団」(*1)において、[史料1]上杉景勝朱印状と「御家中諸士略系譜」の記述から次郎左衛門尉は政頼の養父であることが指摘されている。同氏はさらに、政頼との関係性は不明としながらも[史料2]から栗林房頼の存在を明らかにしている。

[史料1]『新潟県史』資料編5、3994
郡司之事、養父次郎左衛門尉扱之通、今以不可有別儀者也、
 (景勝朱印) 天正十二年二月十一日 
栗林肥前守(政頼)殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、521号
其元 御着に付而、態御飛脚被下候、殊御機嫌能御座候由、被仰下候、自何以一身之様ニ満足安堵仕候、爰元御人数、少も無未進せんさくいたし、差置申候。此由可預御披露候、恐々謹言、
九月二十二日    栗林次郎左衛門尉房頼
斎木惣次郎殿

[史料1]にある「郡司之事」とは魚沼郡司の事を指し、栗林次郎左衛門尉が上杉謙信の元で魚沼郡司を務めていたとわかる。中野豈任氏はこの点を「旧郡司の地位は事実上、上杉氏にあり、栗林氏は上杉氏の官僚的代官にすぎない。」(*2)としている。

[史料2]について検討してみる。まず、実名の房頼は上田長尾房長からの偏諱と考えられる。長尾房長の活動時期と次郎左衛門尉の前代の栗林長門守経重が天文後期まで見えることなどを考慮すると、房頼の活動時期は天文末期から永禄以降かと考えられる。「せんさく」は穿鑿であり地下人の徴集を指し、房頼が上田庄の防備に努めている内容からも戦国期の関越国境の緊張が窺われる。以上から、謙信の元で上田衆を率いて活躍した栗林次郎左衛門尉は栗林次郎左衛門尉房頼に比定できるといえる。

栗林次郎左衛門尉と栗林政頼の混同が散見されるが、謙信期に栗林房頼が上田衆を率いて活躍し景勝期からその養子栗林政頼が活動を始めた、ということがわかる言えるだろう。

さらに[史料2]に注目してみる。宛名の斎木惣次郎は上田衆の一員である。天正7年斉藤朝信書状(*3)の宛名に「斎木殿」とあり、御館の乱の中斉藤朝信から上杉景勝へ与板城救援についての報告を披露して欲しいことが伝えられている。上杉謙信の在世中に斎木氏がその周辺で活動していたことは認められず、斎木氏は上田長尾氏の側近として活動していたと考えられる。すると、房頼が斎木氏へ依頼したのは上杉景勝に対してと考えられる。この文書も斉藤朝信書状と同様に御館の乱の頃のものかもしれない。

「自何以一身之様ニ満足安堵仕候」と表現している点は、房頼の景勝への心情を映しているようで興味深い。この想定が合っていれば、謙信期に「喜平次者共」と表現されながら上田衆を率いていた房頼と景勝の関係を教えてくれるようで貴重である。


追記:21/4/11
房頼を含め、戦国期栗林氏の系譜について新たに検討した。その上で、栗林次郎左衛門尉=房頼と見て間違いないと考えられる。

記事はこちら

追記:24/2/12
『先祖由緒帳』「富永五左衛門由緒」によれば天正期に所見される富永備中守は斎木土佐守の実弟であり、仮名惣八郎を名乗ったとある。[史料2]に見える斎木惣次郎は時期的に斎木四郎兵衛尉=斎木土佐守の前身と思われるが、実弟の仮名と類似していることはそれを補強するものといえる。


*1) 『定本上杉謙信』、池亨・矢田俊文編、高志書院
*2)「越後上杉氏の郡司・郡司不入について」『上杉氏の研究』戦国大名論集9
*3)『上越市史』別編2、1824号