今回は伊達入嗣問題と関連した小泉庄を巡る抗争を検討していく。前回検討したように長尾氏と伊達氏間の入嗣交渉が決裂し時宗丸が守護継承者であることを大義名分に稙宗が軍事行動に及んだ、というのが大筋である。
まず、『平姓本庄系図』に記載されるように天文8年11月に伊達稙宗が小泉庄に侵攻し、小河氏らを味方にとし本庄房長を敗死させ同庄に伊達氏の影響力を強めたことは前後の状況から見て確かだろう。ただ、長尾氏と伊達氏の抗争だけでなく、小泉庄を中心とした領主や土豪層の在地的な紛争が存在したことを見逃せない。
[史料1]『新潟県史』資料編4、1439号
今度揚河北不慮之題目出来、以後中弾并黒兵へ度々覚悟旨申越候処、無相違返章、依之重申届候、然者此刻可被抽忠節事可為簡要候、各同心之上、頓速可披露其色候、恐々謹言、
九月十四日 絞竹庵張恕
築地彦七郎殿
天文8年9月に「揚河北不慮之題目」なる事態が生じ、「中弾并黒兵へ度々覚悟旨申越候」とあるように絞竹庵張恕(為景)が中条弾正忠や黒川清実ら協力を促している。
[史料2]同上、1081号(*1)
如来意之、雖未申通候、乍御返事申達候、仍不慮之再乱出来、然者御正印早速御帰庄、吾々迄も目出存計候、就之、従芸州両度正印所へ御懇書忝之由被申候、委曲可被及直報候、随而女川之事、如承候、御内意も候つる歟、先年井上将監并彼谷中之面々、様々被申旨候条、難捨被存、遠江存世之時、被任其意、至于当代迄、毛頭無如在被抱置候、内々御正印御本意之上可被返進候処、今度女川之面々、兼日理之無首尾候条、傍輩共申旨候へとも、抛諸事、為向後御甚深可被返進候歟、此意之趣、従是可被申達候、但年来之筋目相違、彼谷中之面々、於以後対当所慮外之義候者、可被致詫言候哉、至其義も、対御正印申一旦不可在御等閑候、猶態可申入候条、不具候、恐々、
天文八年
十月十七 田中太 長義
同平 長種
後藤新六殿 御報
[史料1]における「不慮之題目」が[史料2]にある「不慮之再乱」にあたる。その内容は女川に居住していた「井上将監并彼谷中之面々」の動向であったことが記されている。女川の領主は色部遠江守憲長の頃から色部氏の影響下にあったが、今回彼らが色部氏に敵対したことが窺われる。ここからは、長尾氏と伊達氏の対立直前である天文8年小泉庄周辺の抗争が入嗣問題とは関係しない在地問題に起因したものであったことが推測される。
天文4年には色部氏家中、本庄氏家中で離反の動きがあり、本庄房長はその対応のため軍事行動も辞さない構えを見せている。[史料2]において「不慮之再乱」と表現された理由は、天文4年の紛争があったからであろう。天文4年の動揺は「(本庄氏)家中之面々、慮外之有題目」(*2)と記される。ここで注目したい点は本庄氏に敵対した有明氏、岩沢氏は[史料2]にもある女川に逃亡し、さらに伊達氏の支配領域出羽小玉川に逃げ込み本庄氏の追跡を振り切っている(*3)。つまり、天文4年の在地紛争において伊達氏の影響があった可能性は高く、天文8年の紛争においても伊達氏の影響力を無視できなかったと考えられる。紛争の当事者たちは一方は越後長尾氏を頼り、もう一方は出羽伊達氏を頼って自らの保身を図ると考えるべきである。そういった政治的関係の中で羽越国境において軍事活動を要するまで状況が悪化すれば、入嗣問題で緊迫した両者の政治的関係を破綻させるには十分な要因であったといえよう。
[史料3]同上、1440号
示給旨披見、祝着至候、各被露色刻、同時ニ御動之段、尤簡要候、何様休人馬、軈而其口へ可出馬候、委細中弾へ啓候、恐々謹言、
十月晦日 絞竹庵張恕
築地彦七郎殿
さらに日付が進んだ[史料3]を見てみたい。「各被露色刻、同時ニ御動之段」とあり、本庄氏・色部氏周辺の紛争に対し、中条氏らが動いていたことが推測される。「軈而其口へ可出馬候」から中条氏への出馬要請は続いており。紛争の終結には至っていないようである。ただ、既にこの時点で中条弾正忠は伊達氏に与して為景の指示に従わず、不審に思った為景が文書にて出馬の催促をしていた可能性もあろう。「各被露色刻」や「何様休人馬、軈而其口へ可出馬候」といった表現からは大規模な抗争が推測され、既に伊達氏の軍事介入が明らかであった可能性も考慮すべきであろう。
稙宗の攻勢が史料上確実であるのは、天文8年11月である。天文21年黒川実氏書状案(*4)が当時の状況を詳しく記している。これには「先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中、時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷伊達之人衆、本庄・鮎川要害□之条、彼面々大宝寺へ退去、己他之国罷成義、嘆ケ敷候」とある。つまり中条弾正忠が時宗丸入嗣を推進し、伊達氏を越後に引き入れ本庄城(村上城)、鮎川城(大葉沢城)を確保し、本庄氏らを大宝寺氏の元へ追放、「他之国」=伊達領にしてしまったということだ。
『平姓本庄系図』(*5)によると本庄房長の弟小河長資が本庄城を奪取、房長は11月28日に頓死したという。天文8年以降房長は文書上確認できず小川長資の台頭を認めることを踏まえても、『平姓本庄系図』の記載は概ね事実であろう。時期としても[史料1~3]の日付をみると、天文8年11月というのは妥当であろう。同系図は本庄城落城の時房長は出羽庄内に在陣していたとするが、当時小泉庄、奥山庄で戦火が広がっており反対方面の庄内に出兵しているのは不自然である。実際には小泉庄で敗北ののち、味方である庄内大宝寺氏の元へ敗走したというところではないか。或いは本庄城から紛争地域へ出陣していた時の急襲という点は事実を伝えている可能性もあろう。房長の死因について同系図には「罹病」「頓死」とあるが、紛争による戦傷やストレスと無関係ではなかったのではないか。
伊達軍の侵攻経路だが、色部氏、黒川氏が強固な反伊達氏勢力であることを踏まえると越後に入り、女川から村上へ抜ける街道と推測できる。女川は交通、軍事において要衝であり、女川が度々在地紛争においても問題とされることも頷ける。
天文10年7月色部勝長宛鮎川清長起請文(*6)において「近年相隔候、今度如前々申談事」、同年8月小河長資宛色部勝長起請文案(*7)に「近年依被相隔無音、然ニ今度如可申談之事満足候」とあることから、天文8年以降10年まで色部氏と鮎川氏、小河氏は対立していたことがわかる。先に見た「他之国罷成義」が表すように、鮎川氏らは伊達氏の影響下にあったということだろう。
また、天文10年の交渉においては下掲[史料4]にもあるように鮎川氏と本庄孫五郎盛長の間で所領問題などを巡って交渉が難航している様子が見られるから、本庄盛長は色部氏と同様に反伊達氏側だったことがわかる。盛長は天文15年本庄盛長書状(*8)にて「若子御若年之間、無御判候間、無粉添捻候」とて、本庄房長の遺児でまだ若年の繁長に代わり家臣へ知行を宛がっており、房長死後本庄氏当主を代行していた存在が盛長であった。すると、反伊達派につく理由も当然であろう。伊達稙宗が小泉庄を制圧後、小河長資、鮎川清長、本庄氏家中の一部などが伊達氏に従い、色部勝長、本庄盛長が越後長尾氏に従っていたことが理解される。
[史料4]『新潟県史』資料編4、1083号
誓詞之案書
右之意趣者、年来月翁并矢羽幾佐渡守無曲刷連続、可被相隔仕合共現形故、三ケ年被覃闘争事、御双方倶労而無功由存候処、御家中依不慮之題目、色部殿以御取成、御一統円被仰合上者、吾々事も対孫五郎殿、全不可存別条候、万一有徒者申隔義候者、相互被打顕、被仰談、当郡無御異義事簡要存候、若此申事至于偽者、神名
天文十年二月 日
従此方対孫五郎方、不可存別条段顕之候間、自其方も対清長并市黒丸不可有余儀旨、可被加筆儀候由、被仰届尤候、市黒丸事軅而可替名候条、孫次郎与可被書候歟
[史料4]は小泉庄領主間での交渉の一部である。天文11年2月に比定され、鮎川清長から色部勝長への起請文を色部氏側で写したものである。当時、重要書類は案書と呼ばれる写本が作成されたのである。これによると、抗争の発端は「月翁并矢羽幾佐渡守無曲刷連続」だったという。矢羽幾佐渡守は本庄氏の重臣であり、天文8年に生じた在地的な紛争の一端を示すとみて良いだろう。抗争に関連した年不詳伊達稙宗書状(*9)において、矢羽幾氏が伊達方として活動していることが見える。領主・土豪層の対立と伊達氏の侵攻が密接に関係していることが窺われよう。尤も、「如前々申談」とあるように天文10年に領主層の多くは越後の支配体制に復帰したと想定される。
ここまで、小泉庄を巡る抗争について検討した。長尾氏・伊達氏の大名レベルでの対立、本庄氏や鮎川氏ら領主レベルでの対立、矢羽幾氏や「女川の面々」など在地レベルでの対立、と層状構造の中でそれぞれの立場が複雑に絡み合って生じた抗争であったことが推測されるのである。
次回も奥山庄の抗争の経過を整理しつつ、小河氏、鮎川氏らの復帰などについて考察していきたい。
*1) ちなみに、「正印」を上条上杉定兼 (定憲)に比定する研究もあるが根拠は不明であり、そもそも定憲は天文5年4月に死去していることが『越後過去名簿』から明らかあるから、完全な誤りといえる。「正印」とは「家の主、主人」といった意味であるから(戦国古文書用語辞典『伊達正統世次考』「正院とは君主を言う」とある)、発給者田中氏の主人である色部勝長と見るべきである。領外へ出かけていた勝長が「不慮之再乱」発生を聞いて、急いで小泉庄に「御帰庄」したという意味だろう。実際、元亀元年板屋古瀬若狭入道等宛正福寺周悦書状(「本間美術館所蔵文書」)では「従御正胤府へ被及御注進」と本庄氏家臣に向けて本庄繁長のことを正胤=正印と表現している一例がある。
*2)『新潟県史』資料編4、1091号
*3)同上、1101号
*4)同上、1482号、黒川実氏の実名が実際は「平実」である可能性を以前の検討で提示している(『越後過去名簿』から見た和田黒川氏 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)
*5)『越佐史料』三巻、849頁
*6)『新潟県史』資料編3、1106号
*7)同上、1086号
*8)『越佐史料』三巻、877頁
*9)同上、860頁