鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

上杉房安を考える

2021-02-23 17:42:42 | 上条上杉氏
今回は、上杉房安を考える。その所見は下掲[史料1]が唯一であるとみられる。詳細不明の人物であるがその所見から政治的中枢に近い人物であったことは間違いない。


[史料1]「春日社越後御師と上杉氏・直江氏-『大宮家文書』所収の文書の紹介-」(*1)
春日大明神御□□□
毎月御神楽、同御供之事、
一、御釼 □庫かけり 五社へ各五ツ、
一、五社神馬毎月五疋、
従永正十七年始而、七ヶ年之間参詣之事、
此外、神馬・三千疋、於本意之上、□々可致進納者也、
     松上院上椙殿上杉殿御年卅五歳
永正十六年五月十八日  房安
           生年卅四歳
          長尾 弾正左衛門尉
            為景
             卅二歳
          長尾 泰蔵軒
            安景

[史料1]は三名の寄進状の写である。署名に書きとめられた年齢等の情報は文書の受給者が後に記したものという。

内容は、春日社に対して奉納や寄進、参詣を行うことを約束し「本意」の成就を祈願するものである。片桐昭彦氏(*1)はこの時期に長尾為景が畠山氏らと共に越中へ出陣していることに注目し、「本意」が越中攻略を表わす可能性を示唆する。

また、同氏はこの文書の発給された永正16年が守護上杉定実の活動が確認できない時期にあたることも重要視している。


[史料2]『越佐史料』三巻、615頁
蒲原郡菅名庄長井保安出条、上野新左衛門尉跡内十五人壱分、先以可有御知行、御屋形様御定上、追而御判可申義者也、仍如件、
 永正十一年 
十二月廿三日             為景
  大窪鶴寿との

[史料2]は永正10年から11年にかけての内乱を長尾為景が平定した直後に発給されたものである。この乱を契機に上杉定実の守護としての活動は天文13年上杉定実知行宛行状(*2)まで長期間見えなくなる。永正10年に上杉定実の挙兵が長尾為景に鎮圧された際に、「御屋形様某館へ御移」(*3)つまり定実が為景の居館に移送されたことが明かであることなどから、乱後に定実は為景の監視下におかれたと思われる。

その上で[史料2]「御屋形様御定上、追而御判可申義者也」を見ると、定実に代わる守護の擁立が画策されていたことが見て取れる。

為景は定実を退けたものの、守護権力そのものを完全に排除するまでには至らなかったと考えられる。天文期に定実の後継者を巡り伊達氏を巻き込んだ抗争がおき、長尾晴景の代には定実自身が再び守護権力を行使していることはその証左であろう。


その代替守護こそ上杉房安だったのではないか。

房安が為景と共に「本意」の成就を祈願する立場はそれにふさわしいと感じる。[史料1]には房安の偏諱を受けた長尾安景なる人物も確認でき、房安がそのような政治的立場であったならば自然である。

実名「房安」は守護上杉房定、房能父子の一字を用いており、定実に代わる守護としての正統性を表明したのではなかろうか。


しかし、房安は以後その所見がなく結局定実が守護に留まっている。その理由は国外情勢、特に幕府との政治関係に求められる。

永正14年に上杉定実が京都の「上杉屋敷」を前守護上杉房能の菩提として新善光寺に寄進しているが(*4)、享禄2年の時点でその地を長尾為景が「十カ年以前」にわたり横領していることが文書からわかっている(*5)。享禄2年から十数年前はちょうど永正後期にあたり、定実が没落したその頃の情勢と合致する。所領を横領されながらも定実が上杉房能の菩提を弔っていることは、為景とその代替守護に対抗して自身が正統な守護後継であるとアピールしているようにも感じる。

幕府は、足利義澄法要のため大永3年に越後国役の納入を上杉定実に要請している(*6)。この時点で、幕府が越後守護を上杉定実と認識していることがわかる。上杉定実の抵抗と幕府の意向により、長尾為景の思惑は外れたといえる。


ここまで、永正後期上杉房安が長尾為景により上杉定実に代わる守護として擁立されたものの、幕府が上杉定実を守護として認めるなど房安が正式な守護になることはなかったことを推測した。



では次に、さらに踏み込んで房安の出身を考えてみたい。房安については情報が少なく、上条氏や山浦氏、山本寺氏などとある庶家の中でどの系統なのかもわからないため、確実なことは不明と言わざるを得ない。そのためここでは全くの仮説として、少し想像を加えながらにはなるが考察してみたいと思う。

まず、この頃上杉氏の庶家の中では上条上杉氏が最も有力であったから、房安が上条上杉氏であると仮定して話を進めてみたい。上条上杉氏は刈羽上条を拠点とする一族、古志を拠点とする一族、為景正室の実家上条上杉弾正少弼入道朴峰の一族の三系統が確認される。

上杉房安の擁立は永正10、11年の内乱後であるが、その乱では刈羽上条を拠点とする上条氏の上条定憲が為景に敵対している。古志を拠点とした上条氏の動向は不明であるが、定実の実家は古志上条である。こういった状況を踏まえると、代替守護が刈羽・古志上条両氏から出たとは考えにくい。上条氏であれば、為景に親しい朴峰系と思われる。

では、朴峰=房安であろうか。これを年齢の点から考える。房安は永正16年の時点で35歳である。為景と天甫喜清の子である晴景は『平姓長尾氏系図』によると永正6年生まれだから、永正6年時点で25歳の房安に孫ができるのは無理がある。

また、晴景の生年に誤りがあったとしても『越後過去名簿』には朴峰娘である為景の妻が永正11年に母を供養している。この年為景は29歳なわけであるから正室との婚姻は少し遡ると考えられ、同年31歳の房安の娘とはやはり考えにくい。

よって、房安と朴峰は別人であると見られる。

では、前回検討した上条上杉美濃守はどうであろうか。その活動時期は大永期頃と推測され、永正末期に所見される房安と近接する。美濃守の妻は『越後過去名簿』において筆頭に記される上杉定実、三番目に載る上条上杉定憲に挟まれる形で二番目に記されているから、美濃守=房安なら代替守護としてその立場にふさわしい。前回、美濃守は朴峰系上条氏と関係がある可能性を想定したが、その点も房安とリンクする。

所見される詳細不明の上杉氏一族の中から推測するならば、上条上杉美濃守が最も房安にふさわしいといえる。この場合、房安はやはり為景に親しい朴峰系上杉氏出身であることになる。

尤も管見の人物に強引に当てはめるやり方では限界があり、房安が全く別系統の別人である可能性は十二分にある。後考に期待する点である。


*1)片桐昭彦氏「春日社越後御師と上杉氏・直江氏-『大宮家文書』所収の文書の紹介-」(『新潟史学』75号)
*2)『新潟県史』資料編4、1495号
*3)『新潟県史』資料編3、164号
*4)『新潟県史』資料編5、4227号
*5)『越佐史料』三巻、755頁
*6)『新潟県史』資料編3、798号



上条上杉美濃守を考える

2021-02-14 21:44:17 | 上条上杉氏
今回は、上条美濃守について検討してみたい。上条美濃守は『越後過去名簿』(*1、以下『名簿』)にその名が見える人物である。ただ、『名簿』以外では所見がなくその実名も不明である。


上条美濃守に関する『名簿』の記載は以下である。

「蘭室慈芳大禅定尼 越後鵜河上条上杉ミノノ守 御上サマ ウサミ平八郎トリツキ」


美濃守の妻の供養記録となる。

この供養の日付は記されていないが、取り次ぎの宇佐美平八郎は他の供養記録にも登場する。その時期は大永2年を上限、天文2年を下限とする。よって、上条上杉美濃守が活動した時期も大永年間から天文初期頃と見られる。

この宇佐美平八郎は「長福院トノ齢仙永寿大禅定門」すなわち、上杉安夜叉丸の供養も行っていることも記載されている。安夜叉丸は、上条上杉弾正少弼入道朴峰の実子で古志上条氏へ養子に入り早逝した存在である。

『名簿』における取次は供養された人物に関係の深い人物によってなされているから、美濃守妻と安夜叉丸が共に宇佐美平八郎を取次としている点は、美濃守と安夜叉丸に繋がりがあることを感じさせる。具体的にいえば、美濃守もしくは供養された本人である妻が、安夜叉丸と同様に朴峰系上条氏出身である可能性があろう。

『名簿』にはその系統として「鵜河上条上杉」と記されている。前回朴峰について検討し、琵琶嶋を拠点とする上条上杉氏で、その系統が琵琶嶋上杉氏と呼称されるようになったとの仮説を立てた。琵琶嶋は鵜河庄に位置し、矛盾しない。

ただ、上条の地も鵜河庄であるから上条を本拠とする系統の可能性も否定できない。この場合は、上条定憲らの血縁ということになる。


以上、上条美濃守は大永から天文頃に活動し、自身もしくは妻が朴峰系上条氏出身であった可能性を考察した。朴峰が長尾為景の舅であることを踏まえると、美濃守も為景に親しい関係であったことも類推される。『名簿』における美濃守妻の記載が上杉定実の供養記録に続いて全体で二番目であることも、それを示唆するかもしれない。

ただ、情報量は少なく推測の域を出ないことは否めない。上条美濃守に関して、現時点での私なりの推論を仮説として提示しておきたい。


*1)山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9号)

上条上杉弾正少弼入道朴峰を考える

2021-02-12 20:41:10 | 琵琶嶋上杉氏
戦国期越後国には上杉氏として様々な人物が所見されるが、政治的立場が重要であることが明かでありながらその詳細が不明である者が複数人存在する。彼らは越後の政治の中枢と深く関わっていたと思われ、その動向を考えることは越後の政治情勢を知ることに繋がると言える。今回から、そのような人物について整理していきたい。

具体的には『越後過去名簿』に見える上条上杉美濃守、上条上杉弾正少弼入道朴峰、『大宮家文書』に見える上杉房安が該当する。彼らに関する史料はごく僅かであり、確実なことを言うとすれば、詳細は不明としか言いようがない。しかしそれでは彼らや上杉氏の系譜に関する理解は進まないわけであるから、残っている史料から読み取れる点についての整理をし、そこから一つの試案を作成してみたいと思う。以下、便宜的に刈羽郡鵜川庄上条を拠点とする上条氏を刈羽上条氏、古志郡を拠点とする系統を古志上条氏とする。

以前の記事はこちら


今回は、上条上杉弾正少弼入道朴峰(以下朴峰)を考える。

それでは、各史料の所見を見ていく。
『越後過去名簿』(*1、以下『名簿』)
永正11年5月3日「春円慶芳 越後長尾為景御新蔵御腹様 上杉トノ上条殿上」
天文4年10月7日「朴峰永浮庵主 上杉弾正少弼御新蔵立 上条入道」

『公族及将士』(*2)
「朴峰永浮庵主 てんほさま御そんふ」

『天文上杉長尾系図』(*3)
長福院の前には「天祥祖晃」=上杉十郎定明が載り、「十郎殿無御息」とある。
「齢仙永寿 長福院殿 朴峯様ノ御息安夜叉丸殿 
            上杉少弼入道殿御事也」
「天受玄信 峯泉寺殿 長福院殿御舎弟惣五郎殿 頼房」
頼房の項には「定実ノ御孫子」とある。



史料を総合すると、上条上杉弾正少弼を名乗った朴峯の子として長尾為景の正室である天甫喜清、古志上条上杉定明に養子入りした安夜叉丸とその弟惣五郎頼房がいた、ということになる。永正11年に供養された春円慶芳が朴峰の妻、天文4年に朴峰を供養した「御新蔵」が朴峰の後妻と理解されている(*2)。

米沢藩の系図『外姻譜略』(*4)でも長尾為景室の父は「朴峯永諄庵主」と伝えられている(*5)。


では、朴峰についてその系統を推測し、人物比定を試みてみたい。

まず、上条定憲(弥五郎/播磨守)と朴峯の関係を確認しておきたい。『藤原姓上杉氏系図』(*4)で「定憲」という人物が「安夜叉丸」のことで、山内上杉顕定(可諄)養子となり上杉十郎定明の跡を継ぐ、とあることから上条定憲の父が朴峯とされることがある。

しかし、「古志上条上杉氏の系譜」で確認したようにこれは上杉十郎憲明という人物の事績を表わしており、上条定憲とは関係がない。安夜叉丸も『名簿』から大永2年の死去が確認されるから、定憲とは別人である。さらに『名簿』によれば、上条定憲の母は「芳雲寺殿 上杉ハリマ守御母花芳公 上条」として大永4年に供養されている。先にみた朴峰の妻とは異なる人物である。以上の理由から、定憲の父が朴峰である可能性は低いといえる。

また、『天文上杉長尾系図』「定実ノ御孫子」という記載から定実、頼房と朴峰の関係を考えたい。そのままに受け取れば、定実の孫が頼房だから頼房の父朴峰は定実の息子となる。ただ、天文期に伊達氏との入嗣問題が生じたことからも定実には息子はおらず、可能性としては今福匡氏(*6)が述べるように定実の娘婿が朴峰であった場合がなる。しかし、朴峰は娘が永正11年に「長尾為景御新蔵」見えるように為景の一世代上となり、定実はその為景と同世代である。従って、朴峰と定実の娘では世代が離れすぎていると感じる。さらにその子として頼房を想定すると尚更である。「古志上条上杉氏の系譜」で見たように『天文上杉長尾系図』もそのまま鵜呑みにできる史料ではなく、慎重な検討が必要であろう。ここでは朴峰と定実の血縁関係や婚姻関係は認めず、「定実ノ御孫子」についてもそのまま受け取ることは避ける。この部分の解釈については一旦保留し、後日に検討したい。


さて、片桐昭彦氏(*2)は『名簿』における記載「上杉トノ上条殿上」から、朴峰を「上条上杉家当主」と位置づけている。為景の正室を輩出しているわけだから、上条氏の一系統として存在していたと考えるのが妥当である。

同氏は、朴峰は後に上条政繁が継いだ系統ではないか、としている。しかし、以前当ブログ「上条上杉氏の系譜」で検討したように政繁はその仮名などから刈羽上条氏を継いだと推測され、刈羽上条氏には朴峰と同時代に上条定憲が当主として存在している。

定憲は永正6、7年の山内上杉可諄の越後侵攻や永正10、11年の内乱、享禄・天文の乱で一貫して長尾為景に敵対しながらも、永正初めから天文5年に死去するまで刈羽上条氏として存在する。定憲が上条を拠点にしていたことは、天文の乱で「上条要害」が為景に味方する近隣の領主毛利安田氏らに攻撃されているなど上条の地が争点になっていることから、明らかである(*7)。長尾為景の活動時期のほぼ全てで定憲が刈羽上条氏として見えることは、朴峰が刈羽上条氏の人物である可能性を否定する。先述のように血縁関係も想定しづらいから、朴峰を刈羽上条氏当主と位置づけるのは不適切であろう。


では、もうひとつの系統である古志上条氏について見てみる。『両上杉系図』には「房実」の子として「某 兵庫頭、号上条少弼入道」とある。すなわち、古志上条氏の系統であり私の検討に従えば定俊にあたる人物ということになる。しかし実子の安夜叉丸が養子に入ったことを考えると、朴峰を古志上条氏の人物とするのは不自然である。同系図では「頼房」が「房実」の兄「定顕」の子とされるなど明らかにおかしいところもあるから、古志上条氏に養子入りした安夜叉丸とその父朴峰を混同している可能性が高いだろう。

ここまで刈羽上条氏、古志上条氏について朴峰との関係を否定した。


ここで私なりの結論を言うと、琵琶嶋を拠点とした琵琶嶋上杉氏が実のところ上条上杉氏の一支流であり、永正期にその系統に名前が見える上杉正藤が朴峰にあたる人物として最も有力であると考えている。

琵琶嶋上杉氏が上条氏支流であることを示す史料はこちら


琵琶嶋上杉氏は八条上杉氏の後身とする説(*8)があるが、以前私は「琵琶島上杉氏の系譜」にてその説は根拠が不足している、と述べた。理由として、両者の繋がりが琵琶嶋を拠点とするという一点に留まる上、八条上杉氏が白川庄において天文期まで存続しているという点がある(*9)。

「琵琶島」の名が地名ではなく氏族の呼称として文書上で確認されるのは天文末期であり、為景・晴景期においては確認されない。為景・晴景期には「上条」と呼称されていたのではないか。「越ノ十郎」(*10)や「古志」(*11)などと表現される古志上条上杉氏が、『名簿』で「上条上杉十郎」(天文3年に供養された)と表記されている事例は類似ケースであろう。

また、天文4年8月長尾為景書状(*12)には「凶徒等相集、琵琶島へ及行候」とあり、多くの勢力が上条定憲に与した天文の乱においても琵琶嶋上杉氏は為景に味方していたことが推測される。これは琵琶島上杉氏と為景の間に婚姻関係といった強い繋がりを示唆しており、為景の舅である朴峰が琵琶嶋上杉氏であるならば合理的である。

よって、琵琶嶋上杉氏は八条上杉氏ではないという考えの元、琵琶嶋上杉氏が永正期に長尾為景によって擁立された上条上杉氏の支流ではないかと推測する。つまり、琵琶嶋上杉氏は長尾為景と近い関係にある上条上杉氏の分家として位置づけられると考える。


ただ、そうすると琵琶嶋に入部以前の存在形態は全くの不明である。想像を飛躍させれば、当ブログ「古志上条上杉氏の系譜」で検討したように山内上杉顕定(可諄)の介入により古志上条氏には憲明が房実の養子として入り、後継者であった定俊はそこから外された可能性がある点は参考になるかもしれない。つまり、同時期に山内上杉氏と近い立場を取る刈羽上条定憲が、古志上条氏と同様に顕定の後ろ盾により当主に就任したとすれば、刈羽上条氏内部でも対立が生じていた可能性があると推測されるのである。越後において山内上杉氏権力の影響力が強かった点は確かであると思われ、今後検討していきたい。


以上を踏まえて推測すると、琵琶嶋において永正5年に為景と共に寄進状(*13)を発給している上杉正藤こそ上条上杉弾正少弼入道朴峰である可能性がある、といえるだろう。


文書からもその徴証が窺える。


[史料1]『新潟県史』資料編3、2276号
 禁制     鵜川八幡宮
一、       於境内殺生之事
一、       猥伐採竹木事
一、       喧嘩狼藉之事
附り、放火之事
右之条々堅令制禁候也、
 天正十八年十一月二十八日   弾正少弼藤

[史料1]上杉正藤寄進状と同じ「鵜川神社文書」に伝来する禁制である。日付は上杉景勝の治世であり、花押も上杉景勝の天正期のものと一致するから景勝の発給と見られる。天正18年後半に景勝は出羽で軍事行動に臨んでいるから、その人員輸送等で柏崎に軍兵が滞在したため鵜川神社に禁制が必要となったのだろう。

ただ、注目は署名の「弾正少弼藤」であろう。景勝も弾正少弼を名乗ったから単なる誤記と言ってしまえばそれまでであるが、その誤りが生じた背景には過去に鵜川神社に縁の深い上杉正藤が弾正少弼を名乗っていた点があるのではないか。

間接的にではあるが正藤と朴峰に接点が見えることは示唆的である、と感じている。


以上、上杉弾正少弼入道朴峰について検討した。推測に頼る部分も多くなってしまったが、ひとつの仮説として提示しておきたい。


*1)山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9号)
*2)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)
*3)『越佐史料』第三巻、17頁、
*4)『上杉御年譜』第二十三巻(米沢温故会)
*5)尤も、米沢藩は謙信の母が側室であることを憚ったためか正室天甫喜清と後室謙信母を混同している。結果、様々な誤解が重なり朴峯永諄庵主=長尾肥前守顕吉とされてしまっている。天甫喜清の父は上杉弾正少弼であることは上述のように明らかで、謙信母の父は古志長尾房景であるから、『外姻譜略』の記述には誤りがある。
*6)今福匡氏『上杉謙信』(星海社)
*7) 『越佐史料』三巻、798頁
*8)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川荘」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*9)『名簿』に天文11年8月、「白川庄八条憲繁」が供養されている。
*10)『新潟県史』資料編3、832号「越後平定以下祝儀太刀次第写」
*11)『越佐史料』三巻、806頁。天文6年長尾為景が下倉城在城衆へ「古志其他相談」を命じている。古志は古志上条氏のことであろう。同じ頃三条山吉氏も下倉城への援軍として活動しており、永正7年上田庄、上野国沼田庄での軍事行動における上杉定俊、山吉孫五郎の活動と共通性がある。
*12)同上、817頁
*13)『新潟県史』資料編4、2269号

※2021/2/17 上杉定実、頼房と朴峰の関係について加筆した。
※21/5/9 リンクを追加した。
※23/8/23 琵琶嶋氏が上条氏出身であることを示す『先祖由緒帳』記述についてのページリンクを追加した。

畠山義隆・上条義春の系譜関係と政治的立場

2021-02-06 16:14:54 | 上条上杉氏
以前に上条上杉氏の系譜を検討し、上条政繁とその養子義春についても確認した。ただ、共に能登畠山氏出身と推測されることから、能登畠山氏における立場を考証することは欠かせない。特に、義春は畠山義隆を父にとして系図や所伝等では能登畠山氏当主として語られることもあり、能登畠山氏時代の存在形態は見過ごせない。今回は、義隆・義春父子について二人の能登畠山氏における立場を考えたい。

<1>畠山義隆と二本松畠山氏
まず、瀬戸薫氏による研究(*1)において畠山義隆は嫡流ではなく、庶流二本松畠山氏であったことが指摘されている。

これに拠れば、天正5年12月上杉謙信書状(*3)から義隆がこの時点で妻子がいる年齢であるとわかることから、『長家家譜』において能登から追放された「畠山義則」の跡を継ぐも天正2年に毒殺される「畠山義隆」は実際の義隆ではなく、追放された畠山義綱=「義則」の跡を継いでいた畠山義慶のことを表わしているという。「義則(ヨシノリ)」=義綱、「義隆」=義慶(ヨシノリ)であるから、所伝の名前が史実の名前に一致しないことに留意が必要である。

さらに同氏は、同家譜において当主毒殺後幼少の「春丸」が擁立され「義隆弟」の「二本松伊賀守」が後見したとあり、この人物こそ畠山義隆のことではないか、としている。

つまり、畠山義隆は二本松氏を継承し天正期の能登畠山氏を支える重臣として存在していたとされるのである。現在、この推論を越える仮説はなく、後述していくようにこの仮説は他の所伝や息子義春との関係も整合性が取れることからも蓋然性が高く、ここではこの仮説に従いたい。


しかし、『長家家譜』の記述からの推測では、義隆は義慶の弟となる。しかし、義慶は元亀3年に元服していることが確実であり(*4)、その弟が天正5年時に15歳前後と推定される義春を子として持つことは不可能である。よって、義隆は義慶の弟ではない、と言える。

では、義隆は系譜中のどこに位置づけられるのであろうか。ここで『系図纂要』畠山氏系図を見る。注目は「義続」(法名や世代などから実際には義総、義続の二世代の事績を含んでいるようである)の庶子として挙げられる「義有」である。「義有」は系図中に、「二本松伊賀守」を名乗り「義春」を後見し天正5年に死去したことが記されている。『長家家譜』における記述と共通性がある。

この「義有」こそが、義隆のことであろう。そうであれば、息子義春との年齢関係も合う。系図中に「義有」とされた理由は、二本松氏の名乗りである「治部少輔」と永享期に活動が見られる畠山治部少輔義有という人物が混同されたのではないか。尤も、義隆の仮名、官途名、受領名は確実な史料では確認されない。

つまり、義隆は能登畠山氏当主である義続の庶子で、二本松畠山氏を継承した存在である可能性が高い。上条義春にとって上条政繁は叔父にあたることとなる。


<2>二本松畠山氏の動向
能登国における二本松畠山氏の動向について検討してみたい。

永正14年に冷泉為広が能登国畠山治部小輔亭で和歌を詠んでいる。これは為広の著作『為広能州下向日記』に記されており、当該部分には「畠山治部少輔 二本松也」(*5)とある。さらに、同日記の別の部分には冷泉為広が「源治部小輔貴維」に歌集を貸与したことが記される。ここから、上記の二本松畠山治部少輔の実名が「貴維」であったことがわかる。

また、天文11年4月には『大館常興日記』に「いりこ十束、畠山二本松殿より給之、毎年儀也」「御太刀、二本松殿より年始御礼進上之」と記される(*6)。「毎年儀」とあるように年始に幕府関係者へ物品を贈呈していたことが想定され、天文9年にも同日記に「畠山二本松治部少輔殿」による贈呈の記録が残る。この治部小輔は貴維か、その後継者であろう。

上述の『為広能州下向日記』には為広が能登滞在中に受け取った礼銭が纏められている(*7)。能登畠山氏一族としては、「御やかた」と記される畠山義総が百貫文、「二本松殿」=畠山貴維が十貫文、「大隅殿」=畠山家俊が三貫文、「畠山九郎殿」が一貫文、と所見される。それ以外は家臣団の記載となり、額はどの武将も一貫文から三貫文である。当主に次ぐ額を献上していることから、二本松畠山氏は能登畠山氏においてその政治的立場も当主に準ずるものであったと推測される。

天文11年5月に足利義晴の入洛の際に能登畠山氏から太刀等が献上されたことが『大館常興日記』に記されている(*8)。その中で、畠山義総に続いて「畠山二本松殿」が記載され、この二人については大館晴光によって速やかに取り次がれたという。これも、二本松畠山氏が当主に続くNo2の地位にあったことを示す。

以上から、二本松氏が治部少輔を名乗り能登畠山氏の重要一族として存在したことがわかる。


畠山義隆も二本松氏を継承し、若い当主義慶を後見するような重鎮として存在したことは想像に難くない。事実、天正元年に気多神社造営に関わる檀那衆の交名(*9)には「畠山修理大夫殿」=義慶を筆頭として、その次に「二本松殿」=義隆が見られる。


<3>義慶死後、家督を継いだのは畠山義隆である
『長家家譜』(*10)において天正2年の死去とされている義慶であるが、実際の死去は『興臨院月中須知簿』(*11)より天正4年4月のことである。ちなみに、『長家家譜』によれば享年は19である。

この義慶の死去した天正4年4月以降は、『長家家譜』『系図纂要』は義春が家督に擁立されていたとする。ただ、どちらの所伝も実際には義隆が家督を継いでいた徴証が窺える。

『長家家譜』においては、「義隆」=義慶の死後、遊佐続光と共謀して「二本松伊賀守」=義隆が家督を相続しようとするも、諸士の反対に合い「義春」(家譜は義慶の息子に位置づけるが実際には義隆の子)を家督とし「伊賀守」=義隆は本丸に入り後見役となったとする。すなわち、義隆は義慶死後家督を狙い、それが失敗すると後見役となることで事実上の当主の座についた存在として記される。

また、『系図纂要』において「義春」、「二本松伊賀守」共に天正5年の死去とされるが義春は上条義春としてその後も生存しているから、天正5年に死去したのは「二本松伊賀守」=義隆のみであろう。

そうであれば『長家家譜』における天正5年上杉謙信の七尾城攻めの記述中にある閏7月「畠山義春卒去に付、城内之将卒勢気失ひ」とある「義春」は、義隆のことを指すと捉えられる。すると、当主として語られ天正5年に死去した「義春」は、実際には義隆の誤りだったのではないか。


『長家家譜』において「義春」が跡を継承し義隆は後見とされる理由であるが、事実に反して「義春」が義慶にあたる人物の子、すなわち庶流ではなく嫡流とされること点が関係していると感じる。同家譜においてその主役である長氏はあくまで忠臣として描かれるわけで、上述の部分も長綱連の活躍で遊佐続光や「二本松伊賀守」=義隆の台頭を抑えて先代の子「義春」を守立てたというシナリオとなり、それに添ったものである。しかし、実際には「義春」は義隆の子であることから長綱連が嫡流を守ったという事実はなく、『長家家譜』における義慶死後のやり取りは、長氏が義慶の殺害、義隆の台頭に関係せず嫡流に忠実であったと美化する後世の作為であると考えられる。

江戸後期作の『越登賀三州志』にも畠山義綱追放の記事が同じように人物を混同して記載されている。具体的には、「義則」を追放する際に「諸臣義則を廃し義隆を立つべき内儀密決し」たことが記される。やはり、一世代のズレが生じながらも、義慶が廃され義隆が擁立されたことがこのような所伝の背景にあるのではないか、と考える。


よって、系図、所伝からは義慶死後、二本松義隆が遊佐続光らと共謀し家督を継承したと考えられる。そして、上杉謙信の七尾城攻めの最中に死去したと推測される。『長家家譜』が伝えるようにその死が七尾城陥落に影響を及ぼしたことは十分に考えられるだろう。

では、義隆が家督を継承したという点を一次史料から読み取れることは可能だろうか。


度々、言及している天正5年12月上杉謙信書状(*3)には「畠山義隆御台、息一人有之而候ツル」とある。

まず、義隆が実名で呼称されていることが注目される。この時代には敵味方限らず殆どの場合、通称で記される。ただ例外として、一定の地位にある者については実名で記される場合がある。

上杉謙信で例を挙げれば、元亀元年に当時同盟交渉中の味方である徳川家康に対し酒井忠次宛書状(*12)、松平真乗宛書状(*13)において「家康態使僧、誠大慶不過之候」、元亀元年直江景綱書状(*14)では「信長(織田)・義景(朝倉)御一和」とある。敵対勢力に関しては「氏康」や「晴信」は度々所見される。他の武将を見ても、永禄12年深谷上杉憲盛書状(*15)「憲政(上杉)御家督御与奪」、元亀2年小田氏治書状(*16)「晴朝(結城)、資胤(那須)へ意見可申儀」などがある。

特に、永禄12年上杉輝虎書状(*17)では「義重(佐竹)、宇都宮、多賀谷」とあるように、明らかに何らかの基準で区別がされていたと見られる。恐らく政治的地位、影響力、家格などであろう。

義隆も、能登畠山氏当主という地位にあったため実名で呼称されたのではないか。


さらに、もう一点は「御台」という表現が気になる。これは妻を表わすわけだが、特に上位にある人物の妻を敬うものである。やはり、義隆が当主であったが故の表現と感じる。

以上の二点から、一次史料からも義隆は義慶死後に能登畠山氏家督を継承したと捉えられる。


<4>能登畠山氏における義春
ここまで、義隆を中心に検討しその存在形態について一つの結論を出すことができた。それを踏まえて、子義春についても検討したい。

まず、その年齢は以前上条義春について確認した時に詳述したが、永禄6年生まれの天正5年時に15歳と見られる。これは畠山義綱-義隆-義春、という父子関係の推定に合致するものである。

幼名は系図や所伝に見られる「春王丸」であろうか。

その実名から元服は能登畠山氏時代に行われたものと見られる。義隆が当主として活動したのであれば、義春はその後継者として存在したと考えられ、仮名「次郎」は歴代能登畠山氏当主などに見られる仮名でありそれを意識したと捉えられる。すると、元服は義隆が家督を継承した天正4年4月以降である可能性が高い。そうであれば、天正5年時に15歳という推定は正鵠を得たものといえる。



以上、畠山義隆と義春について検討した。ここまで数回にわたり、上条上杉氏の系譜と能登畠山氏の系譜関係を横断的に検討してきた。簡単にまとめれば、畠山義続の庶子として上条政繁と二本松畠山義隆の存在が推定され、後に能登畠山氏家督を継承した義隆の子義春が上条政繁の養子となって活動したと考えられる。


*1) 瀬戸薫氏「能登畠山氏の滅亡と上杉氏の支配」(『七尾市史』通史編Ⅰ)
*2) 瀬戸薫氏「『加能史料』と戦国末期」(『加能史料』戦国16)、ここで同氏は畠山義慶の死去が天正4年のことと明らかになったため、(*1)における人物比定も後考の余地があるとする。しかし個人的には、所伝の年月日に誤差があることはよくあることであるから、特に大きく変更する必要はないと思っている。
*3) 『上越市史』別編1、1368号
*4)『加能史料』戦国16、39頁
*5)『加能史料』戦国6、303頁
*6)『加能史料』戦国11、129頁
*7)『加能史料』戦国6、361頁
*8)『加能史料』戦国11、139頁
*9)『加能史料』戦国16、72頁
*10)同上、342、386頁
*11)同上、252頁
*12)『新潟県史』資料編5、4323号
*13)『越佐史料』四巻、817号
*14)『上越市史』別編1、933号
*15)『新潟県史』資料編5、4038号
*16)『越佐史料』五巻、88頁
*17)『上越市史』別編1、822号