和田中条氏の一族築地氏の系譜については以前検討したが、改めて考えると系譜関係や人物比定などに明らかな誤謬を認めており、再検討の必要があるように感じた。そこで今回は以前の記事を削除し、改訂版として築地氏の系譜を検討していきたい。
まず、築地氏の祖は築地資茂である。享徳3年『中条房資記録』(*1)に詳しい。中条茂資の庶子・金山政綱がその母の縁から奥山庄築地を領有し、その後中条本家への返還などを経たものの、結局金山家の流れを汲む虎一丸に与えられたという。ただ、「一国之兵乱」(応永の大乱だろう)により混乱し、安定して知行できた時期は宝徳3年の築地への入部以降という。その頃には虎一丸は弥七郎資茂を名乗ったとある。宝徳2年中条朝資宛中条秀叟譲状(*2)にも「築地四町者、弥七郎資茂依有其志、分与者也」とある。
『中条家分家系譜』(*3)によると資茂は中条茂資の曽孫にあたる。中条房資(秀叟)も茂資の曽孫にあたるが、金山家は茂資の末子の流れというから築地資茂は房資(秀叟)のやや下の世代といったところだろう。
次いで寛正5年中条朝資譲状(*4)に「築地之事、任由緒、先年老父房資仁被返下候、然而親類修理亮茂義、為扶持分申付候」とあり、築地修理亮茂義という人物の存在がわかる。中条房資が茂義に扶持分として築地を申しつけたと読めるから、茂義は資茂のことを指していると考えられる。弥七郎資茂が所見された約15年後に修理亮茂義が現れる時間的経過から、弥七郎資茂が修理亮茂義に改名したと推測できる。
明応5年8月中条定資知行宛行状(*5)で宮瀬が某人に与えられている。史料が築地氏文書に所属し、後年築地氏が宮瀬を領有していることから、この文書は築地氏に宮瀬が与えられた際のものとみてよいだろう。宛名が裁断されたため、わからない点が残念である。資茂の活動した宝徳~寛正期からは30~40年の隔たりがあり、宮瀬を与えられた人物は資茂の息子もしくは孫であろう。『分家系譜』では資茂を永正期の築地修理亮(祥翼)と混同するなど正確な系譜は不明とであり、築地氏の系譜における空白期となってしまっている。
明応9年と推定される胎内川合戦では中条氏と共に「親類ついち方」が見える。
永正4年11月上杉定実知行宛行状(*6)で荒川保内下条分が築地修理亮に与えられている。この修理亮の明確な初見であり、永正期の築地修理亮/修理亮入道はすべてこの人物のことである。後述の譲状から入道名・祥翼が明らかである。
永正8年3月中条藤資知行宛行状(*7)まで「築地修理亮」として見え、永正10年11月長尾為景書状(*8)に「築地修理亮入道」と入道を認め、以降「築地修理亮入道」や「築地入道」して見える。永正9年10月築地弥七郎宛中条藤資安堵状(*9)で「御親父名跡之事、相続之義不可有相違候」と、「築地・宮瀬・土田・夏井・荒川之下条」が安堵されている。夏井は永正8年に築地修理亮に与えられた土地であり、修理亮から息子弥七郎への代替わりと想定される。修理亮の入道も永正9年10月の代替わりを契機としたことが推測される。
ただ、その後も築地氏の代表は弥七郎ではなく修理亮入道であったようで、永正11年1月六日町合戦でも築地修理亮入道宛に長尾為景から活躍を賞する書状(*10)が送られている。そして、大永3年10月に築地祥翼から築地弥七郎へ「築地・荒河下条・夏井・ミやせ・つちた」が譲られている(*11)。先述の安堵状の存在より、築地祥翼が修理亮入道であることは疑いなく、大永3年に至るまで築地氏の代表として活動していたことが窺われる。この大永3年譲状が終見である。
『分家系譜』は築地資茂と祥翼を同一人物とするが、活動時期は全く異なり別人である。間に少なくとも1世代、或いは2世代ほど離れている。『先祖由緒帳』では「謙信様御代ニ修理入道死去」とあるが、これも次代以降の人物との混同であろう。近世における築地氏の系譜は編纂の過程で史料に名が残っていない人物を考慮していないため活動時期や世代間の整合性が取れていない。『先祖由緒帳』は祥翼を実名「忠基」、その父を「兵庫資忠」とするが、事績なども含めあくまで伝承として捉えるべきであろう。
さて、祥翼の次代弥七郎であるが、大永3年の譲状が終見になってしまう。天文期には彦七郎が見えるから、それまでに死去したことが考えられる。
天文6年2月長尾張恕書状(*12)の宛名に築地彦七郎が見える。弥七郎に代わって築地氏を継承した人物であろう。天文8年9月、10月の長尾張恕書状(*13)にも築地彦七郎が見え、中条氏家臣としての活動を続けている。
永禄後期~元亀期と推定される中条房資書状(*14)の宛名にも築地彦七郎が見える。のちの修理亮資豊であろう。天文期の彦七郎とは30年ほどの隔たりがあり、別人だろう。天正6年6月上杉景勝感状(*15)から築地修理亮として見える。以降一貫して修理亮として所見され、『分家系譜』によると慶長13年2月6日に死去したという。同系譜より妻は竹俣慶綱の姪という。実名「資豊」は確実な史料で確認できないが、江戸初期まで活動した人物であり、諸資料で一貫してその名が伝えられることから信用してよいのではないか。資豊のあと、米沢藩士として存続していく。
以上、築地氏の系譜を検討した。
虎一丸/資茂/茂義(弥七郎/修理亮) ‐ 詳細不明 ‐ 祥翼(修理亮) ‐ (弥七郎) ‐ (彦七郎) ‐ 資豊(彦七郎/修理亮)
*1)『新潟県史』資料編4、1316号
*2)同上、1822号
*3)『中条町史』資料編1、698頁
*4)『新潟県史』資料編4、1826号
*5)同上、1441号
*6)同上、1423号
*7)同上、1445
*8)同上、1430号
*9)同上、1443号
*10)同上、1428号
*11)同上、1442号
*12)同上、1438号
*13)同上、1439号、1440号
*14)同上、1446号
*15)同上、1449号
*16) 前回の検討では資茂と祥翼を混同するなど明らかな誤りや、乏しい根拠から彦七郎を養子と考えるなど行き過ぎた考察があった。上記の通り資茂と祥翼は活動時期を異にする存在であり、祥翼-弥七郎に明確な父子関係を認める他はその血縁関係について断定することはできない。訂正しておきたい。