鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

築地氏の系譜 改訂版

2023-06-25 17:43:32 | 築地氏
和田中条氏の一族築地氏の系譜については以前検討したが、改めて考えると系譜関係や人物比定などに明らかな誤謬を認めており、再検討の必要があるように感じた。そこで今回は以前の記事を削除し、改訂版として築地氏の系譜を検討していきたい。


まず、築地氏の祖は築地資茂である。享徳3年『中条房資記録』(*1)に詳しい。中条茂資の庶子・金山政綱がその母の縁から奥山庄築地を領有し、その後中条本家への返還などを経たものの、結局金山家の流れを汲む虎一丸に与えられたという。ただ、「一国之兵乱」(応永の大乱だろう)により混乱し、安定して知行できた時期は宝徳3年の築地への入部以降という。その頃には虎一丸は弥七郎資茂を名乗ったとある。宝徳2年中条朝資宛中条秀叟譲状(*2)にも「築地四町者、弥七郎資茂依有其志、分与者也」とある。

『中条家分家系譜』(*3)によると資茂は中条茂資の曽孫にあたる。中条房資(秀叟)も茂資の曽孫にあたるが、金山家は茂資の末子の流れというから築地資茂は房資(秀叟)のやや下の世代といったところだろう。

次いで寛正5年中条朝資譲状(*4)に「築地之事、任由緒、先年老父房資仁被返下候、然而親類修理亮茂義、為扶持分申付候」とあり、築地修理亮茂義という人物の存在がわかる。中条房資が茂義に扶持分として築地を申しつけたと読めるから、茂義は資茂のことを指していると考えられる。弥七郎資茂が所見された約15年後に修理亮茂義が現れる時間的経過から、弥七郎資茂が修理亮茂義に改名したと推測できる。


明応5年8月中条定資知行宛行状(*5)で宮瀬が某人に与えられている。史料が築地氏文書に所属し、後年築地氏が宮瀬を領有していることから、この文書は築地氏に宮瀬が与えられた際のものとみてよいだろう。宛名が裁断されたため、わからない点が残念である。資茂の活動した宝徳~寛正期からは30~40年の隔たりがあり、宮瀬を与えられた人物は資茂の息子もしくは孫であろう。『分家系譜』では資茂を永正期の築地修理亮(祥翼)と混同するなど正確な系譜は不明とであり、築地氏の系譜における空白期となってしまっている。

明応9年と推定される胎内川合戦では中条氏と共に「親類ついち方」が見える。


永正4年11月上杉定実知行宛行状(*6)で荒川保内下条分が築地修理亮に与えられている。この修理亮の明確な初見であり、永正期の築地修理亮/修理亮入道はすべてこの人物のことである。後述の譲状から入道名・祥翼が明らかである。

永正8年3月中条藤資知行宛行状(*7)まで「築地修理亮」として見え、永正10年11月長尾為景書状(*8)に「築地修理亮入道」と入道を認め、以降「築地修理亮入道」や「築地入道」して見える。永正9年10月築地弥七郎宛中条藤資安堵状(*9)で「御親父名跡之事、相続之義不可有相違候」と、「築地・宮瀬・土田・夏井・荒川之下条」が安堵されている。夏井は永正8年に築地修理亮に与えられた土地であり、修理亮から息子弥七郎への代替わりと想定される。修理亮の入道も永正9年10月の代替わりを契機としたことが推測される。

ただ、その後も築地氏の代表は弥七郎ではなく修理亮入道であったようで、永正11年1月六日町合戦でも築地修理亮入道宛に長尾為景から活躍を賞する書状(*10)が送られている。そして、大永3年10月に築地祥翼から築地弥七郎へ「築地・荒河下条・夏井・ミやせ・つちた」が譲られている(*11)。先述の安堵状の存在より、築地祥翼が修理亮入道であることは疑いなく、大永3年に至るまで築地氏の代表として活動していたことが窺われる。この大永3年譲状が終見である。

『分家系譜』は築地資茂と祥翼を同一人物とするが、活動時期は全く異なり別人である。間に少なくとも1世代、或いは2世代ほど離れている。『先祖由緒帳』では「謙信様御代ニ修理入道死去」とあるが、これも次代以降の人物との混同であろう。近世における築地氏の系譜は編纂の過程で史料に名が残っていない人物を考慮していないため活動時期や世代間の整合性が取れていない。『先祖由緒帳』は祥翼を実名「忠基」、その父を「兵庫資忠」とするが、事績なども含めあくまで伝承として捉えるべきであろう。


さて、祥翼の次代弥七郎であるが、大永3年の譲状が終見になってしまう。天文期には彦七郎が見えるから、それまでに死去したことが考えられる。


天文6年2月長尾張恕書状(*12)の宛名に築地彦七郎が見える。弥七郎に代わって築地氏を継承した人物であろう。天文8年9月、10月の長尾張恕書状(*13)にも築地彦七郎が見え、中条氏家臣としての活動を続けている。


永禄後期~元亀期と推定される中条房資書状(*14)の宛名にも築地彦七郎が見える。のちの修理亮資豊であろう。天文期の彦七郎とは30年ほどの隔たりがあり、別人だろう。天正6年6月上杉景勝感状(*15)から築地修理亮として見える。以降一貫して修理亮として所見され、『分家系譜』によると慶長13年2月6日に死去したという。同系譜より妻は竹俣慶綱の姪という。実名「資豊」は確実な史料で確認できないが、江戸初期まで活動した人物であり、諸資料で一貫してその名が伝えられることから信用してよいのではないか。資豊のあと、米沢藩士として存続していく。


以上、築地氏の系譜を検討した。

虎一丸/資茂/茂義(弥七郎/修理亮) ‐ 詳細不明 ‐ 祥翼(修理亮) ‐ (弥七郎) ‐ (彦七郎) ‐ 資豊(彦七郎/修理亮)



*1)『新潟県史』資料編4、1316号
*2)同上、1822号
*3)『中条町史』資料編1、698頁
*4)『新潟県史』資料編4、1826号
*5)同上、1441号
*6)同上、1423号
*7)同上、1445
*8)同上、1430号
*9)同上、1443号
*10)同上、1428号
*11)同上、1442号
*12)同上、1438号
*13)同上、1439号、1440号
*14)同上、1446号
*15)同上、1449号
*16) 前回の検討では資茂と祥翼を混同するなど明らかな誤りや、乏しい根拠から彦七郎を養子と考えるなど行き過ぎた考察があった。上記の通り資茂と祥翼は活動時期を異にする存在であり、祥翼-弥七郎に明確な父子関係を認める他はその血縁関係について断定することはできない。訂正しておきたい。

三分一原合戦の実像

2023-06-10 21:44:14 | 長尾為景
これまで越後・三分一原合戦は天文5年4月における長尾為景と上条定兼(旧名定憲)の決戦という通説が広く浸透し、私もそれに従ってきた。古くからこの合戦の勝敗の是非が論じられ、近年は『越後過去名簿』より上条定兼の没年が天文5年4月23日と判明したことで定兼の戦没と為景の勝利が推測されていた。しかし、先日刊行された『長尾為景』(*1)所収の阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」によると三分一原合戦関連文書[史料1、2]の長尾為景花押型は阿部氏の分類で4S型であり、天文期ではなく永正10年代に使用されたものという。阿部氏論稿では具体的な年次には言及していないが、この文書を永正期のものとして認識を改める必要があると提起している。

実際、阿部氏の研究を踏まえて長尾為景発給文書を見てみるとその花押型は3型(~永正8年)→4L型(永正10年~永正11年1月)→4S型(永正11年7月~永正18年)→5S型(大永4年~天文2年)→5L型(天文2年10月~)と変遷を認める。よって、[史料1、2]が花押4S型であることは年次比定の上で無視できず、阿部氏の主張通り天文期の文書よりは永正10年代と見るべきと考えられる。

阿部氏論稿の初出は1986年と早いがこれまで拝読する機会がなく、花押分析を基礎とした卓見について触れることができなかった。無知を恥じるばかりである。今回は、三分一原合戦の実際について検討してみたい。


[史料1] 『新潟県史』資料編5、3494号
於去十日頸城郡夷守郷三分一原対宇佐美一類柿崎以下一戦、数刻矢師鑓突誠散火花砌、被入馬御武略異于他故、得大利、敵数千人討捕之、御戦功之至存候、恐々謹言
    四月十三日                  為景(4S型)
     平子右馬允殿

[史料2] 『新潟県史』資料編5、3483号
於去十日頸城郡夷守郷三分一原対宇佐美一類柿崎以下一戦、数刻矢師鑓突誠散火花砌、於眼前碎手突鑓之条、敵数千人討捕上、負鑓手一ケ所儀、神妙之至感候、謹言
     四月十三日                 為景(4S型)
    芹澤弥四郎殿

[史料3] 『新潟県史』資料編5、3658号
於去十日頸城郡夷守郷三分一原対宇佐美一類柿崎以下一戦、数刻矢師鑓突誠散火花砌、碎手突鑓故得大利、敵数千人討捕候、殊被鑓疵二ケ所之条、粉骨之至感之候、謹言
    四月十三日                  為景
     山村藤蔵殿

[史料4] 『新潟県史』資料編5、3661号
   猶々かうやく二進之候、以上
於于今度三分一原合戦、御名誉之由聞得候、心地好存候、殊疵被蒙候由承候、無御心元存候、能々御養生尤候、恐々謹言
    四月十三日                  政盛
     山村藤蔵殿


[史料1~4]は三分一原合戦に関する古文書である。うち[史料1、2]で花押型が確認される。[史料3、4]は写本につき花押型は不明である。文書には上条氏や天文の乱などを示す文言はなく、天文5年とする通説が不確実な推測であったことがわかる。

花押4L型の終見が永正11年1月であり、同年中に花押4S型が初見されることを踏まえると、[史料1~4]は永正11年1月以降と考えられる。

そもそも[史料4]の発給者高梨政盛の署名は決定的である。『高梨系図』によると高梨政盛は「永正10年4月27日」に58歳で没したとある。実際、永正10年以降に政盛の所見はなく、高梨澄頼や政頼の活動が見られるため、概ね正しい記述と考えられる。つまり、政盛の署名がある点からも永正期の文書である可能性が高い。[史料4]は永正11年以降の文書と推測されるが、政盛の没年を「永正10年」とする系図の記載は永正10年代の死去を断片的に伝えたものであり実際には永正10年代の初めはまだ生存していた可能性があろう。系図類によく見られる誤伝と推測する。


さて、史料をみると長尾為景の敵は一貫して「宇佐美一類・柿崎以下」と記されている。これまで私は天文の乱において上条定兼を支持する宇佐美氏や柿崎氏を表すと理解していたが、先述の通りそれは誤りである。素直に為景と宇佐美氏、柿崎氏の抗争であったと解釈すべきであろう。すると、永正10年から11年にかけての上杉定実の反抗とそれに追従した宇佐美房忠との抗争が想起される。この場合、合戦の日付は4月10日であるから、永正11年4月と推測される。花押型も矛盾しない時期である。

ここからは三分一原合戦が永正11年4月10日に生じた長尾為景と宇佐美房忠の会戦であったと仮定して、この抗争の経過について検討してみたい。為景と房忠の抗争は、長尾為景と上杉定実・八条上杉氏・山内上杉憲房の抗争である永正10・11年の乱における一つの局面と捉えられるが、乱全体の経過については別稿を参照していただきたい。


[史料5]『新潟県史』資料編3、164号
去廿一、被成一戦敵被打取験并手負注文給候、御動一段比類候、各感状只今雖可進候、向小野陣取候条、取乱之間、先一筆及御返事、高梨衆長峰原に張陣候、御屋形様某館へ御移府内無事候、恐々謹言
 此趣備中へ同前申              弾正左衛門尉
    十月二十八日                  為景
     長尾弥四郎殿 御報

[史料6]『越佐史料』三巻、609頁
雖未申通候令啓候、抑累年越州不思議之様体、定可為御覚悟之前候、就中去年以来対定実、長尾弾正左衛門尉慮外之刷、前代未聞、依之宇佐美弥七郎露忠信候之処、剰取成不儀催国中之衆小野要害へ取懸候、去春以代官弥七郎心底依申披、自其方之証人、既至于柏崎雖着陣候、弾正左衛門尉不及信用成行候故、弥七郎生涯、無是非次第候、憲定事も弥七郎為合力、信州御方中之義調令出陣、諸口之行調談半、如此凶事出来、誠所存之外候、可為御同意候哉、雖然弥七郎息無相違上路山方片倉壱岐守有同心、帰宅之由承候間、簡要候、然者被加御扶助之段都鄙不可有其隠上者、一段被成御刷、先揚河北之者共凌御方候者、静謐不有程候、至于其時者、定実可為如本意候、依同報此方も急度可成働候、巨細細尾山新左衛門入道可申達候、恐々謹言
    六月十三日               藤原憲定
   謹上 伊達殿

[史料7]『越佐史料』三巻、609頁
御屋形様へ萬度御祓并熨斗鮑五百本被致進上趣御披露之処、御喜悦之由候
御出陣聞召被参籠萬度御祓被進候、披露御返事取候渡候、仍愚書へ千度御祓并熨斗鮑二百本、木綿一端、茜給候、目出祝着候、御祈念候故、岩手要害去月廿六日落居、宇佐美方一類不相洩生涯候、爰元則属無事、委曲彼使可申候、恐々謹言
    六月廿二日                  妙寿
     蔵田左京亮殿

[史料5~7]は宇佐美討攻めに関連した文書である。永正10年10月上杉定実が挙兵すると宇佐美房忠もそれに従い長尾為景に敵対する。[史料5]より10月中、為景による定実による攻撃と並行して宇佐美氏の拠点へ栖吉長尾氏ら為景方諸将が進攻していたことがわかる。為景方は小野城を攻め、その手前長峰(現上越市吉川区)などに陣を張ったことが窺える。[史料6]「剰取成不儀催国中之衆小野要害へ取懸候」はこれを指す。同年10月23日長尾為景書状(*2)には「明日者向宇佐美在所可進陣分候」とあり、為景は定実を降伏させた後に宇佐美攻めを敢行する予定であったことがわかるが、この時実際に出陣したかは不明である。

宇佐美討伐戦は同年冬から翌年初頭にかけて小康状態となる。理由は上田庄における八条上杉氏・山内上杉氏の動きが活発化したからであろう。永正11年1月六日町合戦で為景方の諸将が八条上杉氏らを討取る戦果を挙げ、一連の抗争における為景の優位が確実となる。

これを受けて宇佐美房忠も為景との和睦を模索したようである。[史料6]「去春以代官弥七郎心底依申披、自其方之証人、既至于柏崎雖着陣候、弾正左衛門尉不及信用成行候」と、伊達氏より仲介の使者が柏崎まで来ていたが為景がそれを受け入れなかった様子が記されている。[史料7]より為景は宇佐美討伐戦を継続し、5月26日岩手城の落城と共に房忠が死亡したことがわかっている。現在の遺構の規模や宇佐美領を継承した柿崎氏の所領を検討した市村清貴氏の論稿(*3)などから、この岩手城が宇佐美氏の本拠であろう。

恐らく、永正11年4月10日に生じた三分一原合戦はこの宇佐美攻めに際して春日山・府中より進軍する長尾為景軍を迎え撃った宇佐美房忠軍の戦いであったとのではないか。三分一原は保倉川の近辺に位置し、房忠は保倉川を天然の障害として迎撃を図ったのだろう。この合戦にそれに勝利した為景は侵攻を進め、翌月末に房忠の本拠岩手城を落とすという結末に繋がると考えられよう。つまり、三分一原合戦は矛盾なく永正11年4月に比定される。[史料7]における「宇佐美一類方」という表現も[史料1~3]で見られた表現と共通しており、共に同時期の文書であることを示唆していよう。

推測だが保倉川まで宇佐美氏の勢力圏であったことより、永正10年の宇佐美攻めでは小野城は持ち堪えていたのではないか。そして、永正11年4月から5月にかけて小野城を始め宇佐美方の領域は浸食されていったのだろう。為景は伊達氏の仲介を受けた和睦交渉まで拒否して宇佐美氏を滅ぼそうしており、宇佐美氏・宇佐美領の差配が越後支配するにあたり重要であったと推測される。宇佐美氏に関する史料は少なく、その政治的立場は後考を要する。

[史料6] 「憲定事も弥七郎為合力、信州御方中之義調令出陣、諸口之行調談半」と、上条憲定(定憲・定兼)は房忠を援助すべく信濃の味方と軍事行動を計画中だったと述べている。しかし、結果として定実、房忠、八条上杉氏らの敗北に関して明確な軍事行動を起こしていないわけであり、正面切って為景と敵対することは避けたのでないか。


以上、三分一原合戦が天文5年4月における上条定兼との合戦ではなく永正11年4月における宇佐美房忠との合戦であったことを示した。過去記事における三分一原合戦についての記述は追って修正することとする。天文の乱における通説は史実と大きく異なることとなり、上条定兼の死去や抗争の経過など再検討が必要であろう。また、房忠に柿崎氏が味方していたことが明らかとなり同氏の動向に関しても興味深い所見といえる。今後、考えていきたいところである。

また、阿部氏論稿では他文書においても注目すべき考察がなされており、私のこれまでの検討の中にも年次比定に修正を加えるべき点が散見される。これも早急に取り組むべきな個人的な課題である。


*1)『長尾為景』黒田基樹編著、戒光祥出版
*2)『新潟県史』資料編3、157号
*3)市村清貴氏 「『越後国郡絵図』「頸城郡絵図」における柿崎領」