※追記(2022/10/30)
以下において『松陰私語』に登場する「治部少輔」、「刑部少輔」は八条上杉氏ではないと考えて検討を進めている。しかし八条上杉氏の系譜を検討した結果、両者共に八条上杉氏の人物であると推測される、との結論に至った。また同様に、『東寺過去帳』の「上杉治部大輔」についても上杉房能との混同である可能性が高いと考えらえれる。この記事の考え方は訂正すべきであることを明記しておく。記事自体は検討の過程として残しておきたい。
新しい検討結果についてはこちら
関東享徳の乱において上杉氏の人物は多数確認されるが、人物比定の難しいものとして『松陰私語』(*1)に記録される「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」が挙げられる。『松陰私語』は同時代の陣僧の記録であるから、そこに登場する人物は実在したと見て間違いない。今回は、後年越後で見られる「上杉治部大輔」についての考察も加えながら、この二人の人物について検討していく。
『松陰私語』での二人の所見は二ヶ所ある。まず、文明3年(1471)児玉陣に関する部分で「上杉治部少輔、同名刑部少輔」が他の武将と共に出陣していることが見える。次に、文明4年(1472)の五十子陣の武将を記載した部分に「桃井讃岐守、上杉上条、八条、同治部少輔、同刑部少輔、上杉扇谷、武上相之衆、上杉廳鼻和、都合七千騎」とある。
一般的な比定は”同”を八条氏と捉え、二人を八条上杉氏と見るものである。後に越後で活動が見られる八条成定が「刑部入道」(*2)と名乗っていたことから、「上杉刑部少輔」は成定に比定される。これを仮説1とする。
八条成定は八条中務大輔持定の次代とされる(*3)。よって、二人の前に記された「八条」は持定を表わすことになる。持定は将軍足利義持からの偏諱であり、義持の没年は応永35年(1428)であり、その年までに元服したことになる。『松陰私語』に所見のある文明4年(1472)には60歳を越えていたと見られる。長禄4年(1459)足利義政御内書に「上杉中務大輔」が見えるから、その時点で持定が関東へ出陣していたことは確かである。
八条成定は将軍足利義成(後の義政)からの偏諱であり、義成は文安6年(1449)から享徳2年(1453)の名乗りであるから、成定の元服もその間である。成定は永正4年(1507)の死去であり、元服時15歳程度とすると享年は推定70歳前後になる。文明4年頃には30代中盤から後半といったところであろう。持定、成定父子の両人とも文明4年の人物に比定しても年齢的な矛盾はない。
以上から、仮説1に関して矛盾はなく最も有力な説として挙げられる。ただ、仮説1では「上杉治部少輔」についてはあてはまる人物がおらず、その存在が浮いてしまう。また、二人を八条上杉氏と見ると五十子陣の武将記載において八条上杉氏だけ詳細に人物が記されていることになり、違和感もある。
仮説1とは別に、”同”を単に上杉氏として捉えたら、どうだろうか。この時代、治部少輔を名乗った人物として、上杉教朝とその子政憲がいる。
教朝は諸系図で上杉氏憲(入道禅秀)の四男とされ、政憲は教朝の子である。教朝と政憲の父子は、共に治部少輔を名乗り堀越公方足利政知の補佐する役割を担い享徳の乱の頃に活動したことが明らかにされている(*4)。教朝は寛正2年に死去したから、享徳の乱における「治部少輔」の所は寛正2年以前なら教朝、以降なら「治部小輔」は政憲に比定できるといえる。
上杉政憲は文明12年に都鄙合体に関する交渉を幕府と行っていることから(*5)、その役割は堀越公方内だけでなく享徳の乱における幕府・関東管領上杉氏体制の中でも大きなものであったことが松島氏によって推測されている。従って、「上杉治部少輔」は政憲であった可能性は十分にある。
「上杉治部小輔」を政憲に比定すると「上杉刑部少輔」も八条氏ではないことになるわけだが、これも比定可能である。前回検討した四条上杉氏の上杉教房は享徳の乱において討死したが、その弟「刑部」も出陣していたとの記載が『上杉系図大概』にある。『系図綜覧』は教房の弟を「憲秀」、「刑部少」とし、『藤原姓上杉氏系図』『系図纂要』は「憲秀」、「刑部大輔」としている。この人物については文書等で確認はできないが、系図類から刑部少輔を名乗ったと考えられるよう。
よって、「上杉治部少輔」が上杉政憲、「上杉刑部少輔」を四条上杉教房の弟「憲秀」、とする説も矛盾なく成り立つことが理解される。この説ならば『松陰私語』の記載も、上条上杉氏、八条上杉氏、堀越公方に付いた上杉氏、四条上杉氏、扇谷上杉氏、廳鼻和上杉氏、とそれぞれの氏族一人ずつとなり収まりは良い。これを仮説2とする。
さらに、”同”を上杉氏と捉えながら、別の人物比定も可能である。
文明3、4年の時点で「上杉扇谷」にあたる人物は扇谷上杉氏当主の上杉政真であるが、政真の叔父にあたる上杉朝昌が刑部少輔を名乗ったとされる。扇谷上杉氏については黒田基樹氏の研究に詳しく(*6)、上杉朝昌は始め京都蔭涼軒の喝食でありながら還俗し扇谷上杉氏の一翼を担ったという。すなわち、「上杉刑部少輔」を扇谷上杉氏一族上杉朝昌に比定することができる。
すると、「上杉治部少輔」の比定であるが、朝昌の兄で政真死後扇谷上杉氏の家督を継ぐ上杉定正の可能性がある。
定正は文書から当主として修理大夫を名乗ったことは明かであるが、政真も修理大夫を名乗っているため定正が修理大夫を名乗るのは政真の死去する文明5年以降であり、定正は文明3、4年時点ではそれ以外の名乗りであったと推測される。すると、『松陰私語』において上杉定正が「河越之治部小輔殿」と表現され、定正の養子朝良も後に治部少輔を名乗っていることを考えると、修理大夫以前の名乗りは治部少輔であったと推測できる。
官途の変更は、後年庶流から扇谷上杉氏の家督となった上杉朝興が当初蔵人大輔を名乗り家督継承後に修理大夫へ改めている事例から補強できる(*6)。
以上、「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」がそれぞれ当時扇谷上杉氏一族であった上杉定正、朝昌兄弟に比定される可能性を挙げた。二人が行動を共にしているのも兄弟なら納得であるし、記載順も長幼の順である。定正の養子朝良は朝昌の実子であるから、関係性も確かである。仮説3としたい。
ただ、この説では扇谷氏一族多く記載され、さらに一族が当主より前に記載されてしまう点が不自然である。
また、黒田氏は「結番日記」文明12年10月8日条で足利義政へ進物を贈っている「上杉刑部少輔」を朝昌に比定しその存在の政治的高さを推測しているが、谷合伸介氏(*7)は同史料の「上杉刑部少輔」を八条成定に比定している。『上杉系図』には朝昌の娘が山内上杉顕定の妻であるというから扇谷上杉氏を代表する一族の一人であったことは確かであるものの、朝昌が実際に幕府-関東管領上杉氏体制でどの程度の地位にあったかは不明である。
ここまで、三つの仮説を提示した。
続いて、一つの文書を参考にまた別の観点から考えてみたい。
[史料1] 『上越市史』資料編3、577号、東寺過去帳
上杉治部大輔其外数十人
同御曹司五才八条尾張守一家衆
「永正四八三与同名一族其外若党以下腹切或生涯
越後国 為長尾被生涯 」
[史料1]は永正4年の政変で長尾為景に殺害された越後上杉氏の一族の記録である。
「上杉治部大輔」は自然に考えれば、民部大輔を名乗った房能の誤記と考えられる。
しかし、森田真一氏(*8)は誤記である可能性を踏まえながら「上杉治部大輔」が享徳の乱における「上杉治部小輔」と同系統である可能性も指摘している。そうであれば、この人物の比定は重要である。
[史料1]には「上杉治部大輔」と「八条尾張守」とあることから、上杉氏と八条氏の二つに区別されているように見える。すなわち、「上杉治部大輔」は八条氏以外の系統である可能性が想定される。
すると、「上杉治部大輔」は上杉政憲の後裔である可能性も考えられる。上述の仮説2に従う形である。
政憲に関してその晩年は全く不明であり(*4)、その子孫が八条氏、桃井氏と同様に越後下向という転帰を辿っても何らおかしくはない。さらに、[史料1]に屋号ではなく「上杉治部大輔」とある点も、『松陰私語』において「上杉治部少輔」と記され、”同”=上杉、と推測したこととに合致する。
尤も、八条氏でも「上杉中務大輔」(*9)や「上杉八条刑部入道」(*10)などの表現も見られるから断定はできない。また、上杉政憲と越後の関係を示すものもない。
そもそも[史料1]において上杉房能の誤記である可能性が有力であるわけであるから、あくまで仮説として記すに留めておきたい。
以上、享徳の乱における「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」について比定を試みた。いくつかの仮説を挙げたように複数の可能性があり、その中でも両氏を八条氏とする説は諸研究者方によっても言及され有力である。ただその上で、後年越後に所見される「上杉治部大輔」との関連から、両人が上杉治部少輔政憲と四条上杉教房の弟刑部少輔に比定され、上杉政憲の後裔は八条氏と共に永正4年の政変まで越後上杉政権に深く関連していた可能性を提示した。
*1)『松陰私語』記述の年次比定は、細谷昌弘氏「『松陰私語』の編年整理」(峰岸純夫氏ら『松陰私語(史料編纂 古記録編)』八木書店)、峰岸純夫氏『享徳の乱』(講談社メチエ)による
*2)『上越市史』資料編3、589号
*3)片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)松島周一氏「上杉教朝と享徳の乱」
*5)『大日本古文書』蜷川家文書の一、179頁
*6)黒田基樹氏「扇谷上杉氏の台頭」「上杉朝興・朝定と北条氏の抗争」(『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院)
*7)谷合伸介氏「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的考察」(『関東上杉氏』戒光祥出版)
*8)森田真一氏『上杉顕定』(戒光祥出版)
*9)『新潟県史』資料編5、3894号
*10)『上越市史』資料編3、588号
※21/10/13:一部表現を変更した。