鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

享徳の乱における上杉治部少輔・刑部少輔と越後永正の政変における上杉治部大輔について

2020-12-06 14:28:52 | 四条上杉氏
※追記(2022/10/30)
以下において『松陰私語』に登場する「治部少輔」、「刑部少輔」は八条上杉氏ではないと考えて検討を進めている。しかし八条上杉氏の系譜を検討した結果、両者共に八条上杉氏の人物であると推測される、との結論に至った。また同様に、『東寺過去帳』の「上杉治部大輔」についても上杉房能との混同である可能性が高いと考えらえれる。この記事の考え方は訂正すべきであることを明記しておく。記事自体は検討の過程として残しておきたい。

新しい検討結果についてはこちら



関東享徳の乱において上杉氏の人物は多数確認されるが、人物比定の難しいものとして『松陰私語』(*1)に記録される「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」が挙げられる。『松陰私語』は同時代の陣僧の記録であるから、そこに登場する人物は実在したと見て間違いない。今回は、後年越後で見られる「上杉治部大輔」についての考察も加えながら、この二人の人物について検討していく。


『松陰私語』での二人の所見は二ヶ所ある。まず、文明3年(1471)児玉陣に関する部分で「上杉治部少輔、同名刑部少輔」が他の武将と共に出陣していることが見える。次に、文明4年(1472)の五十子陣の武将を記載した部分に「桃井讃岐守、上杉上条、八条、同治部少輔、同刑部少輔、上杉扇谷、武上相之衆、上杉廳鼻和、都合七千騎」とある。


一般的な比定は”同”を八条氏と捉え、二人を八条上杉氏と見るものである。後に越後で活動が見られる八条成定が「刑部入道」(*2)と名乗っていたことから、「上杉刑部少輔」は成定に比定される。これを仮説1とする。

八条成定は八条中務大輔持定の次代とされる(*3)。よって、二人の前に記された「八条」は持定を表わすことになる。持定は将軍足利義持からの偏諱であり、義持の没年は応永35年(1428)であり、その年までに元服したことになる。『松陰私語』に所見のある文明4年(1472)には60歳を越えていたと見られる。長禄4年(1459)足利義政御内書に「上杉中務大輔」が見えるから、その時点で持定が関東へ出陣していたことは確かである。

八条成定は将軍足利義成(後の義政)からの偏諱であり、義成は文安6年(1449)から享徳2年(1453)の名乗りであるから、成定の元服もその間である。成定は永正4年(1507)の死去であり、元服時15歳程度とすると享年は推定70歳前後になる。文明4年頃には30代中盤から後半といったところであろう。持定、成定父子の両人とも文明4年の人物に比定しても年齢的な矛盾はない。

以上から、仮説1に関して矛盾はなく最も有力な説として挙げられる。ただ、仮説1では「上杉治部少輔」についてはあてはまる人物がおらず、その存在が浮いてしまう。また、二人を八条上杉氏と見ると五十子陣の武将記載において八条上杉氏だけ詳細に人物が記されていることになり、違和感もある。


仮説1とは別に、”同”を単に上杉氏として捉えたら、どうだろうか。この時代、治部少輔を名乗った人物として、上杉教朝とその子政憲がいる。

教朝は諸系図で上杉氏憲(入道禅秀)の四男とされ、政憲は教朝の子である。教朝と政憲の父子は、共に治部少輔を名乗り堀越公方足利政知の補佐する役割を担い享徳の乱の頃に活動したことが明らかにされている(*4)。教朝は寛正2年に死去したから、享徳の乱における「治部少輔」の所は寛正2年以前なら教朝、以降なら「治部小輔」は政憲に比定できるといえる。

上杉政憲は文明12年に都鄙合体に関する交渉を幕府と行っていることから(*5)、その役割は堀越公方内だけでなく享徳の乱における幕府・関東管領上杉氏体制の中でも大きなものであったことが松島氏によって推測されている。従って、「上杉治部少輔」は政憲であった可能性は十分にある。

「上杉治部小輔」を政憲に比定すると「上杉刑部少輔」も八条氏ではないことになるわけだが、これも比定可能である。前回検討した四条上杉氏の上杉教房は享徳の乱において討死したが、その弟「刑部」も出陣していたとの記載が『上杉系図大概』にある。『系図綜覧』は教房の弟を「憲秀」、「刑部少」とし、『藤原姓上杉氏系図』『系図纂要』は「憲秀」、「刑部大輔」としている。この人物については文書等で確認はできないが、系図類から刑部少輔を名乗ったと考えられるよう。

よって、「上杉治部少輔」が上杉政憲、「上杉刑部少輔」を四条上杉教房の弟「憲秀」、とする説も矛盾なく成り立つことが理解される。この説ならば『松陰私語』の記載も、上条上杉氏、八条上杉氏、堀越公方に付いた上杉氏、四条上杉氏、扇谷上杉氏、廳鼻和上杉氏、とそれぞれの氏族一人ずつとなり収まりは良い。これを仮説2とする。


さらに、”同”を上杉氏と捉えながら、別の人物比定も可能である。

文明3、4年の時点で「上杉扇谷」にあたる人物は扇谷上杉氏当主の上杉政真であるが、政真の叔父にあたる上杉朝昌が刑部少輔を名乗ったとされる。扇谷上杉氏については黒田基樹氏の研究に詳しく(*6)、上杉朝昌は始め京都蔭涼軒の喝食でありながら還俗し扇谷上杉氏の一翼を担ったという。すなわち、「上杉刑部少輔」を扇谷上杉氏一族上杉朝昌に比定することができる。

すると、「上杉治部少輔」の比定であるが、朝昌の兄で政真死後扇谷上杉氏の家督を継ぐ上杉定正の可能性がある。

定正は文書から当主として修理大夫を名乗ったことは明かであるが、政真も修理大夫を名乗っているため定正が修理大夫を名乗るのは政真の死去する文明5年以降であり、定正は文明3、4年時点ではそれ以外の名乗りであったと推測される。すると、『松陰私語』において上杉定正が「河越之治部小輔殿」と表現され、定正の養子朝良も後に治部少輔を名乗っていることを考えると、修理大夫以前の名乗りは治部少輔であったと推測できる。

官途の変更は、後年庶流から扇谷上杉氏の家督となった上杉朝興が当初蔵人大輔を名乗り家督継承後に修理大夫へ改めている事例から補強できる(*6)。

以上、「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」がそれぞれ当時扇谷上杉氏一族であった上杉定正、朝昌兄弟に比定される可能性を挙げた。二人が行動を共にしているのも兄弟なら納得であるし、記載順も長幼の順である。定正の養子朝良は朝昌の実子であるから、関係性も確かである。仮説3としたい。

ただ、この説では扇谷氏一族多く記載され、さらに一族が当主より前に記載されてしまう点が不自然である。

また、黒田氏は「結番日記」文明12年10月8日条で足利義政へ進物を贈っている「上杉刑部少輔」を朝昌に比定しその存在の政治的高さを推測しているが、谷合伸介氏(*7)は同史料の「上杉刑部少輔」を八条成定に比定している。『上杉系図』には朝昌の娘が山内上杉顕定の妻であるというから扇谷上杉氏を代表する一族の一人であったことは確かであるものの、朝昌が実際に幕府-関東管領上杉氏体制でどの程度の地位にあったかは不明である。


ここまで、三つの仮説を提示した。

続いて、一つの文書を参考にまた別の観点から考えてみたい。

[史料1] 『上越市史』資料編3、577号、東寺過去帳
上杉治部大輔其外数十人
  同御曹司五才八条尾張守一家衆
「永正四八三与同名一族其外若党以下腹切或生涯
   越後国 為長尾被生涯         」


[史料1]は永正4年の政変で長尾為景に殺害された越後上杉氏の一族の記録である。

「上杉治部大輔」は自然に考えれば、民部大輔を名乗った房能の誤記と考えられる。


しかし、森田真一氏(*8)は誤記である可能性を踏まえながら「上杉治部大輔」が享徳の乱における「上杉治部小輔」と同系統である可能性も指摘している。そうであれば、この人物の比定は重要である。

[史料1]には「上杉治部大輔」と「八条尾張守」とあることから、上杉氏と八条氏の二つに区別されているように見える。すなわち、「上杉治部大輔」は八条氏以外の系統である可能性が想定される。

すると、「上杉治部大輔」は上杉政憲の後裔である可能性も考えられる。上述の仮説2に従う形である。

政憲に関してその晩年は全く不明であり(*4)、その子孫が八条氏、桃井氏と同様に越後下向という転帰を辿っても何らおかしくはない。さらに、[史料1]に屋号ではなく「上杉治部大輔」とある点も、『松陰私語』において「上杉治部少輔」と記され、”同”=上杉、と推測したこととに合致する。

尤も、八条氏でも「上杉中務大輔」(*9)や「上杉八条刑部入道」(*10)などの表現も見られるから断定はできない。また、上杉政憲と越後の関係を示すものもない。

そもそも[史料1]において上杉房能の誤記である可能性が有力であるわけであるから、あくまで仮説として記すに留めておきたい。


以上、享徳の乱における「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」について比定を試みた。いくつかの仮説を挙げたように複数の可能性があり、その中でも両氏を八条氏とする説は諸研究者方によっても言及され有力である。ただその上で、後年越後に所見される「上杉治部大輔」との関連から、両人が上杉治部少輔政憲と四条上杉教房の弟刑部少輔に比定され、上杉政憲の後裔は八条氏と共に永正4年の政変まで越後上杉政権に深く関連していた可能性を提示した。


*1)『松陰私語』記述の年次比定は、細谷昌弘氏「『松陰私語』の編年整理」(峰岸純夫氏ら『松陰私語(史料編纂 古記録編)』八木書店)、峰岸純夫氏『享徳の乱』(講談社メチエ)による
*2)『上越市史』資料編3、589号
*3)片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)松島周一氏「上杉教朝と享徳の乱」
*5)『大日本古文書』蜷川家文書の一、179頁
*6)黒田基樹氏「扇谷上杉氏の台頭」「上杉朝興・朝定と北条氏の抗争」(『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院)
*7)谷合伸介氏「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的考察」(『関東上杉氏』戒光祥出版)
*8)森田真一氏『上杉顕定』(戒光祥出版)
*9)『新潟県史』資料編5、3894号
*10)『上越市史』資料編3、588号


※21/10/13:一部表現を変更した。

四条上杉氏の系譜

2020-11-29 16:49:14 | 四条上杉氏
四条上杉氏は京都で活動した上杉氏の系統である。享徳の乱では京都から関東へ出陣し、足利成氏に対する関東管領上杉方に加わっていた。また、片桐昭彦氏(*1)は『天文上杉長尾系図』において四条上杉氏の系図が越後上杉氏と結びついて記されていることに注目し、同系図の作者と推測される守護代長尾氏にとっても四条上杉氏は重要な存在であったと考察している。今回は、この四条上杉氏の系譜関係を整理してみたい。


まず、『天文上杉長尾系図』に拠れば、上杉憲房の子憲藤(中務少輔)から朝房(弾正少弼)-朝宗(中務小輔)-氏憲(右衛門佐)と続き、氏憲を「四条上杉殿ノ御先祖」としている。氏憲は”上杉禅秀の乱”で有名な上杉禅秀その人である。ちなみに、同系図では憲藤の兄弟である憲顕から越後上杉氏が繋がることが示されている。

また、『上杉系図大概』は憲藤(中務小輔)を「四条上杉先祖是也」とし、朝房(弾正少弼)とその弟朝宗(中務小輔)に続き、朝宗の子氏憲(右衛門佐)に繋がる。さらに、氏憲次男の持房(中務小輔)が「叔父左典厩」の跡を継いで在京したという。この叔父は『藤原姓上杉氏系図』にある氏憲の弟、氏朝(左馬助)のことである。『上杉系図大概』では持房の後、嫡子教房(中務小輔)、その弟形部の存在が記されている。

『藤原姓上杉氏系図』、『系図纂要』には教房の子として政藤(中務小輔)、教房の弟に憲秀(刑部大輔)を記す。『系図綜覧』は憲秀を「刑部少」とする。

上杉政藤以降の人物については系図に見えない。

煩雑になってしまったが整理すれば、上杉朝宗、氏憲(禅秀)の父子は関東管領として活躍し、犬懸上杉氏と呼称される系統であり、氏憲の弟氏朝から氏憲の子持房へと継承されていく系統が京都を拠点とする四条上杉氏である。


さらに他の史料も用いて、持房の次代教房から四条上杉氏を詳しく検討していきたい。

そもそも京都における四条上杉氏の存在形態であるが、谷合氏の研究(*2)では室町幕府内において外様衆として一定の家格を有し将軍の軍事的基盤を支えていた存在として評価されている。そのため、幕府の家臣団が記された番帳を用いて人物を辿ることもできる。各番帳の年時比定は木下聡氏の研究に従う(*3)


文安年間の成立とされる『幕府番帳案』には「上杉三郎」とあり、木下氏は教房に比定している。

教房は寛正元年足利義政御内書(*4)に「去年於武州太田庄、父教房討死」とあることから、長禄3年10月の太田庄の戦いで戦死したことが明らかである。


また、同御内書が「上杉三郎殿」宛であることから、教房の子も仮名三郎を名乗ったことがわかる。系図類等で中務小輔政藤とされる人物である。

長禄~応仁の成立とされる『大和大和守晴完入道宗恕筆記一』には「四条上杉中務少輔」、長禄~応仁の成立とされる『条々事書』「四条上杉」、文明12、13年頃成立とされる『永享以来御番帳』には「四条上杉中務小輔」、長享元年成立の『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』「上杉代」、とあり、どれも政藤のことであろう。

政藤は教房死後に中務小輔の名乗りと四条上杉氏の家督を継承したことがわかる。このように番帳に記載が豊富であることから四条上杉氏は享徳の乱勃発に伴い関東に出陣した後、応仁期までには帰京していたことが推測される。『松陰私語』に上杉中務小輔が登場しないのも、頷ける。

『蔭涼軒日録』延徳2年2月11日の部分に「四条上杉殿爾来不例。昨日逝去云々」とあり、政藤の死去が確認される。


谷合氏は、申次衆としての所見ではあるものの延徳3年8月の六角氏攻めに「上杉四郎」が見え四条上杉氏と推定している。また、明応元年成立の『東山殿時代大名外様附』「上杉中務小輔」とあり、木下氏は政藤の次代と推測している。二人の考察を総合すれば、政藤の次代として四郎、中務小輔を名乗った人物がいたと推測される。


四郎/中務小輔の次代は『後法興院記』において文明18年から延徳4年までに散見される「上杉幸松丸」であろう。『上杉系図大概』において上杉憲藤、朝房が幸松丸を名乗ったとされ、四条上杉氏ゆかりの幼名のようである。


続いて、谷合氏の研究から近衛氏の日記である『後法興院記』、『後法成寺関白記』における四条上杉氏の所見を参考にして考えていく。

『後法興院記』では、幸松丸と入れ替わるように明応5年~永正2年まで「上杉三郎」が所見されるという。幸松丸の後身であろう。文亀3年の記述に「上杉三郎材房」とあることから、実名は将軍足利義材からの偏諱を受けた「材房」であることが明らかにされている。

『後法成寺関白記』では、永正9年~14年まで「上杉右衛門佐」が散見され、「三郎」は所見されなくなる。永正7年成立の番帳『永正七年在京衆交名』に「上杉右衛門佐」が所見されることから四条上杉氏であり、材房が右衛門佐に任官したとわかる。木下氏は永正16年にみえる「上杉後家」を材房の妻と推測し、以降材房の所見もないことから、永正15年末から翌年6月までには死去したとしている。


永正16年1月には「上杉虎千代」が所見され四条上杉氏と推定されている。材房の次代であろう。ただ、虎千代は以降所見がない。


大永6年には『後法成寺関白記』に「上杉幸松」が所見され、その幼名からも四条上杉氏の一族と推定される。虎千代に何らかの問題が生じ、代わって幸松丸が四条上杉氏を継承することとなったのだろう。

幸松丸は、享禄5年6月に三好氏らと共に切腹した「上杉次郎」と同一人物と考えられ、次郎の死去を以って四条上杉氏が史料上見えなくなるという(*3)。


以上から、政藤以降の人物については血縁関係に関して明かではないものの、四条上杉氏の系譜は次のように想定される。

持房(中務小輔)-教房(三郎/中務小輔)-政藤(三郎/中務小輔)
-(四郎/中務小輔)-材房(幸松丸/三郎/右衛門佐)-(虎千代)-(幸松丸/次郎)



*1)片桐昭彦氏 「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」(『山内上杉氏』戒光祥出版)
*2)谷合伸介氏「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的研究」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*3)木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」
*4) 『越佐史料』3巻、101頁