天正期越後において「長尾伊賀守」という人物が所見される。この人物について、史料からわかる点を整理してみたい。
[史料1]『上越市史』別編2、1792号
対長尾伊賀守如申越者、其節中倉内へ令手切、口々相動、備堅固之地、忠信無比類候、別而両人稼奇特千万候、本意之上、一層可感之条、弥粉骨可為肝要候、皆々此等之趣為申聞尤候、万端之儀、伊賀守かたへ申越専用候、謹言、
三月十七日 景勝
安辺彦太郎殿
同 清左衛門殿
[史料1]は御館の乱における文書であり、さらに「倉内」=沼田城が天正6年7月に反景勝方により占領されたことから、天正7年3月に比定できる。
宛名の安部氏は、翌年にも景勝より沼田の反景勝勢力と交戦したことを賞されている(*1)から親景勝派として関越国境を守備していた人物と見られる。よって、伊賀守も当時関越国境での軍事行動に及んでいたと推測される。
この抗争における長尾伊賀守の動向は、米沢藩によって作成された『先祖由緒帳』に詳しい。
[史料2]『発知新左衛門先祖書』
(前略)
拙者事、御一乱上野中務被差添、沼田籠城之時分数度走廻申事、長尾伊賀、小森沢肥前存被申候、
(後略)
[史料3]『長尾九郎兵衛先祖書』
祖父長尾伊賀儀、上田ニ罷有候、其後北条丹後守御横目ニ被仰付、椛沢と申所ニ被差置候由承伝候、御館乱之時分、椛沢立除上田江罷帰候節、妻子敵地へ被押被誅申ニ付、御忠信仕由ニ而御感状頂戴申候、右伊賀、上田へ罷帰候以後、直路之城代被仰付、越後より会津此方迄御奉公仕、米沢ニ而五十騎宰配頭被仰付、其後病死仕候、伊賀実子右馬、定勝様御代三十人頭被仰付、寛永十五年病死仕候、実子拙者ニ跡式百石被下置、(後略)
[史料2]、[史料3]と同様の内容が、長尾伊賀守嫡子長尾隼人の子伊右衛門の先祖書にも載る。伊賀守が御館の乱において上野国沼田庄及び越後国上田庄を中心に景勝方として活動していた事実が窺われる。「椛沢立除上田江罷帰候節、妻子敵地へ被押被誅申」といった部分などは、小田原北条氏の攻勢に曝された際の生々しい状況も垣間見える。
ちなみに、『文禄三年定納員数目録』にも「伊賀守子 長尾右馬之助」といった記載があり、『先祖由緒帳』の記載通りに長尾伊賀守の子息として右馬助が確認される。このような点より、『先祖由緒帳』の内容は概ね事実を伝えていると見てよいだろう。
『城数覚書』(*2)には「一、かはの沢 長尾」と記載され、上掲の史料から推測すると「長尾」は伊賀守のことを指すと考えられる。ここでも樺沢城との関係が示されており、伊賀守の拠点が樺沢城にあったことが推測される。
『文禄三年定納員数目録』において伊賀守は、直路衆として所見がある。伊賀守は約二百六十石を有し、三人の同心と[史料1]の宛名である安部清左衛門を含む手明衆の上位に位置づけられている。
この点からも伊賀守はのちに清水峠を扼する直路城を任され、文禄期においても関越国境を守備していたことが推測される。
[史料4]『越佐史料』五巻、543頁
雖出之候、一向不合手合候、扨亦、越中備可然手積共候間、吉事重而可申越候、猶万吉重而、謹言
七月十三日 景勝
栗林肥前守殿
長尾伊賀守殿
[史料4]は上越市史にて天正9年から13年のものと推測されている。「越中備」と記されるように上杉景勝が越中方面の軍事行動に追われていた時期である。
栗林肥前守政頼と並んで宛名に記されていることから、やはり上田庄近辺の責任者としての立場が表れる。
[史料5]『鶏肋編』(*3)
今度就御注進、感之旨小河可遊斎分之内、横田大学分献之候者也、仍如件、
于時天正十年みつのへむま
六月廿八日 長尾伊賀守
景忠
子屋池右京亮殿
[史料4]は天文10年と伝えられる文書である。沼田庄小河氏の所領を与えられており、宛名の人物も沼田庄に拠点のあった人物と考えられる。冨田勝治氏(*3)は沼田庄小河氏の人物小河右京亮と同一人物と見ている。
天正10年6月というと織田信長の死去直後であり、上野国の支配体制に動揺が生じた時期である。[史料4]は小河氏の去就を巡って上杉氏方より発給された文書であるといえよう。
よって発給者の長尾伊賀守景忠は、時期や地理的な関係から上述した長尾伊賀守と同一人物と見て間違いないだろう。
追記 23/10/28
[史料5]の内容についてさらに考えたい。[史料5]では子屋池氏に対してその活躍に応じた知行を宛がうことを約束している。子屋池氏は文中にもあるように沼田庄の人物であり元々の景忠の配下武将といわけではないから景忠が独自に知行宛行を約束していた可能性があり、この文書が発給された背景を整理する必要がある。注目すべきは天文10年6月という時期である。当時織田信長の勢力が越後まで及び劣勢に立たされていたが、天文6月2日本能寺の変で信長が横死、景勝が反撃に出る時期にあたるのである。天文10年7月16日上杉景勝朱印状(*4)を見ると信越国境で工作活動にあたる西方房家、楠川将綱に対し景勝はその地で新たに味方となった武将への新恩を二人の判断で与えて良いことを伝えている。つまり軍事活動が活発となる中、全て景勝の指示を仰いでいては遅いため、現場に一定の裁量が与えられたと考えられる。[史料5]も景忠が関越国境での工作活動に及び、その中で発給された文書と捉えられる。ちなみに、当時の関越国境は沼田城の真田昌幸が上杉方となるなど、景忠らの調略もあってか沼田地域は上杉氏傘下となる(*5)。尤も真田昌幸はその後すぐに北条氏へ帰属してしまうなど情勢は緊迫しており、関越国境を守る景忠らの役割は大きかっただろうことが窺われる。
以上、天正期以降長尾伊賀守の活動が樺沢城、直路城を中心とした上田庄周辺で確認され、その実名が「景忠」であったことを確認した。
*1)『上越市史』別編2、1957号
*2)同上、3898号
*3) 冨田勝治氏「『内山文書』における長尾実景について」(『山内上杉氏』戒光祥出版)
*4)『上越市史』別編2、2469号
*5)当時の情勢は、平山優氏『天正壬午の乱』(戒光祥出版)に詳しい。天正10年6~7月にかけて真田昌幸が上杉氏へ帰属した事実も同書で指摘されている。