宇佐美定満については、政景の乱に稿で言及したがここでさらに掘り下げてみたいと思う。政景の乱についての私見に従い、乱前後にあたる天文17年から21年頃の宇佐美定満の動向をみていく。
その名がまず見えるのは天文18年5月である、宇佐美定満書状(*1)であり、そこで「拙夫知行于今一カ所も不被相渡候」のため「同心・召仕いさミをうしない候」とある。上田長尾氏方と所領をめぐる問題があったことをうかがわせ、それが長尾政景書状(*2)ある「今度宇佐美駿河守替覚悟」すなわち天文17年中の定満による政景陣営離反の理由だったと想定される。「当地備御本意尤存候、至事出来候者、可為御後悔歟、不可過御分別候」ともあり、定満はこの頃の上田長尾氏との緊張状態に守護代長尾氏傘下の平子氏に助勢を要請している。これらは、大勢力境目にある小領主は境目故の紛争を解決するために紛争相手とは反対の大勢力を拠り所とする、という有り方に一致している(前稿参照)。これは宇佐美定満書状(*3)に「可為付火由」を計策して者が「里被官ニ而、佐藤并重野与申者」であったことも宇佐美の紛争の相手が在地の領主であったことを裏付けるのではないかと思っている。この放火の件は6月20日本庄実乃書状(*4)に「一日も味方中之要害・たて火付候ハハ、可為御方之御沙汰候」とあるように宇佐美の保護を求める要請が上部まで届き、7月4日本庄実乃書状(*5)の「則御成敗候由被仰越候」から宇佐美氏、平子氏らによって解決されたとみられる。
次に、同じ頃同じ景虎方である宇佐美定満と平子孫太郎の間で戦死した多功小三郎の遺領の処遇が問題になっている。
この問題に関する二通の宇佐美定満書状[史料1](*6)、[史料2](*7)は越佐史料や上越市史、上杉氏年表増補改訂版(池亨・矢田俊文編、高志書院、2013)共に天文21年に比定している。検討してみたい。まず、(*7)において大熊朝秀、直江実綱、本庄実乃の署判があり天文20年7月までは三名連署状における署判者は大熊、小林宗吉次いで新保長重、本庄の三人であることから、天文20年以降と考えられる。天文23年には本庄実乃は入道してみえるから、天文21年か22年に絞られる。天文21年5月に長尾景虎は従五位下の位階と弾正少弼の官途を得る。その直後の6月には景虎が山吉氏を通じて揚北衆の黒川氏と中条氏の所領をめぐる対立に介入し調停にあたる動きをみせている(*8)。これについて佐藤博信氏「戦国大名制の形成過程」(*9)においてこれを大名裁判権の行使と位置づけ「当段階の景虎の権力が領域的支配権として成立した」とし「天文21年段階に一応長尾景虎を頂点とする戦国大名制の確立を見たと評価したい」と述べている。これを踏まえると景虎が宇佐美氏と平子氏の所領相論の調停に乗り出したのもこの頃と想定される。黒川氏中条氏の場合と同じ頃と考えると、天文21年6月頃となり(*7)書状の「夏以来数ヶ度詫言申候」という表現とも時期が一致する。天文22年の後半は上洛を行っており、その間に調停を進めることは考えにくい。よって、(*6)(*7)書状を従来通り天文21年に比定する。
これまでの年次比定を踏まえ宇佐美氏平子氏相論の関係史料を抜粋すると時系列に次のようになる。
天文18年5月
宇佐美定満書状(*1)より「多小(多功小三郎)本領之内、当知行義被仰越候、条々御使へ申宣候」
加地定次書状(*10)より「ほり之内(堀之内)の義、被仰越旨於(欠)従駿所(宇佐美定満)被申達候」
同年6月
宇佐美定満書状(*3)より「田河入之義らうせきなきやう(狼藉無き様)ニ涯分申付候」
天文21年10月
[史料1](*6)
如仰、此間者久不申達候、御床敷存計候、以多功小三郎方当知行堀之内可被召置之由、被仰越候、夏以来、度々如御辺斗(御返答)候、本領与申、当知行与申、殊腹御味方最前被致討死候、惣別、押生、田河本領之義ニ候条、此度御詫言可申処、中此貴所御知行候間、是非不申相渡申候処、堀内訖可被召置由、令迷惑候、何ヶ度も詫言可申候、相渡申候田河全部被押領候、此御加世義専一候、恐々謹言、
十月十日 宇駿定満
平子殿 御報
同年12月
[史料2](*7)
多功方屋敷一所、平子殿相渡可申之由、重而被仰越候、殊被成御直書候条、不及違儀相渡可被申之由申届候、惣別、彼進退之義、夏以来数ヶ度詫言申候処、終不被御申分候、畢竟、不被入御心故如斯候、令迷惑候、入廉以庄田方彼進退申上候処、被聞召分之段、新左衛門尉殿(本庄実乃)、備前殿(大熊朝秀)預御一札候条、拙夫ニ同心、剰被致討死候、幾度子細申分候モ、此上彼進退義、一途御申成奉頼候、恐々謹言、
極月十二日 宇佐美駿河守定満
大熊備前守殿
直江神五郎殿
庄新左衛門尉殿 御報
天文18年の第一次政景の乱において多功小三郎が戦死し5月その領地内田河、押生を平子氏が知行することを宣言し、宇佐美氏は堀之内について主張した。6月には宇佐美氏が田河の平子氏当知行を認めている。ただ、当事者間の交渉に始終しており、やはり景虎の介入は天文21年を待つとみるべきである。すると、揚北衆が注目されることが多いが、より近い地域においても長尾氏の権力の浸透は進んでいなかったということがいえる。
そのまま、第二次政景の乱が終結した後もその領有を巡って対立があったようで、[史料1][史料2]はその内容を伝えている。結局、宇佐美氏は平子氏が領有するに至った田河と押生は認めたが、平子氏は宇佐美氏へ堀之内まで要求したため宇佐美氏が反発し、景虎による調停が入ったということになる。「拙夫ニ同心」の部分は多功氏が宇佐美氏と上下関係にある同心と呼ばれる存在形態だったのか、単に同じ領主として協力することに同意したという意味なのか難しいが、そのまま受け取ると共に上田長尾氏方から離反したように捉えられる。天文初期の揚北衆に代表されるように近隣の領主が協調して行動するのはよくあることであった。そうすると、宇佐美氏が多功氏と協調関係にある領主としてその遺領の領有を主張したのであった。
この相論についてこれが最後の史料となり、結論について知ることができない。同年8月の長尾景虎書状(*11)において「年来景虎以加世義、若干御知行分被入御手候」と有り「筑後守領分接待屋」のみ返還するようもとめていることから、景虎は平子氏の多功氏遺領の領有を認める方針だったとも考えられる。この後の結果は不明だが、この時代において小領主たちの拡大志向が存在したことは確かだといえる。
また、[史料2]において「終不被御申分候」で困っていた宇佐美氏が取り次ぎを庄田定賢に依頼したことがわかり、政景の乱において魚沼郡にしばらく在陣していた庄田定賢と魚沼の諸領主との関係が窺い知れて興味深い。領主と政権中枢を結ぶ取り次ぎの役割は重要で有り、それが個人的な人間関係に基づくという一例であろう。
*1)『上越市史』別編1、51号
*2)同上、42号
*3)同上、17号
*4)同上、18号
*5)同上、20号
*6)同上、96号
*7)同上、100号
*8)同上、81号
*9)『上杉氏の研究』
*10)『上越市史』別編1、61号
*11)同上、94号