和田中条氏の系譜が藤資-景資-房資=景泰であるとした前回を踏まえ、これから複数回にわたり藤資の動向について考察していきたい。
明応3年(1494)上杉常泰安堵状(*1)で中条弥三郎として父定資よりの土地譲与が認められたものが藤資の初見である。この時定資から藤資へ譲状が出されたということだろうか。『中条氏家譜略記』などに藤資当時三歳とあるのは、明応3年後も定資の活動が史料上見られること、過去に定資も幼年で寛正5年(1464)に父朝資より譲状(*2)を受けている例もあることから、妥当である。それらの資料に伝わるように、藤資は明応元年(1492)生まれであろう。
明応9年(1500)に胎内川の戦いで当時中条氏を率いていた「中条土佐守」の討ち死が確認できる(*3)が、これは藤資祖父で土佐守を名乗る朝資とみられる。朝資は宝徳2年(1450)もしくは享徳2年(1453)に父房資から譲状を受けこの時既に弾正左衛門尉を名乗ることから10代から20代と思われる。とすると、討ち死の時は60代から70代となり高齢での出陣であったことが窺われる。胎内川の敗戦後幼少にして藤資が中条氏を率いることとなる。
文亀3年(1503)藤資12歳の時中条弾正左衛門尉の名で伊達尚宗より援軍要請を受け(*4)、長尾能景、黒田良忠より伊達氏の動きと府内情勢について報告を受けている(*5)藤資が中条氏家督として活動していることがわかる。永正4年(1506)の長尾為景と上杉房能、八条氏らとの抗争に際して、揚北衆でも色部氏本所氏竹俣氏が為景に反抗するが藤資は為景に付き戦後上杉定実より知行を宛がわれている(*6)。特に色部氏との戦いでは「就色部要害落居之儀(中略)中条弾正左衛門被官人等数十人討死之由候、無是非候」といわれるように被害を出しながらもその鎮圧に貢献していた(*7)。永正6年(1509)の関東管領上杉可諄の越後侵攻に際しても一貫して為景・定実に味方した(*8)。
永正9年(1512)と思われる鮎川式部入道の反乱でも、為景に味方し派遣された山吉能盛らと共に鎮圧にあたった(*9)。
さらには永正10年(1513)の為景と定実が対立した時には9月に「対為景御名字御余儀有間敷候」と起請文を提出し、その立場は鮮明である(*10)。ただ、その前8月19日に長尾為景より藤資へ起請文(*11)が届けられており、領主としての独立性が確認できる。直前の8月8日には弾正左衛門尉の名で見えており(*12)、これが越前守の初見である。同じく8月には大見安田氏の安田弥太郎実秀から藤資へ別心無いことを起請文で表し(*13)、10月に為景と定実が交戦に入ると揚北衆の一人新発田能敦より「何篇にも御覚悟を承可致其心得候」と頼られるなど揚北で藤資の存在感が増していることを窺わせる(*14)。11月には為景方に敵対する大見安田但馬守を水原氏ら共に攻め落とした(*15)。藤資は為景味方としてさらに進軍し翌年1月16日には上田長尾房長、古志長尾房景らと共に上田庄六日町で上杉定実に与する「八条左衛門佐殿、石川、飯沼以下千余人被討留」という戦果を挙げ、藤資自身も「殊其方御手へ七十余人討捕、験(首)注文越給候」とある活躍をした(*16)。数字に誇張はあるだろうが、乱終結に藤資が大きく貢献したのは間違いないだろう。
また、藤資が伊達氏と関係あり為景からも伊達氏の動向について尋ねられる場面が度々確認される(*17)
[史料1]『越佐史料』三巻、641頁
就越中発向之儀、長尾弾正左衛門尉方江合力之事申談候、可然様自他御取合馳走憑入候、尚委細能登守可被申候、恐々謹言、
七月十日 勝王
中条殿
[史料1]永正15年(1518)には長尾為景、能登畠山義総と協力し越中制圧を目指し出陣していた畠山勝王より藤資への協力要請である。藤資が国外からも認識される一勢力であったことを示し、長尾為景への「合力」と「御取合馳走」が求められていることから、藤資が自立した存在であったと同時に長尾為景への従属関係が深化を遂げている様子が示唆される。[史料1]からも、永正16年、17年の二度にわたる畠山氏と為景の越中出陣に藤資も従軍したことが想定されよう。
*1)『新潟県史』資料編4、1852号
*2)同上、1826号
*3)同上、1317号
*4)『中条町史』資料編1、1-484号
*5)『新潟県史』資料編4、1318号
*6)同上、1320号
*7)同上、1426号
*8)同上、1322号、『越佐史料』三巻、519頁
*9) 『新潟県史』資料編4、1432号
*10) 『越佐史料』三巻、590頁
*11) 『新潟県史』資料編4、1861号
*12)同上、1324号
*13)同上、1862号
*14) 『越佐史料』三巻、596頁
*15)同上、603頁
*16)同上、605頁
*17) 『新潟県史』資料編4、1427号1431号
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