鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

赤堀上野介関連文書の年次比定

2024-06-29 20:29:06 | 赤堀氏
ここで扱う赤堀上野介は永禄期から天正期にかけて上野国赤堀を拠点とし活動した人物である。戦国期赤堀氏は越後上杉氏や小田原北条氏といった大勢力や近隣の有力国衆金山由良氏との境目に位置し、その動向はそれらの勢力と大きく関係していた。今回は、赤堀上野介に関わる三通の書状について年次比定を試みてみたい。


 [史料1]『新潟県史』資料編3、927号
其元無力之旨無余儀候、因茲北条丹後守所に具申越候、近日可為越山候条、其内堅固之仕置専一候、猶万吉重而候可申越候、謹言
    三月廿三日        謙信
      赤堀上野守殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、928号
上表存分之儘ニ有之而納馬候、定而可為大慶候、扨亦其元無別義由簡要候、雖無申迄候、北条父子有相談、堅固之備専一候、謹言
追而、無力ニ付而、合力之義申越候、委細令得其意候、近日可差遣候間、可心安候、以上
    五月十八日        謙信
      赤堀上野介殿


[史料1]、[史料2]は「無力」につき援軍を要請している点から両通は同じ年のものと見られる。「謙信」の署名から元亀元年末以降であり、越相同盟が崩壊し由良氏と敵対する元亀2年末以降、[史料2]「上表存分之儘ニ有之而納馬候」からは4月21日(*1)に越中から帰国した元亀4年の書状と考えられる。元亀4年に謙信の関東出陣はないが、赤堀氏の越山要請に対し[史料2]にて「近日可差遣候」、援軍派遣の検討のみと自らの越山は明言していない点から矛盾はない。天正5年にも5月までに「属加州御手」(*2)と述べられるように越中方面から帰国している状況があるが、この時はすぐに謙信が越山し5月14日には「明々之内新田足利表へ可揚放火候」(*3)と軍事行動に及んでいる様子が明らかであるから、謙信が越山せず劣勢にある[史料2]の内容と合わないため天正5年ではないことがわかる。よって、[史料1]は元亀4年3月、[史料2]は元亀4年5月に比定される。当時は由良氏の攻勢が強まり近隣の味方であった善城、女渕城が落とされており、赤堀氏にとってはまさに「無力」といった状況であったのであろう。


[史料3]『新潟県史』資料編3、929号
為音信樽肴到来、目出喜悦之至候、仍其表之備、弥々堅固之由簡要候、雖無申遣候、皆共令談合、可然様之防戦専一候、初秋ニ者、早々越山候間、可心安候、猶北条弥五郎可申越候、謹言
    七月十八日       謙信
      赤堀上野介殿

[史料3]は謙信署名と由良氏との敵対以降の元亀2年末以降、北条景広が丹後守として初見される天正2年11月までの書状である。ここでは「其表之備、弥々堅固之由」とあり、劣勢を訴えていた[史料1、2]と異なり、上野介は赤堀城の防御は十分であることを謙信へ伝えていたことが推測される。元亀4年であれば、7月には北条氏政自身が上野国へ出陣する(*4)など状況は悪化しており、より積極的に劣勢を訴え援軍を求めて然るべきである。つまり、北条氏、由良氏の攻撃を受け窮状に瀕していた元亀3、4年ではなく、天正2年3月に上杉謙信の越山により善城や女淵城を奪還し赤堀周辺が一定の安定を得た後と推測する。天正2年8月には謙信が関東へ再び出陣しており(*5)、「初秋ニ者、早々越山候」という一文にも一致する。さらに「皆共令談合」とある点も、善城や山上城、女淵城に入城した上杉氏家臣との相談を指示しているとすれば自然である。よって、[史料3]は天正2年7月に比定されると考える。


今回は赤堀上野介に関する書状の年次を推測した。その上で次回、上野介の動向について詳しく検討していきたい。


*1)『越佐史料』5巻、152頁
*2)同上、371頁
*3)『上越市史』別編1、1336号
*4)『戦国遺文』後北条氏編、1660号
*5)『越佐史料』5巻、236頁

※24/7/9 史料の刊本における通し番号に誤りがあったため修正した。

網鑰相論から見る越後の権力構造

2024-06-15 23:21:33 | 長尾為景
「網鑰相論」は越後における在地の争いと、それらに上位権力がいかに関わっていたかがわかる貴重な事例である。村落の動向と領主層、さらに上位の地域権力の関係は黒田基樹氏の研究(*1)に詳しい。今回は、黒田氏の研究を参考に越後における網鑰相論を掘り下げてみたい。

[史料1]『新潟県史』資料編3、208号
就網鑰之義、先度申入候処、返給間敷之由承候、近比不及覚悟題目候、惣別五十嵐方及愚領へ差懸、狼藉緩怠、余口惜候故、渡辺・樫出罷越、其子細相尋可申之候処、御近所之事ニ候とて、至于時御刷無余義候、然彼網鑰、五三日中ニ可渡給之趣被成面語、種々被仰断筋目候間、任其意各罷帰候処、于今不返給候、剰爰元落居之間、可被留置之由候歟、是又更覚外候、五十嵐方与某間之事、当座之御取合者如何、深其方可有御取持子細何事ニ候哉、畢竟当分以御計策おきぬかれ、五十嵐方御引及、歎々敷御刷、他人之嘲、失面目計候、雖事新申事、其方之御事、累年別而互甚深申談候処、如此之時者、以細事等、慥御等閑ニ可罷成事、無曲次第候、縦一旦被成抑留候共、果而不可相止之条、始末御思案不可過候歟、只今不申断而罷過候共、於已後御疎敷可罷成事、迷惑此一事ニ候、依彼返事、可存其旨候、委細猶五十嵐主計助可申宣候条、不能重説候、恐々謹言
  十二月廿五日             弥四郎房景
  長尾平三郎殿

[史料1]は栖吉長尾房景が近隣の領主長尾景行に対して宛てた書状である。いわゆる「網鑰相論」に関する史料である。房景と所領を接する五十嵐文六が房景領へ狼藉を働いたことがきっかけとする。しかし、これは五十嵐文六自身が勢力拡大を目論み侵攻したわけではなく、村落同士による山野河川の用益の確保を巡る争いであったと考えられる。黒田氏によっても村々の争いがその領主たる両者の対立に繋がっていくことが明らかにされている。

具体的な経過を見ていく。まず、五十嵐氏方の勢力により房景支配下の村落が危機に晒された。具体的には河川における漁業権の横領や村落への不当な入部が想定される。この抗争は房景も看過できない事態となり、家臣の渡辺氏と樫出氏が派遣された。領主が家臣を現地へ派遣することが当知行を維持していく上で極めて重要な行為であったことは黒田氏によって指摘されている。子細を尋ねることが目的とあり合戦が目的であったわけではないが、渡邊氏、樫出氏がある程度の軍勢を率いていたことも十分考えられその場合五十嵐氏方と一触即発の事態へと進展した可能性が高い。そこで登場したのが長尾景行である。景行は他に所見がなく詳細は不明であるが、五十嵐保近辺に拠点を持つ房景と比肩する領主という点から下田長尾氏であるとの推測が通説となっている。景行は「御近所之事」であることを名分に両勢力を仲裁し、房景方の「網鑰」を預かり数日で返却することを約束し渡辺氏・樫出氏は帰還する。しかし、景行は預かった「網鑰」を返却せず不審に思った房景が催促に及ぶが応じようとしなかった。房景の催促を「近所之義」の「筋目」を理由に断ったことが[史料2]に見えている。房景はこの事態を景行による五十嵐氏への肩入れと見て不満を露わにしている。ちなみに房景と景行はこれまで長年にわたり良好な関係を維持していたようで、房景は今回それに反する景行の行いを詰問している。

[史料2]『新潟県史』資料編3、166号
如尊意之、其後者不申通候条、御床敷奉存候、仍而彼一義如承候、近所之義与申、貴所へも五十嵐方へも申談候故、あミかき之事預置申候キ、然間、拙者取合之筋目、諸人存知之義候間、先々某ニ被為置候而も不苦候歟、就之公理御越度ニハ罷成間敷候哉、対其方申努々疎義を存子細無之候、恐々謹言
   極月廿一日             平三郎景行
   長尾弥四郎殿

[史料1]の数日前に景行から房景へ出された[史料2]には「其後者不申通候」とあり、相論を仲裁以後景行はしばらく音信不通であったことが窺われる。房景が景行の姿勢を疑うのも尤である。

今回、長尾景行が主張した「近所之義」は中世社会において広く見られた紛争解決のあり方であったとされる。黒田氏の研究では仲裁する第三者は偶然に関わりを持つわけではなく、一方の積極的な要請により調停に乗り出すことを想定している。つまり、網鑰相論においては長尾房景との対立を受けた五十嵐氏の要請によって長尾景行が登場した可能性がある。それを踏まえると、景行が五十嵐氏に有利な処置を行い、房景が不満を表している事態も納得できる。ここに中世の慣例、慣習での紛争解決の限界が見られ、後述のようにより上位の領域権力(越後では長尾為景)の裁定を必要とすることになる。

ところで、景行が預かった「網鑰」が何を表すのか確実なことはわかっていない。網からは漁業に関する用語であることが推測され、通説では漁に使用する道具であるとされている。田畑の収納に関する争いはその収穫時期に多いとされるが、当相論はそこから外れた12月に生じている。このことからも漁業の利権をめぐる相論であったことは首肯される。すると景行は村落の所持する漁業道具を預かり、その漁業権を停止したことになる。これも房景が納得できない点であっただろう。

このように、長尾房景、五十嵐豊六、長尾景行三者間で交渉を進めたわけだが、結局解決には至らなかった。房景は「近所之義」での解決を諦め、さらに上位の領域権力である越後守護代長尾為景に調停を依頼するのである。

[史料3]『新潟県史』資料編3、167号
如仰明春御吉兆、珍重幸甚不可有際限候、為御祝儀、御太刀一腰拝領、祝着候、抑太刀一腰令進候、誠表一儀計候、随而五十嵐豊六方、旧冬以来被抑結子細、度々預御尋候、畏入存候、雖諸公事相止候、雪消候者、被入検見、堺之様体可被仰付事専一候、若又文六方申所も候者、可存其意候、委御使たゝ見方へ申入候間、不能重説候、恐々謹言
    二月廿三日             大江広春
謹上 長尾弥四郎殿

[史料3]は長尾為景の奉行人毛利広春の書状である。長尾房景が府中の長尾為景権力に対して訴訟を起こし、それに対して広春が積雪がなくなり次第現地を確認し房景領・五十嵐領の境界を決定することを伝えられている。翌3月6日毛利広春書状(*2)には「あミかき御相論之事、為景被之聞召、中途分被仰出候」とあり、さらに「御領吉益分」について以前と同じように栖吉長尾氏の支配を認めている。網鑰相論と「御領吉益分」の関係については明らかではないが、大永7年豊州段銭日記にも「吉益領」が見える。以前からの栖吉長尾氏領であり、それを改めて安堵されていることからは網鑰相論における争点の一つであった可能性も考えられる。

これ以降、網鑰相論に関する史料はなく結果については明らかではないが、為景の調停によって解決を見たと考えるのが自然であろう。房景、五十嵐氏のどちらかが利益を得たか、はたまた痛み分けであったかは不明であるが、重要な点は「近所之義」で解決できない紛争が長尾為景という越後における最上位権力の裁定をもって終結した点である。

そもそも、房景や五十嵐氏も戦争を望んでいたわけではなく、村落の在地勢力の抗争をきっかけに引くに引けなくなったと見るべきである。領主が対立に及ぶ理由は、在地の要請に応えられない領主は領主失格と見なされ支持を失いその立場を維持できなくなるからである。黒田氏は在地の紛争は領主を呼び込み領主同士の紛争に発展したことが指摘されており、今回の事例にも当てはまるといえる。中世においてこういった紛争は近隣の第三者の仲介=「近所之義」によって解決される慣習があったわけだが、上記でみたようにそれぞれの思惑を持って動く領主たちの間では問題解決には程遠い様子が認められる。こういった状況を打開するために必要とされたものが領主の上位権力にあたる領域権力であり、当事例では長尾為景にあたる。黒田氏は、領域権力が在地勢力から権利を保証してもらう存在として必要とされていた事実を明らかにしており、領域権力ひいては戦国大名が在地を抑圧するような存在ではなく、在地勢力の維持を目的に産み出された権力という側面が浮かび上がるとする。栖吉長尾氏といった領主層が為景に従う理由もここにあると考えられる。網鑰相論により越後においても例外ではなく、長尾為景を頂点とする権力構造の一端を示すといえよう。



*1)黒田基樹氏「常陸江戸崎土岐氏の領域支配と村」、「九条政基にみる荘園領主の機能」、「甲斐穴山武田氏・小山田氏の領域支配」(『戦国期領域権力と地域社会』岩田書院)
*2)『新潟県史』資料編3、168号