鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

景虎と上田長尾政景の抗争3

2020-06-13 12:26:44 | 長尾景虎
景虎と上田長尾政景との抗争について引き続き考えていきたい。これまでの考察をまとめると次のようになる。

天文17年
9月頃第一次黒田の乱勃発、同時に上田長尾政景も景虎に敵対。
これに対し、古志郡を庄田定賢らに任せて景虎は上郡へ出陣。
この頃、宇佐美定満が政景方から離反し景虎方へ移る。

年内に第一次黒田の乱鎮圧し、景虎が家督相続。

天文18年
1月魚沼郡北部で景虎方と政景方が合戦。多功小三郎が戦死する。
2月政景方は波多岐庄を攻める。景虎は第二次黒田の乱を鎮圧。
3月景虎と政景間で和睦1の締結。

6月宇佐美居城放火
7月景虎の関東出陣計画
10月宇賀地の地について争論

天文19年
9月頃景虎と政景の対立再び表面化。古志郡、魚沼郡で景虎に敵対する勢力が出現。
庄田定賢らを魚沼郡に派遣し、景虎は古志郡へ出陣。

天文20年
1月景虎が古志郡村松城を落とす。
3月までに和睦2が締結。

7月政景が和睦条件を履行せず、景虎出陣を決定。
その後、和睦3に至る。


ここから、この乱の背景にあるものが何だったのか考察していきたい。
まず、乱勃発の理由の背景には越後の権力争いであろう。政景の乱が越後の中枢を巻き込んだ黒田の乱に連動しているとすると、晴景景虎と黒田秀忠という守護代権力とそれに代わろうとする勢力の対立構図の中で上田長尾政景は反守護代勢力に与したことになる。黒田秀忠の狙いは打倒守護代長尾氏もしくは守護代の傀儡化にあったであろう。しかし、政景の意図も守護代権力の奪取だったかというと、それは違うと考えている。もちろん、天文の乱において上田長尾房長が上条定兼の下で揚北衆と共に重要な地位を担っていた事を考えると政治的地位の向上への意欲はあっただろう。しかし、上田長尾政景と仙洞院の婚姻など確実に協調路線への歩みが見られていた。国内の権力争いは勢力を分裂させ諸領主が台頭するチャンスを生み政景の反抗の契機とはなったが、守護代長尾氏と対立する理由は別にあった。

それは、発展した領主である国衆(簡単に言えば中小領層を傘下に収める大領主)として避けることのできない在地からの要請によるものだったと考えている。在地の所領を巡る争いが景虎、政景の抗争へと繋がったということだ。

まずは国衆と在地勢力との関係を見ていく。政景が国衆として存在するにはその下の階層である在地の小領主の支持を得て支配を固めていく必要がある。戦国大名がいくつもの国衆を従属させ成り立っていたのと同様に、政景も国衆として魚沼郡周辺で領主層を従えていた。政景の配下としてみえる金子氏や発智氏、穴澤氏がそれである。黒田基樹氏の研究に代表されるように(*1)国衆が領主を従属させる上で、領主から国衆へその存在の保障が求められる。領主は国衆に従属する代わりに、国衆の庇護を求めるのである。具体的には小領主同士の土地争いに際しての解決が求められた。それを為し得なかった時領主層から見放され国衆として存続できなくなる。具体的には政景方から離反していった宇佐美氏の事例である。戦国時代において上位権力者は在地の領主層と密接に関係した上で成り立っていたのである。ここまで上田長尾氏の話として論じてきたがこれは戦国大名化以前の守護代長尾氏においても同様の構図であった(戦国大名化後も領国の外縁を中心にこの関係は見られる)。要するに、この時代長尾景虎、長尾政景共に支配地域への権力を維持するために在地の領主層の支持は必須であり、その獲得のため領主層の要請でそれを庇護していく必要があった。

さて、政景の乱における実態をみていきたい。この乱の前後で複数の所領争論がみられる。天文18年本庄実乃書状(*2)に「従去秋御理之段」とあり、天文23年上野家成書状(*3)に「其以後黒田方走廻之時分、一両年押領候、 殿様(景虎)当地へ御移之刻、大備(大熊朝秀)内意之由申、以針生刷を返置候」とあることから、天文17年から18年にかけて上野氏と下平氏の間で所領争いがあった。さらに、天文18年金子尚綱書状(*4)に「宇賀地之儀、被仰越」「所帯方以下互ニ被申定」などとあり金子氏と平子氏の間の所領争いも見られる。そして、この争いにおいてどちらも当事者が景虎方と政景方に別れていることが特徴である(上野氏は書状等より景虎方であり、下平氏は後年政景の配下として名が見える(*5)。平子氏は景虎方、金子氏は政景方であると明らかである。)そして、上野氏と下平氏の争論は天文17年の秋頃から訴訟になり、平子氏と金子氏の争論は政景の乱の和睦1において取り決められたことから、それぞれ政景の乱の前後に発生しているとわかり、特に和睦1で景虎の優勢が区呈すると宇賀地は天文18年長尾景虎安堵状(*6)で景虎が平子氏に安堵している。

以上をまとめると、魚沼郡周辺の景虎勢力、政景勢力の境目において領主同士の所領争いが発生により、景虎と政景の個人的な意思とは関係なく地域権力としての存続のためには領主を保護する必要が生じ必然的に衝突することとなった、ということだ。

私が比定した政景の乱の推移において、政景が和睦1後数年間反抗しながらも景虎方と大規模な合戦なく推移しているのもここに理由がある、と考える。つまり、黒田の乱が鎮圧された後、政景は景虎と交戦しても地位を失う可能性があり、小領主の保護を放棄し景虎へ従属しても小領主から見放され地位を失うことになるという追い詰められた状況だった。景虎との合戦を避けながら、小領主への建前として簡単に降伏するわけにはいかなかったのだ。

守護代長尾氏と上田長尾氏は互いに上位権力として、自らを上位権力たらしめる小領主の支持を得るためそれを保護する。その結果両長尾氏の対立を生み、黒田の乱による越後の権力中枢の分裂を契機に抗争へと突入した。黒田の乱鎮圧後、不利を悟った政景は交渉を交えながら問題解決を図るが、景虎との全面戦争を目前にしてついに屈することになった。

以上が、政景の乱勃発の理由を考察しての私見である。


*1)黒田基樹、「戦国期外様国衆論」『戦国大名と外様国衆』、戒光祥出版、2015
*2)『上越市史』別編1、11号
*3)同上、115号
*4)同上、21号
*5)同上、154号
*6)同上、23号