鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

栃尾衆起請文から考える長尾景虎の永禄初期における軍役体制

2021-01-24 21:14:09 | 長尾景虎
前回は、大関氏について検討した。大関氏は栖吉長尾氏被官であったことから、それを継承した長尾景虎との関係も深い。具体的には、大関氏は栃尾衆と呼ばれる家臣団の構成員であったと言える。今回は、一通の文書から永禄初期における景虎と栃尾衆の関係性を考え、軍役体制の一端を見てみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編3、561号
敬白 起請文
右意趣者、今度当郡御鑓御せんさくニ付而、吾等私領所納之義、少もわたくしなく、御日記ニしるしさし上申候事、
一、       御くんやく之義并御ようかひ普請以下、少も御うしろくらくなく可致之事、
一、       玖介ニたいし、於何事も、任 御諚、可走廻候事、(以下神文)、仍如件
                     渡辺将監
                          綱
                     大関平次左衛門尉
                          実憲
                     大河戸市介
                          忠繁
                     山沢与三郎
   永禄三年                   兼
      五月九日           奉納  
                          入道丸
                     金井修理介
                          重
                     大関勘解由左衛門尉
                          定憲
  本庄玖介殿
  宇野左馬允殿 御中

[史料1]は永禄3年5月に栃尾城を任されていた本庄玖介、宇野左馬允に対し出された起請文である。阿部氏はこの武将らを前期栃尾衆として位置づけている(*1)。

二つの条項では、軍役・城普請を務め、「御諚」すなわち景虎の命令に従い本庄玖介の元で働くことを誓約している。本庄玖介は栃尾を拠点としていた本庄実乃入道宗緩の関係者と推測でき、後に所見される本庄新左衛門尉の前身である可能性が考えられる。

ここで重要な点は、本庄玖介に対して奔走するべきことを記しながらも、あくまで「御諚」による景虎の意向が前提であることを明記してある点であろう。本庄氏と栃尾衆はいわゆる寄騎寄親関係とみなされ、景虎ー本庄氏-栃尾衆という階層構造がわかりやすく現れている。


「今度当郡御鑓御せんさくニ付而、吾等私領所納之義、少もわたくしなく、御日記ニしるしさし上申候」という部分からは、上記の誓約と同時に景虎が栃尾衆の軍役を定めるために「私領所納」について「御日記」つまり書上を提出させた、ことがわかる。

この「御日記」はどのような性格を持つものだろうか。中野豈任氏(*2)は天正2年9月の日付を持つ『安田領検地帳』と呼ばれる所領書上は、上杉謙信による天正3年2月『上杉家軍役帳』作成に先だって大見安田氏が軍役の対象となる恩給地の実態を明確にする目的として、それを整理し書上げたものである可能性を指摘している。[史料1]も「御鑓」=軍役と連動して「私領所納」の「御日記」が提出されていることから、上記の中野氏による推測と同様の流れが読み取れるであろう。

[史料1]は永禄3年である一方、『安田領検地帳』は天正2年成立とあるが、これは譜代の栃尾衆と揚北衆である大見安田氏の性格の差に由来するものであろう。


また、類似の例を挙げれば、「諏訪左近允・山岸隼人佑人数致穿鑿、可越日記候、并其地ニ従当国差置候者共之人数をも、能々記可越候」(*3)、永禄11年に上杉輝虎(謙信)が沼田周辺の軍備充実を目的に在番している軍の把握のため書上を提出させている。諏訪氏、山岸氏共に譜代家臣であり、特に山岸氏は黒瀧衆との関わりも想定される。


以上から、天正3年『上杉家軍役帳』作成より大きく遡る永禄3年時点で、栃尾衆といった景虎(謙信)の譜代・旗本と呼ぶべき家臣団に対しては対象の所領を把握した上で軍役を賦課する仕組みが整っていたことが理解できる。

長尾景虎の家臣団における「衆」に関してはさらなる考察が必要であると感じており、今後の課題としたい。


*1)阿部洋輔氏「古志長尾氏の郡司支配」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)
*2)中野豈任氏「いわゆる『安田領検地帳』について」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)
*3) 『新潟県史』資料編5、3790号

水原親憲と大関氏

2021-01-23 20:38:48 | 大見水原氏
越後国古志郡には大関氏が存在し、只見氏や庄田氏に並ぶ栖吉長尾氏重臣として位置づけられている(*1)。また、天正期以降に活動が見られる水原親憲は始め大関氏を名乗っている。今回は大関氏の系譜を検討し、その上で水原親憲との関連を探ってみたい。


文明末期の『長尾飯沼氏等検地帳』(*2)において、飯沼遠江守輔泰の被官として高波保名木野に「大関与三左衛門尉」、同保上条乙吉に「大関太郎左衛門尉」が確認できる。よって、この時点ではまだ栖吉長尾氏との被官関係が形成されずに飯沼氏との繋がりが深かった、と推測される。

明応後期から永正初め頃のものと推測される長尾能景書状(*3)では能景が栖吉長尾丸に「御被官大関蔵人丞」と述べており、明応年間の栖吉長尾氏への被官化が想定される。

明応6年7月に役銭納入を記載した大関政憲外三名連署役銭注文(*4)から、栖吉長尾氏領内の役銭収納に「大関勘解由左衛門尉政憲」と「大関蔵人丞貞憲」らがあたったことがわかる。大関氏の栖吉長尾氏被官化は文明末期から明応5年までと言えるだろう。

同注文では役銭を徴収された人物の中に「大関孫六」も確認される。また、諸史料からは大関掃部、大関式部、大関五郎左衛門などの一族も確認されるという(*1)。

大永7年には大関氏の五十嵐保内の所領を巡って、山吉氏と栖吉長尾氏との間で交渉が持たれている(*5)。

享禄の乱に際して、享禄3年に長尾為景に攻められ「松ヶ岡」から現在の福島県金山町付近の領主山内氏へ逃亡した人物として「牢人寺内長門守、大熊新左衛門、大関一類」が挙げられている(*6)。金山町は古志郡から会津へ抜ける線上に位置し、「大関一類」が古志郡大関氏である可能性も考えられる。

『越後平定以下祝儀太刀次第写』において永禄2年に太刀を献上した者の中に「大関殿」が見える。

永禄3年渡辺綱外六名連署起請文(*7)には大関氏として「大関平次左衛門尉実憲」と「大関勘解由左衛門尉定憲」の二名が見える。

御館の乱中天正8年には上杉景勝が栃尾城本庄清七郎を没落させたことによって佐藤氏や安部氏に栃尾在城を命じると共に土地をあてがっており、その中に「大関平次左衛門」と「大関蔵人」分の土地が見える(*8)。ここから、大関氏は栃尾本庄氏に従い御館の乱において没落したことがわかる。


官途名は明応期から「~左衛門尉」「蔵人」で共通しており、一貫した系統であるといえる。いくつかの史料では大関氏として二人が並んで記されており、有力な家系が二つあったのではないだろうか。


次に、始め大関親憲を名乗り後に水原氏を継承した水原親憲について検討していく。

天正7年2月に上杉景勝へ小平尾城を攻め落とした「大関」(*9)が親憲のことと考えられ、これが初見である。小平尾城は古志郡に近接した魚沼郡の城である。

翌年5月には「大関弥七」が栗林政頼、深沢利重らと共に行動していることが確認される(*10)。

天正11年には「大関常陸介」の名で越中において活動する様子が確認され(*11)、天正12年にも「大関常陸介」が文書上にみえる(*12)。

天正16年1月の日付を持つ「上杉景勝一座連歌」(*13)には「水原常陸親憲」とあるが、この年末に「長」字を与えられるはずの千坂長朝が既に「千坂与市長朝」と記載されるなど後世の手による点もあるから、これを根拠としてこの時点で水原氏を名乗ったとは断定できない。

事実、文禄3年2月には上杉景勝から「大関常陸介」宛てに朱印状が発給されている(*14)から文禄初期まで大関氏を名乗ったと考えられる。

『文禄三年定納員数目録』において「水原常陸介」が確認できる。以後、慶長年間には「水原常陸介」として確認される。

このように、親憲は文禄初期まで大関氏として所見されており、『平姓水原氏系図』、『平姓水原氏系譜』に伝えられる天正14年春の水原氏継承は認めがたい。水原氏には小田切氏からの入嗣問題が生じるなど水原氏の家督が円滑に継承されなかったことが史料的に明らかであるから(*15)、親憲の水原氏継承が文禄年間であってもおかしくはない。


次に、親憲の出自を考えてみる。結論から言えば、上述の古志郡を拠点とした大関氏の一族であったといえる。

まず、語られることが多い浦佐との関係について確認したい。例えば『日本城郭大系』は浦沢城(浦佐城)について「戦国時代末期に上田長尾氏の家臣大関親憲が水原に移って以後の天正6年に清水左衛門が在城した」とする。『越後野志』にも、大関親憲が浦佐(浦沢)城主であったとの記述があるという。

しかし、浦佐やその周辺地域の文書に大関氏の名前は一切ない。例えば、浦佐普光寺には多数の文書が残存するがそのほとんどは長尾氏のものである。『越後過去名簿』にも「浦佐長尾」なる人物が見られる。主要な上田衆約50名が記される永禄7年上杉輝虎感状(*16)においても、大関氏は見えない。浦佐やその周辺に領主として大関氏が存在した痕跡がない、ということである。

すると、親憲と浦佐の関係は御館の乱時の行動が誤伝されたのではないかと思う。上述したように天正7年には関越国境近辺の守備を担当する栗林政頼、深沢利重と行動を共にしており、関越国境に近い浦佐城と関わりがあったとしてもおかしくはない。


では、古志郡大関氏との関係をみていきたい。

まず、親憲の父であるが、『平姓水原氏系図』、『平姓水原氏系譜』では「大関阿波守盛憲」とする。『上杉御年譜』では永禄4年に「大関阿波守盛憲」という人物が登場する。『御家中諸士略系譜』は「大関阿波守親信」の子とする。どちらにせよ一次史料には現れず、後述する御館の乱における動向を考慮しても親憲は庶流であろう。また、『平姓水原氏系図』などは親憲を越中生まれとするが、これも浦佐同様に越中での一時的な活動から派生した誤伝であろう。

『平姓水原氏系図』では盛憲の叔父に「大関平次左衛門尉定憲」(ママ)、「大関勘解由左衛門尉定憲」がいたとし、『平姓水原氏系譜』では盛憲の弟に「大関平次左衛門尉実憲」、「大関勘解由左衛門尉定憲」がいたという。大関実憲、定憲は先述した永禄3年起請文(*7)によって古志郡大関氏と確認できる。よって、ここに親憲が古志郡大関氏の一族であったことが明確にされる。御館の乱において没落した大関氏として平次左衛門尉、蔵人の二人が確認されるから、一族において上杉景勝方、上杉景虎方のそれぞれに分かれたことが窺われる。

御館の乱において親憲が古志郡に近い小平尾城攻めたというのも、古志郡大関氏出身であることと関係が深いと推測される。実名「親憲」も大関氏の通字「憲」を踏まえたものであろう。


以上、大関親憲(弥七郎/常陸介)、後の水原親憲は古志郡大関氏出身であり、文禄3年頃に水原氏を継承したことを確認した。また、大関氏の動向は飯沼氏や栖吉長尾氏との被官関係や御館の乱における分裂など、戦国期中小領主の存在形態を如実に表わしているようで興味深いといえる。


*1)阿部洋輔氏「古志長尾氏の郡司支配」(『上杉氏の研究』、吉川弘文館)。また当ブログにおいて「古志長尾氏」という表現を用いてきたが、今回から同氏をその本拠にちなんだ「栖吉長尾氏」という表記に改める。以前のページ中で使用されている部分も変更した。同氏については別の機会に検討したい。
*2)『越佐史料』三巻、271頁
*3)同上、424頁
*4)同上、407頁
*5) 『新潟県史』資料編3、452号、485号、当「山吉景盛の動向」参照
*6)『越佐史料』三巻、774頁
*7) 『新潟県史』資料編3、561号
*8)『越佐史料』五巻、786-787頁
*9) 『上越市史』別編2、1757号
*10) 『越佐史料』五巻、764頁
*11)『新潟県史』資料編5、3472、3473号
*12) 『上越市史』別編2、2954号
*13) 同上、3208号
*14) 同上、3583号
*15) 『新潟県史』資料編4、1671号、当「水原氏の系譜」参照
*16)『新潟県史』資料編5、2478号

上条上杉氏の系譜3 ー上条義春ー

2021-01-17 22:17:33 | 上条上杉氏
前回、上条政繁(冝順)と上条義春は別人であることを確認した。今回は、義春についてさらに詳しく検討してみたい。

<1>義春の出自
系図・所伝類における義春について確認し、義春に関する情報を整理したい。

『系図纂要』畠山氏系図を見る。「義続」の子は、「義辰」、「義則」、「義有」、「義春」の四名がいる。「義春」は「弥五郎 民部少輔」「入庵宗波」を名乗り「上条定春」の跡を継いだと記述されるが、前回検討したようにこの「義春」は政繁にあたる人物であろう。

一方で、「義則」の子である「義隆」の子としても「義春」が挙げられている。こちらは、「春王丸」を名乗り「大叔父義有後見 天正4年式部大輔」とあり「義隆」の跡を継承した存在として記され、天正5年閏7月に10歳で死去したとある。こちらの「義春」が実際の義春を指すと思われる。


次に、『寛政重修諸家譜』畠山系図を見る。同系図によると、「義春」は天文22年に人質として越後に行き、弘治2年に謙信養子となり上杉氏を称し、後上条氏を名乗ったという。その後、各地を転戦し活躍する様子が記され、大坂の陣以前に畠山氏に復姓し寛永20年8月に99歳で死去した、という。妻は「長尾越前守が女」という。


『上杉御年譜 謙信公』には「義隆ノ嫡子弥五郎ヲ越府ヘ引取リ、後上条家ヲ継シム、義隆内室モ子息同前ニ越府ニ来ル、内室ハ三条家ノ息女ナレハ、殊ニ労リ玉ヒテ後、北条安芸守輔廣カ許ニ預置ル」、「弥五郎ハ上条山城守政繁ノ家督トナリ、弥五郎義春ト号ス、景勝公ノ御妹(ママ)ニ婚儀アリテ、上条累代ノ家臣計見出雲守、相浦主計頭、(中略)、ヲ付ラル」とある。


『上杉御年譜 景勝公』に、元和8年に畠山義春の嫁いだ景勝姉の死去が伝わる。義春はについても、能登畠山義隆の子で政繁の養子となり後に出奔したことが記される。


上述の系図・所伝類について考察していく。

まず、義春が畠山義隆の子である点は、一貫して伝わることから事実である可能性が高い。この点は、天正5年七尾城落城後の文書にも現れている。

天正5年9月北条高広・景広宛上杉謙信書状(*1)
「畠山次郎方をハ上条五郎以好引取、旗本ニ差置」
同年12月宛名欠上杉謙信書状(*2)
「七尾納手裏候時、畠山義隆御台・息一人有之而候ツル、是者京之三条殿之息女ニ候間、年此も可然候歟与思、息をハ身之養子置、老母をは丹後守ニ為可申合」
「彼息謙信養育申上者、身之かたへの好も成之事ニ候間」

上条政繁の親戚という畠山次郎が、畠山義隆の息子で謙信の養子とされたと解釈できる。この次郎が後に政繁の養子となり弥五郎義春を名乗ったと理解されよう。


<2>義春の上条氏入嗣の時期
上述の上杉謙信書状(*2)では「彼息謙信養育申上者、身之かたへの好も成之事ニ候間」と記され、謙信の意図が景広の妻の子が自身の養子という関係を構築し繋がりを深めることであったとわかる。この点から義春をすぐに他氏へ養子に出すとも考えづらく、さらにこの書状を発給した3ヶ月後に謙信が死去することも踏まえると、義春の養子入りは景勝の代であったと想定される。弥五郎を名乗り、景勝の姉との婚姻した時期も同頃であると推測できる。

通称が同時期に父子で一致するとは考えづらいから義春が仮名弥五郎を名乗るのは、義父政繁が「弥五郎政繁」として見えなくなる時期であると考えられる。天正6年6月跡部勝資書状(*3)の宛名に「上条弥五郎殿」と見えるものが、政繁の「弥五郎」としての終見であるであろう。ちなみに、「政繁」だけなら天正7年5月(*4)まで見える。天正8年閏3月(*5)からは一貫して「冝順」や「上条入道」として見える。

よって、畠山次郎は天正5年12月に上杉謙信の養子となり、御館の乱で上杉景勝が勝利した後の天正7年頃、景勝が上条氏を取り込むためその姉を娶り上条政繁の養子となり仮名を弥五郎に改めた、といえる。また、義春の上条氏養子入りに前後して政繁は通称を弥五郎から山城守に改めたと推測される。

『覚上公御書集』では天正6年3月に上杉景勝、景虎の他「上杉入道政繁、同弥五郎義春」が謙信の葬儀に参加したと記してある。入道の時期は上述のように天正7年5月から天正8年閏3月であると推測されるから、上記の所伝は少しズレがある。恐らく義春は謙信の養子として参加したものの、後に政繁の養子になるため後世に政繁養子の立場で葬儀に参加したと捉えられたのではないか。


<3>義春の年齢
義春の父が義隆であるとした上で、その年齢について考えたい。基準となるものは、妻と子供たちである。

妻は長尾政景の娘、景勝の姉である。系図類で確認すると、『上杉御年譜 景勝公』、『外姻略譜』では政景の長女であり、法名は「仙洞院殿離三心契大姉」という。天正5年時点の年齢は、弟景勝が23歳、妹華渓昌春が27歳であるから上記の記述に従うと義春妻は30歳程度である。

これら有力な所伝に従うと、結婚するには高齢であり不自然である。さらに、妹の方が先に嫁いでる点も気になる所である。こういった所から実は先代上条政繁の妻である可能性が想起されるが、前回見た義春宛上杉景勝書状が仮名遣いである点は姻戚関係によるものと判断されるから政景娘=義春妻であることは確実と考える。

ここで、他の所伝に目を通してみると『越佐史料』所収の『長尾系図』には長尾政景の子として「上杉三郎景虎妻」、「景勝」、「上条弥五郎妻」の順で記載される。「上条弥五郎妻」は法名「泉洞院」とあり、間違いなく義春妻=「仙洞院殿離三心契大姉」のことを指す。従って、上杉景虎妻が長女であり義春妻は次女且つ景勝の妹であった可能性が示唆される。この場合天正5年時点で20歳前後となり、義春の妻として適齢である。

さらに『越後長尾殿之次第』には「華渓春公大姉 於御館御自害 平政景公御嫡女三郎殿御簾中」とあり、上杉景虎妻が長尾政景の嫡女であることが記される。この史料は、上杉景勝の事を「当代」、政景妻を「老大方様」、義春妻を「上条大方様」と表現していることから、この三人が存命の時期に成立した物の写本であることがわかっている。上杉景虎妻の家族である義春妻や政景妻が存命であるから、この情報の信頼度は高いと言える。

よって所伝と実際の状況を総合的に考えると、義春の妻は実際には長尾政景の次女であり、後世において長女上杉景虎妻と姉妹関係が逆転してしまった可能性が高いと推測される。


続いて息子たちである。『寛政重修諸家譜』には子として、上杉景勝に仕えたと記される長男「景広」「弥五郎」。上杉氏を称して別家を興した次男「長員」「源四郎」。三男「義真」「弥三郎」、四男「義廣」が挙げられている。

長男「景広」は『外姻略譜』に元和4年死去と伝わるが年齢は不明である。

次男「長員」は同家譜中でも畠山氏系図ではなく足利支流上杉系図に詳しい。そこには「源四郎 畠山民部少輔義春が二男、母は長尾越前守政景が女」とある。元和9年8月に42歳で死去したとされている。

三男「義真」は「弥三郎」「長門守」を名乗り、上杉景勝の養子となり天正11年5歳の時京へ人質に出され、同15年に帰国した後に実父の元へ戻ったという。延宝2年9月に96歳で死去とある。母は「政景が女」とある。ちなみに、実際に人質の提出は天正12年のことである。


さて、二男長員は『寛政重修諸家譜』に元和9年42歳で死去とあるから、数え年を考慮すると天正10年の生まれとなる。三男義真は同系図に延宝2年96歳で死去とあるから天正7年生まれである。ここに長幼の順に矛盾が生じている。

この矛盾の解釈であるが、生年を含む義真の所伝のいくつかは長男景広との混同であると推測する。

それを裏づけるものとして『覚上公御書集』は天正12年6月に大坂へ人質として提出された人物を「弥五郎」=景広としている(*6)。前回も言及したが、『寛政重修諸家譜』は江戸時代後期の作、『覚上公御書集』は江戸時代前期の作である。どちらかを信じるなら、間違いなく『覚上公御書集』であろう。

景広は政繁や義春が出奔した後も、諸系図では上杉景勝に仕えたと記す。これは『会津御城在城分限帳』に「上条弥五郎」が見えることから確実である。この点は景広が景勝姉の所生でその養子となっていたとすれば、説明がしやすい。実名「景広」も、景勝から与えられた一字であろう。

よって、天正7年に誕生し景勝の養子となり天正12年に京都へ人質として送られた人物は長男景廣であった、と推測する。

追記:21/4/29
本文中では『覚上公御書集』の記載から、景勝の養子となって京都へ人質として提出された人物を「弥五郎景広」と推測した。

しかし、延宝5年作成の『先祖由緒帳』では「蔵田佐五之丞」が「畠山一庵」幼少の時に京都へ人質に出されそれに付添ったことが記されている。「一庵」とは畠山義真のことである。延宝5年と言うと、義真の死去した延宝2年に近く、その記述は無視し難い。つまり、通説通り、人質として提出された人物は義真であった可能性が高い。

この点は、『覚上公御書集』のみを頼りに推測した私の誤りであった。ただ、本文中で見た生年の矛盾点は解決されず、さらに考察を進める必要がある。

追記:2022/12/3
生年の矛盾について考察を続けたが系図における正確性の限界と考えるべきであろう。まず伝承されていく過程で誤伝された可能性もあるだろう。そもそも、1歳単位での正確さは記録がなければ本人であっても間違える可能性がある。まして90歳を越える人物は周囲に生年を知る人物などおらず、認知機能の低下した本人のおぼろげな記憶に頼るほかなかったであろう。以上から年齢については系図をそのまま鵜呑みにせず総合的な判断が必要であると考えられる。
追記終


息子が天正7年に誕生していることから、義春はその頃既に成人であったことが想定される。義春が「弥五郎」として初見される天正10年4月上杉景勝書状(*7)に、その出陣が確認されることは成人であることを裏づける。

年齢に加え、始め仮名が能登畠山氏由来の「次郎」、実名も同氏由来の「義」字を用いていることから元服は能登においてなされたと思われる。

片桐昭彦氏(*8)は『外姻略譜』の記載を尊重して、永禄6年生まれで天正5年時15歳と推定している。上記を踏まえても、これが現時点で最も蓋然性の高い推論であるといえる。


ここまで上条義春について検討した。ただ、義春が10代半ばまで能登畠山氏として活動していたことを考えると、上条義春としてだけではなく畠山義春としての側面を検討することも重要であると感じた。また別の機会に、父義隆との関係を始めとする能登畠山氏の系譜関係や同氏における義春の存在形態について考えたい。


*1)『上越市史』別編1、1347号
*2) 同上、1368号
*3)『新潟県史』資料編5、3475号
*4)『越佐史料』五巻、702頁
*5)同上、743頁
*6) 『覚上公御書集 下』臨川書店、38頁
*7) 『新潟県史』資料編4、1682号、「依之為先勢能州朝倉、遊佐家中、両三宅、温井并其外上条五郎、斉藤下野守指越候」とある。
*8)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)


※21/3/15 『長尾系図』における上条義春妻=「仙洞院殿離三心契大姉」の記載を加筆した。
※21/3/21 『越後長尾殿之次第』における長尾政景妻とその娘である上杉景虎妻、上条義春妻の情報を加筆した。
※以前このページでも上条義春の妻は長尾政景の長女であるとする所伝類に従っていたが、加筆した史料により上条義春妻が長尾政景夫妻の長女ではなく次女であった可能性が高く義春との婚姻は適齢であったことを示した。

※21/4/29 追記を行った。


上条上杉氏の系譜2 ー上条政繁ー

2021-01-11 22:20:49 | 上条上杉氏
前回、刈羽郡上条を拠点とする刈羽上条上杉氏について清方から定憲の子弥五郎まで検討した。今回はその次代政繁について考えてみたい。政繁は後年、入道冝順を名乗るが、便宜上政繁で通す。


<1>上条政繁と上条義春は別人である。
始めに政繁(弥五郎、入道冝順)とその次代義春(弥五郎、民部少輔、入道入庵)は混同して語られる場合も多々見られるから、二人が別人であることを確かめたい。

まず、系図・所伝類から検討する。

二人を混同している主立った史料としては、元文年間(1736~1741)作『上杉御年譜 綱勝公』、文化9年(1809)作成の『寛政重修諸家譜』、安政年間(1855~1860)作『系図纂要』などがある。

反対に、二人を別人として扱う所伝も多数見られる。山田邦明氏(*1)により江戸前期作成と推測される『覚上公御書集』では天正6年上杉謙信死去を伝える記事中に「同年三月十五日被相整御葬送兼而任御遺言、景勝公、三郎景虎、上条入道政繁、同弥五郎義春、四人外不入諸将近臣」との記述が見える。また、元禄9年(1696)作『上杉御年譜 謙信公』も政繁と義春を別人とし、米沢藩に伝わる系図『外姻譜略』においても別人とされる。

これをどう捉えるかであるが、別人説を取る所伝は江戸前期作成のものを中心とする一方、同一人物説を取る所伝は江戸後期の作であることが注目される。所伝を整理すると、別人である二人が時代を下るにつれ段々と混同されていく過程が窺われるであろう。

また、同一人物説を取る所伝においても、上条政繁にあたる人物を「上条景義」とし上条義春にあたる人物を「上条政繁」とするように、実名比定が不十分なだけで世代的にはしっかり二人分を伝えていたりする。

ちなみにしばしば現れる「上条景義」という誤伝についてその背景を推測すれば、山城守の受領名を通じて政繁と越後の武将である志駄山城守景義が混同されてしまったのではないかと思う。

続いて、別人である事実を文書から確認してみたい。

永禄-天正期に上条政繁が活動し御館の乱以降に「入道冝順」を名乗ったことは文書などから間違いない。ただ、「冝順」の所見と平行して文書上で「上条弥五郎」という表記も確認できるのである。つまり、「入道冝順」と「弥五郎」が別人であれば、政繁(=冝順)と義春(=弥五郎)が別人であると言える。


[史料1]『新潟県史』資料編3、899号
返々、貴所御存知之外ニ、山城守事、種々用所さいけん無之候間、奉行いろい申候事、なかなか成之間敷候、御分別候而、御納得尤候、千坂・須田事ハ、貴所次第ニて候、以上、
一筆啓之候、仍而以前申届奉行之義、直江差添不申候ハハ、なっとく有之間敷由候、幾度如申、山城守事ハ如御存知、万すきなふ用所申付之間、工事沙汰ニ、奉行同前ニとんちゃく申候てハハ、身之用所等必かかたり可申候、殊ニ若輩与云、其身もしんしゃく申、尤身之事中々成之間敷由由存置候、以後之義ハいかんも候へ、御無用ニ候、左様ニ候ハハ、黒金上野守差添可申間、其分ニ被成之尤候、以上、
(礼紙ウハ書)「上条殿まいる      実城」

[史料2]『新潟県史』資料編3、900号
 返々、五郎との御いけん候て、早々御なっとく可為大慶候、以上
ゆうへハ御ふミ給候、くわしく見申候、さて又ふきやうの事、御しんしゃく候や、もっともたちいって、ねんころニうけたまハるところ、かたしけなふそんし候、しかしなから、惣体人たいしゅ、上条殿次第たるへく候、てほんニも、又ハおきてだうの事も、そなたへこそ、ききあわせ申へく候、別而誰かあって申へく候や、あまりにあまりに御こうしやいか申ましく候、ことにすた・ちさかも、そなた御なっとく候と申候ほとに、まつまつおおかたかってん申候、さてさやうニ無之候ハ、ふつうニなるましきよし候、他国人入こミ候、かすか・府中よろつ工事さたむつかしく無之様ニ、万事御入念御さた頼入候、何ヶ度仰越候共、とてもうけたまハるましく候、以上
(礼紙ウハ書)「五郎殿」


[史料1]、[史料2]はそれぞれ「奉行之義」、「ふきやうの事(奉行之事)」について上杉景勝が言及している文書であるからほぼ同時に発給された文書と見られる。「上条殿」が奉行として直江兼続を遣わすことを要求したが、景勝がそれを拒否しているものである。『上越市史』は天正11年、志村平治氏(*2)は海津城将任命に伴うものとして天正12年と比定している。

まず、上杉景勝が上条冝順に書状を送る際の宛名は「上条殿」が一般的であり、[史料2]「五郎殿」とは明らかに区別されている。

そして内容を見ると、[史料1]では「御納得尤候」と景勝が相手に直接納得を求める一方、[史料2]では「五郎との御いけん候て(五郎殿御意見候て)」、「別而誰かあって申へく候や」と相手に助言を求めている。さらに[史料2]において、主に二人称として「五郎との」「そなた」が用いられ、「上条殿」は三人称として用いられる。

すなわち[史料2]において、「五郎殿」は上条弥五郎義春を指し、奉行の人選についてその義父「上条殿」=上条政繁入道冝順へ助言を求めていると理解される。つまり、二人は別人であることが明かである、とわかる。

[史料2]のみに「五郎殿」という宛名や仮名書の文体など親しみをもって記述されているのも、上条弥五郎義春の妻が上杉景勝の姉妹とする『寛政重修諸家譜』、『外姻譜略』の記載に合致する。

簡単に言えば、[史料2]は上条政繁、上杉景勝の双方に関係の深い上条義春が、二人の間を取り持った文書であると考えられる。


<2>上条政繁の動向
政繁と義春が別人と確認したところで、政繁の動向に話を戻す。文書上の初見は元亀4年上杉謙信書状(*3)の宛名「上条弥五郎殿」であろう。また、『本荘氏記録』によれば本庄繁長の乱にさいして「上条弥五郎」が参戦していることが記されている。永禄後期に部将として活動を始めたと推測される。

実名「政繁」は天正7年5月まで確認でき(*4)、入道名「冝順」は天正8年閏3月から確認できる(*5)。志村氏(*2)は景勝政権へ野心がないことを表明するための行為と推測している。

また、『覚上公御書集』、『上杉御年譜』、『外姻略譜』などでは政繁について「山城守」とする所伝が数多く見られる。次代義春が仮名弥五郎で見えるから、同時期に政繁は弥五郎ではなく別の名乗りに変更したと推測できる。それが「山城守」である可能性は高い。天正7年から8年にかけて景勝政権が確立していく時期に入道し、山城守を名乗ったのではないか。

このような事例としては、本庄実乃がいる。「本庄新左衛門尉実乃」として活動した後「本庄美作守入道宗緩」として所見され、時を同じくして後継者と思われる「本庄新左衛門尉」が現れる。

ただ、天正11年に受領名山城守を名乗る直江兼続は、政繁と同じ受領名を用いたことになる。政繁は兼続と政治的に対立しており、何か因果関係があるのかもしれない。

そして、越中や信濃を転戦し、天正12年5月に海津城将となる(*6)。しかし、その後上杉景勝・直江兼続と対立し越後を出奔する。海津城将の罷免は『管窺武鑑』に天正13年6月とあり、府内にて幽閉されたと伝わる。越後からの出奔は天正14年7月に村山慶綱へ「上条一跡」が景勝から与えられているから(*7)、この時までのことと推測される。同年9月には石田三成らが「上条方被罷上候」と述べており(*8)、その出奔は確実である。

ちなみに、天正13年もしくは14年に比定される上杉景勝書状(*9)には末尾に「~候旨、冝順御披露候」とあり、上記の対立から出奔までの間に政繁(冝順)が一時的に復権していたと捉えられることがある。しかし、副状にあたる同日付直江兼続書状(*10)には「~旨、冝預御心得候」とある。すなわち、「冝順が御披露する」ではなく正しくは「宜しく御披露預かるべし」であったとわかる。単なる典型的な文章であるとわかる。よって、政繁の復権は事実ではない。

天正15年10月には豊臣秀吉から「上条入道とのへ」(*11)、すなわち政繁へ計500石の所領が宛がわれているから豊臣家への帰属が明らかになる。

天正18年9月に300石、文禄2年11月に700石が同様に秀吉から「上条民部少輔とのへ」、すなわち義春に所領が宛がわれている(*12)。文禄2年11月の書状には計1500石と表現されているから、義春は政繁が宛がわれた500石も引き継いでいる。よって、政繁は天正18年までに河内国において家督を義春に譲ったことがわかる。


<3>上条政繁の出自
次に、政繁の出自を考えたい。能登七尾城を落とした直後の天正5年9月上杉謙信書状(*13)に「畠山次郎方をハ上条五郎以好引取、旗本ニ差置」、つまり政繁の"好(よしみ)=血縁"のために畠山次郎を引き取ったという。ここから、政繁のルーツが能登畠山氏にあることは明かである。

『寛永重諸家系譜』畠山系図には「義春」が天文22年に越後へ人質に出され、弘治2年に長尾景虎養子となり後に上条氏を継いだという。政繁の次代義春も能登畠山氏出身であることに由来する混同であり、片桐昭彦氏(*14)も政繁についての記述が含まれると推測している。

『寛政重修諸家譜』『系図纂要』共に「義春」の兄を「義則」とし、その父は前者で「義統」後者は「義続」とする。所伝や前後の系譜から「義則」は実際の畠山義綱を表わしており、共通して義綱の弟に政繁がいたことを示唆しているといえる。義綱の弟であるという点は、活動時期も合致することから事実である可能性がある。


政繁の越後入りの時期はいつだろうか。越後長尾氏/上杉氏と能登畠山氏の関係を考慮しながら、検討してみたい。北陸出兵については萩原大輔氏の研究(*15)を参考にしている。

まず、元々長尾為景の代には共に越中に攻め込むなど能登畠山氏と友好関係にあった。晴景の代には記録がなく、詳細は不明である。越中への出陣は確認されず、越前朝倉氏が天文21年に「庵主御時、別而申承候キ、其已後無音失本意候」(*16)と述べていることから、北陸方面には積極的ではなかったようである。

天文17年末に長尾景虎が家督を継承して本格的な北陸と接触は、まず天文22年の上洛がある。これは『寛政重修諸家譜』にある天文22年の越後入りの所伝と時期が一致する。

さらに、弘治4年2月には内乱に悩む畠山悳佑・義綱父子から景虎へ援軍の要請が成され、それに対し景虎は糧米を送っているから友好関係は維持されている(*17)。越前朝倉氏の場合、越後への援軍要請と同時に人質を送るという例が見られるから(*18)、能登畠山氏も弘治の内乱時に越後へ援軍要請と共に人質を送っていた可能性はある。

神保長職と椎名康胤の対立による永禄3年3月長尾景虎越中出陣の際に、景虎が「能州之儀、神保友好国候間、可及行由存候へ共、色々悃望」(*19)とあり、景虎と能登畠山氏の間に軍事的緊張が存在したことがわかる。そして、特に「色々悃望」とあり景虎優位に落着したことが伺われ、この時も人質を提出するタイミングとしては有力といえる。

永禄5年7月、10月には再び神保長職を攻めるため景虎改め上杉輝虎が越中に出陣するが、この時能登畠山氏が両者の講和を取り持っている。永禄7年年7月に納められた輝虎の願文には「殊能・越・佐三箇国首理同前」(*20)と述べ、能登を自らの影響下にある国としてみている輝虎の認識が明らかにされている。

畠山徳祐・義綱父子は永禄9年9月に遊佐氏らによって能登を追放される。

以上から政繁の越後入りのタイミングを政治情勢から見ると、天文22年もしくは弘治年間、永禄3年などが挙げられるとわかる。


[史料3]『新潟県史』資料編3、675号
急度以飛脚令申候、其表弥々属御存分義、珍重候、仍雖可為御無心候、乗心可然馬一疋所望候、御同意可為祝着候、恐々謹言、
  已上、
   六月十日             修理大夫義綱
謹上 上杉殿

[史料4]『新潟県史』資料編3、801号
雖遠路候、早速馬一疋黒毛上給候、殊更乗心一段秘蔵此事候、仍宮王丸義、種々御懇意之旨、祝着候、弥御入魂憑入存候、恐々謹言、
    六月十一日           悳佑
謹上 上杉殿

[史料3][史料4]は能登畠山氏の畠山悳佑・義綱父子発給の年不詳文書である。内容から二通は同年と見られる。上杉氏の名乗りから永禄4年以降であり、義綱の実名から永禄11年までのものである。志村氏(*2)は永禄9年と比定するが、多分に推測を含み定かではない。

「仍宮王丸義、種々御懇意之旨、祝着候、弥御入魂憑入存候」から、悳佑が「宮王丸」を人質として越後へ送り同盟関係を強化しようとする意思が読み取れる。宮王丸は、畠山義春が「春王丸」と伝わることを考えると能登畠山氏一族と見て良いだろう。

上記の流れを踏まえて永禄期のものとして見ると、「宮王丸」は上条政繁の前身である可能性がある。

よって、政繁の越後入りは系図類に記載のある天文22年が有力であるも、古文書にある「宮王丸」が政繁であれば永禄初期に越後へ送られた可能性もあると言えよう。



*1)山田邦明氏「『謙信公御書集』・『覚上公御書集』について」(『東京大学日本史学研究室紀要第三号』)
*2)志村平治氏『畠山入庵義春』歴研。この書籍において志村氏は政繁と義春を同一人物として扱っているが、この点については同一人物説を取る所伝類を引用するばかりで十分な検討はなされていない。上述の通り、政繁と義春は別人である。
*3)『越佐史料』5巻、173頁
*4) 同上、702頁
*5)同上、743頁
*6) 『新潟県史』資料編5、4082号。「海津江上条殿昨十三日御うつり被成候」と見える。
*7) 『上越市史』別編2、3115号
*8) 『新潟県史』資料編5、3478号
*9) 『上越市史』別編2、3163号
*10) 同上、3164号
*11) 同上、3191号
*12) 同上、3392・3573号
*13)『上越市史』別編1、1347号
*14)片桐昭彦氏 「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)
*15)荻原大輔氏「上杉謙信の北陸出兵」(同上)
*16) 『新潟県史』資料編3、147号
*17)同上、144号
*18) 『越佐史料』4巻、523頁
*19)同上、238頁
*20)『新潟県史』資料編5、2815号

上条上杉氏の系譜1 ー上条清方、定顕、定憲、弥五郎ー

2021-01-10 21:06:29 | 上条上杉氏
戦国期越後国刈羽郡鵜川庄上条には、上条上杉氏の一系統が存在する。以前、古志上条上杉氏の系譜を検討し上条上杉氏の祖である清方の子の代にそれぞれ古志郡と刈羽郡を拠点とする二系統に分岐したことを確認した。今回は刈羽郡の上条上杉氏について検討する。便宜的に刈羽上条氏と呼びたい。また、古志上条上杉氏については当ブログ「古志上条上杉氏の系譜」を参考にしてもらいたい。


まず、上条氏の祖である清方については黒田基樹氏の研究に詳しい(*1)。それに拠ると、越後守護上杉房方の子として応永20年(1413)頃に出生、正長2年(1429)に「上杉十郎方」として初見される。永享9年(1437)に兵庫頭に補任される。そして、永享12年(1439)に兄憲実の隠遁に伴い山内上杉氏当主と関東管領職を継承した。文安元年(1444)8月までには死去したという。


清方の死後、長禄4年には享徳の乱に伴う上州羽継原合戦に対する足利義政御内書の一つが「上杉播磨守とのへ」に宛てられている(*2)。森田真一氏(*3)はこの播磨守を『上杉系図 浅羽本』等に見える清方長男「兵庫頭 定顕」に比定し、弟淡路守房実とは別系統の上条氏として活動したと推測している。

ただ、森田氏の研究ではこの「定顕」を古志上条氏の上条定明と混同してしまいその後の系譜は混乱している。定明は天文3年死去(『越後過去名簿』)であるから「播磨入道」とは活動時期が離れており、また「定明」は死去時まで十郎を名乗ったから、二人が別人であることは確実である。すなわち、文安期から明応期まで刈羽上条氏として「播磨守定顕」が存在したといえる。実名については文書等で見えず確実ではないが、諸系図の記載「定顕」を尊重しておく。

明応5年閏8月には足利義材御内書で「上杉播磨入道」へ上洛について感謝が伝えられている(*4)。明応5年当時足利義材は将軍職を追われ越中へ亡命していた。「上洛」は義材の復権に関するものかもしれない。家永尊嗣氏は(*5)は越中における足利義材権力との関係から、「播磨入道」が守護上杉房能体制の中でも政治中枢に近い立場にあったと推測している。


定顕の次代が、永正7年6月に「上条弥五郎」として初見される定憲である(*6)。定憲は憲定、定兼とも名乗るが、便宜的に一貫して定憲と表記する。

定憲の出自は不明確である。当初、系図類の記載により定憲と古志上条氏の安夜叉丸が同一人物とされた上に安夜叉丸の父朴峯が山内上杉顕定(法名「告峯」)と混同されたため、定憲は顕定の実子と見られていた。しかし、系図類の記載に混同があることが理解され、『越後過去名簿』の出現で安夜叉丸や朴峯の存在も明かとなったことで、その根拠は失われた。

現在、定憲の出自に関する徴証は”母”と”花押”の二点である。まず、『越後過去名簿』に「芳雲寺殿 上杉ハリマ守御母花芳公 上条」が大永4年5月に供養されていることから、その母の戒名と没年、上条に居住していたことがわかっている。そして、定憲の花押型は上杉房定、顕定父子に酷似しており、血縁である可能性が想定されている(*3)。

可能性としては、順当に定顕の子息である説、本当に山内上杉顕定の実子であった説の二つであろうか。前者は、房定の甥にあたり血縁関係も花押型の示すものにも矛盾はない。現時点で最も自然な説であろう。後者は現在では花押型の他に根拠はなく、それを伝える所伝も他の事柄で誤伝として説明できる。ただ否定できる材料もなく、古志上条上杉氏には顕定の養子憲明が入嗣した可能性があることや定憲の政治的立場が山内上杉氏寄りであることから、完全に除外もできないか。定憲の母は確実であるため、顕定の妻について情報があればはっきりするかもしれない。


さて、次に定憲の名乗りの変遷を確認する。永正11年には「藤原憲定」と署名がある(*7)。当初は「憲定」であったのだろうか。そうであれば、この辺も山内上杉氏ゆかりの「憲」字を冠していたことになり山内上杉氏と関係が深いことに由来するかもしれない。

享禄3年に比定される書状(*8)に「播磨守定憲」と署名があり、受領名播磨守を名乗っていることが分かる。そして、天文4年6月までに実名「定兼」に改めている(*9)。文中は定憲で統一する。

また、永正期の上条兵部を定憲とする説もあるが、私は古志上条上杉定俊と推測している。

定憲は『越後過去名簿』に「常泰泰林永安 上杉ハリマ守」として記載され、天文5年4月23日の死去が確認される。当時、天文の乱として長尾為景と抗争の最中であった。戦死や戦病死の可能性も考えられよう。少なくとも定憲の死去が天文の乱の終結に繋がったことは間違いない。


定憲の次代を考える。

[史料1]『越佐史料』三巻、776頁
御書忝存候、如御諚当地落居不可有程候、弥五郎事爰元難儀之上出可申之由、可有披露候、恐々謹言、
 十一月九日           播磨守 定憲
 計見四郎右衛門尉殿


[史料1]は享禄3年に比定される上条定憲発給の文書である。署名からこの時定憲は播磨守を名乗っているから、文中にある「弥五郎」はその子息と推測されている(*11)。すると、定憲の次代はこの「弥五郎」であろうか。後代の上条政繁や義春が仮名弥五郎を名乗っていることを踏まえると、この人物が定憲の次代として存在したのではないか。

天文24年長尾景虎書状(*12)において「上条・琵琶嶋其外被加御意見、動之儀可然頼入存候」と安田景元へ上条氏、琵琶嶋氏への助言を依頼している。『越後平定以下太刀祝儀次第之写』には永禄2年に「上条入道」が見える。「弥五郎」の晩年の可能性があろう。

弥五郎の実名は不明である。『系図纂要』などで能登畠山氏から養子を取った「上条山城守定春」なる人物が記載されるが、確実な史料には見えない。同系図においても「定春」の父を守護上杉定実とし、その上流を八条上杉氏と接続するなど混乱がみられるから、その存在をそのまま信じることはできない。「定春」という実名は上条氏由来の「定」字に上条義春から一字を取った名前で、後世の創作である感は拭えない。


弥五郎の後代は、能登畠山氏出身の政繁、同じく能登畠山氏出身の義春、と続いていく。この二人についてはまた次回以降に詳しく検討したい。


ここまで、刈羽上条氏として

清方(十郎/兵庫頭)-定顕(兵庫頭/播磨守)-憲定/定憲/定兼(弥五郎/播磨守)-(弥五郎)=政繁/冝順(弥五郎/山城守カ)=義春/入庵宗波(次郎/弥五郎/民部少輔)

という系譜を確認した。


*1)黒田基樹氏「上杉清方の基礎的研究」(『関東管領上杉氏』戒光祥出版)
*2)『越佐史料』3巻、104頁
*3)森田真一氏「上条家と享禄・天文の乱」「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)『越佐史料』3巻、400頁
*5)家永尊嗣氏「足利義材の北陸滞在の影響」(『加能史料戦国Ⅱ』)
*6)『越佐史料』3巻、541頁
*7) 『新潟県史』資料編5、3212号
*8) 『新潟県史』資料編3、577号
*9) 『越佐史料』3巻、812頁
*10)乃至政彦氏『上杉謙信の夢と野望』KKベストセラーズ
*11) 池享氏・矢田俊文氏『上杉年表増補改訂版』高志書院
*12) 『新潟県史』資料編4、1568号

※2023/8/23 三分一原合戦に関する部分について修正した。