鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

『越後過去名簿』から見た和田黒川氏

2020-11-08 17:20:23 | 和田黒川氏
当ブログでは越後奥山庄和田黒川氏についていくつか考察を加えてきたが、高野山清浄心院『越後過去名簿』(*1、以下『名簿』)についての検討が欠けていた。今回は『名簿』の中に見られる黒川氏関係者について考える。『名簿』は中世越後に関する多くの情報を与えてくれるが、その史料的性格についてはさらなる検討を重ねる必要があるともされ(*2)、その点に留意しながらも考察を進めていきたい。


以下は、『名簿』中に見られる黒川氏関係者を年別に分けてまとめたものである。

大永2年
1、4月13日「□窓貞椿大姉 エチコ黒河トノ上様母上立之」(□は糸偏に長)
2、7月13日「道秀 黒川内 金次郎右衛門」

大永5年
3、8月7日「應泉 ヲク山ノ庄落合又三良」

黒川盛実の活動時期にあたる大永年間には上記が確認できる。1にある「黒川トノ」は黒川盛実であろう。よって、供養依頼者は盛実の妻の母親ということになる。

3にみられる落合氏については、『色部年中行事』(*3)に「落合主馬丞、かの方黒川より罷り出でられ候」「黒川においても親類に被渡候」とあることから、黒川氏の親類であるとわかる。文明12年に落合大炊助実秀が見られるから(*4)、落合又三郎はその後裔にあたる。

佐藤博信氏の研究(*5)によって、落合氏は少なくとも『色部年中行事』の成立した天正期頃までに黒川氏の支配を脱して色部氏に従属する存在であることが指摘されている。『色部氏家中覚』において「落合彦四郎」が見られることもそれを示している。


享禄2年
4、1月27日「祐貞 黒川宝光院為母義」
5、1月27日「玉峰 黒川小山家中」
6、6月13日「舜通 黒川壽高庵立」(同行に「金芳四月十六日 光久二月廿四日」とある)
7、6月16日「洗心松公大姉 越後黒川トノ上サマ」
8、6月25日「應貞舜叟庵主 逆 黒川但州」(「貞」の横に「真」と書かれる)
9、7月1日「香林磐公 黒川御料人立之」
10、8月8日「花窓 黒川宝光院母義タメ 落合後家 霊」
11、8月10日「宗舜上座 黒川小山内義」
12、9月16日「量宝壽公 黒川但州立之」

享禄年間は黒川盛実と清実の代替わりの頃である。享禄4年には清実の活動が所見される。4、10では、黒川宝光院なる人物の母が供養されている。重複している理由は不明である。供養者は「落合後家」である。推測すれば、落合氏に嫁ぐも未亡人となっていた黒川宝光院の同腹姉妹がその母を供養したということになる。ここに3でも見た落合氏と黒川氏の親類関係が確認できる。3と時期が近いことからこの後家の夫は落合又三郎の可能性がある。

5、11は黒川氏の被官小山氏の関係者である。小山氏は文明12年に小山八木丸が(*6)、永正16年には小山実繁がみえる(*7)。11は小山氏の妻を供養していることがわかる。時期的にみて実繁かその次代の妻であろう。

6は供養依頼者として黒川壽高庵という人物が確認される。4、10でみえる黒川宝光院と共に他に所見のない人物であり、『名簿』により黒川氏一族の構成の一端を見ることができると言えよう。

7は1でみられた盛実の妻である。

8は黒川但馬守なる人物の逆修依頼である。逆修は生前供養を意味する。12では但馬守が供養依頼者となっている。「黒川但馬守」は永禄11年上杉輝虎書状(*8)の宛名に確認できる。ただ、享禄2年とは約40年離れているから両者は別人であろう。黒川氏に但馬守家と言うべき庶家が存在していたことがわかる。

9は黒川御料人すなわち黒川氏の娘が供養依頼者となっている。清実の初見される前の時期であるから、盛実の娘である。ただ、「香林磐公」は19に見られるように天文16年に供養された記録もあり、何かしら誤りがありそうである。


天文5年
13、3月1日「芳春 黒川 ハマサキ左京亮立」

13に供養依頼者として見られる浜崎左京亮は黒川氏被官である。文明12年に浜崎美作守助儀が(*6)、永正16年には浜崎実広が所見される(*7)。左京亮は実広本人もしくはその関係者であろう。


天文7年
14、6月8日「芳室 黒河内 ヒクニ立之」
15、6月15日「道善 黒河ハマサキ左京亮立之」
16、6月15日「實英秀公 黒河片野三良左衛門」
17、6月18日「道階 黒河濱崎トノ子息与七郎」

14は「内」が内儀を表すのであれば供養された者は黒川清実の妻ということになる。ただ単に22、23で見られるような黒川家中を表す語である可能性もある。16は詳細不明である。

15、17は浜崎左京亮に関する供養依頼である。左京亮の子与七郎が死去したことがわかる。


天文16年
18、2月28日「徳厳宗円居士 黒河右兵衛尉立之」
19、7月1日「香林磐公 カンハラ郡黒河右兵衛尉立 御息四郎殿立之」
20、7月21日「潮鴇應調査庵主 黒河右兵衛尉トノ 直立之 逆」
21、7月21日「平實 黒河四郎次良トノ 直立之 逆」
22、7月21日「芳春 黒河之内前嶋玄蕃助 逆」
23、11月4日「了徳 黒河内前嶋玄蕃助」
24、12月13日「珎綱尼 黒河右兵衛尉立 霊」

18、19、24で供養依頼をしているのは黒川右兵衛尉清実である。20において逆修依頼をしている。

22、23は黒川家中の前嶋玄蕃助に関係したものである。


19、21にみられる黒川四郎次郎は清実の次代として天文から弘治にかけて所見される武将である。清実の実子であることが19から確実となる。さて、この四郎次郎は天文21年黒川実氏書状案(*9)で知られる人物であり、実名「実氏」はその書状案にある後世の張紙を根拠としているに過ぎない。ただ、他に実名を確認できないため当ブログでも「黒川実氏」と考えてきた。

そこで注目したいのが、四郎次郎が逆修を依頼している21「平實 黒河四郎次良トノ 直立之 逆」である。通常、戒名が記載されその下に俗名や供養依頼者が記されるが例外も存在する。例えば、享禄4年5月3日の日付をもつ「家綱 新左衛門尉 逆 水原木野」と言う記載は、戒名ではなく新左衛門尉家綱という俗名で逆修が依頼され、天文22年10月には上条上杉頼房が俗名で供養されていることが確認される。

その上で、黒川四郎次郎の記載21を見てみると、「平實(平実)」が実名である可能性があると考えられる。もちろん「実」字は黒川氏の通字であり、それを後方に置く実名は「実氏」よりもふさわしい。盛実、清実らの活動時期から推定して天文16年当時、四郎次郎は20歳前後の若者であったと思われ、俗名で記された理由であろう。

確実な史料において実名が確認されない天文~弘治期の黒川四郎次郎について、その名が「黒川四郎次郎 平実」であったのではないか、という仮説を提示しておきたい。


ここまで、供養の記録を個別にみてきたが、次ぎにその記録が特定の年次に偏っている点について考察したい。

前嶋敏氏(*2)は、「とくに供養依頼が集中している年に複数の供養依頼を行っている武将は権力中枢に近いことが想定される。」としている。天文16年は全体としても供養依頼が多い年であった。さらに前嶋氏は、黒川氏の場合は府内長尾氏の元で活動していた直江氏との関係が背景にあると想定している(*11)。

よって、黒川氏が天文後期に府内長尾氏と協調関係にあり大きな影響力を持っていたことが推測される。その契機となったのは、伊達入嗣問題から続く揚北衆の混乱、であろう。享禄・天文の乱において揚北衆の中心的存在は和田中条氏であった。しかし、中条氏は天文10年前後における伊達入嗣問題とそれによる紛争において府内長尾氏と対立、結果居城鳥坂城を攻撃されるに至る。天文10年の長尾為景の死去後、長尾晴景の支配が本格的に開始される時点で中条氏は府内長尾氏体制から脱落していたと考えられ、実際『名簿』に和田中条氏の記載はほとんどない(*12)。

天文後期に中条氏に代わり揚北衆の中で存在感を強めたのが、黒川清実だったと想定できる。清実は伊達入嗣問題前後の混乱期において一貫して府内長尾氏派であったと推定され、黒川実氏案文(*8)からは黒川氏が他家の問題に介入していく様子も窺われる。後世の所伝類が清実の名ばかり伝えているのも、清実の代における黒川氏の隆盛が著しかったことが理由の一つにあるかもしれない(*13)。

長尾晴景期において、黒川氏は親長尾氏派としてその影響力を強めていたと考えられる。為景期、謙信期に比して史料の少ない晴景期において、『名簿』から黒川氏の当時の勢力を知ることができると言えるだろう。


以下は和田黒川氏と関係する寺社の人々を供養している記録を抜粋したものである。参考として掲載する。
永正16年
11月2日「宗仲 ヲク山庄キノトノ地蔵院」
奥山庄乙(キノト)地蔵院を意味する。
大永3年
7月15日「秀海 貞菊 黒川羽黒別当少弐立」
大永6年
5月21日「芳椿 カンハラ郡女川 十地院 長橋大上」
5月21日「妙心 中条ツツミヲカ十地院」
「ツツミオカ」は鼓岡である。
大永8年
6月15日「妙光 乙宝寺吉祥坊内」
乙宝寺には大永4年に黒川盛実が華鬘を寄進している。
享禄2年
5月12日「法印権大僧都宗鑁 乙宝寺報恩寺立之」
享禄4年
3月21日「権大僧都法印 宗雅 越後黒河蔵王堂別当立之」
現在黒川城近くに蔵王権現遺跡がある。
天文21年
日付無「快敬秀導 乙宝寺学頭菩提」
天正14年
10月14日「月はい俊憲 越後国ノッタリ郡キノト住僧」
ノッタリは沼垂のことである。乙(キノト)の地蔵院関係者か。


*1)山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要第9号』)
*2)前嶋敏氏「景虎の権力形成と晴景」(『上杉謙信』高志書院)
*3)『新潟県史』資料編4、2361号
*4)同上、1332号山之庵喜栄等五名連署起請文、ここに「可奉仰惣領候」ともありその関係がうかがわれる。
*5)佐藤博信氏「『色部年中行事』について」(『越後中世史の世界』岩田書院)
*6)同上、1337号黒川氏実家中諸士連署起請文
*7)同上、1858号
*8)同上、2324号
*9)同上、1482号
*11)前嶋氏は(*2)において直江氏と黒川氏の関係について直江氏を主、黒川氏を従とする主従関係としているが、これは首肯できない。直江氏は黒川氏と府内長尾氏の間を繋ぐ「取次」としての役割であろう。これは、永禄12年の中条氏との相論に際して、直江景綱が「黒川方被申事候、惣而拙夫彼方取告をも致之付」と述べていることからもわかる(『新潟県史』資料編4、1901号)。
*12)『名簿』に「中条」の記載は多々あるが、「ツマリ中条」とあるように妻有を拠点とする別系統の中条氏である割合が高い。
*13)これは中条氏にも同様のことが言える。景資や房資は見過ごされ、藤資の事績ということにされることが多い。他にも桃井義孝や加地春綱などでもそれは言える。共通点として享禄4年の越後衆軍陣壁書に署名していることが挙げられるから、史料残存の偏差という点も見過ごせない。

黒川盛実と菅与吉氏所蔵文書

2020-08-26 09:36:30 | 和田黒川氏
[史料1]『越佐史料』三巻、587頁、
就連々わひこと候て、一筆いたし候、屋しき一けんいたし候、この以後にをいて、ほうこうかんよう候、
  永正9年             (署名欠)
    十一月十八日
  いまい弥九郎方へ

 [史料1]は『越佐史料』において「姓名欠ク、黒川カ」とされる文書である。今井氏に対して屋敷一軒を宛がったものである。姓名を欠いているが、花押は残っている。

その花押は、黒川盛実のものである。『越佐史料』に載せられた花押型と、大永6年起請文(*1)と一致する。よって、この文書は黒川盛実発給の文書であるといえる。

注目すべきはその伝来である。『越佐史料』によれば、「菅与吉氏所蔵文書」だという。これは私が黒川竹福丸が後に政実を名乗ると推測した際に、根拠として用いた文書群である。このように他の所蔵文書も黒川氏関連文書であることから、政実発給文書(*2)が黒川氏の発給であり、黒川竹福丸が後に黒川政実を名乗ったことはより補強されると考える。


以前の記事はこちら


*1)『新潟県史』資料編3付録、花押印章一覧236号
*2)『越佐史料』三巻、324頁

21/4/11リンクを追加

黒川為実と御館の乱2

2020-08-20 09:33:56 | 和田黒川氏
前回は天正7年4月に為実が前年に落とした鳥坂城が奪回された時点までを検討した。今回は、その後を辿っていきたい。


[史料1]『中条町史』資料編1、1-609号
急度令啓之候、仍後藤左衛門尉府内へ為使指越申候ける、御挨拶之様体共聞召候而、可為御大慶候、其元御家中衆御相談候而、此上之事御工夫ニ可有之候、万々任彼口頭候、恐々謹言、
 (朱書)「天正七年」
六月五日       遠山
              基信
  黒川殿 御宿所

[史料2]『上越市史』別編2、1843号
来翰祝着之至候、抑近年牢浪候而、其地在留之由、上民内々申理候条、其方進退之儀、今度越国江茂申越候、乍勿論本意之上者、別而当方甚深千言万句候、仍段子一巻到来目出度候、任折節薄板一端進之候、猶遠藤山城守可申候、恐々謹言、
 林鐘(六月)廿五日    輝宗
  黒川源次郎殿

[史料1]と[史料2]は内容から同年に出された文書である。

[史料2]「抑近年牢浪候而、其地在留之由、上民内々申理候」とあり、為実が鳥坂城落城後黒川城でも支えきれずと判断して上郡山氏と共に出羽国小国まで後退したことがわかる。同日に伊達輝宗が上杉景勝へ「近来無音之条、御床敷候処、御懇章快然之至候」(*1)として連絡をとっており、この書状と同じに出されたものであろう。すると、天正7年3月末に上杉景虎が切腹した後まもなくの伊達輝宗と上杉景勝が交信したと考えるのは自然であり、[史料1]の朱書とも合致することから、天正7年6月の書状として良いだろう(*2)。

伊達輝宗は「其方進退之儀、今度越国江茂申越候」とあるように、為実の復帰を上杉景勝へ交渉していた。伊達氏も為実の支援をしていたわけであるから、為実の復帰を含め景勝方との戦後交渉は必須であったと考えられる。

[史料1]では遠藤基信が為実に伊達氏から越後へ使者が派遣されたことを伝え、「此上之事御工夫ニ可有之候」と、復帰に関して為実自身も工夫するようにと伝えている。

よって、天正7年4月の鳥坂城落城を受け為実は小国へ後退、6月には伊達氏の援助により越後復帰の交渉を開始した、とわかった。

ちなみに、この年9月になると、越後において直江信綱が家臣本村新介へ「去年以来様々相稼奉公致候間、黒川分出置候」として、黒川氏の所領を宛がっている。黒川氏は御館の乱後、減封されたと思われるがその具体的な事例が見える。


[史料3]『上越市史』別編2、1892号
就今度黒川帰郷、貴札并以中津丹波守方御口上之趣、委曲承之候、已前度々如申上、彼進退更非覚悟之外候、御威機躰黙止存、相任 御意候、(後略)
 (朱書)「永禄十一」
 極月廿八日     雨順斎
             全長
 米澤江 貴報人々御中

そして、為実の復帰が決まったのは天正7年の12月であった。[史料3]は為実が伊達輝宗の後ろ盾の元黒川へ復帰することが本庄全長へ伝えられ、全長がそれを認めた書状である。朱書は永禄11年とするが明らかな誤りである。署名雨順斎全長は天正9年までの繁長の名乗りであり、[史料1][史料2]との繋がりで天正7年に比定できるであろう。

まとめると、次の通りである。天正7年4月鳥坂城落城した後、上郡山氏拠点の出羽小国まで後退する。その後、伊達氏の支援で6月頃から交渉が開始され12月までには復帰が決まった。

以上、ここまで数回に渡って黒川為実について検討した。

四郎次郎(竹福丸)では謙信との関係性、為実では伊達氏との関係性が深かったという考察を行ってきた。ただ、それは二人の性格や思考によるものではなく、時期と周辺情勢によるものだったと考える。まず、大前提となるのは黒川氏が領主として独立性を持つ存在ではあったが、完全に独立することは不可能であったと言うことだ。すなわち、領主として上位権力からの干渉を抑えながらも、自らの存在維持のために上位権力の後ろ盾は不可欠だったと考えられる。これを踏まえると、四郎次郎(竹福丸)が上杉謙信という強力な上位権力に抱合され、謙信死後為実が伊達氏という戦国大名に接近したのは必然であろう。伊達氏とはまた地理的な近接関係も作用したと考えられ、戦国時代の地域性を考える上で示唆的である。

黒川氏の動向は、戦国大名と領主の関係を考える上で良い例であり、戦国大名上杉謙信の存在形態の一端を示すものとして重要なものと考えられよう。


*1)『上越市史』別編2、1842号
*2)ただ、[史料2]の「近年穿浪」の表現より為実の亡命は複数年に渡り越後復帰と伊達氏上杉氏の交渉は天正8年かとも捉えられるが、景勝が蘆名氏と交渉したのは天正7年であり、伊達氏とも天正7年に交渉を始めたと考えるべきである。

黒川為実と御館の乱1

2020-08-12 11:05:55 | 和田黒川氏
御館の乱における黒川為実の動向を検討したい。

御館の乱は天正6年5月に上杉景虎が御館へ入ってから本格的に抗争が開始され、天正7年3月に景虎切腹し上杉景勝が家督継承、天正8年中頃までに三条神余氏や栃尾本庄氏の抵抗を制圧し、終結する。

まず、天正6年7月の上杉景勝書状(*1)に「黒川之地一途不及届候」とあり、この時点で為実に景勝方に与する意思がなかったことを示す。


[史料1]『上越市史』別編2、1649号
其地へ下着、種々相稼候故、鳥坂之地押詰、城中令折角之由、簡要候、雖無申迄候、弥々入計策候得共、城内引破、与次遂本意候様ニ被相稼専一候、扨亦、爰元備堅固候間、可心安候、猶巨細与次可申越候、謹言
九月二日           景勝
  築地修理亮殿

[史料2]『中条町史』資料編1、1-606号
態令啓之候、仍御簾中御仕合ニ付而、先日以使者申入候ける、御取合之時分令校量、以書中不申候、然者、其元可為御蒙昧候、さ様ニ候而者、隣端之覚も如何ニ候、縁辺之事者時之御取合ニ候、貴所御進退、従当方相挊被申候事、都鄙無其隠候間、於末代ニ相捨被申間敷候、明日ニも御手詰之事候者、当国人数払而指越可被申候、尤上郡山之事も、一点如在不可有之候、少も不可有御疑心候、此等之儀、御家中衆へも慥に可被仰聞候、努々不可有偽候、万吉期後音候、恐々謹言、
(朱書)「天正七年」
三月二十五日        遠山
                基信
  黒川殿 御宿所

[史料3]『上越市史』別編2、1809号
急度申遣候、仍去月廿四日館落居、三郎切腹、其外始南方衆、楯籠者共一人も不洩討果候、去年以来之散鬱憤、大慶不過之候、扨又、有其許涯分走廻、越前守身上可令馳走事、肝用候、猶越前守可申越候、穴賢、
尚々、此度越前守雖可指下候、其元未落居之由候間、如何共とつさかの地於計策仕者、其上必可指下候、無油断可令才覚候、以上、
 卯月八日          景勝
  築地修理亮とのへ

次いで、[史料1]から天正6年8月末までに黒川為実が中条氏の鳥坂城を落としたことがわかる。中条景泰、築地修理亮共に府中に在陣している隙を狙ったものだろう。9月2日付で「其地へ下着、種々相稼候故、鳥坂之地押詰」と景勝が記述しているから、8月中に既に鳥坂城を巡る攻防が活発化していた。

鳥坂城落城が天正6年であるのは[史料3]に天正7年の上杉景虎切腹の記述と共に鳥坂城攻めが併記されていることからわかる。また黒川氏によるものという理由は、鳥坂城周辺に黒川氏の他に敵対勢力が見られないこと、[史料2]の「明日ニも御手詰之事」という記述と[史料3]にある鳥坂城攻めの様子が一致していることが挙げられる。

そして、築地修理亮宛の4月21日付上杉景勝書状(*2)に「其方以稼鳥坂之地則事、誠以忠信比類無候」とあり、この時点までに築地修理亮が鳥坂城を奪還したことがわかる。ちなみに、中条景泰は結局府中に在陣を続け鳥坂城攻めには参加しなかった。[史料3]に見えるように上杉景虎の切腹と時を同じくして鳥坂城が落城することから、中央における抗争の帰趨が関係したことは十分に考えられるだろう。

さて、もう少し黒川為実の鳥坂城攻防について考察したい。[史料2]に注目する。前後の状況とも合致するため天正7年の比定でよいと考える。これは伊達氏重臣の遠藤山城守基信が鳥坂城を防衛中の為実に宛てた書状である。この中に「当国人数払而指越可被申候、尤上郡山之事も、一点如在不可有之候」とあり、伊達氏の軍事的支援があったことが読み取れる。その背景として、文中に「御簾中」や「縁辺」というように婚姻関係を表す語句が見られることが関係しているだろう。遠藤基信が「貴所御進退、従当方相挊被申候事、都鄙無其隠候間、於末代ニ相捨被申間敷候」と述べている所を見ると、伊達氏関係者との姻戚関係が想定されよう。黒川氏の在地的な繋がり見えてくるのではないか。

伊達氏の軍事的支援の中心は地理的近接性により黒川氏と関係の深い上郡山氏であった。天正7年3月の村山慶綱書状(*3)において「今度三郡山(上郡山)方・黒川方乱入」と表現されていることから、それは明らかである。

[史料2]において基信は「其元可為御蒙昧候、さ様ニ候而者、隣端之覚も如何ニ候」、すなわち物事の判断に暗く、近隣の覚えも悪くなる、と手厳しい。また、基信は「此等之儀、御家中衆へも慥に可被仰聞候」とあり黒川家中の人々へ気遣いを見せており、黒川家臣団の影響力の大きさを示していると考えられる。このように「縁辺」、「隣端」や「御家中衆」などの存在が感じられる所に、やはり為実が地縁的枠組みの中に制約されているような印象を受ける。


以上より御館の乱における為実の鳥坂城を巡る攻防についてまとめると、次の通りである。天正6年8月頃に為実が上郡山氏の軍勢を始めとする伊達氏の援助を受け、鳥坂城を落とす。9月までには中条氏家臣築地修理亮が鳥坂城攻めを開始。翌3月になっても鳥坂城は落ちなかったが、上杉景虎の切腹が伝わったころ鳥坂城も落城した。

次回は鳥坂城落城後の為実の動向を確認していきたい。


*1)『上越市史』別編2、1577号(「甲州和与之義も入眼候」より天正6年に比定される)
*2)同上、1811号
*3)同上、1801号

黒川左馬頭と「為実」

2020-08-11 11:43:45 | 和田黒川氏
四郎次郎(竹福丸)の次代にみられるのは黒川為実である。『越佐史料』始め多くの資料や書籍において「為実」という実名に比定されているのを見るが、それを示す一次史料は多くない。今回は周知のことではあろうが、黒川左馬頭、豊前守の実名と伝わる「為実」について掘り下げていきたい。

簡単に整理すると、黒川竹福丸/四郎次郎の次代として史料上現れるのは天正7年の黒川源次郎である(*1)。そして、天正12年に比定されている直江兼続書状写(*2)に黒川左馬頭が宛名にみえる。黒川左馬頭は文禄年間まで確認できる(*3)。年不詳ではあるが上杉景勝書状(*4)には黒川豊前守がみえる。

[史料1]『新潟県史』資料編5、2868号
今度様々詫言致之付而、別而中使之儀申付候、如前々之本持之史面出之候、於向後も只今不相替奉公可為肝要候、若誰人成共横合申候共、彼状為先召置者也、仍如件、
天正十三年
  八月三日           為実
   鈴木蔵人佐殿

[史料2]『中条町史』資料編1、1-645号
其表昼夜之軍功無比類候、因茲本領粟生津・上条両村返置者也、仍如件、
天正拾弐年
  七月廿四日            (景勝朱印)
     黒川左馬頭殿

[史料1]は為実なる人物が鈴木氏へ中使の職を安堵したものである。[史料2]より粟生津は黒川左馬頭に与えられているから、黒川左馬頭の実名は為実であったことがわかる。「返置」という表現や上条の領有が以前に確認されること(*5)から、粟生津や上条は御館の乱の混乱によって没収され新発田重家の乱の活躍により返還されたものと推測できる。

また、『本荘氏記録』には本庄繁長三女が「黒川豊前為実室」であると記される。本庄繁長の乱の記述には「黒川左馬頭」が登場する。実際この頃の黒川氏の当主は四郎次郎(竹福丸)であるから誤りであるが、豊前守の以前に左馬頭が所見されることから生じたものと考えられる。よって、これらは為実が左馬頭の次に豊前守を名乗ったことを補強するものとなろう。

そして天正7年に見える源次郎は、左馬頭が天正12年から所見されることから為実の仮名として矛盾はない。御館の乱後の黒川氏の状況を伝えるものに本庄全長書状(*6)があり、その中で全長は「就黒川今度帰郷」について伊達氏と連絡を取っている。御館の乱での黒川氏の動向は次回検討するが、これは伊達氏配下上郡山氏の元に逃れていた黒川源次郎の復帰を指すと考えられる。よって、黒川源次郎が越後に復帰したのち左馬頭を名乗ったと考えられよう。

また、『伊達貞山治家記録』に天正12年伊達政宗家督相続を祝したとされる人物に黒川為重がおり、そのときの書状(*7)がある。ここには署名として「黒川左馬頭為重」とあるとされるが、「左馬頭」より為実を指すと考えられる。[史料1]より天正13年には「為実」を名乗っているおり、くずし字の場合「實」(=「実」)と「重」は似ている場合があるから、この書状も正しくは「為実」ではなかろうか。後に黒川左馬頭宛伊達政宗書状(*8)もあり、黒川氏と伊達氏の通交は続いていく。

ちなみに、先代四郎次郎(竹福丸)は25歳頃の死去と推定されるため、その後まもなく活動する為実は四郎次郎(竹福丸)の子とは考えられない。それは為実が名乗った源次郎、左馬頭、豊前守のどれもが歴代黒川氏に見られないものであることからもわかる。『中条家分家系譜』の「黒川家系譜」に元和8年の死去と伝わることから、家督継承時はまだ若かったようである。例えば、享年60とすると生年は永禄5年となり、初見の天正7年には17歳である。黒川実氏の死去が弘治年間から永禄初期であるから、実氏の子すなわち四郎次郎(竹福丸)の弟だとしても矛盾のない範囲である。(*1)書状が収められている「覚上公御書集」においてその綱文は、源次郎は黒川為実の次男であり書状は新発田重家与して小国へ逃れた際のものであるとしている。新発田重家の乱で黒川氏が景勝方であったのは[史料2]からも明らかであり誤りであるが、源次郎が次男というのは示唆的である。為実が四郎次郎(竹福丸)の弟であった可能性を仮説として提示しておきたい。

以上、黒川為実の実名についての史料的根拠を紹介し、源次郎、左馬頭、豊前守と名乗りの変遷を確認した。

*1)『上越市史』別編2、1843号
*2)『中条町史』資料編1、1-642号
*3)『上越市史』別編2、3648号
*4)『越佐史料』六巻、504頁
*5)『上越市史』別編1、119号
*6)『上越市史』別編2、1892号
*7)『大日本古文書』家わけ三の一、331号
*8)『上越市史』別編2、3073号