前稿の黒田秀忠の乱に引き続き、これから数回にわけて景虎と上田長尾政景(以下政景の乱とする)の抗争を考察してみたいと思う。
政景の乱についての一次史料はいくつかあるものの年次を決める手がかりが少ない。そんな中上杉氏年表増補改訂版(*1)では天文20年に比定している。これは上杉御年譜や上杉家譜の記述を元にしていると思われる。前稿でも参考にした前嶋敏氏「景虎の権力形成と晴景」(*2) において前嶋氏は天文18年から19年にかけてのこととする。私も自分なりにいくつかの点からこの乱に考察を加えたいと思う。
結論からいうと私は、天文17年から18年(以下第一次政景の乱)、さらに天文19年から20年にかけて(以下第二次政景の乱)の二度にわたり抗争が発生したのではないかと考えている。
まず、従来の説の疑問点を挙げてみたい。
・天文18年に景虎と政景が和睦しているが経緯が不明
・宇佐美定満の天文18年には景虎方として見えるにもかかわらず天文20年(前嶋氏説では19年)に政景が書状で「今度」という表現を用いて定満の離反に言及している、時間的なズレ。
・上杉御年譜、上杉家譜においても天文20年に具体的な交戦の事実が記述されていない。
などがある。
年次が確定する史料をあげると、7月4日平子孫太郎宛本庄実乃書状(*3)である。ここで平子氏が上杉玄清へ書状を送り景虎が披露していることがわかり、景虎の家督相続(天文17年12月)後上杉玄清死去(天文19年2月)前の7月となり、天文18年とわかる。ここの文書に宇佐美定満居城の放火、景虎の関東出陣計画の話題があり、これらも天文18年に確定される。また、御年譜などの記事も尊重して天文20年7月に景虎の上田出陣計画が練られ、その後に政景と和睦したと考える。しかし、御年譜などもこれ以前のことは「政景逆意之企」などとあるばかりで具体的な交戦の記事はないため、あくまで最終的な和睦のみの年次利用とする。この最終的な和睦であるが、天文21年以降の景虎の戦国大名化やその後の政景の立場をみるに、完全な従属と捉えたい。
さて、上の事柄の年次比定を起点に考察を進めていきたい。
まず、文中に「付け火」と放火について言及している6月宇佐美定満書状(*4)は天文18年に比定される。するとこの書状と同様に上田長尾氏との関係を心配し自らの窮地を訴えている5月宇佐美定満書状(*5)とこれと同日の加地定次書状(*6)も天文18年に比定される。すると、この宇佐美定満書状の中で上田長尾氏との「上田年内 御無計相調之由」「一向無沙汰候」とあり、さらに「政景御舎弟被成出府之由」「拙夫知行于今一カ所も不被相渡候」とある。従って18年5月までに景虎と政景の間に政景の人質の提出と所領返還を条件とした和睦が締結されていた(以下和睦1とする)ことが判明する。20年春の和睦(以下和睦2)と20年8月頃の最終的な和睦(以下和睦3)の前、18年5月までに和睦1があったということ。この和睦1について上田長尾氏配下金子氏の10月金子尚綱書状(*7)がある。この書状は「宇賀地」の話題より天文18年に比定され、これによると春(1~3月)に和睦し所領について定めたため「宇賀地」の地を平子氏が所有するのはおかしいと主張しまた「今度正印被遂出府」ともあることから、和睦1が人質提出と所領の取り決めについての条件があったことを裏付ける。(*5)書状に「(知行が渡されず)かうかうの別ニ而入手候へハ、御無計之到候条、御批判も如何之間、兎角令遠慮候間、当地備大切訖候」と有り、宇佐美定満も和睦1に則り停戦すべきと認識していた。
和睦1についてまとめると、天文18年3月までに和睦し、それは政景の人質提出所領返還を求める景虎優位のものだった。7月には景虎が関東出陣を計画するなど情勢は落ち着いていたようにも見えるが、政景の条件不履行や宇佐美氏居城放火なども発生し未だに反抗的であったということになる。
ここで宇佐美定満の動向に注目してみたい。上述の比定により18年5月には上田長尾氏方と抗争し景虎の味方であるとわかる。また、魚沼郡で合戦中である1月の長尾政景書状(*8)などに「今度宇佐美駿河守(定満)替覚悟」つまり寝返ったとあり、のちに宇佐美は宇佐美定満書状(*9)の中で「(多功小三郎は)拙夫ニ同心、剰被致討死候」と述べている。多功小三郎は18年5月の時点(*5)でその遺領の処遇が問題になっていることからすでに戦死したとわかる。( *8)「今度」という表現はその事柄が近接して行われたことを示し、(*9)「同心」より多功小三郎は宇佐美定満と共に景虎側として戦死したとわかる。宇佐美の寝返り、政景との合戦による多功の戦死、多功遺領の整理、の順序であり、(*8)書状は(*5)書状より前である必要がある。ここから、1月に行われた発智氏金子氏などと景虎方の魚沼郡での合戦(*10)は天文18年に比定されると考える。
天文18年1月というと景虎は家督相続の直後であり、前稿でみたように黒田秀忠の乱の最中であった。反守護代勢力である黒田氏と上田長尾氏が連携して反乱するのは不自然では無く、むしろ合理的である。また、魚沼郡での合戦に対して景虎の出馬がみられないことも、上郡での黒田の乱に忙殺されていたためとも考えられる。さらに史料的なてがかりを探すと、天文18年正月四日上野家成宛本庄実乃文書(*11)のなかに「其元御かせ義簡要ニ存計候」とある。これは上田長尾氏と所領を接していた上野氏へ政景との抗争に対して活躍するようにとの意味であると捉えられる。
*1)池亨・矢田俊文、高志書院、2013
*2) 前嶋敏・福原圭一編、『上杉謙信』、高志書院、2017
*3)『上越市史』別編1、20号
*4)同上、17号
*5)同上、51号
*6)同上、61号
*7)同上、21号
*8)同上、42号
*9)同上、100号
*10)同上、40~46号
*11)同上、11号、前稿において全文紹介している。
次回に続きます。