鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

三潴氏の系譜1

2023-03-25 17:52:55 | 三潴氏
引き続き越後三潴氏について検討する。今回はその人物と系譜について詳述したい。


1>長政(出羽守)
まず、三潴氏として有名な人物は三潴出羽守長政だろう。その初見は『越後過去名簿』における天文22年の供養記録である。「長政」という実名で確認される。『名簿』から天文5年に「三潴」、「三潴帯刀小三郎」と三潴氏の人物が続けて死去しており、その後を継いだ人物が長政だろう。『名簿』の所見から弘治2年9月までに出羽守を名乗っていることが確実である。

書籍などで「政長」と書かれることもあるが一次史料での所見はなく、一貫して長政で見える。『御家中諸士略系譜』など系図に見られる名前だが明らかな誤りである。上杉政虎からの偏諱とする勘違いかもしれないが、政虎を名乗る以前の天文22年時点で既に三潴長政を名乗っている。


続いて、永禄6年色部勝長と平賀重資の小旗の紋を巡る相論にその名を見る。長政は勝長の意見を河田長親に取り次いでいる。この相論は色部氏側が勝訴しており、その背景には長政の活動があるだろう。人脈の有無は裁決結果に大きく影響したと思われる。つまり、長政が上杉輝虎を中心とする政治体制に近い人物であったことがわかる。相論を巡る三潴長政書状(*1)からも三潴出羽守長政の名乗りが確実である。

永禄12年1月上杉輝虎書状(*2)に「色部修理進不図遠行、無是非次第、雖然弥三郎有之儀候間、涯分取立可為走廻候」と勝長死後に嫡男顕長を支えるよう指示されており、小旗相論でも見られた色部氏とのつながりが示される。色部氏の取次として見えた長政の立場は一時的なものではなく、継続的なものであったことが示唆される。上杉輝虎と領主間を結ぶ取次の具体的な役割が見える一例といえよう。この時、長政は奥郡に在陣していたから「涯分取立」が実際に色部氏家中への直接的な働きかけであったことは想像に難くない。前回見た、酒町村の所領もこのような奥郡との関係で与えられたと想定できる。

また、同時期本庄繁長の乱においては長政の軍事的役割も所見される。上述の上杉輝虎書状では繁長の乱に際して、敵対する大川一族を制圧するよう長政へ指示している。この時の長政は大川長秀の軍監のような立場であったらしく、長秀は「仁中・三出頻而催促候、某事若輩之儀候間、旁々御意見候而、翌日燕倉へ引返申候、(中略)、藤懸へ可令進陣由存候」と述べている(*3)。こういった長政の活動内容は、例えば庄田定賢や堀江駿河守といった旗本の武将と類似すると感じる。三潴氏は文明期に作成された『越後検地帳』(*4)に長尾能景被官として見えており、府内長尾氏の被官として存在したと考えられる。その立場は長政にも引き継がれ、上杉輝虎の有力な旗本として活躍したと推測されよう。上述の色部氏との関係も近臣としての地位に基づくものだろう。

『先祖由緒帳』には輝虎が将軍足利義輝から「輝」字を拝領した際に、長政が使者であったことを伝えている。同書には長政へ将軍より刀が下賜され、記述当時も三潴氏が所有していたと記載されている。『謙信御書集』にも永禄4年12月に「輝」字を賜ったことなどの御礼として長政を派遣し、将軍へ太刀、馬、黄金などを献上したことなどが記載されている。

永禄期以降、長政の活動を伝える史料はないが、上杉景勝による御館の乱後の論功行賞において「三潴出羽守分」(*5)が天正6年9月に安田治部少輔に宛がわれ、その後も「三潴分」が諸氏に与えられている。このことから、御館の乱において三潴氏は景勝に敵対し所領を没収されたことが推測される。


2>左近大夫
確実な史料で実名は確認できない。『御家中諸士略系譜』では「長能」とされるが、同系譜は正確性に欠き、後述するように牛屋氏との混同も考えられるため、断定し難い。

三潴左近大夫の初見は永禄11年8月上杉輝虎(*6)である。本庄繁長の乱において、下渡嶋城、庄厳城などで守備についていたことがわかる。

天正11年7月三潴左近大夫に「荒川条」を与えることが約束されている(*7)。荒川条は中目を含むと思われ、左近大夫が長政の後継であったと推測される。つまり、左近大夫は長政と共に御館の乱で一時没落したが、天正11年7月に上杉景勝に再び服属したことがわかる。ただ前回検討した通り、中目はこの後も色部氏領であり三潴氏は回復できなかった。

上杉家に復帰した左近大夫は新発田重家の乱に際して羽黒城に在城するといった軍事行動が書状(*8)から見えるが、その所領は本拠を離れなおかつ大きく削減されたことだろう。

その後、会津への転封へも従い「小国在番衆」に属したことが『定納員数目録』などかわかる。183石3斗という。『文禄3年色部氏差出』に見える「三潴分」が371石であり、その他安田氏や小田切氏に与えられた分もあったから、実際に所領が削減されていたことがわかる。

長谷川伸氏(*9)は『平姓牛屋家系』から左近大夫を実名「長能」とし、牛屋氏からの入嗣であると推定している。『平姓牛屋家系』を見ると牛屋氏として歴代が記される中に、長眇(宮内)-長能(右近)-長要(五兵衛)、とある。しかし、「長眇」の妻が「三潴式部妹」とある他に三潴氏との関係を示すものはない。「長能」という実名は『御家中諸士略系譜』にある三潴左近大夫の実名と同様であり、そこから入嗣があった可能性を想定したのだろうか。しかし、「長能」は右近を名乗ったとあり『色部年中行事』に所見される牛屋右近丞にあたる人物であろう。慶長期頃作『色部家侍帳』には「長要」にあたる牛屋五兵衛が所見され、右近丞-五兵衛という牛屋氏の系譜が想定されることからも、『牛屋家系』から三潴氏への入嗣は読み取れない。三潴左近大夫が牛屋氏出身とは考えにくい。

ただ、牛屋氏の妻が三潴氏であるという所伝は貴重である。三潴長政が色部氏との関係を深めていた徴証であろう。


3>その他の三潴氏
三潴左近大夫と同時期に所見される三潴氏を確認する。

『定納員数目録』では三潴佐左衛門が本庄繁長の同心として見える。『上杉家侯士分限簿』、『会津御在城分限帳』に御馬廻衆として三潴小次郎が見える。共に、系譜的位置は不明である。



ここまで、長政(出羽守)- (左近大夫)の二代の動向を検討した。この後、三潴氏は米沢藩士として存続していく。長政より前の人物については次回検討していく。



*1)『新潟県史』資料編4、1115号
*2)『新潟県史』資料編4、2048号
*3)『新潟県史』資料編3、393号
*4)同上、777号
*5)『新潟県史』資料編4、1498号
*6)『新潟県史』2781
*7) 『越佐史料』六巻、460頁
*8)同上、460頁
*9)長谷川伸氏 「戦国期在地年中行事の再生産構造」

三潴氏の基礎的検討

2023-03-19 20:00:27 | 三潴氏
三潴氏は室町・戦国期越後で活動した一族である。『関川村史』や三潴町誌別巻『中世の豪族三潴氏の歴史』などにその研究が見られる。しかし、根本的な部分で所伝や推測に依拠しており正確な三潴氏像という点では疑問が残る。具体的に言えば、その拠点が奥山庄上関であることやその系譜関係などは俗説にすぎない。ここでは三潴氏について、一次史料に基づいた客観的視点から再検討してみたい。

今回は、三潴氏の拠点・所領とその成立について考えていく。


1>その拠点と所領について
三潴氏の拠点が豊田庄中目(現新発田市)であることは、『越後過去名簿』の「越後国蒲原郡豊田庄長政為老母 シハタノノ中目三潴トノ」(天文22年8月)や「越後蒲原郡豊田庄中目 取次内方 三潴出羽守立之」(弘治2年9月)などの記述から明らかである。[史料1]は三潴氏に関する記載の抜粋である。「新発田三潴」、「荒川三潴」といった表現が見られるが、中目が新発田や荒川に近接した土地であることからそういった表現となったのだろう。


[史料1]『高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)』(新潟県立歴博物館研究紀要第9号)
円海鋼公居士 シハタ三潴叔父 天文四 七月廿五日

林芳樹公大姉 シハタ 三潴母 天文三 正月二日

瑶林椿公大姉 越後蒲原郡豊田庄中目 取次内方 三潴出羽守立之 弘治二年丙辰九月廿四日

傑叟莫公大姉 越後国蒲原郡豊田庄長政為老母シハタノ中目ノ三潴トノ 天文廿二日 八月朔日
印叟心公大姉 上同 長政立之 天文廿二日 二月廿日

実重 シハタミツマトノゝ父志 大永元 十一月廿九日

夫心中公 シハタ水間帯刀小三良
芳秀 荒川三潴 天文五 四月十五日


[史料2]『越佐史料』六巻、460頁
本庄越前守任詫言帰参令許容候、此上膝下伺候、一廉於抽忠功者、荒川条可遣之者也、仍如件
  天正十一年    (上杉景勝御朱印)       直江奉之
    七月十二日
         三潴左近大夫殿

[史料2]は御館の乱にて所領を没収されていた三潴氏の復帰に関する文書である。わざわざ「荒川条可遣」と記されているのはそれが本拠中目を含んでいたからであろう。『先祖由緒帳』には三潴氏は「荒川条」に居住と記されている。これは[史料2]を参考にした結果であろう。これは江戸初期に本拠地を伝える伝承が荒川条の他に存在していなかったことを示そう。つまり、通説・奥山庄上関に関する所伝は江戸初期に認められず、これが後世に生じた誤伝であることが理解できる。

現在中目に城跡はなく、三潴氏の居城は不明である。現代までに消失してしまったか、「荒川」「荒川条」などの呼称からは中目に近い荒川城との関係なども考えられるが、はっきりとしたことはわからない。


また、三潴氏と中目の関係は『文禄三年色部氏差出』(*1)にも見える。同史料には「御加恩」として「三潴分」が記載され、それが当時色部領のひとつであったことがわかる。御館の乱後の論功行で色部長真に「三潴分」が宛がわれているから(*2)、「御加恩」「三潴分」は上杉氏より与えられた旧三潴氏所領という意味で矛盾ない。つまり「三潴分」は三潴氏そのものではなく三潴氏旧領である。

『文禄三年色部氏』によると、「三潴分」は「酒町村」132石9斗5升、「中目村」238石5升、計371石であったと記載される。「中目村」は瀬波郡絵図にその名を見ないことから、奥山庄や荒川保、小泉庄ではないと想定される。つまり、三潴氏旧領として豊田庄中目のことを示していると見て間違いないだろう。

三潴氏の所領は色部氏、大見安田氏、小田切氏などに与えられており、『文禄三年色部氏差出』に見える土地の他にも多数あったことが推定される。

酒町村の獲得は恐らく、三潴長政、左近大夫の永禄期以降の奥郡での活動に際して与えられたものと推測する。余談だが「酒町村」は現村上市坂町のことだが、坂町に接して長政という地名が残る。上杉謙信の元で活躍した三潴長政に由来した地名と考えるがどうだろうか。

ところで、文禄3年においても中目が色部氏領であったということは、[史料1]で約束された「荒川条」返還は履行されなかった可能性が高い。近世移行期に中目との関係が絶たれたことが、三潴氏拠点として後世に伝わらなかった原因の一つではないか。


また、『色部年中行事』(*3)にはさらに「三潴分衆」という表現が載るためここで言及しておく。『色部年中行事』は色部氏家中の椀飯・出仕及び座敷の在り方を記載するなどした当時の史料である。佐藤博信氏(*4)は『色部年中行事』の成立を天正4年から文禄元年の間であることを指摘している。そして佐藤氏は、三潴分衆を牛屋衆、岩船衆、桃河衆などと同様に地域的に成立した衆とする。『色部年中行事』の成立時期と「三潴分」が三潴氏旧領であることを踏まえれば、「三潴分衆」は三潴氏旧臣衆だったと推測できる。同史料内には「小嶋同名衆」や「加地牢人衆」といった衆も見え、衆の呼称はその性格を如実に表していると思われるから、三潴分衆もそのままの意味に取ってよさそうである。決して色部家中として三潴氏が存在したわけではないことを理解する必要があろう。慶長期頃作成である色部家臣団の一覧『色部家侍帳』に三潴氏がいないこともそれを支持する。


天正2年成立『安田氏給分帳』(*5)における三潴氏にも触れておきたい。大見安田氏の給分帳であり、天正2年当時その支配下にいた武将たちの氏名もわかる。この中に三潴新五郎、三潴賀兵衛尉が見える。三潴氏と大見安田氏には関係性がないように思えるが、三潴氏の拠点が中目であることを踏まえると両氏は所領を近接した存在であったことがわかる。恐らく一族・庶子が戦国期の混乱の中で嫡流を離れ大見安田氏へ帰属したと考えられる。或いは、御館の乱後には「三潴出羽守分」が安田氏へ与えられており、三潴氏の没落を契機とした可能性もあろう。


2>三潴氏の成立
ここまで三潴氏の拠点が豊田庄中目であったことを示した。三潴氏の発祥は筑後国三潴庄といわれるが、これは高良大社の記録である『高良玉垂宮神秘書』に筑後領主三潴氏が見え、史料的にも確かといえる。それでは筑後国三潴庄から越後への移住という点に注目していきたい。

通説で三潴氏は三浦和田氏との関連で越後へ入国したとされている。しかし、その根拠も乏しいようだ。実際『関川村史』を見ると、確たる根拠はなく推測にすぎない説であることが明記されている。ここで通説である和田氏説と、それに対抗して私が提示する四条家説の二つを挙げて考えてみたい。


まず、和田氏説である。これは鎌倉時代初期の三潴庄地頭が和田義盛であり、その弟義茂、宗実が越後国奥山庄の地頭となったことを踏まえ、和田一族の繋がりの中で三潴氏が筑後から越後へ移住したとする。史料的根拠は皆無であり、同族といえ三潴庄と奥山庄を領した人物が別人であることも腑に落ちない。また、三潴氏が和田氏後裔の中条氏や黒川氏の被官であることを示すものはない。


続いて四条家説である。四条家は公家藤原氏の一族で、越後国頸城郡佐味庄を荘園として領有していた。佐味庄はのちに四条家から分家の鷲尾家に受け継がれる。文書上(*6)も鷲尾家が継承していることは明らかであり、関係が確認できる下限は延徳期である。

さて四条家が領有し鷲尾家へ引き継がれた荘園は他にもあり、それが筑後国三潴庄、鰺坂庄などの荘園である。つまり、四条家または鷲尾家の荘園管理を通じて三潴氏が筑後から越後に移住したのではないだろうか。時代が下り公家の荘園管理は困難となっていくが、四条家・鷲尾家もその例外ではなかった。その過程で荘園の代官であった三潴氏が守護代長尾氏に被官化していったのではないか。三潴氏が守護代長尾氏被官であったことは文明期作成の『越後検地帳』(*7)から明らかである。特に佐味庄は越後では珍しく頸城郡にある荘園であり守護・守護代の影響を強く受けたと想定される。

また、鰺坂庄の存在も示唆的である。上杉謙信家臣として鰺坂長実が有名であるが、『越後過去名簿』より天文22年6月に春日山の鰺坂与二が母を供養していることがわかる。春日山にいたことより守護代長尾氏被官と想定されるが、鰺坂長実の初見は永禄5年2月上杉輝虎書状(*8)であるから、長実の登場以前から鰺坂氏が守護代長尾氏被官として存在したことが推測できる。鰺坂氏の出自については不明であるがが、四条家説であれば、三潴氏、鰺坂氏が越後に存在する理由を説明できる。むしろ、当説でなければ、筑後鰺坂庄・三潴庄と越後三潴氏・鰺坂氏という一致が不自然に思える。

また、伝承上「三潴掃部助」が川中島合戦で活躍したとされる。これは次回以降詳述するように後世の創作で史実ではないが、「諏訪部次郎右衛門・三潴掃部助」の両人で数多の敵を討取ったと記されている。この諏訪部氏は佐味庄地頭出身の氏族であり、三潴氏と佐味庄の関係を考える上では示唆的な所伝といえる。


さて、越後への移住をみてきたが、続いて拠点中目の獲得について考えたい。

享徳3年に中条房資が記した『和田房資記録』には「曾祖父茂資」が将軍足利尊氏より与えられた所領としていくつかを挙げているが、その中に「豊田中目」がある。室町初期に中目は中条氏の領有だったことがわかる。この後、越後では応永の大乱が勃発し、蒲原郡から奥郡にかけて抗争が繰り広げられる。大乱の結果として中目は中条氏から守護代長尾氏へ帰属、代官として三潴氏が派遣され、そのまま戦国期を通じて三潴氏が領有していくことになったと推測される。山田邦明氏は、応永の大乱後に越後各地に守護上杉氏や守護代長尾氏の一族、被官が送り込まれ、地域支配の基礎が形づくられていたことを指摘している(*9)。三潴氏の中目の獲得もこういった時代の流れに沿ったものといえよう。



今回は、まず三潴氏の拠点が豊田庄中目を拠点としたことを示した。さらにその発祥筑後国三潴庄であり、公家四条家・鷲尾家の荘園管理を通じて越後へ移住した可能性を提示した。その後、守護代長尾氏の在地支配の強化に伴い被官化し、応永の大乱後、中目を獲得し発展したと推測した。

次回は系譜関係など具体的な人物について検討していく。


ちなみに、『関川村史』『三潴氏の歴史』などは三潴左衛門という人物の伝承があることを踏まえて康永3年石橋和義奉書(*10)に「三潴左衛門大夫」が登場するとしているが、『新潟県史』を見ると水損のため判読困難であり該当箇所は「三□左衛門大夫」として三潴氏とは読まない。他にも徴証はなく、「三」字のみでは三潴氏と判断できない。三潴氏の所見はこの後100年の隔絶を経ることからも、これが三潴氏とは考えにくい。客観的にこの文書は三潴氏を考える上で排除すべきであろう。


*1)『越後国人領主色部氏史料集』田島光男編
*2) 天正10年カ上杉景勝朱印状『新潟県史』資料編4、1146号
*3)『新潟県史』資料編4、2361号
*4) 「『色部年中行事』について」『越後中世史の世界』岩田書院
*5)『新潟県史』資料編4、2360号
*6)『上越市史』資料編3、180、281、476号
*7)『新潟県史』資料編3、777号
*8) 『越佐』四巻、380頁
*9)山田邦明氏「応永の大乱」『関東上杉氏一族』戒光祥出版
*10) 『新潟県史』資料編4、1255号

享徳3年根岸分をめぐる相論における三潴氏

2023-03-11 12:40:22 | 三潴氏
三潴氏は戦国期越後にて所見される一族である。

さて、下掲の史料は享徳3年に「ねきし分」をめぐる交渉の経過を伝えるものである。交渉の大筋は、黒川氏実が三潴氏領有の「ねきし分」を「本領」と主張し返還を訴えたため、三潴氏が返還に応じた、というものだ。今回は、この交渉の経過とそこに所見される三潴氏について整理していく。


1>三潴道珍と伊賀守
[史料1]『新潟県史』資料編4、1408号
御下向之時分御出候ける、罷出候て不懸御目候、本意之外候、兼亦一ケ条之事、兄にて候者三潴委細申候間、内々領状仕候由申候、然間、か様之事は兎角批判あるへく候、御殿人之事はさる事はさる事に候へ共、如此了簡申候とは御隠密あるへく候、御傍輩中にも定被仰方もあるへく候、委は平左衛門可申候、長々御在府候に、御心静まいりあはす候事、本意の外候、毎事重而可令啓候、恐々謹言
   十月二日                      頼泰
    黒川殿 御宿所

[史料2] 『新潟県史』資料編4、1354号
(前略)
一、渡状可執進之候へ共、出雲方申候は、同名伊賀方かつけと申、其外違例に共に出仕かないかたく候間、所体孫二郎に渡候よし申候間、此者の代はしめの事候、一篇申候はて渡進之候時は、其身親けなく可存候間、幸に罷下候事候間、蒲原にて渡可申よし申候、此上はと存候て、かさねて不申候、此子細を具愚息のかたより申候へと申候、はや定て候、目出候、
(後略)
   十月二日                      政重
    黒川殿 御宿所

[史料3] 『新潟県史』資料編4、1365号
ねきし分の事、弾正左衛門と談合仕候て、三潴方へ具申候、御本領之事候間、加様の事にて候はすは、なにを可蒙仰候間、可渡申候、則渡状をも可進之候へ共、伊賀方所体を愚息孫二郎方へ渡、彼仁蒲原に候、幸に罷下候間、一篇申候て可渡候よし候、出雲方被申候間、目出候、此由を三潴方へ可被仰候、定御悦喜候めと存候、諸事重而可申入候間、不能一二候、恐々謹言
   十月二日                      政重
    黒川殿 御宿所

[史料4] 『新潟県史』資料編4、1352号
ねきし分の事、黒川方の代に、可被申渡候、恐々謹言
   享徳三年                    三潴入道
     十月九日                    道珍
    三潴弾正殿 

[史料5] 『新潟県史』資料編4、1367号
  尚々此御馬秘蔵仕、飼立可懸御目候、態自是御礼可致候、又平左衛門方よりの状、則披
  見申候て、返申候、同渡状使者に進申候、
御礼之趣、委細拝見仕候了、仍四五日此方へ罷下候、尤自是可申入候処、遮而預御音信候、畏入存候、将又ねきし分の事に付候て、平左衛門方より被申候間、私之知行仕候はは、軅府中にて可渡申候へ共、同名弾正知行候間、可申沙汰仕之由申定つる間、則罷着候て申定候、御本領之事候、可渡申由彼方申候、於于私候ても、悦喜仕候、定而可有御祝着候、次に重宝之御馬、弐百疋両種拝領、過分之至候、乍去畏入存、如何様自是態御礼令申候、恐々謹言
    十月九日                     道珍
     黒川殿


まず、道珍については[史料5]の封紙ウハ書に「三潴出雲入道道珍」とあり、その受領名、法名が明らかである。

 [史料1]にて、守護上杉氏重臣飯沼頼泰が「兄にて候者三潴委細申候」と記している。ここでいう「三潴」は守護上杉氏と黒川氏の間で交渉を進めた三潴道珍を表していると考えられる。つまり、黒川氏実の相論相手である三潴氏の兄であることから三潴道珍がその間を取り次いだと考えられる。


さて、すると道珍の弟にあたる三潴氏の人物は誰であろうか。単純に考えれば、[史料4][史料5]で根岸を領有している三潴弾正、ということになるが、[史料1~5]をよく読むとそれが誤りであることがわかる。

[史料3]を読むと、黒川氏へ渡すべき「所体」=所領は「伊賀方所体を愚息孫二郎方へ渡」と記され、「伊賀」という人物の所領であることが読める。伊賀は[史料2]において「同名伊賀」とあり、三潴伊賀守である。 [史料1]に「一ケ条之事」つまり争点は「ねきし分」の一か所であることが確実であるから、[史料3]では伊賀守が、[史料4、5]では弾正がその知行者であると書いてあると見て間違いない。

10月2日と9日の史料で知行者が異なる事態は一見不思議であるが、その理由はしっかり[史料2]の中で説明されている。

「出雲方申候は、同名伊賀方かつけと申、其外違例に共に出仕かないかたく候間、所体孫二郎に渡候よし申候間、此者の代はしめの事候」=(出雲守によると同名伊賀守が脚気で病身であるため出仕ができず、所領を孫二郎に渡すとのことです。孫二郎は代始めになります。)という部分がその答えである。つまり、伊賀守は病気であったため事務手続きもできず、所領を孫二郎に譲ってから黒川氏への返還が進められたのである。

よって、相論開始時に黒川氏の相手であったのは三潴伊賀守であり、道珍の弟は彼であったといえよう。


2>孫二郎と三潴弾正
次に所領が譲られた「孫二郎」と、三潴弾正について考える。

まず、『新潟県史』は「孫二郎」を平子朝政とし、通説となっている。[史料3]平子政重書状に「愚息孫二郎」とあるからだろう。しかし、これは誤りである。

「愚息孫二郎」だけ見れば、それは政重の子と考えてしまうかもしれない。しかし、「伊賀方所体を愚息孫二郎方へ渡、彼仁蒲原に候、幸に罷下候間、一篇申候て可渡候よし候、出雲方被申候間、目出候」と一文で見ると、伊賀守が「愚息孫二郎」へ所領を渡してさらに(黒川氏へ)渡すことを道珍が言ってきて喜ばしい、という内容である。つまり、「愚息」は道珍の言伝を書き記した部分の内であり、道珍の視点から見た表現である。政重の「愚息」ではなく、道珍の愚息であったと理解される。伊賀守の子であったら「彼息」などと表現されるべきであろう。[史料2]には政重の視点から「愚息のかた」という記載があるが、これは「愚息の方」という敬表現であり、自らの子ではなく三潴道珍の子を表していると見て良いだろう。

従って、「孫二郎」は三潴道珍の息子三潴孫二郎である。さらに、代始めであると記されており伊賀守から代替わりがあったことがわかる。

10月2日までに所領を譲られた孫二郎が三潴氏であるとすれば、同月9日に領有している三潴弾正は孫二郎と同一人物と見るべきであろう。三潴孫二郎が跡目を継承し、それに伴い名乗りを弾正と変えた結果が[史料4、5]であると推測できる。

まとめると、三潴道珍とその弟伊賀守、そして伊賀守の跡を継いだ道珍の息子孫二郎/弾正が存在したことが推測される。ちなみに、この後三潴氏として三潴帯刀左衛門尉という人物が見えることから、孫二郎/弾正は庶子であった可能性がある。


伊賀守が「脚気」、「違例」といわれるような病身で出仕できなかったことが今回の交渉を複雑にした理由だろう。当時、当事者が病気などで政治の場に参加できない場合、交渉が遅延したことが推測される。


3>「ねきし分」の性格について
さて、ここで「ねきし分」について詳述したい。まず、これが根岸という土地を表していると思われがちだが、「分」という表現を踏まえると根岸氏所領という意味で捉えるべきだろう。当時、人名+分という形でその所領を表現した。

『中条町史』は「ねきし分」と文明12年黒川氏実家中諸士連署起請文(*1)に見える「根岸辻松丸」の関連を示唆している。つまり、「ねきし分」とは黒川氏家臣根岸氏の旧領であり、必ずしも根岸という地名ではなかったことが推測される。

根岸分の場所だが、[史料3]に「彼仁蒲原に候、幸に罷下候間、一篇申候て可渡候よし候」とあり蒲原郡周辺にその地があった可能性が考えられる。

次回以降に検討していくが、三潴氏の拠点は蒲原郡豊田庄中目と考えられる。それを踏まえると、三潴氏と黒川氏の所領は比較的近接していたと思われる。具体的な位置については不明と言わざるを得ないが、それぞれの所領から遠く離れてないとすると、現在の新発田市・胎内市域の内にあったのではないか。



ここまで、根岸氏の旧領である根岸分を巡る三潴氏と黒川氏の交渉の経過を検討してきた。その上で三潴道珍とその弟伊賀守が所見され、道珍の子として孫二郎/弾正を確認した。次回以降、さらに三潴氏の系譜について検討していく。


*1)『新潟県史』資料編4、1337号