鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

『先祖由緒帳』から見る琵琶嶋上杉氏

2021-05-15 21:19:04 | 琵琶嶋上杉氏
以前、私は琵琶嶋上杉氏や上条上杉氏、上条上杉弾正少弼入道朴峰について検討を行い、越後琵琶嶋を拠点とする琵琶嶋上杉氏は永正期に上条上杉氏から分家した存在である可能性を提示した。

まず、琵琶嶋上杉氏を八条上杉氏に比定する通説を否定する理由は次の通りである。
・通説は、両者が琵琶嶋を拠点とする共通点の他に根拠がないこと。
・八条氏は琵琶嶋氏とは別に、天文期まで越後国白川庄を拠点として存続していたこと。
・琵琶嶋氏が一貫して長尾為景に近い政治的立場を取り、八条氏のそれとは異なること。

これらの点から八条氏とは別の系統であると推定し、多数の分家があったことが分かっている上条上杉氏との関係を考えた。その上で、系統不明の上条上杉弾正少弼朴峰が琵琶嶋上杉氏である可能性を考慮し、状況的にも矛盾がないことを確認した。

以上がこれまでの私の検討結果であるが、琵琶嶋氏=八条氏説について否定しながらも琵琶嶋氏=上条氏説も推測に始終し、史料に基づいた根拠を示すことができないでいた。

今回は、『先祖由緒帳』に記される「富所八郎兵衛先祖書」に琵琶嶋氏が上条氏の分流であることを示す所伝を見つけたため、それを元に琵琶嶋氏と上条氏の関係について掘り下げていきたい。

以前の記事はこちら


『先祖由緒帳』は延宝5年に米沢藩によって作成された藩士の家伝を集成したものである。江戸初期の成立であることから、戦国期の所伝についても貴重なものが多い。現在には元禄初期に筆写された写本が残っている。

山田邦明氏の研究(*1)に拠れば、これらの所伝は相伝の文書や肉親からの言い伝えを元としており、ある程度の信憑性を持つと言える。もちろん明らかな誤伝もあり、注意は必要である。


1>富所氏家伝について
『先祖由緒帳』に載る、富所八郎兵衛が記す富所家家伝から戦国期についての記述を抜粋したものが[史料1]である。


[史料1]『先祖由緒帳』「富所八郎兵衛先祖書」
曾祖父富所伯耆、枇杷島之城主上条殿ニ相付罷在候処、謙信様より上意ニ付而春日山江罷越、御奉公仕候、上条殿御逝去之後、枇杷島鍛錬之者ニ候とて伯耆ニ同心数多御付被成、枇杷島江被使遣候、伯耆次男図書、謙信様御近習ニ被召仕、御腰物持申役仕候、景勝様御代、天正9年北崎分御加増被下置候、

つまり、江戸初期の人物富所八郎兵衛の曾祖父「富所伯耆守」は、「琵琶嶋之城主上条殿」に仕え、「上条殿」の死後は伯耆守が同心と共に琵琶嶋城を守ったというのである。その時期は上杉謙信の頃と伝わり、琵琶嶋氏の活動が確認される最中である。

「琵琶嶋之城主上条殿」は琵琶嶋上杉氏を指しており、琵琶嶋氏=上条氏とする直接的な言及である。


2>富所氏の系譜
ここからは戦国期富所氏の動向を簡単に確認し、この所伝について考えてみたい。


富所伯耆守は天正10年1月上杉景勝過所(*2)に所見される。そこで新発田重家の反乱に関して景勝から、前線へ派遣された伯耆守へ指示が出されている。これ以降、伯耆守は新発田重家の乱などで活躍し、上杉景勝から伯耆守宛の書状も多数残っている(*3)。

天正7年2月上杉景勝感状(*4)まで富所隼人佐の活動が見え、これを終見として入れ替わるように伯耆守が所見されることを考えると、隼人佐が受領名伯耆守を名乗ったと推測される。

『御家中諸士略系譜』を見ると、「富所伯耆守定重」が景勝期に家督を継ぎ、新発田重家の乱で活躍したことが記されている。この人物は始め隼人佐を名乗り、弟には「図書光重」がいたという。

富所図書助は天正9年2月上杉景勝朱印状(*5)にその名が見え、隼人佐/伯耆守と図書助の兄弟の活動が確認される。先祖書を記した八郎兵衛は図書の系統という。


しかし、『御家中諸士略系譜』において伯耆守定重は寛永14年の死去で、上記の感状を得た時にはまだ19歳であったという。また、同系譜には先祖書を記した「富所八郎兵衛俊重」も見えるが、「伯耆守定重」は大叔父にあたり、曾祖父ではない。

すると『先祖由緒帳』に見える富所伯耆守は、系譜で伯耆守定重の父とされる「伯耆守重則」のことであろう。「八郎兵衛俊重」の曾祖父にあたる。


上杉謙信期において「富所伯耆守」の所見はないが、永禄後期に「富所隼人佐」の所見がある。「伯耆守定重」は天正期に若年であったと推測されるため、謙信期に所見される「富所隼人佐」は「伯耆守重則」の前身であると推測される。

つまり、謙信期の富所隼人佐がのちに伯耆守を名乗り(「重則」にあたる人物)、天正6年以降は嫡男隼人佐が活動を始めた(「定重」にあたる人物)、ということだ。


3>富所氏と琵琶嶋氏
富所氏の系譜を整理したところで、琵琶嶋氏との関係を洗っていく。


永禄後期の上杉輝虎書状(*6)では、富所隼人佐が水原満家、竹俣慶綱、松木内匠助と共に軍事行動に及ぶ様子が読み取れる。また、年不詳上杉輝虎書状(*7)では、富所隼人佐と松木内匠助の二人に対して輝虎から指示が与えられている。

前述のように、天正期に所見される隼人佐/伯耆守「定重」の父「重則」である。


この二通で富所氏に併記される松木氏について『御家中諸士略系譜』を見ると、初名を「内匠」とする「松木石見貞吉」がいる。文書に見られる人物のことである。これに拠ると、松木氏は「越後ノ豪枇杷島家ニ属シ武功之士」であるといい、永禄12年に「枇杷島弥七郎」の死去により他に転出となったという。

『文禄三年定納員数目録』において「松木内匠」の弟「松木将監」と「松木大学」が、当時琵琶嶋を領していた山本寺九郎兵衛の同心として見えており、松木氏と琵琶嶋の関係は確かであると言えよう。


以上から、松木氏と琵琶嶋氏の関係は所伝の通り確かなものと言え、史料上松木氏と動向を共にする富所氏も琵琶嶋氏と関係が深かったと類推される。


また、刈羽上条を拠点とする上条定憲系統の上条氏家臣であった計見氏は、文書上富所氏・松木氏との接点はなく、『文禄三年定納員数目録』では「上条様附」として記載されるなど、その立場の違いは明らかである。富所氏の所伝が他系統の上条氏を混同したものではないことが、このような点からも窺い知れるであろう。


よって、富所氏の伝える「枇杷島之城主上条殿」は松木氏の言う「枇杷島家」を指し、琵琶嶋氏=上条氏を伝える所伝の信憑性は高いと言えるのである。



以上、琵琶嶋氏=上条氏という仮説について検討した。これまで推測に依存していた説であったが、信頼のおける所伝にその徴証を見つけることができた。

琵琶嶋氏を始め、越後上杉氏の分流の動向は越後史において最重要課題の一つである。今後も検討を重ねていきたい。


*1)山田邦明氏「上杉家先祖由緒書とその成立」(『日本歴史』、673号)
*2) 『上越市史』別編1、2264号
*3) 同上、2330号、2380号など
*4) 『越佐史料』5巻、641頁
*5) 『越佐史料』6巻、10頁
*6)『新潟県史』資料編5、3275号
*7) 『上越市史』別編1、983号


天文24年善根の乱と北条高広

2021-05-09 21:29:21 | 毛利氏
天文24年1月から2月にかけて越後国刈羽郡善根において生じた善根の乱について、前回毛利善根氏との関連に注目して検討した。今回は、同族の毛利北条氏に視点を移して見ていきたい。


1>武田信玄書状の検討
まず、善根の乱が北条高広の反乱主体であったと誤解される場合があり、それについて確認する。


[史料1]『新潟県史』資料編5、3410号
雖未申通候、令啓候、抑先日承候旨、至真実者、大慶満足候、向後者、異于他可致入魂候、同意可為本意候、猶甘利左衛門尉可申候、恐々謹言、
  十二月五日            (武田信玄花押)
   北条丹後守殿

[史料1]は武田信玄から北条高広に宛てられた書状であり従来天文23年12月に比定され、翌24年の反乱は北条高広が武田氏に内通した結果生じたものと解釈されてきた。

ただ、近年は黒田基樹氏(*1)や栗原修氏(*2)の研究から、永禄9年に高広が上杉氏を離反し甲斐武田氏、小田原北条氏へ通じた際のものであると明かにされている。

理由は文中に登場する「甘利左衛門尉」=甘利昌忠/信忠の名乗りの変遷にある。黒田氏によると弘治年間の文書まで彼は仮名藤三で所見されるから、官途名左衛門尉と見える[史料2]が弘治年間以前である可能性はない。

さらには、「甘利左衛門尉可申候」とある通り甘利左衛門尉信忠書状(*3)が[史料2]の翌年4月の日付で発給されている。甘利信忠の実名は永禄7年に昌忠から改めたものであることが黒田氏により指摘されているため、その甘利信忠書状は永禄7年以降である。

よって、甘利信忠書状の前年に発給された[史料2]は永禄6年以降に武田信玄が高広と接触した永禄9年離反時に限られるのである。

[史料1]と天文24年の反乱は全くの無関係であると言える。


2>上杉輝虎書状の検討
続いて、後年の長尾景虎/上杉謙信との関係性を書状から探り、高広の動向を推測してみたい。

高広は永禄2年から公的文書の署判者として所見される。さらに、永禄初期の某覚書(*4)には次の様な一文がある。

「そうまかないりう所ともに小四郎しんたいもたれへき大小事ともニ、きたてう方たのミうちまかせへき事」

景虎の一族である長尾小四郎(景直)について、進退に関する大小事を北条高広に頼み任せるというのである。永禄初期においてこの様な立場にいる人物が、その数年前に反乱を起こしていたのだろうか。


さらに、永禄9年に高広が上杉氏から離反した際の文書を見てみたい。

永禄9年12月13日上杉輝虎書状(*5)より
「道七以来之芳志与云、関東ニ輝虎為代差置候事、無其隠候、如此之仕合、天魔之所行ニ候」
永禄9年日付不明上杉輝虎書状(*6)より
「既丹後守者、其身擬与云、巧者与云、年老与申、殊譜代之芳志を黙止、妻子ヲ捨、南甲へ一味、争左様ニ可有之候哉」

どちらにおいても、長尾為景以来譜代の家臣として活動してきたことが読み取れる。高広自身が以前にも反乱したことは全く記されていない。

その離反後、高広は越相同盟と共に帰参するが、その後は息子景広への家督交代を強制されるなど離反前と立場は一変している。他国との交渉も、景広中心の体制に改められている。やはり、離反後にはそれなりの処遇がなされている。

このような点からも、天文24年に反乱した主体が高広であったとは考えにくい。


ちなみに、安田氏と北条氏が対立関係にあったという俗説もこの反乱が北条高広によるものとした結果であり、事実ではない。安田景元は天文の乱において北条城に在城し高広の祖父北条輔広と共に長尾為景に味方しており、友好的な関係であることが明らかである。また、景元の妻は輔広の娘であった可能性が『毛利系図』から示唆される。


3>北条高広と反乱の関与を示す史料
北条高広が反乱主体とは考えられない点は示したが、ここから実際に反乱についてどのような立場であったかを見ていく。


『越後平定以下太刀祝儀次第写』を見ると「毛利丹後守」=高広が明かに後方に記載される。これはいわゆる席次の降格を表わすのでないか、と推測される。記載が後方の人物は「糸牧」の太刀を進上しているが、高広のみ上位の人物に多く見られる「金覆輪」の太刀を進上している。明らかに格の違いがあり、この席次は本来のものではないだと思われるからだ。

ただ、後方に記される人物は正確性が疑われる者も多い。高広の席次降格を示唆する史料ではあるが、これだけでは判断し難い。


[史料2]『新潟県史』資料編5、3282号
 覚
一、北条之事
一、今度出馬之上、無二無三可被走廻事
一、働之上さしつ次第馳走之事
一、向後可請意見之間、内儀次第上府事
一、誓詞之事
 以上

[史料2]は年不詳某条書である。しかし、発給主体の出陣とその元で奮戦するべき事、誓詞についての事など、[史料1]に見える安田景元の動向と一致する。「北条」は北条高広のことだろう。

よって、[史料3]は天文24年に比定でき、長尾景虎側から安田景元への宛てられたものであろう。出陣後の奮戦を命じており、誓詞についての記載から安田景元起請文発給前と思われ、具体的には天文24年1月頃であると推測される。

「北条」が小田原北条氏を表わすと解釈すると越相同盟交渉の文書との可能性もあるが、越相同盟関連の文書を見ると小田原北条氏は「南」や「南方」もしくは「氏政」「氏康」と表記されている。従って、[史料2]は越相同盟に伴う文書ではなく、上記の推測が成り立つと言える。


年次比定が正しければ、[史料2]における「北条之事」が善根の乱における北条高広の動向を示すものとなる。ただ、「北条之事」のみで具体性に欠ける。

そのため、総合的に推測していくしかない。反乱主体は善根氏と想定されること、北条氏の席次が低下した可能性があること、景虎が安田氏に「北条之事」を相談していること、を踏まえると、北条氏の微妙な立場が類推される。

以前それぞれの系譜を検討する上で確認したように北条氏は善根氏と深い血縁関係があり、その反乱において善根氏と長尾景虎側の圧力との間で板挟みになっていたことが想像できる。

席次の低下も事実であれば同族の反乱の鎮圧にあたり、消極的な姿勢をみせたことによる引責というところではないだろうか。

安田氏と北条氏の関係は友好的であったことは先述したが、その関係を基に景虎も北条高広に働きかけ、高広側もそれに応じたと推測される。



以上が、北条高広と天文24年善根の乱に関する検討である。前回の善根氏と同様に推測に頼る部分が多いく、後考に期待したいところである。


*1)黒田基樹氏 「武田氏の西上野経略と甘利氏」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)
*2)栗原修氏「厩橋北条氏の族縁関係」(『戦国期上杉氏武田氏の上野支配』岩田書院)
*3)『新潟県史』資料編5、2543号
*4)『新潟県史』資料編5、3280号
*5) 『上越市史』別編1、543号
*6) 『新潟県史』資料編5、2423号