鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

四条上杉氏の系譜

2020-11-29 16:49:14 | 四条上杉氏
四条上杉氏は京都で活動した上杉氏の系統である。享徳の乱では京都から関東へ出陣し、足利成氏に対する関東管領上杉方に加わっていた。また、片桐昭彦氏(*1)は『天文上杉長尾系図』において四条上杉氏の系図が越後上杉氏と結びついて記されていることに注目し、同系図の作者と推測される守護代長尾氏にとっても四条上杉氏は重要な存在であったと考察している。今回は、この四条上杉氏の系譜関係を整理してみたい。


まず、『天文上杉長尾系図』に拠れば、上杉憲房の子憲藤(中務少輔)から朝房(弾正少弼)-朝宗(中務小輔)-氏憲(右衛門佐)と続き、氏憲を「四条上杉殿ノ御先祖」としている。氏憲は”上杉禅秀の乱”で有名な上杉禅秀その人である。ちなみに、同系図では憲藤の兄弟である憲顕から越後上杉氏が繋がることが示されている。

また、『上杉系図大概』は憲藤(中務小輔)を「四条上杉先祖是也」とし、朝房(弾正少弼)とその弟朝宗(中務小輔)に続き、朝宗の子氏憲(右衛門佐)に繋がる。さらに、氏憲次男の持房(中務小輔)が「叔父左典厩」の跡を継いで在京したという。この叔父は『藤原姓上杉氏系図』にある氏憲の弟、氏朝(左馬助)のことである。『上杉系図大概』では持房の後、嫡子教房(中務小輔)、その弟形部の存在が記されている。

『藤原姓上杉氏系図』、『系図纂要』には教房の子として政藤(中務小輔)、教房の弟に憲秀(刑部大輔)を記す。『系図綜覧』は憲秀を「刑部少」とする。

上杉政藤以降の人物については系図に見えない。

煩雑になってしまったが整理すれば、上杉朝宗、氏憲(禅秀)の父子は関東管領として活躍し、犬懸上杉氏と呼称される系統であり、氏憲の弟氏朝から氏憲の子持房へと継承されていく系統が京都を拠点とする四条上杉氏である。


さらに他の史料も用いて、持房の次代教房から四条上杉氏を詳しく検討していきたい。

そもそも京都における四条上杉氏の存在形態であるが、谷合氏の研究(*2)では室町幕府内において外様衆として一定の家格を有し将軍の軍事的基盤を支えていた存在として評価されている。そのため、幕府の家臣団が記された番帳を用いて人物を辿ることもできる。各番帳の年時比定は木下聡氏の研究に従う(*3)


文安年間の成立とされる『幕府番帳案』には「上杉三郎」とあり、木下氏は教房に比定している。

教房は寛正元年足利義政御内書(*4)に「去年於武州太田庄、父教房討死」とあることから、長禄3年10月の太田庄の戦いで戦死したことが明らかである。


また、同御内書が「上杉三郎殿」宛であることから、教房の子も仮名三郎を名乗ったことがわかる。系図類等で中務小輔政藤とされる人物である。

長禄~応仁の成立とされる『大和大和守晴完入道宗恕筆記一』には「四条上杉中務少輔」、長禄~応仁の成立とされる『条々事書』「四条上杉」、文明12、13年頃成立とされる『永享以来御番帳』には「四条上杉中務小輔」、長享元年成立の『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』「上杉代」、とあり、どれも政藤のことであろう。

政藤は教房死後に中務小輔の名乗りと四条上杉氏の家督を継承したことがわかる。このように番帳に記載が豊富であることから四条上杉氏は享徳の乱勃発に伴い関東に出陣した後、応仁期までには帰京していたことが推測される。『松陰私語』に上杉中務小輔が登場しないのも、頷ける。

『蔭涼軒日録』延徳2年2月11日の部分に「四条上杉殿爾来不例。昨日逝去云々」とあり、政藤の死去が確認される。


谷合氏は、申次衆としての所見ではあるものの延徳3年8月の六角氏攻めに「上杉四郎」が見え四条上杉氏と推定している。また、明応元年成立の『東山殿時代大名外様附』「上杉中務小輔」とあり、木下氏は政藤の次代と推測している。二人の考察を総合すれば、政藤の次代として四郎、中務小輔を名乗った人物がいたと推測される。


四郎/中務小輔の次代は『後法興院記』において文明18年から延徳4年までに散見される「上杉幸松丸」であろう。『上杉系図大概』において上杉憲藤、朝房が幸松丸を名乗ったとされ、四条上杉氏ゆかりの幼名のようである。


続いて、谷合氏の研究から近衛氏の日記である『後法興院記』、『後法成寺関白記』における四条上杉氏の所見を参考にして考えていく。

『後法興院記』では、幸松丸と入れ替わるように明応5年~永正2年まで「上杉三郎」が所見されるという。幸松丸の後身であろう。文亀3年の記述に「上杉三郎材房」とあることから、実名は将軍足利義材からの偏諱を受けた「材房」であることが明らかにされている。

『後法成寺関白記』では、永正9年~14年まで「上杉右衛門佐」が散見され、「三郎」は所見されなくなる。永正7年成立の番帳『永正七年在京衆交名』に「上杉右衛門佐」が所見されることから四条上杉氏であり、材房が右衛門佐に任官したとわかる。木下氏は永正16年にみえる「上杉後家」を材房の妻と推測し、以降材房の所見もないことから、永正15年末から翌年6月までには死去したとしている。


永正16年1月には「上杉虎千代」が所見され四条上杉氏と推定されている。材房の次代であろう。ただ、虎千代は以降所見がない。


大永6年には『後法成寺関白記』に「上杉幸松」が所見され、その幼名からも四条上杉氏の一族と推定される。虎千代に何らかの問題が生じ、代わって幸松丸が四条上杉氏を継承することとなったのだろう。

幸松丸は、享禄5年6月に三好氏らと共に切腹した「上杉次郎」と同一人物と考えられ、次郎の死去を以って四条上杉氏が史料上見えなくなるという(*3)。


以上から、政藤以降の人物については血縁関係に関して明かではないものの、四条上杉氏の系譜は次のように想定される。

持房(中務小輔)-教房(三郎/中務小輔)-政藤(三郎/中務小輔)
-(四郎/中務小輔)-材房(幸松丸/三郎/右衛門佐)-(虎千代)-(幸松丸/次郎)



*1)片桐昭彦氏 「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」(『山内上杉氏』戒光祥出版)
*2)谷合伸介氏「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的研究」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*3)木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」
*4) 『越佐史料』3巻、101頁

千坂氏の系譜

2020-11-28 16:30:13 | 千坂氏
越後上杉氏譜代の重臣として千坂氏がいる。その系譜を検討してみたい。

まず、木村康裕氏の研究(*1)に拠れば、長享2年に『蔭涼軒日記』の中で、長尾氏、石川氏、斉藤氏、平子氏が「古臣」「評定衆」とされ、このうち長尾氏、斉藤氏、千坂氏に飯沼氏を加えた四氏が守護の意向を元に発給される奉書に署名が見られるという。

片桐昭彦氏(*2)は千坂氏について、享徳元年(*3)から文明10年(*4)に所見される対馬守定高、文明12年(*5)から明応5年(*6)までみえる対馬守実高がおり、父子関係と推測、さらに『文明検地帳』に見える千坂七郎三郎、康正3年請取状(*7)などに見える千坂与五郎高信を千坂氏一族としている。

また、長享元年中条定資書状(*8)に「千坂千松軒」が所見され、定高と思われる。「千松軒御在世之上者、不可有私曲候」とあるから、高齢でありならも存命であったことが窺われる。これが定高の終見であろう。


さらに、明応7年には千坂能高が所見される(*9)。実高の後継とみられる。仮名、官途名、受領名は不明である。


永正10年(1513)2月上杉氏老臣連署奉書写(*10)に「右衛門尉景長」、同年8月老臣連署奉書においても「景長」(*11)が、永正18年(1521)越後長尾氏被官連署契状(*12)に「千坂藤右衛門尉景長」が確認される。千坂景長は能高の後継であろう。


時代は下り、天正3年(1575)2月『上杉家軍役帳』に、「千坂対馬守」を確認する。千坂景親の初出である。以降、景親は上杉景勝のもとでその活躍が顕著である。

『御家中諸士略系譜』は景親を「千坂景長之一男」とする。また、村松、護摩堂に在城、文禄4年から伏見御留守居に命じられるなど活躍、慶長11年(1606)4月死去とする。

しかし、景長と景親の間には史料所見で54年もの歳月が流れている。初見時にはそれぞれ景長は老臣奉書に署名し、景親は受領名を名乗っているから幼少とは考えにくく、比較的若く見積って景長初見時20歳、景親初見時20歳と仮定すると、景親誕生時に景長は62歳である。実際にはさらに年が離れていた可能性もあり、父子関係とするには不自然である。ましてや「一男」すなわち長男と考えるには無理がある。

また、赤田斉藤氏を例とすれば、千坂景長と同時期に活動していた斉藤昌信と景虎~謙信・景勝期に活動した斉藤朝信は祖父と孫の関係である。

以上から、千坂景長と景親二人の間に一世代存在する可能性を考慮すべきである。ここで「千坂対馬守」の存在が注目される。

天文18年平子孫太郎宛本庄実乃書状(*13)において、「斉藤小三郎殿、御捨弟平七郎殿、又者千坂筑前御捨弟源七郎殿、何も台飯式ニ而御詰候間」と、平子孫太郎に斉藤朝信と千坂筑前守の弟の動向を伝え、その弟平子孫八郎の進退について言及している。すなわち、内容は斉藤氏の当主と弟、平子氏当主と弟が比較されており、そうすると斉藤氏と並び言及された千坂氏についても当主とその弟であると考えられる、この時点で千坂氏当主は「対馬守」であったと推測できる。

平子兄弟は「御袋様」が進退について嘆願することや仮名を名乗ることからまだ若く、斉藤朝信も仮名を名乗りこの後天正後期まで所見されることを考えるとこの時点ではまだまだ若い武将である。すなわち、領主層の若年の弟の処遇について平子氏と交渉しており、仮名を名乗る千坂源七郎についても同じように若年の武将であったと推測できる。

もし、「対馬守」が景長ならばこの時少なくとも50歳は越えており、先代能高の活動時期から見ても、仮名を名乗る様な若年の弟の存在は考えにくい。従って、「対馬守」は景長次代、景親の先代にあたる千坂氏として比定できるのではないだろうか。

『越後以下平定太刀祝儀次第写』にある、「千坂殿」も景長の次代で景親の先代にあたる対馬守であろう。

『御家中諸士略系譜』は江戸中期のものであり、明かに誤っている点が散見される。米沢藩伝来の文書を参考にしていると思われるが、それ故に史料に残っていない人物については抜けている可能性がある。また、景親の跡を継承した人物が直系ではないことも理由のひとつかもしれない。

追記(2022/6/12)
これまで『越佐史料』や『上越市史』などの翻刻に基づき「千坂筑前守」と記載していた。しかし、中村亮佑氏「越後上杉氏直臣に関する基礎的考察-越後千坂氏を中心に-」(『戦国・織豊期と地方史研究』岩田書院)において、天文18年平子孫太郎宛本庄実乃書状(*13)における「千坂筑前」はくずし字の誤翻刻であり、正しくは「千坂対州」であったことが指摘されている。つまり「千坂筑前守」ではなく、千坂対馬守を名乗ったと見るのが正しいようだ。訂正したい。

ただ、中村氏は『御家中諸士略系譜』の記載のみを根拠としこの対馬守を景親と同一人物とみて、景長ー景親という二代の系譜を示している。この点について私は本文中にも記載した通り、活動時期などを踏まえて景長ー対馬守ー景親という三代の存在を推定している。



千坂景親の子として、千坂靏寿麿がいる。靏寿麿は天正16年9月上杉景勝書状(*14)に「近年父子奉公感入候」として「下条采女本地」を宛がわれている。『御家中諸氏略系譜』に拠ると、景親には子として嫡男「太郎左衛門」、次男「対馬守 長朝」の二人おり、太郎左衛門は病身のため家督を継げなかったという。

同年12月には上杉景勝から「千坂与市」へ「長」の一字が与えられている(*15)。『御家中諸士略系譜』や「上杉景勝一座連歌」(*16)にその名が見られる千坂長朝の元服と見られる。すると、先の靏寿麿は長朝である可能性が高いであろう。


景親の家督は、同系譜より千坂一族の満願寺仙右衛門が継いだとされる。この人物は実名「高信」であり、受領名伊豆守、安芸守を名乗ったことが文書からも確認される。


以上、父子関係等については明確ではないものの、戦国期千坂氏の系譜として

定高/入道千松軒(対馬守)-実高(対馬守)-能高-景長(藤右衛門尉)-(対馬守)-景親(対馬守)=高信(伊豆守/安芸守)

と想定される。




*1)木村康裕氏「守護家奉書形式の文書名について」「守護上杉氏発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*2) 片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*3) 『新潟県史』資料編4、1543号
*4)同上、1550号
*5) 同上、1358号
*6)『新潟県史』資料編5、2674号
*7)『新潟県史』資料編4、1522号
*8)『越佐史料』三巻、315頁
*9) 『新潟県史』資料編3、231号、232号、資料編4、1639号
*10) 『新潟県史』資料編5、2796号
*11) 『越佐史料』3巻、598頁
*12) 『新潟県史』資料編3、275号
*13) 『上越市史』別編1、20号
*14) 『上越市史」別編2、3260号
*15)同上、3273号
*16)同上、3208号。天正16年正月の日付を持つが、記載される武将の活動時期とは合わない。


※20/12/7 千坂長朝の記述を追加した。
※21/3/7 千坂千松軒の記述を追加した。千坂靏寿丸を長朝に比定した。

琵琶嶋上杉氏の系譜

2020-11-22 21:28:18 | 琵琶嶋上杉氏
前回に鵜川神社文書に見える「政勝」を琵琶嶋上杉政勝と比定した。今回は、それを踏まえて琵琶嶋上杉氏の系譜について考えてみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編4、2269号
刈羽郡琵琶嶋之八社宮拾八貫之地、永代寄進之処也、仍如件、
  永正五年
    八月拾七日        正藤

[史料2]『新潟県史』資料編4、2268号
刈羽郡琵琶嶋之八幡宮、拾八貫之地、永代寄進之処実正也、於神前抜丹誠、可致祈念者也、仍而如件、
 永正五年
   八月従七日        為景

[史料1][史料2]は上杉房能、八条尾張守父子死去後から続く八条成定との抗争が終結し、長尾為景と「正藤」という人物が琵琶島鵜川神社へ同日に発給した寄進状である。森田真一氏(*1)は「正藤」書状が簡潔で花押も大きいことから寄進主体とし、さらに「為景の指示を得て成定の後に、この『正藤』が八条上杉家(あるいは琵琶島家)の当主として担ぎ出されたのではなかろうか。」としている。

「正藤」を上杉氏一族琵琶嶋氏に繋がる系統とする点は納得できる。しかし、それが八条上杉氏の継承である点については安易に首肯できない。

琵琶嶋氏=八条氏説は、琵琶嶋氏が八条氏の所領琵琶島を拠点としている事実に基づいているが、裏返せばその他に明確な根拠はない。例えば、森田氏(*1)は『系図纂要』の犬懸上杉氏の持房の系統に「政藤」が見えることにも言及しているが、これは四条上杉政藤のことである。四条上杉政藤は木下聡氏(*2)が延徳2年に京都において死去したことを指摘しているから、「正藤」とは別人である。ただ、後述のように永禄期には琵琶嶋氏としても「政藤」がいたと推測される。

さらに、『越後過去名簿』より天文11年には「白川庄」の「八条憲繁」が供養されていることが確認でき、八条氏は永正期に長尾為景と戦い敗れながらそれ以降も白川庄を拠点にその存在を維持していたことがわかる。「憲」は山内上杉憲房の偏諱であると推定され、単なる傍流としては片付けられない人物である。

また、「正藤」が八条氏を継承したのならば、そのまま八条氏を名乗った方が良いとも思う。すると、琵琶嶋氏は八条氏ではない親為景派上杉氏から分かれた一族と考えられ、だからこそ区別するために「琵琶嶋」を名乗ったと推測できる。為景は要衝柏崎周辺の支配を円滑に行うために、後の琵琶嶋氏となる上杉氏分家を新たに擁立したのではないか。八条氏は15世紀後半に越後に下向した存在であり越後では在府したと推測されているから(*1)、琵琶嶋への在地性は薄かったと想定され、その土地の支配が八条氏の家臣団や支配構造の継承を必要とすることも少なかったであろう。

よって、琵琶嶋氏=八条氏という図式は、早計であると感じる。為景が正藤を擁立したのは”八条だから”ではなく”上杉だから”といえる。ただ、「正藤」の出身に関しては、はっきりと分からないのが正直な所であり、「正藤」の段階で琵琶嶋氏を名乗ったかも不明である。ひとまず、「上杉正藤」が八条氏の後に琵琶嶋に入り、その系統が琵琶嶋上杉氏を形成したと想定されることを留意するに止めておきたい。


[史料3]『新潟県史』資料編4、2272号
小地ニ候得共、先々うはらめの白山宮千二百かりのふんやしきともに、諸役をちゅうし、出し候、能々御きねん尤候、何様可然地候ハハ、重而見あてかい可申候也、仍而如件、
  永禄八 三月五日            政藤
   千日大夫 参

[史料3]は、前回検討した琵琶嶋政勝文書や[史料1]と同じく鵜川神社に伝来する文書である。その点から署名の「政藤」も、正藤や政勝と同じく琵琶嶋上杉氏と見ることができる。

正藤の次代であろう。正藤と政藤は、永正と永禄と大きく離れた時期での所見であるから別人である。ただ、その実名の共通性も琵琶嶋上杉氏である証左であろう。

天文24年の軍事行動の際長尾景虎が毛利安田景元へ「上条・琵琶嶋其外被加御意見」と要請しており(*3)、政藤の活動を表わすとみてよいだろう。『越後平定以下太刀祝儀次第写』の永禄2年に見える「びわ嶋殿」も政藤のこととなる。『上杉御年譜』には永禄12年に12月に「枇杷島弥七郎」が病死したとしており、本当であれば政藤にあたる。天文期から永禄期にかけての琵琶嶋上杉氏として政藤が存在したと推測できる。


続いて、天正元年上杉謙信書状(*4)の宛名に「琵琶嶋弥七郎殿」が見える。琵琶嶋政勝のことである。天正2年には政勝の判物(*5)、天正4年に前回検討した宛行状(*6)が所見される。


政勝の次代が御館の乱における天正6年上杉景虎書状(*7)の宛名に初見される琵琶嶋善次郎である。実名は不明である。御館の乱において琵琶嶋善次郎が琵琶嶋において上杉景虎に味方していることが史料上確認できることから(*8)、この頃まで琵琶嶋上杉氏が琵琶嶋を拠点としていたことが確実となる(*9)。

以降琵琶嶋氏は所見されず、御館の乱により琵琶嶋氏は没落したと考えるのが妥当であろう。


ここから、補足的に諸史料に見える琵琶嶋氏について確認する。

『文禄三年定能員数目録』には「西浜郷并琵琶島保 千六拾石 六拾二人 山本寺九郎兵衛」とあり、注釈として「右ハ兄又四郎長定一跡被下候、此九郎兵衛ハ琵琶島助兵衛ト云」としている。『御家中諸士略系譜』では「勝長」が九郎兵衛、伊予守を名乗ったとするが、「助兵衛」や琵琶嶋氏の話題はない。

『越後三条山吉家伝記写』には、景長の項に「後妻ハ琵琶島越中守娘也」とあり、別に「為景公御婿は上田正景、琵琶島越中守、上条入道冝順と云々」と記される。この「越中守」は年代的に政藤にあたる。

同『伝記』には「琵琶島ハ在名、本名ハ長尾也、白井長尾ハヒハシマ長尾より分ル」とあり、長尾氏からの養子入りも想定される。前回、政勝が長尾氏出身の可能性もあるとした。

『吉江系図』に永正二年生「宗信」の母が「琵琶島日向守春綱女」とする。しかし、永正2年以前に琵琶嶋氏の存在は想定し難く、信用できない。


ここまで、琵琶嶋上杉氏についての系譜を考察し、その存在について検討してきた。度々長尾為景に反抗した上条定憲や八条一族などの上杉氏とは異なり、琵琶嶋上杉氏は天文の乱においても為景に味方したことが確認できるから(*10)一貫して親為景派であったことがわかる。様々な系統の存在する上杉氏一族を考える上で、重要であるように思う。正藤の出身も含め、また別の機会に詳しく検討したい。


以上、琵琶嶋上杉氏として、

正藤-政藤-政勝(弥七郎)-(善次郎)、という系譜が想定される。

史料が少なく父子関係等は不明である。実名や活動時期から正藤-政藤は父子であろうか。また、所伝から政勝は他氏出身の可能性がある。


追記1 :
琵琶嶋上杉氏の系統についてさらなる検討を加え、上条上杉氏の分流である可能性を提示した。
追記2:
『先祖由緒帳』と呼ばれる史料から、琵琶嶋上杉氏が上条上杉氏の分流である徴証を示した。


*1)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川庄」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)、「戦国期の越後守護所」(『上杉謙信』高志書院)
*2) 木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」
*3)『新潟県史』資料編4、1568号
*4)『上越市史』別編1、1149号
*5)同上、1210号
*6)『新潟県史』資料編4、2273号
*7)『上越市史』別編2、1713号
*8)『上越市史』別編2、1713号、1715号
*9)今福匡氏『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派』(宮帯出版)
*10)『越佐史料』三巻、795頁、817頁

※21/5/9 追記1を作成した。
※21/5/15 追記2を作成した。

琵琶嶋弥七郎と「政勝」

2020-11-15 16:16:54 | 琵琶嶋上杉氏
戦国期越後国刈羽郡琵琶嶋を拠点とした一族に琵琶嶋氏がおり、天正3年の『上杉家軍役帳』(以下『軍役帳』)にある「弥七郎殿」は元亀4年上杉謙信書状(*1)の宛名にある「琵琶嶋弥七郎殿」と同一人物と推定されている。『軍役帳』において弥七郎は上条氏、山浦氏、山本寺氏といった上杉一門と並び記載されていることから琵琶嶋氏も上杉氏一門であるとわかる。すなわち、琵琶嶋上杉氏と呼ぶべき存在であったことが理解される。

今回は、琵琶嶋弥七郎という人物について検討してみたい。

琵琶嶋に位置する鵜川神社には戦国期の文書が多数残存している。まずは、その中の一つである、某政勝宛行状を見る。


[史料1]『新潟県史』資料編4、2273号
就軍役過上、彼地八幡田之義、可召放由存候へ共、様々致詫言候間、新而出之候、於向後者、八社詫言仕候共、於彼地相違有間敷候、連々宮之儀取立可申候、仍如件、
 天正四年
   七月二日            政勝
   千日大夫

[史料1]は天正4年に某政勝が千日大夫宛に「彼地」を安堵しているものである。内容は、政勝配下千日大夫の軍役と領地の調整である。天正3年に上杉氏において『軍役帳』が成立し、上杉謙信によって軍役の整備が進められていたと考えられる。その中で、天正2年上杉謙信軍役状(*2)では和田中条氏に対し「鑓」や「馬上」の数を増減させて調整している様子も見える。[史料1]もそうした動きに対応したもの、と推測される。軍役に合せて、「召放」(没収という意味か)が予定されていた土地を安堵していると捉えられる。

ここで注目するのは、『白川領風土記』の記載である。そこでは[史料1]が記され、政勝を「上杉七郎政勝」と伝えている。さらに「系図纂要上杉系図ヲ検スルニ亦政勝所見ナシ」、北越軍記に「上杉左衛門尉政勝」が登場するのみとし、「疑ヲ存シテ後考ヲ俟ツ」と記す。上杉七郎政勝についての考察過程がよくわかり興味深い所伝である。『越佐史料』もこれに従い、「上杉政勝」と比定している。

上杉七郎の名乗りと、琵琶嶋という土地から推測されるのは琵琶嶋上杉氏である。

よって、[史料1]は上杉一門として琵琶嶋に存在した琵琶嶋弥七郎政勝による文書であることが推測される。


[史料2]『越佐史料』五巻、227頁
細工之為辛労分、内藤分事五百苅、諸役停止出之、於何時も申付候細工之儀、無如在可致之者也、仍如件、
  天正二年六月十五日     政勝
            歌代神五郞

[史料2]は刈羽郡鵜川庄に伝来した文書であり、琵琶嶋を拠点とした政勝の発給とみて矛盾はない。

天正6年には琵琶嶋善次郎という人物が琵琶嶋で活動していることが確認され(*3)、この時点までに政勝は死去していたと考えられる。


また、『越後平定太刀祝儀写』永禄2年の部分には「びわ嶋殿」という記載があるがこれは政勝とは別人と考える。詳しくはまた別の機会に譲るが『上杉御年譜』には永禄12年12月に「枇杷島弥七郎病死ス」との記事を載せており、政勝はこの人物の後に琵琶嶋氏を継承したと推測される。また、今福匡氏(*4)は『上杉御年譜』には弥七郎死去に続いて「嫡子ナキニ付テ名字断絶ス」、『越後三条山吉家伝記之写』に「琵琶嶋は在名、本名は長尾」とあることから、長尾氏との関係を指摘しており、政勝は琵琶嶋氏直系ではない可能性がある。実際、他の上杉氏一門山浦国清なども他家からの養子であるように、それは十分に考えられるであろう。


以上、元亀~天正期にかけて琵琶嶋弥七郎政勝が存在したことを確認した。


*1)『越佐史料』五巻、173頁
*2)『新潟県史』資料編5、3698号
*3) 『越佐史料』五巻、624-625頁
*4) 今福匡氏『上杉景虎 -謙信後継を狙った反主流派の盟主-』(宮帯出版)


古志上条上杉氏の系譜

2020-11-14 17:48:50 | 上条上杉氏
戦国期越後国において古志郡を拠点に活動した上条上杉氏の系統が確認される(以下古志上条氏とする)。しかし、上条氏は刈羽郡上条を拠点とした系統(以下刈羽上条氏)や詳細不明の人物も散見されその系譜は複雑である。また、上杉定実や上条定憲など越後史上の重要人物も上条氏の系譜に深く関わっていながら、その位置づけは未だに明確ではない。今回は、系図類をベースに一次史料や研究により明らかにされている点を加味して古志上条氏の系譜を検討してみたい。

まず、『天文上杉長尾系図』は古志上条氏について、次の様な系譜を記している(=は入嗣)。
清方-房実-定明=夜叉安丸=頼房

『天文上杉長尾系図』(以下『天文系図』)は古志上条氏の系譜関係が記載された重要史料である。片桐昭彦氏(*2)によれば、その作成は天文19年以降、同22年頃までに守護代長尾氏によって成されたと推測される。また、その上でこれら系図の作成は政治的混乱に際しての正統性の表明であると考えられることから、結果として勝者側の主張であり、敗者側が残せなかった裏の系図も念頭におく必要がある、としている。要するに、『天文系図』は戦国期中に作られたことから信憑性は高いものであり、不自然な点があればそれは守護代長尾氏の意図が含まれている、ということになる。


ここから、一次史料を用いて検討してみたい。

長尾為景と上条定憲の間で勃発した享禄の乱において、享禄4年越後衆連判群壁書(*1)が作成され当時の有力武将らが署名している。その中に「十郎」とのみ署名する人物が存在し、その人名比定は重要である。

署名は多くの武将が名字-官途名/受領名-実名という記名形式であるが、「十郎」の他に「山浦」と「又四郎定種」が壁書の内で非定型的な形式となっている。山浦氏と山本寺定種が共に上杉氏一族であることから、「十郎」も上杉氏一族であると考えられよう。

今福匡氏(*3)は、『越後過去名簿』に天文3年8月9日に供養されている上条上杉十郎(法名「天祥祖晃」)という人物が見えその法名が『天文系図』の「定明」と一致することから、連判群壁書の「十郎」は上条上杉定明と明らかにした。また、森田真一氏(*4)も連判軍壁書の署名「十郎」は上杉氏とした上で、長岡市に地名定明(ジョウミョウ)が現存すること、『越後名寄』などに上杉定明が古志郡を拠点とした所伝が残ることから、上条上杉定明が古志郡を拠点に十郎を名乗り活動していたとしている。

以上より、古志を拠点とした古志上条氏の存在と、天文3年の死去まで定明が活動したことが確認される。

定明が名乗った十郎は上条氏初代清方の名乗りであるから、「十郎」は古志上条氏が代々継承する仮名と推測できる。


次に、系譜にその名がないものの永正期に所見される上条定俊について考える。『三条山吉家伝記写』に所伝があり、定俊は守護上杉定実の父にあたる人物だという。また、同伝記中の家伝文書群によって、永正7年上越国境の紛争に際して定俊が山吉孫五郎らと活動している様子が所見される。同じ時、上条上杉氏一族と推定される「兵部」という人物が、山吉孫五郎と繋がりを持ち上越国境で軍事活動にあたっている(*5)。よって、上条定俊は兵部を名乗ったと考える。『三条山吉家伝記写』は長尾為景を左京大夫とする他、山吉氏内でも人物の混同が見られるなど細部の正確性に欠く部分があり、定俊の名乗りと伝わる「掃部頭」は誤りだろう。

この「兵部」は上条定憲に比定する意見もあるが(*4)、定憲は「上条弥五郎」として永正7年6月時点で山内上杉方として為景に敵対していることが確認され(*6)、花押型も上杉顕定と酷似しており、明らかな親顕定派であった。そのため、同年6月の顕定戦死後まもなく、まだ山内上杉氏勢力の抵抗も確認できる同年9月という時期に、為景味方の中心人物として軍事活動に及んでいる「兵部」(*7)は定憲とは別人と考えるのが妥当ではないか。

定俊に関して他に和田山修理亮宛定俊書状(*8)がある。森田氏(*4)は和田山氏が栃尾周辺の領主であることから上条定俊が古志郡を拠点としたと推定し、古志上杉氏の系統の人物であるとしている。すると、定俊が山吉氏と関係の深いのは、山吉氏の拠点三条から近い古志の人物であったから、と考えられよう。

よって、永正期において古志上杉氏として定俊が存在したことが理解される。


定明と定俊の関係は、定俊が永正期に所見され定明が享禄期に所見されることから、定俊の次代に定明が存在したと考えられる。『天文系図』において定明と上杉定実は兄弟であるとされ、『藤原姓上杉氏系図』では定実の弟に定明がいる。定俊の子に定実、定俊の兄弟がいたと推測できる。『天文系図』と異なることについては、後述する。


さて、次に定俊の先代を考える。『天文系図』において定実、定明の父とされているのが「淡路守」「蓮器玄澄」を名乗ったとする「房実」であるから、定俊の父が房実と推測できるだろう。房実の父は『天文系図』より上条氏の祖清方である。

明応4年に成立した『新撰菟玖波集』には、作者部類で「上杉淡路守」とされる「玄澄法師」という人物が句を収めているという(*4)。『天文系図』の房実の存在は史料的にも裏づけられる。房実は文安年間(1450頃)に死去した清方の子であり、明応年間には入道していることから、既に高齢であったであろう。

また、房実と同時期に史料上、「上杉播磨守」が所見されることから、清方の次代で既に古志上条氏と刈羽上条氏に分岐したことがわかる。

よって、古志上杉氏として房実入道玄澄が存在したと理解され、刈羽上条氏との分岐は房実世代に生じたとわかった。


さて、ここに房実、定俊、定明と古志上杉氏の人物を検出し、房実-定俊-定明という系譜を推定した。『天文系図』の記載と異なるが、明応期に既に高齢であった房実と天文まで所見される定実、定明兄弟の活動時期は親子としてはやや離れていると感じられる。すると、上述したように定俊が存在したことは確実であるから、『三条山吉家伝記』にある通り実際は「房実」と定実、定明の世代間には定俊が存在した、と考えるべきであろう。では、なぜ定俊が『天文系図』に見えないのか、「上杉十郎憲明」という人物を検討した上で後述する。


憲明は『上杉系図 系図部四十九』に「憲明 十郎長茂」、『上杉系図 浅羽本』に「憲明 十郎」と、それぞれ山内上杉憲房の実弟、山内上杉房顕の甥として記載されている。「憲明」という実名こそ史料で確認できないものの、永正7年6月山内上杉可諄書状中に「長茂」が見え、その存在と入道名が確認される(*6)。「上杉系図 系図部四十九」に「於越州討死 六月十二日」とあり、これは日付から椎谷の戦いを指す。森田氏(*4)は、憲明が憲房同様に顕定の養子であった可能性を指摘し、黒田基樹氏(*9)は憲明が古志上条氏を継承しそれは延徳から明応のことと推測している。

追記:2023/3/2
山内上杉憲房は可諄の養子ではなかったことが黒田氏によって明らかにされている。憲房の動向については以下の記事で詳しく検討している。山内上杉憲房の政治的立場 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

『藤原姓上杉氏系図』にも憲明の徴証はある。「定明」の次代として「定憲」「安夜叉丸」が挙げられ、上杉顕定の養子でのちに「定明」の家督を継ぎ、顕定と共に長森原で討死しという。人物関係については誤りが多いが、古志上条氏で且顕定の近親、永正6、7年の顕定の越後侵攻で顕定と共に戦死している点から、内容は憲明を表わしたものと考えられる。同系図は憲明を「定憲」としてしまったようで、顕定の養子で憲房の弟に「定憲」が載り「十郎定明」の家督を継いだ、とある。

以上より、山内上杉氏の流れを汲む十郎憲明入道長茂が古志上条氏に入嗣していたことが理解された。


しかし、そうすると憲明と前述の定俊は同世代にあたり、古志上条氏の当主が重複してしまう。二人の位置づけを考察してみたい。

結論から言えば、房実の次代に古志上条氏を継承したのは憲明であり、定俊は傍流という位置づけであった、と考え、憲明戦死後に定俊の子定明が古志上条氏を継承していった、と推測する。

憲明が古志上杉氏を継承した背景は、越後出身の関東管領上杉顕定の意向であることは間違いなく、仮名が古志上杉氏伝統の十郎であることから幼少からの計画的入嗣であることがわかる。黒田氏の推測した時期も上杉房実の終見時期に一致する。そしてこれを以て、本来の古志上条氏の流れを汲む定俊が傍流に弾き出されたと見る。

さらに『天文系図』の房実世代と定実世代の間の不自然な欠落がそれを補強する。すなわち、古志上条氏であった憲明の存在が同系図の作成主体守護代長尾氏によって意図的に消去されたと考える。例えば、上杉顕定との関係が深かった上杉定憲の存在が系図類に見えないことについて、森田氏(*4)守護代長尾氏の意図による隠蔽であると推測している。山内上杉顕定と関係が深く、長尾為景と対立し戦死した人物である憲明の存在は、定憲同様に守護代長尾氏の正統性を損なわせるものだったと推測できる。これが、憲明を消去し房実に直接接続した理由ではなかろうか。

十郎憲明と十郎定明の二人は仮名、実名に共通性があるから、憲明戦死後は定俊が影響力を保ちながらも定明が古志上条氏を継承していったのであろう。


またさらに、定俊、定実父子が越後上杉氏と山内上杉氏の一体化の煽りをくらい”傍流の傍流”に転落してしまったこと不満を抱き、為景と共に下克上を果たすという結果に繋がったのでないか、という推測も成り立つ。定実は始めから守護上杉房能の後継者として位置づけられていたとする所伝もあるが、これは八条龍松が房能の後継者として存在したことが森田真一氏(*10)によって明らかにされているから、実際に定俊、定実父子が上記の推測の様に政権中枢から離れた存在であった可能性は高い。定俊、定実父子が問題なく古志上条氏を継承していたら越後上杉氏体制を破壊する必要はなく、定実の為景への加担は単なる野心としか説明できなくなる。

憲明の存在は、混乱する古志上杉氏の系譜と、定実が為景と共に下克上を果たした理由について、仮説を提示してくれる。


ここまで定明から遡って考察してきたがここからは定明以降の系譜を考える。

『天文系図』によれば、定明には子がなく「朴峯様ノ御息 安夜叉丸殿」が跡を継いだという。同系図より、「朴峯」は「上杉少弼入道殿」、安夜叉丸は法名を「長福院殿 齢仙永寿」である。後継者のいない定明の跡を、上杉弾正少弼入道という人物の子が継いだということになる。

しかし、『越後過去名簿』によれば、「長福院トノ齢仙永寿大禅定門」が大永2年3月13日に供養されている。これは、定明の没年天文3年の12年前になり、定明の跡を安夜叉丸が継いだとは考えられない。定明が後継として安夜叉丸を養子にするも、定明死去以前に早逝してしまった、と考えるのが最も自然であろう。ただ、安夜叉丸の父上杉弾正少弼/朴峯も為景妻の実父でありながら詳細不明の人物であるから、安夜叉丸も何か政治的背景を持った存在であるかもしれない。


『天文系図』によれば安夜叉丸の跡を継いだのは、安夜叉丸の兄弟、すなわち上杉弾正少弼入道の子である「惣五郎殿」「頼房」(法名「峯泉寺殿天受玄信」)である。『越後過去名簿』において「上杉頼房」が天文22年10月12日に長尾景虎によって供養されており、その実在が確認できる。安夜叉丸と定明の関係は上述の通りであるから、頼房は定明の死後古志上杉氏を継承したと考えられる。

頼房の没年であるが、今福匡氏(*11)は天文7年以前とする。これは『天文上杉長尾系図』に頼房が「定実御孫子」つまり定実の近親とあることから、上杉定実の養子を伊達氏から迎える計画がなされる天文7年時には死去しているはずという推測であろう。しかし頼房の父が長尾為景の舅の上杉弾正少弼朴峰であることを踏まえ世代関係を見れば、定実の孫として頼房が存在することは不自然である。頼房が定実の孫である可能性は低くいことから、上の理由から天文7年までの死去を想定することは難しい。

やはり没年は『名簿』にある天文22年、と見て良いだろう。


そして、この後永禄期から天正にかけて「越ノ十郎」と呼ばれる人物が登場する。これが父に長尾景信を持つ「上杉十郎信虎」であり、古志上条氏を継承した存在であろう。信虎については、また別の機会に詳述したい。


以上から、古志上条上杉氏の系譜は次のように推定できる。

清方(十郎/兵庫頭)-房実(淡路守/入道玄澄)=憲明(十郎/入道長茂)
         -定俊(兵部)-定明(十郎)=安夜叉丸=頼房(惣五郎)=信虎(十郎)

房実の兄弟に守護上杉房定、刈羽郡上条氏の上杉播磨守が存在する。憲明は山内上杉房顕の弟周晃の子、山内上杉憲房の弟。定俊は房実の子と推定。定俊の子、定明の兄に守護上杉定実が存在する。安夜叉丸、頼房は実父を上条弾正少弼入道とする。信虎は実父を長尾景信とする。


*1)『新潟県史』資料編3、269号
*2) 片桐昭彦氏(「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜-米沢上杉家本の基礎的考察-」『山内上杉氏』戒光祥出版)
*3)今福匡氏『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派の盟主』(宮帯出版社)
*4)森田真一氏「上条定憲と享禄天文の乱」「上条家と享禄天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)、『上杉顕定』(戒光祥出版)
*5)『三条山吉家伝記写』家伝文書
*6)『越佐史料』三巻、538頁
*7)『新潟県史』資料編5、2457号
*8)『新潟県史』資料編3、536号
*9)黒田基樹氏「上杉憲房と長尾景春」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*10)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川荘」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*11)今福匡氏『上杉謙信』(星海社)

※2021/2/17 頼房の没年について加筆した。