鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

三潴氏の系譜2

2023-04-08 17:10:30 | 三潴氏
三潴氏の系譜について検討する。前回は三潴長政とその次代左近大夫をみたが、今回は長政以前の人物について整理していく。


三潴氏初見である三潴道珍、伊賀守、弾正については以前検討した通りである。出雲守道珍とその弟伊賀守が存在し、道珍の子孫二郎が弾正へ名乗りを変え伊賀守の跡目を継いだと考えられる。

道珍を継いだ人物は長禄4年4月足利義政御内書(*1)に見える三潴帯刀左衛門尉であろう。将軍からの御内書であり帯刀左衛門尉が嫡流であることが想定される。文中には帯刀左衛門尉の父が前年の合戦で戦死したとある。戦死した父が誰にあたるかだが、三潴弾正は6年前の享徳3年時点で仮名孫二郎を名乗り活動を始めたばかりの存在であるから、年齢的には合致しないだろう。伊賀守は享徳3年時病気で政務も取れない状況であったから違うだろう。つまり帯刀左衛門尉の父は道珍であり、孫二郎/弾正は帯刀左衛門尉の弟だったのではないだろうか。

天文期に「三潴帯刀小三郎」(『越後過去名簿』)が所見されることからは、帯刀左衛門尉が中目三潴氏に繋がる存在であることが想定される。道珍-帯刀左衛門尉の系譜が中目を拠点とした三潴氏嫡流としてあり、道珍の弟伊賀守と跡目を継いだ弾正は庶家としてあったと考えられる。


帯刀左衛門尉はその後所見なく、次に三潴氏として見えるのは文明後期作成『越後検地帳』(*2)における三潴松夜叉丸である。守護代長尾能景の被官で大嶋庄に所領が認められる。その知行高は『検地帳』内でもトップクラスである。

続いて、明応期頃の長尾能景書状(*3)の宛名に三潴孫右衛門尉が見える。守護上杉房定の後室「芳賀大方」の病気療養に関する文書である。同書状の書止めが「謹言」であることを見ると、孫右衛門尉は能景の被官として活動していた。すると、松夜叉丸が成人し孫右衛門尉を名乗った可能性が想定される。三潴長政の検討で見たように、中目三潴氏は上杉謙信期においても被官・旗本として活動している。よって、その立場からは松夜叉丸・孫右衛門尉も中目三潴氏として矛盾ない。

文明13年5月弥彦神社修造のための棟別銭を免除するとした中条朝資ら置文(*4)に役人として三潴次郎右衛門尉の名が見える。ただしこの文書は江戸後期の作とされ、信憑性や正確性には疑問がある。時期的に三潴孫右衛門尉の活動した頃に近く、「次郎右衛門尉」は「孫右衛門尉」の誤伝なのかもしれない。

明応9年胎内川合戦(*5)には三潴飛騨守が見える。飛騨守は加地氏と共に奥郡へ進軍する守護上杉軍の案内を務めている。加地氏との地理的関係や案内を務める土地勘などを踏まえると中目三潴氏と見られる。確実なことは不明であるが年代からは、松夜叉丸・孫右衛門尉の後身の可能性が考えられる。

飛騨守は『越後過去名簿』大永元年7月供養されている三潴氏「父」であり、供養している三潴氏が後継者であろう。


後継の三潴氏は天文3年1月に母を、天文4年7月に叔父を供養し、天文5年4月に自らが死去し供養されているようである。「三潴」とのみ見え、実名、通称は不明である。

『先祖由緒帳』、『御家中諸士略系譜』はこの長政の先代を「掃部介」としている。だだ、同書では信濃における対武田氏戦で「掃部」が活躍したことを伝えているが、天文5年の死去が想定されるため「掃部」の働きとは認められない。年不詳長尾景虎書状(*6)に「三潴掃部助」が武田氏との合戦で多くを討取ったことを伝えていることを根拠としたものだろうが、この書状は内容は全く創作であり明らかな偽文書である。実名は「利宣」と伝承されるようだがもちろん確実な史料などない。


『越後過去名簿』では天文5年6月には三潴帯刀小三郎が死去し、供養されている。先代の死去とほぼ同時期に死去したようだ。帯刀の名乗りからは後継者として予定されていた人物だろう。

立て続けに三潴氏の人物が死去した理由は単なる疾病の可能性もあるが、上条定兼(定憲)との抗争である天文の乱を念頭におく必要がある。特に「三潴」の没した天文5年4月15日は天文の乱最終盤であり、戦死や戦病死の可能性も考えられよう。



ここまで、

道珍(出雲守)-(帯刀左衛門尉)-松夜叉丸(孫右衛門尉/飛騨守)<同一人物?>-某(掃部介?)-帯刀小三郎

という系譜が想定できる。帯刀小三郎の死後、三潴氏として登場する人物が出羽守長政であり、前回検討した内容へとつながっていく。


以上、三潴氏の系譜について検討した。


*1)『越佐史料』三巻、105頁
*2)『新潟県史』資料編3、777号
*3) 同上、420号
*4)『新潟県史』資料編4、1843号
*5)同上、1317号
*6)『上越市史』別編1、120号

※23/8/23 三分一原合戦に関する部分を修正した。