鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

山吉景盛の動向2-大永7年領主間交渉ー

2020-09-26 16:52:46 | 三条山吉氏
山吉景盛の活動の中で最も有名なものは大永期の領主間交渉である。今回は景盛についての検討を兼ねて、この事例について掘り下げてみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編3、485号
於領中片軸雑務出来候歟、就之、彼地被入手之由、覚外候、其子細只見次郎左衛門尉雖申断候、未被聞分候哉、無心元存候、自幾も前々筋目速可有分別事簡要候、委曲彼使任口上候、恐々謹言、
 五月廿三日          (長尾房景 判)
 山吉丹波守殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、452号
御懇書具令拝閲候、仍五十嵐保内ニ候御知行分、従前々不入由、被仰越候、先規之義、若輩故無存知候之条、郡司不入証跡、只見次郎左衛門尉方江尋申候処、御直札忝候、前々義者、貴殿様も御無案内之由候、所詮至于当御代、別而被懸御目候之上者、自今以後義者、雑務等出来候共、可任御索配候、弥以無御余義候者、忝可奉存知候、不粉義候者、乍恐可申上候、速可被仰付事尤候、巨細猶御使者へ申達候、此旨可得御意候、恐々謹言、
(当時 異筆)「大永七年五月廿六日辰刻到来」
 五月廿五日           山吉丹波守
                      政久
 大関殿

[史料3]『新潟県史』資料編3、525号
就御領中雑務義、預御懇札候、祝着存候、御近所之義候間、万端可申合覚悟候間、被仰越候趣、無違輩御返事被申上候、我々満足候、定可為御同意候、於以後、御領中へ或者人下人、或者罪人等逃候て走入義可有之候、郡内義候間、不紛義候者、可申入候、速可被仰付事専一候、左様之義、未熟候て者、不可有其曲候、巨細五十嵐主計助方へ具令申候、恐々謹言、
 五月廿五日          山吉孫右衛門尉
                      景盛
 只見次郎左衛門尉殿 御報

[史料1]から[史料3]は大永7年に栖吉長尾氏と三条山吉氏間で行われた、「雑務出来」についての交渉に関するものである。これは藤木久志氏の研究(*1)に詳しい。それによれば、「雑務」とは逃亡人・罪人の追捕を意味し、[史料3]の「御領中へ或者人下人、或者罪人等逃候て走入義可有之候、郡内義候間、不紛義候者、可申入候、速可被仰付事専一候」とあるのがその具体的趣旨である。要するに、領主間における下人・罪人の人返協定である。これは郡司の権限によるものではなく「近所之義」(*2)とよばれる在地法にあたる、とされる。

それを踏まえて[史料1]から[史料3]を考えてみる。

[史料1]において逃亡した下人もしくは罪人の追捕すなわち「領中雑務」のため山吉氏が栖吉長尾氏家臣大関氏の所領へ介入を図ったことに対し、栖吉長尾房景は「前々筋目」を以て抗議した。

[史料1]を受けた[史料2]において、山吉政久は「先規之義、若輩故無存知候」と弁明し、「自今以後義者、雑務等出来候共、可任御索配候」と人返協定に合意することを伝えた。交渉は蒲原郡五十嵐保の栖吉長尾氏被官大関氏知行が対象であり、大関氏側は「郡司不入」を主張していることがわかる。これは守護上杉房能の郡司不入廃止政策により不入権を失った大関氏が再びその認証を求めたと捉えられ、これに対して政久はそれを認めず代わりに「雑務」の「御索配」を認めた(*3)。このような点から、郡司による郡司権の行使と領主間の在地法が複雑に絡み合っている様子が窺えるのではないだろうか。

また、このケースでは見られないが永正5年頃の栖吉長尾氏・伊与部氏相論や永正16年古栖吉長尾氏・五十嵐氏相論など領主間での解決が見られない場合は守護権力の裁定が求められたように、領主・郡司・守護(または守護代)という重層的な構造がこの時代の特徴である。

[史料3]は[史料2]と同日に、景盛が栖吉長尾氏重臣只見助頼に対して人返協定の合意を伝えたものである。上述したように、この景盛の書状によって領主間協定の具体的内容が知ることができるのである。


[史料4]『新潟県史』資料編3、454号
就大関方刷、令啓上候処被聞召分、人頭雑物以下無相違可返給之由、被仰下候、忝候、就中、長谷川事、御成敗之由候哉、毎事如斯ニ、速被仰付、至于被懸御目者、可忝存候、此旨可得御意候、恐々謹言、
 二月廿七日          政久
 庄田内匠助殿

[史料4]は大永7年以降のものと思われる山吉政久から栖吉長尾氏重臣庄田氏へ宛てられたものである。「人頭雑物以下無相違可返給」、「長谷川事、御成敗」という二点について感謝する内容であり、藤木氏はこれを「『近所の義』の発動を具体的に示す注目すべき一例といえる」と指摘している(*1)。


このように、大永年間に山吉氏と栖吉長尾氏の間で人返協定の合意が見られ、当主山吉政久と共にその交渉にあったのが山吉景盛であった。景盛が当主政久を支える重臣の立場にあったことが理解され、また、当時の領主の存在形態も伺える貴重な事例であるといえよう。


*1) 藤木久志氏「戦国法の形成過程」(『戦国社会史論』東京大学出版会)
*2)『新潟県史』資料編3、166号 において下田長尾景行が「近所之義」を名目に栖吉長尾氏と五十嵐氏の相論に介入している。
*3) 中野豈任氏「越後上杉氏の郡司・郡司不入地について」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)


※2021/1/10 「古志長尾氏」の表記を「栖吉長尾氏」に改めた。

山吉景盛の動向1ー孫五郎と景盛ー

2020-09-24 19:15:22 | 三条山吉氏
大永期から天文にかけて見られる戦国期三条山吉氏の有力一族として山吉景盛がいる。その実名「景盛」から推測されるのはその立場の重要性であるが、系譜中における位置づけや動向に関しては不明である。今回は、史料類から判明することを参考にその系譜関係を推測してみたい。


まず、景盛が山吉氏の系譜のどこに位置するかを考えたい。天文21年7月の山吉政応等連署禁制(*1)において、山吉恕称軒政応、豊守父子と共に景盛が署名していることから、嫡流と近親にあったことは確かである。景盛の史料上の初見は大永7年5月(*2)であり、終見は天文24年1月[史料2]である。(*2)書状は山吉政久書状(*3)と並んで出されたものであり、政久は「先規之義、若輩故無存知候」と述べるような若年であったから景盛は政久より年上と見る。この時点で政久が仮名孫四郎を名乗るのに対し、景盛が孫右衛門尉を名乗っていることも政久より景盛が年上であることを示している。すると、政久に兄は想定されないから景盛は政久の伯父あたると見られる。すなわち、能盛の弟にあたると考える。

これを踏まえると、永正7年に所見される山吉孫五郎が想起される。『三条山吉家伝記写』(以下『伝記』)より山吉景長が孫五郎を名乗ったとあるから、当主の兄弟が孫五郎を名乗ったとの推測が成り立つ。すなわち、永正期の孫五郎は能盛の弟ではないだろうか。『伝記』はこの孫五郎を「景政」とするが、「景政」の文書上の所見はなく、「政久」の項に「政久後庄応入道景政ト号」とあるように他の人物との混同も見られることから、誤りであろう。

ちなみに、永正期には山吉孫次郎という人物も存在し、政久の子息たちの名乗りを参考にすれば、長男孫四郎能盛、次男孫次郎、三男に孫五郎という関係が想定される。

また、『伝記』には山吉孫五郎宛の文書が数通収められているが、その伝来を考えると孫五郎と景盛の繋がりが見える。『伝記』は山吉景長三男の「景広」から分かれた森田氏に伝来しているのだが、「森田家系図」によると「景広」が「孫右衛門尉」を名乗ったというのである(*4)。すると、「景広」は景盛の孫右衛門尉家を継ぐ存在だと考えられ、受け継いだ文書は景盛関連のものと考えられないだろうか。

これらのことから、永正7年に所見される孫五郎は景盛の前身と推測できると考える。活動時期も被らず、孫五郎から孫右衛門尉という名乗りの変化も自然である。


景盛という実名は長尾為景からの偏諱「景」と山吉氏の通字「盛」から構成されるわけだが、その背景を考えてみたい。府内長尾氏からの一字を戴くその実名は当主としても遜色ないが、永正9年頃まで能盛が存在し(*4)、政久登場後に景盛が[史料3]「丹波守一札をも進候て」と述べるように、あくまで当主能盛、政久の元で活動していた有力一族と考えられる。一族でありながら為景に「景」字を与えられる立場にあったということになる。

山吉孫五郎の立場を見てみれば、孫五郎は永正7年に軍勢を率いて関東へ出陣し長尾伊玄との交渉も担当するなどその働きは重要なものであり、単なる庶子以上の役割を担っている。山吉孫五郎宛の山内上杉憲房書状(*5)も残っている。山吉孫五郎は国内外を問わずその存在を認められていたと推察され、その立場は「景」字をもらうにふさわしいのではないか。

能盛の生年推定や永正7年(1510)に孫五郎が所見されることから、生年は文明(1469~1487)後期から明応(1492~1501)であろうか。景盛の没年は終見である天文24年(1555)後であるから、孫五郎と景盛を同一人物だとすれば享年は60歳前後となる。二人を同一人物と見ることに矛盾はない。


最後に『山吉家家譜』における所伝を紹介したい。ただ、同家譜は内容について信用できる点は少なく、あくまで参考程度に用いるべきである。それを踏まえて、景盛に関連した部分を抜粋したものが以下である。第十七代当主「盛信」の弟に「景盛」の名が見られその仮名を「孫五郎」とする。また、「山吉丹波守政應入道景長」の五男「景政」が「孫五郎」、その後「源左衛門」を名乗り永禄11年に死去したという。

「景政」とは『伝記』において永正期孫五郎の実名とされる名である。すなわち、実際の名、所伝上の名、のどちらにおいても仮名孫五郎を伝えていることが確認できる。


以上より、永正期に山吉能盛の弟として山吉孫五郎、後の孫右衛門尉景盛が存在した、と推測できるであろう。



*1) 『新潟県史』資料編5、2678号
*2)『新潟県史』資料編3、525号
*3)同上、452号
*4)金子氏・米田氏「三条闕所御帳・三条同名同心家風給分御帳の紹介」(『上杉氏の研究』)
*5)『越佐史料』三巻、582頁

三条山吉氏の系譜3

2020-09-21 22:03:18 | 三条山吉氏
前回に引き続き山吉氏の系譜を辿っていきたい。山吉政久は永正16年に初見され(*1)、見附の給人や大関氏との折衝に当たっていたようであるからこの時既に山吉氏当主として活動していたと考えられる。

天文後期には政久は所見されず、代わりに恕称軒政応が見られる。花押型は異なるが、受領名丹波守が共通していることから同一人物と見る。

『越後過去名簿』に「月清政應 三条山吉但馬守立之 取次大串ヌイノ助 天文廿二 七月廿日」とあり、政応の死去は天文22年(1553)である。その生年を父と想定される能盛の活動が見られる永正(1504~1521)の初期とすると享年は50歳前後であろう。また、供養依頼者としてみえる山吉但馬守は有力な一族であろうか。

[史料1]『上越市史』別編1、99号
(前略)
年内云無余日、云遠路、巨砕山吉孫四郎所へ申遣候、雖若輩候、其口之儀候間、被加申御詞、急度御調可為本望候、恐々謹言、
 十二月五日     長尾弾正少弼
                景虎
 色部弥三郎殿 御宿所

[史料2]『新潟県史』資料編5、2678号
一、於当寺内狼藉人之事、被任前々御壁書之旨、可有打擲、万一違乱輩在之者、承而可加成敗事、
一、せつしやうきんたん(殺生禁断)の事、
一、とか人(科人)至于時走入候共、不可有御許容事、
一、同竹木きりとるへからさる事、
一、於御門前不可乗馬事、
右条々如前々御壁書、可守此旨、若違乱之族在之者、可在之者可処罪科之状、如件、
天文二十一年七月十六日      政応
                 景盛
                 豊守
本成寺

[史料3]『三条山吉家伝記之写』
再乱之砌、大渡之地下人悉退散之処、以其方荷責還住にて走廻り之段、神妙感之、雖然連々退屈之由尤無拠、然者其地之代官職申付之、無如在可致奉公者也、仍如件、
 正月廿八日     景久判
   西枝海右馬之助殿


[史料1]は黒川氏と中条氏の所領相論に関する天文21年の長尾景虎書状である。景虎が色部勝長に対し二氏の仲介を依頼している書状であり、奥郡と府中は遠いため三条の山吉氏と連絡を取るようにと伝えている。文中の山吉孫四郎はここで初見される人物であるが、山吉政久(入道政応)と同様に孫四郎を名乗る所から、その嫡子と推定できる。「若輩」とあることから、生年は発給者である景虎が誕生した享禄3年以降だと考えられよう。

『越後過去名簿』に「香雲宗清禅定門 越後三条山吉孫四郎殿御タメ直ニ立之 代六貫五百文取也 永禄元年九月廿二日戌午」とあり、これは上述した山吉孫四郎である。政久の嫡子孫四郎が早逝し、その後を孫次郎豊守が継いだと考えられる。

さて、これらを踏まえて『三条山吉家伝記』(以下『伝記』)を見ると「政久」の子として「政応」が挙げられ、「病身故若死ト云々」と記述されている。父子関係や死去についての点より、「政応」は史料に現れる孫四郎を指すと考えられる。「政応」の子として「豊守」がおり、その弟に「景長」がいる。「景長」ははじめ幼少で家督を継ぎ、「玄蕃入道」の後見を受けたとあるが、米房丸との混同があるように思える。「景長」を後見した「玄蕃入道」こそ後の景長にあたるだろう。要するに、系譜は米房丸の存在を把握せず「政久」と「政応」を別人としたため一代ずれが生じてしまっている。

こう考えると『伝記』中の「政応」の弟とされる「景久」の存在は示唆的である。「景久」の項には西海枝右馬助、又八郎に宛てられた書状が数通掲載されている。[史料3]はその一通である。代官職を与えていることから、景久は山吉家当主と見て然るべきである。『伝記』において、「政応」と「豊守」の中間に位置する人物であり、「景久」は政久の次代当主としてふさわしい実名である。正確性に欠く史料ではあるが『山吉家家譜』においても当主の一人に「景久」が挙げられるように、その存在は『伝記』以外にも見受けられる。ウェブ上においても孫四郎を景久に比定する考察があり、参考にさせていただいた(*2)。よって、孫四郎の実名は「景久」と推測しておきたい。


[史料2]は[史料1]と同年の連署制札である。ここで山吉豊守が初見される(*3)。豊守は政応と連署していること、花押型が類似していること、そして諸系図が一貫して父子関係を伝えることなどに従い政応の子として良いと考える。孫四郎の弟であろう。

さて、山吉豊守は永禄9年頃から本格的な活動が見られる。そして、豊守の嫡子と想定される山吉米房丸が天正4年12月に現れるから(*4)、この頃に死去したと考えられる。『伝記』が没年とする天正5年6月9日は米房丸の存在を把握していないためあまり信用できないが、享年36という記述を参考にすれば没年を天正4年とした豊守の生年は天文9年となる。

そして、豊守の後継者である米房丸も天正5年9月の『三条領闕所帳』(*5)作成までに死去した。天正5年6月9日は米房丸の没した日付かもしれない。

その後は天正5年12月の「上杉家家中名字尽手本」(*6)に「山吉」とだけ見える。

[史料4]『上越市史』別編2、1586号
急度染一筆候、仍当国惑乱、景虎・景勝辜負歎敷候間、為和親媒介与風出馬、越府在陣、因茲、弥次郎方へ及鴻鯉之音門候、自先代入魂之事候条、弥無疎略無様諫言可為喜悦候、委曲大熊可申候、恐々謹言、
  七月廿三日           勝頼
   山吉掃部助殿
   同 玄蕃允殿
   同 四郎右衛門尉殿
   仁科中務丞殿

[史料5]『上越市史』別編2、1967号
今度抽諸人忠信、神妙之至候、因茲、本領并木場之地、同河中嶋之内浄蓮寺分宛行候、弥奉公可致之者也、仍後日之状、如件、
天正八
  五月二十六日     景勝御朱印
       山吉玄蕃允殿

[史料4]は天正6年に武田勝頼が山吉氏関係者四名に宛てて本庄繁長への「諫言」を依頼したものである。この中で山吉玄蕃允は米房丸の次の当主山吉景長にあたる。しかし、この宛名をみると玄蕃允と他三名に全く差が無い。一方、[史料5]を見ると景勝から玄蕃允のみを宛名として本領、木場その他の土地を安堵されている。よって、景長の家督相続は、米房丸死去から数年経た御館の乱終結と共に景勝に認められたものであろう。それまで数年の間、正式な当主が不在という状況が推察できる。上述の天正5年12月の「名字尽」における「山吉」という表記は個人というより山吉家中を表している可能性があろう。『伝記』は景長が「天正八年ニ元服して玄蕃ト改ル」としているが、天正8年の家督相続を表していると考えられる。

本来庶子であった景長のその実名は、この時景勝から与えられたと見るべきだろう。景長の実名は、天正13年山吉景長判物(*7)における署名「景長」から史料的に裏づけられている。

景長については、『伝記』に詳しい。それによると、豊守の弟で、仮名は孫五郎を名乗ったとある。慶長16年に66歳で病死したという。逆算すると生年は天文14年となる。先に見た豊守の推定生年と合わせても弟と考えることは妥当である。天正8年時は、景長35歳であった。

この頃の山吉氏の一族は『三条衆給分御帳』に詳しく、[史料4]でみられる掃部助、四郎右衛門尉に加え、孫右衛門尉、右衛門尉、源衛門尉、兵部少輔が確認できる。

また、一族として『上越市史』が天正11年に比定する甘糟長重書状(*8)に「木場之儀者、山吉一悠斎証人御当地ニ差置申候」と山吉一悠斎という人物が見られる。一悠斎は山吉景長の混同が見られることがあるが、以降も玄蕃や景長の名が見られることから別人だろう(*9)。上述の6名の誰かかもしれない。

以上、今回は政久(入道政応)の子として孫四郎、豊守、景長の三者を推定しそれぞれ家督を継承したと考える。また、政久の頃に庶家として但馬守が、豊守、景長の頃には庶家として孫右衛門尉、掃部助、右衛門尉、源衛門尉、四郎右衛門尉、兵部少輔、らがいた。


よって、これまでの考察より山吉氏当主の系譜を推定すると以下の通りである。数字は文書上山吉氏初見の行盛を一代目とした時の代数である。

行盛¹-久盛²-正盛³-能盛⁴-政久/政応⁵-景久⁶
                    -豊守⁷-米房丸⁸
                  -景長⁹


*1) 『新潟県史』資料編3、451号
*2) gooブログ『越後長尾・上杉氏雑考』様を参考にさせていただいた。
*3)嫡子である孫四郎を差し置いてこの年10歳程度の庶子豊守が署名しているのは不自然にも思われる。本成寺文書は永禄年間に焼亡したと伝わりこれが複製である可能性もあり、注意は必要である。ただ、個人的には能盛の代にも正盛や孫五郎の活動が見られたように一族としての役割があったかもしれない。
*4)『上越市史』別編1、1315号
*5)同上、1351号
*6)同上、1369号
*7)『上越市史』別編2、3070号
*8) 『上越市史』別編2、2733号、『越佐史料』『三条山吉家伝記写』は「一悠斎」、『上越市史』は「一応斎」とする。

三条山吉氏の系譜2

2020-09-13 14:52:07 | 三条山吉氏
前回に引き続き、三条山吉氏の系譜を検討してきたい。

長尾為景が登場する頃には山吉能盛の活躍がみえる。永正4年には長尾為景と築地氏の間を能盛が取り次いでいる(*1)。同年12月には中条藤資へ「山吉孫左衛門尉能盛」の名で打渡状を出している(*2)。年代的に正盛の次世代が能盛と考えられる。守護代長尾能景の一字を戴く能盛は、能景が守護代であった文明14年(1483)から永正3年(1506)の間に元服したとわかる。山吉正盛の生年を1450年頃と想定したから、正盛と能盛を父子関係としても矛盾はない。能盛は天文5年に長尾為景が色部氏、本庄氏らと抗争した際、「山吉孫左衛門尉至于中途令出陣其庄」とある同年5月22日長尾為景書状(*3)が終見である。

※23/8/23 追記
天文5年5月22日長尾為景書状について、以前は鮎川式部大輔入道の乱に関連した文書とした上で永正9年に比定していた。しかし、式部入道の乱を検討した結果、乱自体が永正9年ではなく大永前期であった可能性が高いこと、同書状が式部入道の乱ではなく永正5年の奥郡抗争に関するものであったことを示した。修正しておく。


明応期以降に上杉房能が作成したという『蒲原郡段銭帳』(*4)の中に「山吉孫四郎」という人物が見える。上述した能盛の推定元服時期とも合致することから、孫四郎は能盛であろう。父正盛が四郎右兵衛尉、能盛が孫四郎、後述する政久も孫四郎であるから、山吉氏嫡流は代々孫四郎を名乗ったと見られる。よって、能盛が明応年間(1492~1501)頃に元服したと考えられるから、その生年は文明年間(1469~1487)だろうか。次代政久の初見である永正16年(1519)までの死去であろう。

永正6年8月国分胤重書状(*5)には、山吉孫次郎という人物が見える。注目すべきは孫次郎が長尾為景と敵対する関東管領上杉可諄・憲房方の一人として挙げられていることである。この書状中に「蔵王堂、三条、護摩堂者、同六郎(長尾為景)殿味方に候」とあり、三条山吉氏自体は為景に味方していた。よって、この頃の山吉氏は上杉定実・長尾為景方と上杉可諄・憲房方に分裂していたと考えられる。この孫次郎であるが、庶子の名乗りであると推測する。


[史料1]『越後三条山吉家伝記之写』
以前両度如申遣、此時抽忠信候者、恩賞之事ハ、可任望候、子細石河駿河入道可申越候也、
二月十七日    憲房公御判形
 山吉孫五郎殿

[史料1]は『越後三条山吉家伝記之写』に筆写された家伝文書の一つである。上杉憲房の発給であり、石川駿河入道は(*5)文書においても山内上杉氏方の中に「石川駿河守」として見えている。永正6年または7年に比定できる文書であろう。この文書は、山吉孫五郎という人物が上杉憲房から陣営への参加を誘われている。ただ、孫五郎はこの後も為景方としてみえ誘いには乗らなかったようだ。

山吉孫五郎は永正7年の上杉可諄戦死後の8月に長尾為景が長尾伊玄の要請で上野国へ軍勢を派遣した際、福王寺氏と共にその軍勢の指揮官として見える(*6)。正盛と談合するように求められている記述もあり、三条山吉氏の一族であったことは確実である。山吉豊守弟の山吉景長が『越後三条山吉家伝記之写』において孫五郎を名乗ったとされるから、孫五郎も庶子の名乗りであるように思える。

後に山吉孫四郎の弟として孫次郎豊守、孫五郎景長が見えることを踏まえ、活動時期を考慮すると永正期の孫次郎、孫五郎の二人は能盛の兄弟と推定できるのではないか。


永正16年には山吉孫四郎政久が見える(*7)。孫四郎を名乗ることから、能盛と政久の父子関係を想定する。大永7年山吉政久書状(*8)において政久は「先規之義、若輩故無存知候」と、若年であったことが推定される。

ここまで山吉氏数代を検討し、

行盛の後、久盛-正盛-能盛-政久

という系譜を想定し、能盛の兄弟として孫次郎、孫五郎が存在したと推測した。

追記:2024/3/2
山内上杉憲房について検討した結果、憲房についての表現を一部修正した。

*1)『新潟県史』資料編4、1435号
*2)同上、1857号
*3)同上、1436号
*4)佐藤博信氏「戦国大名制の形成過程」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)、これによると、文明後期に守護上杉房定が「古志郡検地帳」などに見られる検地を行い、それを受けて次代房能が明応期以降に「段銭定納帳」、「国衙之帳」、「蒲原郡段銭帳」を作成した、とする。
*5)『越佐史料』三巻、519頁
*6)同上、558頁
*7)『新潟県史』資料編3、451号
*8)同上、452号

三条山吉氏の系譜1

2020-09-10 20:19:33 | 三条山吉氏
上杉謙信の重臣として山吉豊守が有名であるが、山吉氏についての系譜は不鮮明である。系図としては元禄16年(1703)成立(*1)の『越後三条山吉家伝記之写』が最も古いが、詳しい記述が載るのは「政久」以降の当主からである。文書類を始めとする諸史料を検討して、山吉氏の系譜関係を整理してみたいと思う。

山吉氏初見は応永29年(1422)山吉行盛免許状(*2)である。次いで、応永31年から久盛が見える。行盛と久盛の関係は不明である。

[史料1]『新潟県史』資料編5、2687号
当寺之事、任亡父久盛判形之旨、諸役等事、不嫌甲乙人等令停止之、但三ヶ条之人躰出来之時者、科人計渡給、家財已下之事者、可為御計者也、仍件如、
永正八年九月十七日      正盛
本成寺

[史料1]は山吉正盛発給の本成寺宛安堵状である。「亡父久盛」とあり、父が山吉久盛であるとわかる。しかし、山吉大炊助久盛の発給文書が確認できるのは応永31年(1424)(*2)から文安3年(1446)(*3)であり、その後の山吉氏の所見明応元年(1492)(*4)とは半世紀の開きがある。ちなみに、本成寺文書は「不慮之焼失」により「鼻紙程度モ不残」(*5)と言われるように天文年間や永禄年間に文書群の焼亡が想定され、『新潟県史』も「本文書群は、後年の蒐集書写かどうかも含めてなお検討を要する。2665号~82号は紙質・筆跡の似る者が多い。」としている。そういった関係で史料残存にも偏りがあるのかもしれない。

正盛は永正7年(1510)9月の長寿院妙寿書状(*6)中にその名が見られるから永正年間の生存は確かであり、山吉久盛も中条秀叟記録(*7)に応永33年の項に見え応永年間に活動していたことは正しいとわかる。父久盛の活動時期や永正年間には山吉能盛や山吉孫五郎といった人物も活動していたことから正盛は高齢であったと考えられる。久盛の初見時20歳だとして1450年頃久盛40歳程度で正盛誕生とすると永正8年には正盛60歳程度となり、久盛と正盛の父子関係は成立する。世代間が離れているため山吉久盛という同名別人が存在した可能性もあるが、花押型について山吉久盛発給の応永31年(1424)段銭請取状(*2)と文安元年(1444)打渡状(*8)の花押を比べるとほぼ同じであり、残存史料からは山吉久盛は一人と捉えられる。

冗長になったが、山吉久盛と正盛の父子関係を肯定する。

[史料1]に「三ヶ条之人躰出来之時者」とあるように正盛は大犯三ヶ条に対する検断権を持つ蒲原郡郡司であったことがわかる。また、文亀3年長尾能景が山吉四郎右兵衛尉へ書状(*9)を発給していることから、正盛は四郎右兵衛尉を名乗ったと考えられる。四郎右兵衛を後述する正綱に比定する向きもあるが、この書状は水原氏の「知行分不入」や「済物多少相論」などから蒲原郡司の職に由来するとされ(*10)、郡司であった正盛に宛てられたものと考えている(*11)。

明応元年には山吉四郎右兵衛門尉宛長尾能景証文(*12)を受けて、弥彦神社へ山吉正綱打渡状(*13)が発給される。『三条市史』は江戸時代の作成の写しと推定し、さらに『新潟県史』は改元が反映されていないことから「検討を要する」としている。正綱に関しても他に所見がなく、或いは正盛の誤りであろうか。ただ花押型は正盛と異なっており、正盛から偏諱を受けた一族であろうか。

次回は、正盛の次代能盛から検討する。


*1)現存する写本の成立が元禄16年であり、原本の成立はさらに遡る。
*2)『新潟県史』資料編4、1813号
*3)『新潟県史』資料編5、2683号
*4)同上、2882号
*5)同上、2700号
*6)『越佐史料』三巻、559頁
*7)『新潟県史』資料編4、1316号
*8) 『新潟県史』資料編5、2669号
*9)『越佐史料』三巻、451頁
*10)中野豈任氏「越後上杉氏の郡司郡司不入地について」(『越後上杉氏の研究』吉川弘文館)
*11)正綱が久盛・正盛父子の間に郡司として存在した可能性は、正綱が正盛の偏諱を受けていることから考えづらい。
*12)『新潟県史』資料編5、2882号
*13)同上、2883号