鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾房長の乱について

2024-08-24 16:55:06 | 長尾氏
長尾房長は永正期から天文期にかけて活動した上田長尾氏の人物である。越後守護代長尾為景とは当初良好な関係を築いていたが、天文の乱において上条定兼、中条藤資らと共に反旗を翻す。天文期における房長と為景の抗争については多数の文書が残る一方で、年次推定など細かな検討は進んでおらずその全貌は掴みづらい印象がある。今回、天文の乱に端を発した長尾為景と上田長尾房長の抗争を主眼におき、文書群をもとにその経過について検討していきたい。一連の抗争は後年の長尾政景の乱と対比し、長尾房長の乱と呼んでおきたい。

1>天文期以前の両者の関係
永正6年7月に山内上杉可諄が越後へ進軍し、長尾為景らを越中へ敗走させる。この抗争において、房長の叔父で先代にあたる上田長尾顕吉は山内上杉氏方として見える(*1)。しかし、為景らの反攻により可諄は永正7年6月に戦死する。この際に上田長尾氏が寝返り退路を断ったとの俗説があるが、それを示す史料はなく以前検討したように前後の状況からも史実とは考えられない(長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。永正7年11月に顕吉が後継者房長を越後府中へ出仕させており、同時期に為景へ帰属したことが推測される(*2) 。これ以降は越後国内の情勢は安定しており、顕吉から代替わりした房長も為景方として活動している。

2>天文の乱における抗争
比較的安定した為景の治世のなかで、房長が反抗するに至るのは上条上杉定兼(定憲)が挙兵した天文の乱においてである。当乱において、両者の交戦は天文2年9月より所見される(*3)。同年10月居多神社宛長尾為景書状(*4)に「當敵上条播磨守并同名越前守、叛逆之張本人中条越前守・新発田一類速退治」とあることから、房長が揚北衆中条氏らと共に定兼へ与しその旗幟を鮮明としたことは明らかである。この房長の行動は国内の所領や利権の都合もあるだろうが、房長の母が上条氏出身と考えられるためその血縁関係が定兼との共闘に関係した可能性がある(上田長尾氏の系譜1 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。

天文2年9月以降、天文3年中においても為景と定兼の抗争は続き史料上は頸城郡を中心にその軍事的衝突が認められる(*5)。天文4年5月になり定兼方の勢力が結集し、妻有衆、薮神衆や宇佐美氏、大熊氏と共に上田長尾氏の軍勢が定兼の本拠鵜川庄上条へ参陣したこと同月長尾為景書状(*6)からわかる。後述するが同年7月坂戸城近辺で生じた五十澤口の戦いについて房長は「注進到来」(*7)として把握しているから、房長自身が坂戸城を留守にして上条へ出陣していたと考えられる。敵が上条に集結した事態に際し、為景は下倉城福王寺彦八郎、波多岐庄下平氏に「河東」への攻撃を命じている(*6)。「河東」とは信濃川右岸、現在の十日町市の信濃川以東の地域を指すと推測されている(*9)。これらから推測される点は、上田長尾方の勢力圏が自身の拠点上田庄と妻有、薮神で構成されていたということである。為景方の前線は福王寺氏の下倉城、下平氏らの十日町であり、地図に当てはめれば両者の前線は噛み合うこととなる。山内上杉氏の影響下にあった妻有、薮神と上田長尾氏の関係は天文期まで続いたといえる。

さて、この後為景は同年6月に治罰の綸旨を獲得し(*10)し、政治的な対応もこなした上で揚北衆も従えた上条定兼軍の進行を迎え撃つ準備に追われていたと考えられる。その中で上述の為景方と房長方の境界も緊迫度を増す。

天文4年7月17日までには「五十澤口」にて両勢力が衝突し古藤清雲軒ら房長方が勝利し為景方下平次郎太郎が戦死している(*11)。五十澤という地は坂戸城の麓にありこの時は為景方の下平氏らが攻勢に出たところを房長方の古藤氏らが迎撃したという構図が想定される。そして、この勝利を受けて同月房長は穴澤新右兵衛尉に下倉城を攻めることを命じている(*12)。同書状には「上条之者共令同心」とあるが、これは上条上杉氏ではなく穴澤氏の近隣の広瀬上条の地侍=「広瀬契約中」を指すと思われ、房長が薮神の在地勢力を味方につけていたことがわかる。

同年8月には上条定兼が平子弥三郎を味方に誘い、房長、中条藤資ら揚北衆からも同様の内容の書状が送っている(*13)。また、房長は同年9月22日までに古志郡蔵王堂周辺を攻撃したことが同日長尾張恕書状(*14)からわかる。上条定兼や揚北衆と連携しながら、中郡の為景方の勢力へ圧力をかけていたことが想定される。また、同書状で為景は福王寺氏へ敵は出陣中で留守となっているだろうから「妻有・河東」を焼くように、と命じている。同書状は従来天文5年とされてきたが、後述のように天文5年9月では房長は下倉城周辺において劣勢となっており中郡蔵王堂まで進軍することは困難であったと思われ、天文4年9月のものと考えられる。

しかし、同年9月に揚北衆の首魁中条藤資が病気となりそのまま死去し、定兼の軍勢は維持が困難となったと思われる (中条藤資の動向3 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。房長も定兼方の軍事力が低下したことを見て、自領へ帰還したことが推測される。翌年4月に定兼が死去したことが『越後過去名簿』に記載されていることから定兼は戦没した可能性が高く、これを以て天文の乱は為景の勝利で終結したと考えられる。

ここまで、房長は上条定兼らと共に為景に反抗し、上田庄から出陣し上条や蔵王堂など上郡から中郡にかけて軍事行動を展開しながらも、内部事情も絡んで上条方が不利となったために上田庄への退陣を余儀なくされたと考えられる。また、五十澤の戦いなど房長の留守中における上田庄を巡る戦闘も確認できた。

3>天文5、6年における抗争
上条定兼と長尾為景の抗争=天文の乱が終結した後も、房長と為景の対立は継続する。天文5、6年における両者の抗争を示す史料は多数残るがまずそれら文書の年次比定が必要であり、ポイントは署名となる。入道以前の「為景」としての終見は天文5年3月長尾信濃守宛柳原資定書状(*15)である。従来天文5年8月に為景から晴景に家督が相続され同時に入道したと考えられてきたが、前嶋敏氏の研究(*16)などにより正しくは天文9年8月であったことが指摘され必ずしも入道が天文5年8月というわけではなくなったが、私は入道の契機は天文5年4月頃上条定兼の死去にあったと以前に推測した(長尾為景から晴景への家督相続について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。そうであれば「為景」なら天文5年4月以前、「入道絞竹庵張恕」であれば天文5年月以降となる。このような現状を把握した上で当抗争に関する文書群をみていくと概ね矛盾なく成立するため、以下で具体的に整理していく。

まず、通説を確認する。『増補改訂版上杉氏年表』(*9)では、天文5年8月に福王寺氏、山吉氏らが上田長尾氏と戦い、9月には上田長尾氏が古志蔵王堂まで進攻したとする。翌年1月には大沢を上田長尾氏が攻撃したため、翌月福王寺氏らが広瀬で合戦に及んでいる。広瀬合戦では前年12月には為景方の調略により内応した江口氏も活躍した。5月には上田長尾氏が下倉城を包囲したが為景は中郡の諸将によって兵糧運搬を試みる。8月になっても状況は好転しなかったが、為景が娘仙洞院を上田長尾政景に嫁がせることで講和したとする。以上が通説であるが、房長有利の情勢で講和に至ったという印象である。これは為景の入道を天文5年8月以降とした結果であり、天文5年4月以降とした上で抗争の経過を再構成してみたい。つまり天文6年4月~8月とされていた文書が天文5年4~8月であった可能性があり、実際には上記通説とは異なる経過であったと思われる。

[史料1]『越佐史料』三巻、805頁
就従上田敵相動、重注進旨及披見候、申越通雖無余儀候爰元も造意等申追候、無手透候上不及合力候、出陣迄は遅々之間不入置人数由、先書ニも露之候キ、重進催促候、為如何其地可捨置候哉、如何共要害堅固相踏候は無越度様可成其助候、在城之衆申合、其かせき専一ニ候、為其差越上村小五郎候、委細は彼者可有口上候、尚以自各可申越候、謹言、
    五月七日              張恕
     林部右京殿
     福王寺彦八郎殿

[史料2]同上、805頁
其地兵糧断絶候由候之間、中郡江申付候、謹而可為入之候、涯分令用心、堅固可相踏事専一ニ候、謹言
    五月八日              張恕
     福王寺彦八郎殿

[史料3]同上、821頁
今度山吉其外其口へ相動候上、従上田以多人数打向候処、返合及一戦、得勝利凶徒数多討捕段、各戦功無比類候、此上之儀山吉令談合其地堅固之備専一ニ候、委細山吉方へ申越候、謹言、
    九月三日              張恕
     福王寺彦八郎殿


まず、[史料1][史料2]に見える天文6年5月とされる房長による下倉城包囲を天文5年5月と推測する。文中からは兵糧も逼迫するほど房長方の攻勢は激しく、この後間もなく講和するような戦況だろうか。天文5年5月であれば天文の乱直後でもあり、房長の攻勢が活発である一方、為景が頸城郡の鎮静化に追われ下倉城への援助が行き届かない状況も理解できる。年不詳5月12日福王寺彦八郎宛長尾張恕書状(*17)には「兵糧以前申付候」とあることから[史料2]で兵糧搬入計画を伝えた直後と想定される。同内容の5月12日下倉山在城衆宛長尾張恕書状(*18)も同日に比定される。8月4日長尾張如書状(*16)では以前「当口無手透、其口行延来計」と自身の出陣が叶わないことを、遅くなっているが下郡諸将へ援軍を要請していること、下郡諸将が動かない場合は黒田秀忠を派遣することを述べている。すなわち、これらの文書は天文5年5月から8月にかけての文書であったと推定される。

上述の5月12日張恕書状(*17、18)では「栃尾事連々ニ申越子細」とあり、年不詳7月長尾房長書状(*19)では栃尾城を古藤清雲軒が守備していることが明らかであるから、天文5年5月頃に房長は下倉城に圧力をかけながらさらには栃尾城を攻略していたことがわかる。上記張恕書状(*17、18)からは為景が古志上杉氏と相談して栃尾地域の奪還を目指していた様子がわかる。

続いて、 [史料3]をみると山吉政久らが下倉城へ派遣され同城を攻める房長方と交戦し撃退している様子が見える。三条の山吉氏らこそが[史料2]で伝えられていた中郡からの援軍ではないか。つまり、[史料1][史料2]を受けて為景が山吉氏ら援軍を派遣し[史料3]にある下倉城救援を行ったと考えられ、同文書は天文5年9月と推測できる。従来、この頃とされてきた房長の蔵王堂攻撃はこのような下倉城での敗戦を考えれば難しいと考えられ、先述のように天文4年9月のことと想定される。

天文5年11月には為景から福王寺氏へ「於上田ちうせついたすへき人数交名を以申越候」、「上田庄において彼者共相當之地可宛行候」(*20)と述べられ、為景方から房長の味方へ調略が仕掛けられていたことがわかる。同年12月21日長尾張恕書状(*21)にて江口藤五郎が「今度於其口露色被復先忠」と調略に応じ下倉城の防衛を為景から命じられており、天文6年1月13日長尾張恕書状(*22)には発智大学助が味方として見えるから、為景方の反攻に伴い薮神の領主の中に為景へ帰属する者がいたことが明らかである。

天文6年1月18日には下薮神の大沢城が房長方により攻略され、大沢伊豆守が戦死する(*23)。『越後入広瀬村編年史』は大沢氏も江口氏と同様に為景の調略に応じて房長方から為景方へ転じた領主と推測している。つまり、この房長の攻撃は相次いで離反する領主らへの報復であり、薮神での影響力低下を打開するためのものだったと考えられる。これに対し為景方の福王寺氏、江口氏らが反撃し、2月21日広瀬の戦いにおいて房長方を破っている(*24)。

これまでの年次推定を踏まえると、これ以降は抗争に関する所見はない。薮神における為景方の勝利が決め手となり、まもなく為景と房長の間で講和が結ばれたと見てよいだろう。史料はないがその後も状況から栃尾を始めとする古志郡における房長の占領地も奪還もしくは返還されたと推測される。

まとめると、天文の乱終結後も為景と房長の抗争は継続し、天文5年5月から7月にかけて房長が活発な軍事行動を見せ栃尾城を落とし下倉城も包囲するが、9月に山吉氏らの援軍が派遣され為景方が反撃を見せ、年末頃には江口氏など薮神の領主も味方につけるなど為景方が有利な状況へと展開していった。天文6年2月の広瀬の戦いにおいて挽回を目指した房長と為景方の決戦となり、それに為景方が勝利したことで講和へと至ったと考えられる。

史料が不足しているため、講和条件については不明である。房長の子政景へ為景娘の仙洞院が嫁いだことは事実であるが、それがこの講和によるものかもはっきりしない。のちに長尾景虎と長尾政景が対立した際、天文18年6月の時点で「(上田長尾氏の)御新造様は御身類にて」(*25と述べられているから、この婚姻が景虎ではなく為景もしくは晴景の政策によって実現したことは間違いない。仙洞院は為景正室天甫喜清の所生であり、『上杉御年譜』、『平姓長尾氏系図』に伝わる没年に従えば大永4年生まれと考えられる。すると天文6年時には14歳であり、講和時点での婚姻は可能だろう。ちなみに、『羽前米沢上杉家譜』によれば長尾政景は大永6年生まれで、天文6年には12歳となる。正確な年次までは確定できないが、天文6年の講和を契機とした融和政策に基づいた婚姻であったことは間違いない。

しかし、為景と房長の抗争は古志郡や下倉など薮神を中心とし、上田庄や妻有庄へは依然として房長の影響力が色濃く残ったと思われる。為景は天文の乱直後で国内の鎮静化が最優先であったと思われ、この講和は房長を完全に屈服させたわけではなかった。よって、為景の優勢を以て講和に至ったと考えられるが、上田長尾氏の勢力は維持され、それがのちの長尾景虎と上田長尾政景の抗争へとつながっていくと考えられる。



*1)『新潟県史』資料編4、1630号
*3)『新潟県史』資料編4、1556~1558号
*4)『越佐史料』三巻、794頁
*5)同上、 796~799頁
*6)同上、807頁
*7)同上、813頁
*9)『増補改訂版上杉年表』、池亨・矢田俊文編、高志書院
*10)『越佐史料』三巻、808・809頁
*11)同上、813頁
*12)同上、814頁
*13)同上、818~820頁
*14)同上、824頁
*15)同上、828頁
*16)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成」(『日本歴史』第808号)
*17)同上、806頁
*18)同上、806頁
*19)同上、816頁
*20)同上、825頁
*21)『越後入広瀬村編年史』中世編、54頁
*22)『越佐史料』三巻、800頁
*23)同上、801頁
*24)同上、803~804頁
*25)『上越市史』別編1、18号

※24/8/30 追記
年不詳7月22日長尾房長書状(越佐史料3-816)に見える古藤清雲軒の「新山」攻略を天文5年7月に比定していたが、その後検討した結果天文4年7月であるという考えに至った。そのため、天文5年7月の「新山」攻略についての記述を削除し栃尾城を巡る状況についての記述を一部変更した。「新山」攻略の詳細ついては、また別の機会に提示する。


赤堀上野介の動向

2024-08-04 20:49:51 | 赤堀氏
赤堀氏は上野国佐位荘(淵名荘)赤堀の領主である。秀郷流藤原氏の流れを汲む一族という。戦国期には越後上杉氏、横瀬由良氏、小田原北条氏といった大勢力の間で活動を見せる。赤堀氏は近隣の有力領主であった厩橋長野氏や由良氏、厩橋北条氏を寄親としていたように、領主としての規模を大きくはない。しかし、在地勢力として根を張る彼らの存在は決して無視できるものではなかった。このような領主の動向を検討することで当時の上野国における勢力図が詳細に浮かび上がってくると考える。今回は、特に永禄期から天正期にかけて活動した赤堀上野介(実名不明)の動向について検討したい。実名「景秀」とされることもあるが、確実な史料はなく信頼性の低い系図等の所伝にすぎないため、ここでは参考程度に留めておきたい。


1>永禄期以前の赤堀氏
観応3年(1352年)から赤堀氏の所見があり、南北朝期においても赤堀氏の活躍が見られる。その後しばらく赤堀氏の消息を伝えるものはないが、戦国期になり享徳の乱が勃発してから再び歴史の表舞台に現れる。

享徳3年に鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏の間で享徳の乱が生じると近隣の新田岩松氏、館林舞木氏らと共に赤堀下野守時綱は足利成氏方につく。享徳4年2月には赤堀氏が善氏を攻撃している(*1)。時綱は康正2年2月に深巣合戦で上杉方と戦い戦死し、嫡子亀増丸=孫太郎政綱が跡を継いだ(*1)。長禄2年になると岩松氏が上杉氏に内応するなど政情の変化があり、状況に応じて足利方から上杉方へつくこともあったようだ(*2)。結局文明・長享期において赤堀上野介=政綱は上杉方としての立場を取るようになる(*3)。

文明14年閏7月には山内上杉顕定より政綱の子彦四郎が善三河守の後継となることを認められている(*4)。つまり当時、赤堀氏と善氏は血縁的に一体のものとなったと推測される。永禄期頃においても赤堀氏と善氏の動向は概ね一致していると考えられ、両者が血縁的に深い関係あったことが想定できる。

明応3年には山内上杉顕定と古河公方足利政氏が連携し、顕定の養子として政氏の子が入るなど両者の融和が見られる。政綱が次男彦九郎を足利政氏のもとに参陣していることを示す明応6年以降の文書(*5)があるが、善氏へ入嗣した彦四郎が長子であれば彦九郎が赤堀氏の後継者であった可能性もあろう。

天文15年4月に山内上杉憲政が「赤堀上野守娘」へ川越合戦で戦死した「赤堀上野守」=赤堀上野介の名代=家督を認めている。明応期から天文15年まで約50年の空白があり、戦死した上野介は政綱ではなく、後代の人物である。詳細な系譜関係は不明である。こののち時期はわからないが、上野介娘から赤堀氏の家督を継承した人物が永禄期より所見される赤堀又次郎=上野介と考えられる。女性を挟んでの家督継承の形であることから、上野介(永禄期)は戦死した上野介と父子関係ではなく、庶流から家督を継承した存在と想定される(*6)。


2>赤堀上野介の動向 -謙信の在世期-
永禄3年秋に越後長尾景虎が山内上杉憲政と共に関東へ出陣し、参陣した諸将の書き上げとして永禄4年初頭に『関東幕注文』が作成された(*7)。その中に横瀬成繁傘下(=新田衆)の同心として「赤堀又次郎」が見える。以降に見える上野介の前身だろう。上野介の後継者が又太郎を名乗ることから見ても妥当と考える。

享徳の乱以降の戦乱において地理的関係から金山城を拠点とした新田岩松氏とその家宰横瀬氏の影響は大きかったと思われ、その傘下として編成されたと見られる。しかし、それも状況によっては変化したようで、天文10年に厩橋長野賢忠、深谷上杉憲盛、那波宗俊らが横瀬泰繁を攻めた際に、当時横瀬氏の同心であった善氏、山上氏が横瀬氏を離反し厩橋長尾氏へ帰属し、その後永禄3年の長尾景虎越山までその状況が続いていたという(*8)。「関東幕注文」の時点で善氏、山上氏は新田衆に見えるため、永禄4年初頭までに横瀬氏に再び帰属したことになる。久保田順一氏(*9)は厩橋長野氏が長尾景虎に軍事的抵抗を見せたため、その間に善氏ら同心は厩橋長野氏から離反した可能性を推測している。赤堀氏については史料がないが、善・山上氏と同様の経過を辿った可能性は高い。

永禄4年以降、赤堀又次郎は横瀬成繁の同心として位置づけられ活動していたと見られる。新田荘長楽寺の義哲により記された『永禄日記』には赤堀氏が所見され、永禄8年3月23日に「赤堀御料人」が22歳で死去し義哲が焼香のため赤堀に行ったことが記録されている。赤堀御料人の詳細は不明である。当時御料人は息女を指し、年齢や由良氏に属する義哲の視点から記されることなどから由良氏関係者の娘が赤堀氏へ嫁いだと見るべきだろう。義哲が知らせを受けて金山から赤堀へ向かったのも御料人が由良氏関係者であれば頷ける。もちろん「赤堀御料人」は赤堀上野介の妻であろうから、上野介と由良氏方との間には婚姻関係が結ばれていたことが想定される。

上杉輝虎が永禄9年3月下総臼井城攻めに失敗すると関東諸将の離反が相次ぎ閏8月に由良(横瀬)成繁も上杉氏を離反し小田原北条氏に帰属する。ここで善氏、山上氏は由良氏に従わず上杉氏方として残るが、同年末に北条氏政が佐野まで進軍した際に小田原北条氏に従属し、再び由良氏の同心として位置づけられた(*8)。赤堀氏の動向を示すものはないが、当時赤堀氏の周囲の由良氏、厩橋北条氏は共に小田原北条氏に服属しており、善氏らの動向と同じく永禄9年内には由良氏の元に編成されたのではないか。

永禄12年6月に越相同盟が成立すると上野国は上杉輝虎の管轄となり、由良氏も名目上は上杉氏傘下となる。由良成繁はその後も小田原北条氏寄りの立場を取っていたが、赤堀氏は永禄13年3月22日上杉輝虎安堵状(*10)において「度々譜代之筋目無拠申由、殊誓詞亦神妙ニ候」とあり、上杉氏の直臣となることを申し出て了承されている。

元亀2年末に越相同盟が崩壊し甲相同盟が復活、再び上杉氏と小田原北条氏の対決姿勢が鮮明となると、由良成繁は小田原北条氏へ味方する。一方で、赤堀氏、善氏らは由良氏に従わず上杉氏への従属を維持した。その結果、善氏は元亀3年6月に由良成繁から居城善城を攻撃されている(*11)。『関八州古戦録』はこの時に「善備中守宗次」が戦死し善城が落城したことを伝えており、この後に善氏の所見がないことからも同氏は没落したと考えられる。山上氏についてもこの後所見がないことから同時期に由良氏の攻撃を受け没落したことが想定される。女淵城についても城将沼田平八郎が上杉氏から離反し由良氏に帰属している(*12)。さらには天正元年3月には上杉方桐生城とその領域も併呑し、黒川谷の領主阿久沢氏も従属させた(*13)。ここにおいて赤堀氏は周囲を由良氏に囲まれる形となる。この際の状況について述べられているのが前回(赤堀上野介関連文書の年次比定 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)で検討した元亀4年3月上杉謙信書状(*14)、同年5月上杉謙信書状(*15)である。前者において赤堀上野介が厩橋北条高広へ自身の窮状を訴え近いうちの謙信越山を要請していることがわかり、謙信は赤堀城の堅守を指示している。後者においては近日中に援軍を送るため安心してほしいことを伝え、北条高広・景広父子と相談の上赤堀城の防衛を指示している。この頃、謙信は越中方面の対応に追われ元亀4年=天正元年において関東へ出陣できる状況ではなかった。天正2年2月までに後藤勝元が越後から由良氏との前線に派遣され、敵を討取り首験は厩橋城へ送っていたことが同年2月上杉謙信書状(*16)に記される。後藤勝元が赤堀上野介へ伝えられた援軍である可能性もあろう。

しかし、謙信の激励も届かず赤堀氏も小田原北条氏、由良氏方へ従属したと考えられる(*17)。その契機は天正元年7、8月の北条氏政の上野国出陣であろう(*18)。同年8月1日には氏政が厩橋を攻める動きを見せており、赤堀氏もこの際の圧力に屈して小田原北条氏へ帰属したことが想定される。永禄9年末における善氏や山上氏らの事例を踏まえると、やはり従来の関係性により由良氏の同心とされたのではないか。

上杉謙信は天正2年1月26日になって関東出陣の陣触れを出し2月5日に沼田に着陣した(*19)。同年3月10日北条高広書状(*20)において「赤堀・善・山上・女淵属御手」とあり、この時までに由良氏から赤堀城、善城、山上城、女淵城を奪還したことがわかる。ちなみに、同年3月13日上杉謙信書状(*21)では「善・山上・女淵付落居候」と諸城の攻略を伝えているが、赤堀城について記載はない。善・山上・女淵城は善氏・山上氏ら領主層の没落と由良氏の家臣の入城が想定されるため謙信に対して抵抗を見せたことが推測できるが、赤堀上野介は周辺勢力の中では最後まで謙信へ従っていた存在であり、他城とは異なり越山した謙信に呼応して積極的に再従属したのではないだろうか。

この天正2年初頭の攻勢によって謙信は女淵城へ後藤勝元、善城へ河田九朗三郎(後に備前守)、山上城へ倉賀野尚行、新たに築城した今村城那波顕宗が配属され(*22)、深沢城阿久左馬助も上杉氏へ帰属しており、赤堀城赤堀上野介も彼らと共に小田原北条氏、由良氏への防衛線として機能していくこととなる。天正2年7月赤堀上野介宛上杉謙信書状(*23)はこのような中で発給された文書である。

その後、天正2年8月には北条氏照の厩橋・大胡攻め(*24)などの小田原北条氏との攻防も見られるが、謙信死去まで赤堀城周辺の勢力図は大きくは変わっていない。天正4年2月(*25)、同年7月(*26)に由良成繁による善城攻めが確認されるが、謙信死去まで善城は上杉方であるから赤堀氏ら一帯の武将の防戦により由良氏を撃退した状況が想定される。女淵の地衆北爪氏が記した『北爪大学覚書』(*27)には「赤堀ノ御働ノ時首壱ツ取申候」などと北爪氏が上杉氏方として活躍したことが記され、年不詳ながら赤堀城を巡って合戦があった可能性が示唆される。『群馬県古城塁址の研究』はこれをもって天正2年3月に赤堀氏が上杉氏へ帰属した際に合戦があったと推測するが、時系列で記される同覚書の中で上記は天正2年閏11月に上杉謙信が羽生城衆を引き取った記載の直後に記されているため、それ以降のことと想定される。先述の通り天正2年3月において赤堀城での合戦は明らかでなく、また同地域一帯が由良氏・北条氏へ帰属していた状況で女淵を拠点とする北爪氏が上杉氏方として活動していたとは考えにくいという点などからも、同記載は史料に現れない由良氏と上杉氏方の境界線における紛争を示していると思われる。

3>赤堀上野介の動向 -謙信死後-
さて、このような状況が一変したのが上杉謙信の死去である。越後国内では上杉景勝と上杉景虎が対立し御館の乱が勃発し、景虎の実家小田原北条氏も積極的に介入する姿勢を見せる。上野国へも北条氏の影響力が強まり、天正6年6月には白井長尾憲景、厩橋北条高広・景広、河田重親らが同氏へ従属し、同年7月には北条氏方が沼田城を攻略している。天正7年5月北条氏政条書写(*28)には善城は「去冬沼田本意依頼属味方」とあり、「赤堀之地」は善と同様と記される頃から、沼田城が小田原北条氏に攻略された天正7年7月頃に赤堀上野介も当時の善城主河田備前守らと共に同氏へ帰属したとわかる。また、同条書には両氏を従来の通り由良氏の「馬寄」=同心とするともあり、やはり赤堀上野介は由良氏(当時は成繁の次代国繁)の同心と位置付けられた。

しかし、天正11年3月北条芳林(安芸守高広)覚書(*29)には当時小田原北条氏から離反し、上杉景勝と交信していた北条芳林が自身の支配領域として「大胡・山上・田留・赤堀」が挙げられており、当時赤堀上野介が厩橋北条氏に従属していたことが推測される。このような状況に至った経緯として武田勝頼の上野国への攻勢が想定される。天正7年、上杉景勝と同盟を結んだ武田勝頼は、上杉景虎を支持した小田原北条氏とは断絶することとなり、以降両氏の間で抗争が開始される。天正7年8月に厩橋北条氏が武田氏へ従属し、翌年5月には沼田城も武田氏が攻略している。その中で勝頼は天正8年9月に上野国へ出陣し新田領を始めとする東上野を攻撃し、善城を攻め落とし河田備前守を討取っている(*30)。赤堀氏周辺は武田氏の影響力が強まったことが想定され、同時期に赤堀氏は武田氏へ従属し厩橋北条氏の同心として位置づけられた可能性が考えられる。同時期玉村の領主宇津木氏が厩橋北条氏の同心と推測され (*31)、赤堀氏も同様の形態であったと考える。そして天正10年3月に武田氏が滅亡すると、厩橋北条氏は滝川一益に帰属した。この間、赤堀上野介は厩橋北条氏の同心として行動を共にしていたことが想定される。当時の厩橋北条氏は戦国大名である上杉氏や武田氏に従う有力な国衆として存在し、以前赤堀氏が従属していた厩橋長野氏、由良氏と同質の存在といえる。つまりこの頃においても、大名クラス-有力国衆-中小領主である赤堀氏、という階層構造が大きく変わることはなかったといえる。

天正10年6月に本能寺の変が生じ滝川氏が没落すると厩橋北条高広は一時小田原北条氏へ従属したものの、同年11月には上杉景勝へ接近し小田原北条氏から離反した。このような状況で発給されたものが天正11年3月北条芳林覚書(*29)であり、上杉景勝重臣直江兼続に対して関東出陣を要請し、自らの支配領域として大胡、山上、赤堀などの守備に努めることを伝えている。厩橋北条氏は天正11年9月に小田原北条氏に降伏し、厩橋城を没収の上小田原北条氏に服属する(*32)。赤堀氏もこの時までに小田原北条氏への帰属を遂げたと考えられる。『石川忠総留書』「牧和泉守事」(*33)には赤堀上野介の嫡子又太郎が白井長尾氏家臣牧和泉守の聟であったことが記され、天正11年10月には東上野に在陣する北条氏直に赤堀上野介が牧氏は自らの赤堀城に居住していることを言上したことが伝えられる。赤堀氏の姻戚関係と厩橋北条氏降伏直後の動向が記されていて興味深い。

天正11年以降赤堀上野介は、小田原北条氏に直接に従属関係を結ぶ関係となり、黒田氏により大名クラスへの「旗本化」として指摘されている(*34)。以降も赤堀氏が由良氏や厩橋北条氏らの傘下となることはなかった。これまでの国衆の傘下として位置づけられる立場からの脱皮を遂げたと捉えられる。

天正13年北条朱印状(*35)に厩橋城の在番を宇津木下総守、高山彦四郎らから「赤堀上野」ら3人に交代するように指示がある。小田原北条氏の元で自らの赤堀城だけでなく、主要な城郭への在番が求められたことがわかる。宇津木氏らは在番を交代したのちは「可致参陣」とあり、同様に赤堀氏に対しても北条氏の軍事行動への従軍が求められていたことであろう。こういった北条氏からの直接の指示は大名への「旗本化」を示すものであろう。

天正16年12月北条氏邦書状(*36)、同日北条氏直書状(*37)で赤堀又太郎が利根郡阿曾城に在番することとなったことが記されている。この時までに上野介からその嫡子又太郎へ代替りしていたことがわかる。その後天正18年に至り、小田原北条氏の滅亡と共に領主としての赤堀氏は没落したと考えられる。



ここまで永禄-天正期に活動した赤堀上野介を中心に検討した。赤堀氏のような規模としては大きくない領主が戦国大名、有力国衆の動向に大きく左右されながら存続していく様子が理解される。これは中小領主がより自身の維持のためには大規模な勢力を頼る必要があることを示すと同時に、国衆や大名クラスにおいても在地の領主を味方とすることが地域支配の鍵となっていたことを示唆している。赤堀氏の動向は戦国期における境目における支配、紛争などを考える上で貴重な一例であるといえよう。


*1)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、21号
*2)同上、28号
*3)同上、36~45号
*4)同上、41号
*5)同上、46号
*6)女性が家督を相続した例では越後水原氏が挙げられるが、同氏では水原景家の戦死後息女祢々松が相続し、その後伯父政家が継承している(大見水原氏の系譜 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。
*7)池上裕子氏「『関東幕注文』をめぐって」(『上杉謙信』戒光祥出版)
*8)『戦国遺文後北条氏編』補逸編、4899号
*9)久保田順一氏「『関東幕注文』と上野国衆」(『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院)
*10)『新潟県史』資料編5、4035号
*11)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、445号
*12)『新潟県史』資料編5、3551号
*13)黒田基樹氏「阿久沢氏の動向」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*14)『新潟県史』資料編3、927号
*15)同上、928号
*16)『新潟県史』資料編5、3414号
*17) 同上、3773号
*18) 同上、3444号
*19) 同上、3414号・4020号
*20) 同上、3773号
*21) 同上、3551号
*22)栗原修氏「上杉氏の勢多地域支配」(『戦国期上杉氏・武田氏の上野支配』岩田書院)
*23)『新潟県史』資料編3、929号
*24)『戦国遺文後北条氏編』2巻、1718号
*25)『戦国遺文後北条氏編』3巻、1833号
*26)『金山城と由良氏』、291号
*27)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、1124号
*28)『戦国遺文後北条氏編』3巻、2067号
*29)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、807号
*30)同上、661号
*31)同上、622号
*32) 栗原修氏「厩橋北条氏の族縁関係」(『戦国期上杉氏・武田氏の上野支配』岩田書院)
*33) 黒田基樹氏「白井長尾氏の研究」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*34) 黒田基樹氏「由良氏の研究」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*35)『戦国遺文後北条氏編』4巻、2832号
*36)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、938号
*37) 同上、879号


赤堀上野介関連文書の年次比定

2024-06-29 20:29:06 | 赤堀氏
ここで扱う赤堀上野介は永禄期から天正期にかけて上野国赤堀を拠点とし活動した人物である。戦国期赤堀氏は越後上杉氏や小田原北条氏といった大勢力や近隣の有力国衆金山由良氏との境目に位置し、その動向はそれらの勢力と大きく関係していた。今回は、赤堀上野介に関わる三通の書状について年次比定を試みてみたい。


 [史料1]『新潟県史』資料編3、927号
其元無力之旨無余儀候、因茲北条丹後守所に具申越候、近日可為越山候条、其内堅固之仕置専一候、猶万吉重而候可申越候、謹言
    三月廿三日        謙信
      赤堀上野守殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、928号
上表存分之儘ニ有之而納馬候、定而可為大慶候、扨亦其元無別義由簡要候、雖無申迄候、北条父子有相談、堅固之備専一候、謹言
追而、無力ニ付而、合力之義申越候、委細令得其意候、近日可差遣候間、可心安候、以上
    五月十八日        謙信
      赤堀上野介殿


[史料1]、[史料2]は「無力」につき援軍を要請している点から両通は同じ年のものと見られる。「謙信」の署名から元亀元年末以降であり、越相同盟が崩壊し由良氏と敵対する元亀2年末以降、[史料2]「上表存分之儘ニ有之而納馬候」からは4月21日(*1)に越中から帰国した元亀4年の書状と考えられる。元亀4年に謙信の関東出陣はないが、赤堀氏の越山要請に対し[史料2]にて「近日可差遣候」、援軍派遣の検討のみと自らの越山は明言していない点から矛盾はない。天正5年にも5月までに「属加州御手」(*2)と述べられるように越中方面から帰国している状況があるが、この時はすぐに謙信が越山し5月14日には「明々之内新田足利表へ可揚放火候」(*3)と軍事行動に及んでいる様子が明らかであるから、謙信が越山せず劣勢にある[史料2]の内容と合わないため天正5年ではないことがわかる。よって、[史料1]は元亀4年3月、[史料2]は元亀4年5月に比定される。当時は由良氏の攻勢が強まり近隣の味方であった善城、女渕城が落とされており、赤堀氏にとってはまさに「無力」といった状況であったのであろう。


[史料3]『新潟県史』資料編3、929号
為音信樽肴到来、目出喜悦之至候、仍其表之備、弥々堅固之由簡要候、雖無申遣候、皆共令談合、可然様之防戦専一候、初秋ニ者、早々越山候間、可心安候、猶北条弥五郎可申越候、謹言
    七月十八日       謙信
      赤堀上野介殿

[史料3]は謙信署名と由良氏との敵対以降の元亀2年末以降、北条景広が丹後守として初見される天正2年11月までの書状である。ここでは「其表之備、弥々堅固之由」とあり、劣勢を訴えていた[史料1、2]と異なり、上野介は赤堀城の防御は十分であることを謙信へ伝えていたことが推測される。元亀4年であれば、7月には北条氏政自身が上野国へ出陣する(*4)など状況は悪化しており、より積極的に劣勢を訴え援軍を求めて然るべきである。つまり、北条氏、由良氏の攻撃を受け窮状に瀕していた元亀3、4年ではなく、天正2年3月に上杉謙信の越山により善城や女淵城を奪還し赤堀周辺が一定の安定を得た後と推測する。天正2年8月には謙信が関東へ再び出陣しており(*5)、「初秋ニ者、早々越山候」という一文にも一致する。さらに「皆共令談合」とある点も、善城や山上城、女淵城に入城した上杉氏家臣との相談を指示しているとすれば自然である。よって、[史料3]は天正2年7月に比定されると考える。


今回は赤堀上野介に関する書状の年次を推測した。その上で次回、上野介の動向について詳しく検討していきたい。


*1)『越佐史料』5巻、152頁
*2)同上、371頁
*3)『上越市史』別編1、1336号
*4)『戦国遺文』後北条氏編、1660号
*5)『越佐史料』5巻、236頁

※24/7/9 史料の刊本における通し番号に誤りがあったため修正した。

網鑰相論から見る越後の権力構造

2024-06-15 23:21:33 | 長尾為景
「網鑰相論」は越後における在地の争いと、それらに上位権力がいかに関わっていたかがわかる貴重な事例である。村落の動向と領主層、さらに上位の地域権力の関係は黒田基樹氏の研究(*1)に詳しい。今回は、黒田氏の研究を参考に越後における網鑰相論を掘り下げてみたい。

[史料1]『新潟県史』資料編3、208号
就網鑰之義、先度申入候処、返給間敷之由承候、近比不及覚悟題目候、惣別五十嵐方及愚領へ差懸、狼藉緩怠、余口惜候故、渡辺・樫出罷越、其子細相尋可申之候処、御近所之事ニ候とて、至于時御刷無余義候、然彼網鑰、五三日中ニ可渡給之趣被成面語、種々被仰断筋目候間、任其意各罷帰候処、于今不返給候、剰爰元落居之間、可被留置之由候歟、是又更覚外候、五十嵐方与某間之事、当座之御取合者如何、深其方可有御取持子細何事ニ候哉、畢竟当分以御計策おきぬかれ、五十嵐方御引及、歎々敷御刷、他人之嘲、失面目計候、雖事新申事、其方之御事、累年別而互甚深申談候処、如此之時者、以細事等、慥御等閑ニ可罷成事、無曲次第候、縦一旦被成抑留候共、果而不可相止之条、始末御思案不可過候歟、只今不申断而罷過候共、於已後御疎敷可罷成事、迷惑此一事ニ候、依彼返事、可存其旨候、委細猶五十嵐主計助可申宣候条、不能重説候、恐々謹言
  十二月廿五日             弥四郎房景
  長尾平三郎殿

[史料1]は栖吉長尾房景が近隣の領主長尾景行に対して宛てた書状である。いわゆる「網鑰相論」に関する史料である。房景と所領を接する五十嵐文六が房景領へ狼藉を働いたことがきっかけとする。しかし、これは五十嵐文六自身が勢力拡大を目論み侵攻したわけではなく、村落同士による山野河川の用益の確保を巡る争いであったと考えられる。黒田氏によっても村々の争いがその領主たる両者の対立に繋がっていくことが明らかにされている。

具体的な経過を見ていく。まず、五十嵐氏方の勢力により房景支配下の村落が危機に晒された。具体的には河川における漁業権の横領や村落への不当な入部が想定される。この抗争は房景も看過できない事態となり、家臣の渡辺氏と樫出氏が派遣された。領主が家臣を現地へ派遣することが当知行を維持していく上で極めて重要な行為であったことは黒田氏によって指摘されている。子細を尋ねることが目的とあり合戦が目的であったわけではないが、渡邊氏、樫出氏がある程度の軍勢を率いていたことも十分考えられその場合五十嵐氏方と一触即発の事態へと進展した可能性が高い。そこで登場したのが長尾景行である。景行は他に所見がなく詳細は不明であるが、五十嵐保近辺に拠点を持つ房景と比肩する領主という点から下田長尾氏であるとの推測が通説となっている。景行は「御近所之事」であることを名分に両勢力を仲裁し、房景方の「網鑰」を預かり数日で返却することを約束し渡辺氏・樫出氏は帰還する。しかし、景行は預かった「網鑰」を返却せず不審に思った房景が催促に及ぶが応じようとしなかった。房景の催促を「近所之義」の「筋目」を理由に断ったことが[史料2]に見えている。房景はこの事態を景行による五十嵐氏への肩入れと見て不満を露わにしている。ちなみに房景と景行はこれまで長年にわたり良好な関係を維持していたようで、房景は今回それに反する景行の行いを詰問している。

[史料2]『新潟県史』資料編3、166号
如尊意之、其後者不申通候条、御床敷奉存候、仍而彼一義如承候、近所之義与申、貴所へも五十嵐方へも申談候故、あミかき之事預置申候キ、然間、拙者取合之筋目、諸人存知之義候間、先々某ニ被為置候而も不苦候歟、就之公理御越度ニハ罷成間敷候哉、対其方申努々疎義を存子細無之候、恐々謹言
   極月廿一日             平三郎景行
   長尾弥四郎殿

[史料1]の数日前に景行から房景へ出された[史料2]には「其後者不申通候」とあり、相論を仲裁以後景行はしばらく音信不通であったことが窺われる。房景が景行の姿勢を疑うのも尤である。

今回、長尾景行が主張した「近所之義」は中世社会において広く見られた紛争解決のあり方であったとされる。黒田氏の研究では仲裁する第三者は偶然に関わりを持つわけではなく、一方の積極的な要請により調停に乗り出すことを想定している。つまり、網鑰相論においては長尾房景との対立を受けた五十嵐氏の要請によって長尾景行が登場した可能性がある。それを踏まえると、景行が五十嵐氏に有利な処置を行い、房景が不満を表している事態も納得できる。ここに中世の慣例、慣習での紛争解決の限界が見られ、後述のようにより上位の領域権力(越後では長尾為景)の裁定を必要とすることになる。

ところで、景行が預かった「網鑰」が何を表すのか確実なことはわかっていない。網からは漁業に関する用語であることが推測され、通説では漁に使用する道具であるとされている。田畑の収納に関する争いはその収穫時期に多いとされるが、当相論はそこから外れた12月に生じている。このことからも漁業の利権をめぐる相論であったことは首肯される。すると景行は村落の所持する漁業道具を預かり、その漁業権を停止したことになる。これも房景が納得できない点であっただろう。

このように、長尾房景、五十嵐豊六、長尾景行三者間で交渉を進めたわけだが、結局解決には至らなかった。房景は「近所之義」での解決を諦め、さらに上位の領域権力である越後守護代長尾為景に調停を依頼するのである。

[史料3]『新潟県史』資料編3、167号
如仰明春御吉兆、珍重幸甚不可有際限候、為御祝儀、御太刀一腰拝領、祝着候、抑太刀一腰令進候、誠表一儀計候、随而五十嵐豊六方、旧冬以来被抑結子細、度々預御尋候、畏入存候、雖諸公事相止候、雪消候者、被入検見、堺之様体可被仰付事専一候、若又文六方申所も候者、可存其意候、委御使たゝ見方へ申入候間、不能重説候、恐々謹言
    二月廿三日             大江広春
謹上 長尾弥四郎殿

[史料3]は長尾為景の奉行人毛利広春の書状である。長尾房景が府中の長尾為景権力に対して訴訟を起こし、それに対して広春が積雪がなくなり次第現地を確認し房景領・五十嵐領の境界を決定することを伝えられている。翌3月6日毛利広春書状(*2)には「あミかき御相論之事、為景被之聞召、中途分被仰出候」とあり、さらに「御領吉益分」について以前と同じように栖吉長尾氏の支配を認めている。網鑰相論と「御領吉益分」の関係については明らかではないが、大永7年豊州段銭日記にも「吉益領」が見える。以前からの栖吉長尾氏領であり、それを改めて安堵されていることからは網鑰相論における争点の一つであった可能性も考えられる。

これ以降、網鑰相論に関する史料はなく結果については明らかではないが、為景の調停によって解決を見たと考えるのが自然であろう。房景、五十嵐氏のどちらかが利益を得たか、はたまた痛み分けであったかは不明であるが、重要な点は「近所之義」で解決できない紛争が長尾為景という越後における最上位権力の裁定をもって終結した点である。

そもそも、房景や五十嵐氏も戦争を望んでいたわけではなく、村落の在地勢力の抗争をきっかけに引くに引けなくなったと見るべきである。領主が対立に及ぶ理由は、在地の要請に応えられない領主は領主失格と見なされ支持を失いその立場を維持できなくなるからである。黒田氏は在地の紛争は領主を呼び込み領主同士の紛争に発展したことが指摘されており、今回の事例にも当てはまるといえる。中世においてこういった紛争は近隣の第三者の仲介=「近所之義」によって解決される慣習があったわけだが、上記でみたようにそれぞれの思惑を持って動く領主たちの間では問題解決には程遠い様子が認められる。こういった状況を打開するために必要とされたものが領主の上位権力にあたる領域権力であり、当事例では長尾為景にあたる。黒田氏は、領域権力が在地勢力から権利を保証してもらう存在として必要とされていた事実を明らかにしており、領域権力ひいては戦国大名が在地を抑圧するような存在ではなく、在地勢力の維持を目的に産み出された権力という側面が浮かび上がるとする。栖吉長尾氏といった領主層が為景に従う理由もここにあると考えられる。網鑰相論により越後においても例外ではなく、長尾為景を頂点とする権力構造の一端を示すといえよう。



*1)黒田基樹氏「常陸江戸崎土岐氏の領域支配と村」、「九条政基にみる荘園領主の機能」、「甲斐穴山武田氏・小山田氏の領域支配」(『戦国期領域権力と地域社会』岩田書院)
*2)『新潟県史』資料編3、168号

長尾晴景と守護上杉氏権力

2024-05-11 23:14:13 | 長尾氏
越後守護代長尾晴景は父に為景、弟に景虎という戦国期でも類も見ない傑物に挟まれたためか、過小評価されていると感じる。その中でも守護上杉氏権力との関係については従来、定実が復権し晴景はそれを抑えられなかったという評価が浸透している。しかし、本当にそうだろうか。今回は晴景と守護権力について検討したい。

天文13年10月10日上杉定実知行宛行状(*1)、同日長尾晴景副状(*2)において、大見安田長秀に対して蒲原郡堀越、金津保下条村を宛がわれている。木村康裕氏(*3)は、前者は年後が付されていながら後者は日付のみであることから、明らかに後者を副状と判断し、守護権力を排除しきれない守護代長尾氏の地位を表しているとしている。さらに同氏は、これが前代為景の在世時における守護代長尾氏が実質的な権利を掌握した状況とは異なるものであり、晴景の権力が前代より後退したことを示唆している。こういった説は通説に沿ったものといえよう。

しかし、木村氏はその一例のみの検討に留まっており、晴景期全体を俯瞰したものとは言い難い。ここで改めて、知行宛行や土地の安堵を中心に、為景発給文書から晴景発給文書までを確認してみたい。

まず、為景期の文書をみていく。永正6年1月上野菊寿丸宛長尾為景安堵状(*4)には「御判旨可有御刷者也」と定実文書の発給を必要としている。永正7年8月20日佐藤修理亮宛長尾為景安堵状(*5)は同日に上杉定実文書(*6)の発給を認めている。永正8年7月長尾宗弘(為景)証状(*7)では上杉定実の裏判がある。永正10年3月7日慶増宛長尾為景安堵状(*8)には定実の袖判がある。

定実が天文10年10月に為景に反抗し敗北すると状況は変化する。永正11年12月23日大窪鶴寿宛長尾為景判物(*9)、永正12年安田百宛長尾為景安堵状(*10)では「御屋形様御定上、追而御判可申」とあり、時期を下った永正17年5月12日水原政家宛長尾為景安堵状(*11)でも同様に「何様御屋形御定上、継目御判追而可申」と記載される。これは守護御判の裏付けのない守護代判物であり、守護代長尾氏が実質的な権利を持ったことが木村氏により指摘されている。守護文書をのちに発給するとの一文があるが、定実失脚後7年を経た永正17年においてもその一文で済まされているところを見ると、これは実質的に守護文書が不要であり為景文書で機能していることを示している。このように定実の失脚により守護権力の形骸化が進んでいくことになる。永正18年2月に越後国内へ出された無碍光宗禁制掟書(*12)では千坂景長ら重臣7名の署名と共に為景の裏判を認める。署名のある人物は千坂景長、斎藤昌信、石川景重、毛利広春、長尾房景、長尾憲正、長尾景慶であり、為景をトップとして彼らを重臣とする当時の政治体制が窺われる。天文2年6月24日本成寺宛長尾為景判物(*13)、享禄4年10月18日飯田小二郎宛長尾為景判物(*14)では特に守護文書について言及なく、知行を宛がっている。

このように為景文書では時代が進むにつれ、守護権力の影響が薄まり、為景のみの保証で十分となっていたことがわかる。では、晴景文書は本当に守護定実権力の保証を必要としたのか。

[史料1]『新潟県史』資料編4、2240号
吉田周防入道英忠当寺へ奉寄附地事、任彼寄進状之旨、御執務不可有相違候也、仍如件
 天文十七
    卯月十日             晴景
   賞泉寺 長夫和尚

[史料2]『越佐史料』三巻、887頁
今度前々之筋目可抽忠節由、尤比類候、依之上群内新井庄留田分三省分箱井事宛行之候、知行不可有相違也、仍如件
    天文十七年八月十五日       晴景
     山村右京亮殿

[史料1]は頸城郡安塚の賞泉寺宛の長尾晴景安堵状、[史料2]は頸城郡青木の山村氏宛の長尾晴景知行宛行状である。どちらも守護上杉定実の文書や裏判を必要とせず、晴景文書単独で機能していることが特徴である。つまり、天文17年においては為景の晩年と同様に、晴景独自での保証で効力を発揮していた可能性が考えられる。つまり通説のように守護定実権力の排除が長尾景虎の登場を待つとする見解は適切ではなく、[史料1、2]からは晴景の治世においても達成されていたことが示唆されるのである。

天文17年末における長尾景虎の家督継承の際に上杉定実の「御諚」(*15)を必要としたことで、天文13年から17年まで定実が守護として復権したと推測されてきた。しかし、天文17年の事例は黒田秀忠の反乱と庶子景虎の家督継承という特殊な状況で必要とされたにすぎない。晴景期における所見も晴景の家督相続間もない混乱期におけるものであったことを踏まえると、政権の地盤が固まらない政権の過渡期において守護権力が必要とされた可能性もあろう。

ここで、長尾景虎初期の文書を見る。

天文18年11月6日平子孫太郎宛長尾景虎安堵状(*16)には「御屋形様御判之儀者、追而可申成候」とあり、木村康裕氏(*17)は「同様の文言は父為景の発給文書にも見られ、守護御判の裏付けのない守護代文書といえる」とする。つまり、景虎は家督継承後1年以内に既に守護権力に影響を受けない政治権力を確保していたことになる。

私も以前に、これらを根拠に晴景権力と景虎権力に相違があったことを想定した。しかし、晴景権力が定実の台頭を招いたとする典拠は天文13年の知行宛行状だけであること、前代・為景権力と次代・景虎権力が守護権力の抑制に成功していたことを踏まえるなら、晴景権力においても守護権力を抑え込んでいた可能性について前向きに考えるべきと思う。つまり、晴景は為景から守護から独立した政治権力を継承しそれを景虎へ引き継いだのではないか。


とはいえどうしても晴景期の史料が少ないため断定することはできない。しかし、それは同時に通説のような安田氏宛文書のみを取り上げて晴景権力が劣勢にあったとも言い切ることもできないといえる。通説が先行している現在において上記のような推測を提示しておきたい。


*1)『越佐史料』三巻、873頁
*2)同上
*3) 木村康裕氏「守護代長尾氏発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*4)『新潟県史』資料編4、1587号
*5)『越佐史料』三巻、564号
*6) 同上、563号
*7)『新潟県史』資料編5、3358号
*8)『新潟県史』資料編4、2253号
*9)『新潟県史』資料編3、421号
*10)『新潟県史』資料編4、1563
*11) 同上、1529号
*12)『新潟県史』資料編3、275号
*13)『新潟県史』資料編5、2688号
*14)『新潟県史』資料編3、788号
*15)『越佐史料』4巻、2頁
*16)『新潟県史』資料編5、3497号
*17)木村康裕氏「上杉謙信発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)