長尾景虎は家督相続後越後を統一しその活動範囲を関東や北陸へ広げていくわけだが、それに必要な権力集中を戦国大名化と捉えその過程を考察してみたい。
まず、家督相続前の長尾晴景の政治体制をみる。晴景は為景の死去や伊達時宗丸入嗣問題、古志郡における反乱による混乱を乗り越え、天文13年の後奈良天皇綸旨と御心経の下賜(*1)を以て越後の静謐を実現したとされている(*2)。弘治2年の長尾宗心(景虎)書状(*3)に「奥郡之者、上府不遂」とあることから奥郡の独立性が想起されるが、奥郡とも一定の関係は保っていたと考えられる。ただ、それは長尾氏の権力確立とは言い難かった。当時の政治体制は天文13年10月10日に同時に出された上杉玄清知行宛行状(*5)と長尾晴景副状(*6)に見られるように守護上杉氏と守護代長尾氏が補完しあうことで形成され、それは晴景期における守護勢力の復権を意味していた(*7)。この、守護上杉玄清と守護代長尾晴景による融和的政治が景虎の家督相続まで続いたと考えられる。そして、その玄清-晴景体制を崩壊させたものは黒田秀忠の台頭による反抗であったことは前に述べた。
次に、家督相続直後の景虎の政治体制をみていく。
[史料1]『上越市史』別編1、23号
西古志郡内山俣三拾貫分之事、為本地連々御詫言、先以可有御知行候、 御屋形様御判之儀者、追而可申成候、恐々謹言、
十一月六日 長尾平三景虎
平子孫太郎殿
[史料1]は天文18年に出された安堵状である。「御屋形様御判之儀者」より依然として守護代景虎と守護上杉玄清の二人によって認められる必要があったことを示している。一方で、「追而可申成候」という文言により木村氏(*8)は長尾為景の発給文書と同様に「守護御判の裏付けのない守護代文書」と位置づけている。同氏は「景虎が兄晴景の時に見られた守護代長尾氏が守護上杉氏を排除できなかったのとは異なり、守護代長尾景虎が実質的な権利をもった」としている。その契機は、以前考察した天文17年から18年にかけての黒田秀忠の乱や上田長尾政景との抗争に勝利したことが挙げられるだろう。他に、景虎と玄清の関係を示すものとしては平子孫太郎宛本庄実乃書状(*9)「御屋形様(上杉玄清)へ為御音信被仰立候、則景虎披露被申候」とあり、景虎が玄清と領主間の取り次ぎを行っていたことがわかる。景虎の守護との関係は為景期の対立関係、晴景期の並列関係とも異なるものであった。
[史料2]『上越市史』別編1、24号
就平子殿御本領山俣之義、従 殿様(景虎)被成御書候、被任其旨、無相違早々被進渡候者、可然候、為其一筆令啓候、恐々謹言、
十一月八日 大熊備前守朝秀
小林新兵衛尉宗吉
庄新左衛門尉実乃
松本河内守殿 御宿所
[史料2]は天文18年に比定され、[史料1]に登場した山俣について当時領有していた松本河内守についてその明け渡しを命じたものである。これを初見として、景虎の政治体制の中で三名連署の発給文書が見られるようになる。さらに、同年4月には府内大橋の橋の利用の管理を目的にする長尾景虎掟書(*10)と同日の長尾景虎安堵状(*11)により、府内に対して都市掌握と流通統制のための政策も打ち出されている。従って、家督相続後天文18年の内に行政機構を整備したといえるだろう。
諸領主との関係はどうだったであろうか。上述の山俣をめぐる相論の解決は天文22年まで長引くことになる。松本氏は長尾景虎書状(*12)より「謹言」という書止めであり長尾氏に近い関係であり、それ故早い段階での所領問題への介入が可能であったが、それでも長尾氏の命令に従わなかった。従って、景虎の権力は比較的近い地域においてもこの段階ではまだ浸透していなかったといえる。これは、関東管領上杉氏の要請を受けて関東出陣が計画されながらも実行されなかったことからも、景虎体制が固まってなかったことが示されるであろう。さらに小泉荘に至っては、天文20年の時点で本庄繁長が小河長資を切腹に追いやり、本庄氏鮎川氏色部氏間で独自に起請文を交換していることから景虎の影響力は弱かった。
天文19年2月には、「天文上杉長尾系図」や「上杉御年譜」により上杉玄清の死去が確認される。守護の断絶という越後の権力構造を揺るがす事態に対し、景虎は前年からの政治体制の構築に加え幕府より守護の格式である白傘袋・毛氈鞍覆の免許を獲得し権威上昇を図ることで対応した。勿論、免許の御礼として景虎は金品を献上している。このやり方は為景のものを継承している。景虎と幕府を仲介した僧の愛宕山下坊幸海は書状(*13)「愚僧事、従為景御代致御祈念事候」と述べており、景虎が為景の構築したパイプを用いて交渉していたこともわかる。為景は中央に権威を求めただけでなく大館氏や女房衆など幕府関係者から広橋氏といった朝廷の実力者まで幅広い人脈を形成していったと指摘されている(*2)。
さらに天文21年には幕府より従五位下の位階と弾正少弼の官途を与えられる。その後、例に違わず景虎は御礼として金品を献上している。戦国時代は身分制社会であり身分と権力は連動していたとされ(*18)、戦国大名化は武力のみでは為し得なかった。
天文21年には景虎に大きな動きがみえる。まず、ひとつは関東出陣という遠征の実行であり、もうひとつは黒川氏と中条氏の所領相論への介入である。関東出陣についてであるが、これは景虎の国内諸領主への軍事指揮権掌握と捉えられる。為景期晴景期を通じて永正7年に軍勢が派遣された所見が唯一でありそれが越後国内情勢の安定化なしには実現できなかったものであろう。また、所領相論への介入は佐藤博信氏(*14)に「大名裁判権の行使の一形態」と評され、仲介を色部氏へ命じたことも「(揚北諸将を)個別的に一応掌握した反映」とし、「当段階の景虎の権力が領域的支配権力として成立していた」とする。小泉荘の本庄氏においても天文22年に景虎へ初めて拝謁するとの記録(*15)もあり、天文21年を境として越後一国においてその権力が広く浸透したとみていいだろう。中郡において景虎がそれまで領地の安堵ばかりが目立っていた平子氏に領地の明け渡しを命じた(*16)のもこの年である。よって、この年に景虎は領域的支配権力すなわち戦国大名として必要な、軍事指揮権と裁判権を確立したとみられる。
この頃の景虎の領主層との関係は、官途の祝儀の返礼(*17)にその一端が見える。平子氏や毛利安田氏には「恐々謹言」書止めと宛名に「謹上」がつく丁寧な形であり、一方志駄氏と力丸氏は「恐々謹言」書止めであるものの「謹上」の文字はない。領主にも格式の違いが存在したことを表すものであり、それは祝儀に毛利安田氏が百疋、志駄氏が二十疋と差が見られることからそれが勢力の大小に関連することが示唆される。天正3年「上杉家軍役帳」に力丸氏が松本氏の同心として見えるようになるのは、景虎が寄親寄子制に基づき大領主を中心に小領主の再編成を進め謙信と名乗る天正期までにそれを完成させたということだろう。
守護権力の消滅、守護に相当する権威の獲得、黒田氏や上田長尾氏など敵対勢力に対する勝利、この三点を以て天文21年頃はじめて越後の戦国大名としての長尾景虎が誕生したといえる。黒田基樹氏(*18)は幕府-守護体制の崩壊によって戦国大名が現出したとするなど守護上杉氏の権力消滅は景虎の戦国大名化に不可欠であった。為景期に既に形骸化されていたといえ越後において守護勢力の存続は天文末期にまで及び、その断絶が景虎の権力飛躍の契機になったことは間違いないだろう。関東などと比べると室町幕府体制が遅くまで残っていたということになり、佐藤氏も、長尾氏も戦国大名制の淵源は守護上杉房定・房能の段階に求められると指摘しており、その点黒田氏の研究する後北条氏などの戦国大名制と景虎のそれは異なった展開を遂げたとも考えられ注意が必要かもしれない。しかしどちらにしろ、戦国大名とは在地の発展により室町時代の制度が限界を迎えた故の産物であると考えられる。
以上より、栃尾城時代の被官庄田氏や本庄氏らと府内長尾氏の被官であった直江氏らを譜代家臣として権力基盤とした景虎は、政治機構の整備と敵対勢力の排除を実現した上で守護権力の消滅によって、為景期より実力的に獲得していた公権力と、幕府を後ろ盾とした身分上昇が合致し、越後における領域的支配権を確立した、とまとめることができよう。
*1)『新潟県史』資料編3、776号
*2)長谷川伸「長尾為景と晴景」、『定本上杉謙信』、池亨・矢田俊文編、高志書院、2000
*3)『上越市史』別編1、134号
*5)『新潟県史』資料編2、1495号
*6)同上、1496号
*7)木村康裕氏「守護代長尾氏発給文書の分析」、『戦国期越後上杉氏の研究』、岩田書院、2012
*8)木村康裕氏「上杉謙信発給文書の分析」、同上
*9)『上越市史』別編1、20号
*10)同上、15号
*11)同上、16号
*12)同上、22号
*13)同上、33号
*14)佐藤博信氏「戦国大名制の形成過程」『上杉氏の研究』阿部洋輔編、吉川弘文館、1984
*15)「本荘氏記録」、『本庄氏と色部氏』、渡邊三省、戒光祥出版、2012
*16)『上越市史』別編1、94号
*17)同上、86号、88~90号
*18)戦国大名概念は(*14)佐藤氏と黒田基樹氏「戦国期外様国衆論」『戦国期大名と外様国衆』戒光祥出版、2015年、を参考にした。