鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

「長尾六郎」文書の検討 -為景か房長か-

2021-09-01 11:26:14 | 長尾氏
永正期越後において、守護代長尾為景と上田長尾房長という人物が存在し、二人とも同時期にそれぞれ「六郎」、「新六」という仮名を名乗る。そのため、諸文書において双方とも「長尾六郎」と表記され、どちらの人物を指しているのか分かりにくい場合がある。

今回は、「長尾六郎」に関連する文書を検討して、どちらの人物を指しているか逐一確認してみたい。


1>永正5年2月山内上杉可諄書状
[史料1]『新潟県史』資料編4、1052号
房能没命之砌其口へ被退候哉、依之進退事被申越候、如何様以時節、長尾六郎方へ可相届候、不可有退屈候、恐々謹言、
  二月十九日           可諄
   色部修理進殿

[史料1]は、「房能没命之砌」から永正5年2月と比定される文書である。ここに「長尾六郎方」が所見されるが、これは長尾為景のことである。

当時、上杉房能を自刃させた長尾為景は阿賀北の領主である色部昌長、本庄時長らと抗争し、永正4年10月には本庄時長の居城を落としている。それに危機感を抱いた昌長が関東管領上杉可諄(顕定)へ自身の「進退」の保障を依頼し、それに対し可諄は「長尾六郎」=為景へ交渉しておくことを請け負った文書である。

永正5年2月築地修理亮宛長尾為景書状(*1)によって、色部昌長らは為景に対して永正4年冬から和睦交渉を持ちかけていることが明確であり、[史料1]にある昌長側と為景側を上杉可諄が仲介する構図に矛盾しない。


山田邦明氏(*2)は、この文書から当初は山内上杉可諄が交渉によって為景を押さえ込もうとしていたと推測している。

房能の死去後すぐには攻め込まず、為景が敵対勢力を武力で制圧してからの出陣であったことは、山田氏の推測に整合する。関東では敵対する長尾景春や伊勢宗瑞の活動が活発化しており、越後への軍事活動がすぐに行える状況ではなかったことも影響していただろう。


2>永正8年1月上杉定実書状
[史料2]『新潟県史』資料編3、103号
   長与三討死、就中動無比類候、一段不敏至極候
去廿三日敵以多勢取懸候処、於城際合戦被得大利、為同名平六始宗者共数多討捕由、注進到来、出陣手始、目出度心地好候、殊平六去々年以来動、所存外候処如此候、本望候、古志郡早々静謐簡要候、同心者共如被申越遣感状候、謹言
    正月廿六日        定実
     長尾六郎殿


[史料2]は長尾平六の反乱に伴い上杉定実から発給された文書である。平六の乱は従来永正9年とされることが多いが、以前の検討において実際には永正8年のことであり、その関連文書も永正8年に比定されることを示している。

以前の記事はこちら


この「長尾六郎」は上田長尾房長である。

[史料2]の翌日、同年1月27日には定実が桃渓庵宗弘=為景に対して書状(*3)を出している。問題は、書止め文言である。[史料2]では「謹言」に対して、翌日の桃渓庵宛文書ではより丁寧な「恐々謹言」となっている。

定実の他文書においても、為景宛は全て「恐々謹言」である。その一方上田長尾氏と同格といえる栖吉長尾房景宛(*4)の文書では「謹言」となっている。

これらを踏まえると「謹言」が用いられた[史料2]は、為景宛ではなく上田長尾房長宛であろう。


また平六の乱に関連して[史料2]と他にもう一通(*5)が同日に上杉定実から「長尾六郎」に発給されているが、これも房長と推測できる。


3>齋藤昌信・千坂景長連署状

※追記 23/6/20
前嶋敏氏「越後永正の内乱と信濃」(『長尾為景』戒光祥出版)、阿部洋輔氏「長尾為景の花押と編年」(同)より、永正10年と比定していた8月5日斎藤昌信・千坂景長連署状及び8月8日桃渓庵宗弘書状は永正6年8月と指摘されている。下記文書は永正6年8月と推測される。また、宛名「長尾六郎」も上田長尾房長ではなく為景と考えられる。前嶋氏は8月5日に千坂・斎藤両氏の書状[史料1]を受けて、8月8日に為景(桃渓庵宗弘)が中条藤資宛書状を発給したと推定している。下記の記載は誤りであり、前嶋氏らの推定に従い訂正しておきたい。


[史料3]『越佐史料』三巻、590頁
井上・海野・島津・栗田其外信州衆相談、自関口可乱入之由、方々注進到来、然者自上田口も定凶徒可出張候歟、各有用意、御一左右之上、不移時日、可有出陣旨揚北衆へ、堅可被申届、被仰出候者也、仍如件、
    八月五日               昌信
                       景長
    長尾六郎殿

[史料3]は永正10年8月のものである。同年から11年にかけての抗争に関連した文書になる。発給者は齋藤昌信と千坂景長であり、長尾為景陣営に位置づけられる。

この「長尾六郎」は、上田長尾房長である。

理由としては、長尾為景が永正10年3月上杉定実袖判長尾為景安堵状(*6)の書名からこの頃既に「弾正左衛門尉」を名乗っていた点、[史料1]とほぼ同内容の書状(*7)が3日後に揚北衆中条氏、黒川氏に宛てて桃渓庵宗弘=長尾為景から発給されている点、が挙げられる。

前者については、永正10年には他の文書からも弾正左衛門尉を名乗っていたことが明らかであるから根拠として有力である。永正10年2月の時点で齋藤昌信・千坂景長は「長尾弾正左衛門尉」に宛てて文書(*8)を出しているから、この時点で両氏が為景=弾正左衛門尉と認識していたことは確実である。

後者についても、桃渓庵宗弘は為景の入道名であり[史料3]も為景陣営の人物から発給されていることを踏まえると、発給:為景陣営→受給:上田長尾氏・揚北衆という構図が浮かび上がり、上記の推測に矛盾はない。



以上が、六郎為景と新六房長に関係する「長尾六郎」文書の検討である。戦国期において仮名だけで人物を判断することは難しいという一例であった。


*1) 『新潟県史』資料編4、1437号
*2)山田邦明氏『上杉謙信』(吉川弘文館)
*3) 『新潟県史』資料編3、560号
*4) 同上、172号
*5)同上、102号
*6) 同上、資料編4、2253号
*7) 同上、1324号
*8) 同上、資料編5、2796号