長尾為景発給文書の中には「黄博」署名の文書が存在する。下掲[史料1~3]の3通が該当の文書であり、全て『歴代古案』なる謄写本に伝来している。ただ、「黄博」の所見は全て福王寺氏へ宛てられるという偏りがあり、『古案』についても謄写本という性格を考慮する必要がある。今回は、為景の名乗ったとされる入道名「黄博」に関する諸問題について検討する。結論から言えば、為景は天文4年8月に入道し黄博を名乗り、その後天文5年5月までに絞竹庵張恕へ改名したことが推定される。
[史料1]『歴代古案』第四、1323号
松苧山之事、各以談合忍取候由、神妙之至候、謹言
八月十九日 黄博
福王寺彦八郎殿
[史料2]『歴代古案』第四、1324号
於今度高柳口粉骨、殊被官人被疵候由、神妙無比類候、弥以相嗜可走廻候事肝要候、謹言
八月廿八日 黄博 御朱印
福王寺彦八郎殿
[史料3] 『歴代古案』第四、1340号
上田・薮上之人数、大熊彦次郎以下悉打振、蔵王堂口へ出張、其口事は可為留守中候、如何共令調法、妻有・河東を可焼候、為其急度申遣候、謹言
九月廿二日 黄博 御朱印
福王寺彦八殿
1>「黄博」署名の真偽
まず、『古案』における「黄博」署名の信頼性、正確性について考えたい。『歴代古案』は謄写本であり、原本を書写したものを集成した史料であることから書写した際の誤記などの可能性も考えられる。実際、同史料の署名では多少の誤記が見られる。例えば為景の入道名について、絞竹庵張恕は「譲恕」とされ、桃渓庵宗弘は「宗張」と記されている。「黄博」についても原本の記載であったかどうか、すぐには信頼できないと感じる。とはいえ『古案』の誤記は漢字の一文字程度で、概ね史実に沿っている。全く根拠がない中で「黄博」が記載されたとも考えにくい。
このような問題点を解決するために『古案』の成立過程や編纂事情を考える必要がある。『古案』は羽下徳彦氏、阿部洋輔氏、金子達氏による編集のもと翻刻が出版されている(*1)。同書の解題にて編集者らにより『古案』に関する考察がまとめられている。それによると、作成者は米沢藩関係者であり、成立時期は確定できないものの米沢藩の修史事業が進められた元禄年間と想定されている。ここで「黄博」署名を含む福王寺文書についても言及されている。『古案』は同時期に米沢藩で編纂されたいわゆる『御書集』と内容が重複する部分があり、福王寺氏文書も全32点のうち29点が双方に記載されるという。そして、『古案』にのみ記載され『御書集』から除外された3点が「黄博」署名の文書である。つまり、福王寺氏に伝来した文書を藩へ提出させ書写し集成する際、「黄博」署名が不詳の人物とされ『御書集』への記載は不適当と判断されたというのである。ここから「黄博」署名は書写の段階での誤記ではなく、実際に福王寺氏の家伝文書に記されていたことが確実といえる。よって、為景が「黄博」として福王寺氏宛に文書を発給した可能性は極めて高いといえる。
2>「黄博」文書の年次比定
続いて、黄博として発給された[史料1~3]の年次比定を行いたい。まず、[史料3]については上田長尾房長との抗争を検討した上で天文4年9月であると推定した (以前の記事)。[史料1、2]も[史料3]と近接した時期のものと考えると天文4年8月、もしくは天文5年8月が想定される。
その前後の文書を見てみると、天文4年8月2日長尾為景書状(*2)まで「為景」署名であり、天文5年5月7日長尾張恕書状(*3)において入道名「張恕」が初見される。つまり、[史料3]が天文4年9月である点はと矛盾はなく、[史料1、2]については天文4年8月であれば前後の文書群とも署名の上では整合性がとれることがわかる。
では文書の内容における整合性についても見ておきたい。[史料1]では、黄博が福王寺氏らの「松苧山」=松之山攻撃を賞している。さらに、[史料2]では「高柳口」での福王寺氏らの軍事行動を賞している。高柳は松之山から柏崎方面へ進んだ所に位置する。日付も近い2通が一連の軍事活動であったことは疑いない。そして両通が天文4年8月であれば、同年8月2日長尾為景書状(*2)において「河東江為忍足軽可為放火候」とある点が注目される。すなわち、8月2日の文書(*2)で為景から河東地域への攻撃を指示された福王寺氏は[史料2]の出された同月19日までに同地域の松之山を攻撃し、さらに[史料3]の同月28日までに高柳まで進軍したと考えられる。このように、文中の内容からも天文4年8月として矛盾はなく、むしろ同時期の為景方として活動する福王寺氏の動向を明らかにするものであると考えられる。
3>「黄博」を名乗った意味
上記での年次比定を踏まえると、長尾為景は天文4年8月2日以降、同月19日までに入道し黄博を名乗ったことが明らかとなる。そして、天文5年5月7日までにさらに絞竹庵張恕へ改めている。これら名乗りの変遷についてその意義を考えたい。
まず、これらに上条定兼・上田長尾房長・中条藤資らとの抗争である天文の乱との関係は無視できず、同乱の経過が名乗りの変遷に繋がったことは前提として間違いないだろう。具体的には事実上の越後上杉氏のトップであった上条定兼との直接交戦するにあたり、為景の軍事行動は秩序に反した行動として捉えられる可能性があり何らかの形で責任を取る必要があったと考えられる。これは、守護上杉房能死亡後に為景が一時的に入道し桃渓庵宗弘を名乗った事例と同様のものと推測できる。黄博の所見はごく限定的であり、桃渓庵宗弘と同じくその使用は一時的なものであったと想定され、張恕が初見される天文5年5月までに再び為景を名乗っていた可能性は否定できない。
ちなみに、黄博を名乗った時期には特に琵琶嶋の戦いと呼ぶべき合戦の最中であった。琵琶嶋は為景方の琵琶嶋上杉氏の拠点であり、交通の要衝でもあった。琵琶嶋の攻撃は上条定兼のほか、長尾房長など天文4年5月の時点(*4)で上条に集結していた軍勢が参加していたと考えられ、反為景方の大規模な攻勢であったことが想定される。黄博の初見は琵琶嶋への攻撃を福王寺氏へ報告した直後のことであり、この戦いの詳細な経過は明らかでないがその趨勢が影響した可能性はあるだろう。
その後情勢は変化し、天文の乱は為景の勝利で確定的となるわけだが、為景は政治的な思惑のもとで改めて絞竹庵張恕を名乗ったと推定する。やはり天文5年4月の上条定兼の死去に配慮するという側面があったと考えられよう。形骸化していたとはいえ、当時の秩序において越後守護上杉氏の優位性は依然として残っており、為景としてもそれに対する政治的な対応が必要であったのであろう。
ここまで、長尾黄博の所見に関する諸問題について検討した。その結果、天文の乱において上条定兼、上田長尾房長らとの抗争を繰り広げる最中、天文4年8月に為景が入道し黄博を名乗ったことを指摘した。その後、天文の乱終結に伴い、天文5年5月までに絞竹庵張恕へ名を改めていたことも併せて明らかにした。いずれの入道名においても、越後上杉氏の事実上のトップであった上条定兼との抗争に伴う配慮があったことを想定した。
*1)『歴代古案』、八木書店
*2)『越佐史料』三巻、817頁
*3)同上、805頁
*4)同上、807頁