鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

青海川氏の系譜

2024-01-27 18:24:45 | 青海川氏
青海川氏は戦国期越後において所見される一族である。その名字から現柏崎市青海川周辺を拠点とする一族であったと考えられる。後述する御館の乱では、文書上、青海川氏の動向が青海川近隣の鯨波の情勢と共に詳述されており、戦国期を通じて青海川を拠点としていたと思われる。

[史料1]『越佐史料』三巻、791頁
今度之忠節無比類次第候、剰父子共に於当日討死、前代未聞之忠切候、就之和田分之儀宛下者也、仍如件
    永正
      三月廿日
     青海川図書助殿

[史料2]『越佐史料』三巻、791頁
於山下、図書助討死、無比類候、然而彼息名代之儀、相違有間敷者也、仍如件
    天文二年八月廿一日
     青海川梅寿殿

[史料1]より、永正期において青海川氏一族が長尾為景に従い戦死したことがわかる。受給者の図書助は生存しているだろうから、図書助父とその子、つまり図書助の兄弟が戦死したと考えられる。江戸期前期に成立した『先祖由緒帳』に載る「青海川彦右衛門由緒」は戦死した「父子」を図書助の父と祖父としているが、受給者を中心に読めば不自然であり、米沢藩において[史料1]を独自に解釈した結果と考える。[史料1]は一族が複数戦死するほどの活躍を見せた青海川氏に新地「和田分」を宛がった文書である。数代にわたって長尾為景に従い合戦に参加し、戦死に至ったことが判明している。為景の軍事基盤として青海川氏のような在地勢力が存在したことが示唆されよう。

[史料2]は青海川図書助が山下の戦いで戦死し跡を息子梅寿が継いだことを示す文書である。山下の戦いについては詳細不明であるが、その時期からは上条定兼(定憲)との抗争に関連したものであった可能性があるのではないか。戦死した図書助は[史料1]に見える人物と同一人物だろう。

「青海川彦右衛門由緒」によれば、梅寿(同由緒では梅千代とある)はその後図書を名乗り、上杉謙信の代に病死したという。永禄9年6月25日上杉輝虎感状(*1)の宛名に見える青海川図書助はこの梅寿の後身であろう。同由緒では信濃より村上義清が亡命した際にその子国清が山浦氏を継承し青海川氏と多功氏がその配下につけられたという。『文禄三年定納員数目録』において「青海川図書」(梅寿の次代)、「多功豊後」らが「山浦同心」として所見されるから確かな話であろう。

天正3年8月15日本庄宗緩判物(*2)・同日本庄宗緩書状(*3)において青海川右馬丞が「窪方」が退転したためその屋敷を「先代之節目」により受け取ることが記されている。「先代」が図書助(梅寿)であり、右馬丞はその次代と思われる。

[史料3]『越佐史料』五巻、653頁
令般可令忠信之由簡要候、時宜於入眼者、堀川分并尾崎分異儀有間布者也、仍如件
    二月十九日   朱印(上杉景勝)
       青海川図書助とのへ

御館の乱における動向は天正7年2月14日上杉景勝書状(*4)に「青海川引付之由、依之彼誓詞書状指越、何も令披見候」とあり、はじめ上杉景虎方に味方したものの周辺情勢の変化に伴い上杉景勝方へ帰属した様子が明らかである。[史料3]は帰属に際して上杉景勝から発給された朱印状である。ここで右馬丞と図書助の関係が難しいが、「青海川彦右衛門由緒」は図書助(梅寿)の子が「図書」に改めその跡を継承したとする。同由緒も全面的に信用できるわけではないが、活動時期も近いことを踏まえると、同由緒の記載を参考に同一人物と考えたい。

同時期、青海川図書助は天文7年3月1日上条政繁書状(*5)、同年3月26日山崎秀仙書状(*6)にも所見される。『文禄三年定納員数目録』には「青海川図書助」が「山浦同心」として記載されている。『慶長五年直江山城守支配長井郡知行高』にも図書助の記載があり、この頃までの生存が確認される。「青海川彦右衛門由緒」によると図書助の跡を長助が継承し、米沢藩士として存続したことが記される。

ちなみに年不詳8月2日青海川図書助宛山浦国清書状(*7)を『上越市史』などは天正7年8月に比定しているが、山浦国清は天正7年5月に「景」字を与えられ山浦景国を名乗るため、それ以前の文書と考えられる。さらに、上記で見たように天正7年2月まで青海川氏は上杉景虎方についており、その間景勝方の国清との接点は考えにくい。内容は本庄雨順斎全長(繁長)の詫言が遅れていることなどに触れており、永禄後期の本庄氏の乱に関連した文書であることが推測され、乱の推移などから推定すれば永禄12年8月の文書ではないか。宛名の図書助は時期からみて、御館の乱以降に見える図書助ではなく、天文~永禄期に見える図書助(梅寿)となる。

ここまで、青海川氏について検討した。青海川氏の系譜として次のような関係が想定される。

某-図書助-梅寿/図書助-右馬丞/図書助-長助


また、参考に「青海川彦右衛門由緒」を掲げておく。

[史料4] 『先祖由緒帳』「青海川彦右衛門由緒」
一、先祖青海川図書、越後普代ニ御座候、彼者 為景様御代ニ父子討死候付而、孫ニ名跡無相違被下置候、永正年中、従 為景様被下置候御判行所持仕候、右之孫図書も山下と申所ニ而討死仕、其子梅千代ニ被下候、 為景様御判形持合仕候、右之梅千代、後ニ図書ニ罷成、 謙信様御代迄御奉公仕、病死仕候、其子図書ニ名を御改一跡無相違被下置候、 謙信様御判形于今所持仕候、
一、謙信様御代ニ、信州より村上殿御出候已後、山浦名字之義村上国清ニ被 仰付候、其節国清越後之様子御存知有間敷由ニ而、青海川図書を御付被成候、此時より山浦之家ニ相勤候、然共御直衆同前ニ万端被 仰付、 景勝様御代迄、御三代御書御感状共ニ拝領仕候、
一、御館陣之時、御忠信仕ニ付而、 景勝様御朱印之通、尾崎村、堀川村加増仕候、其時之御朱印共于今所持候、
一、越中御陣之御先より新発田為押、多功豊後、青海川図書、同名彦太郎三人、笹岡之城江被 仰付、右之刻新発田相働候、守返シ追討仕、乱橋と申所迄敵討捕候首数披露仕候処、御褒美ニ候景勝様より御感状被下置、于今所持仕候、従越後会津江御国替之節、仙道塩之松之城山浦ニ御預ケ被成候、其節多功、青海川同前ニ相勤罷在候、然所ニ於京都山浦被致死去、名絶ニ付而、多功、青海川義は百五十石ツゝ被下置、直江山城守ニ御預被成、多功桧原ニ被差置、足軽五拾人差引仕相勤候、青海川図書は綱木之将を被 仰付候、証文等于今所持仕候、無程会津米沢江御移ニ付而、両人共ニ御知行被召上、五人扶持ニ被成、米沢江移申候、図書子長助、山城守所ニ小姓奉公ニ而罷在候、其御扶持ニ移行多功豊後庭坂江被遣候時、長助事豊後ニ首尾御座候付而、同前ニ罷越、其已後豊後高畠江移り申付而、同前ニ参候而、于今罷在候、図書惣領私若輩成時相果ニ付、拙者事幼少より図書養育を以跡式某ニ相渡、二拾ヶ年ニおよびひ御奉公申上候、已上


*1)『上越市史』別編1、518号
*2)『越佐史料』五巻、322頁
*3) 同上、322頁
*4)『新潟県史』資料編5、3554号
*5)『越佐史料』五巻、653頁
*6) 同上、653頁
*7) 同上、654頁

市川憲輔の動向

2024-01-14 16:47:18 | 市川氏
市川和泉守憲輔は越後守護上杉氏の重臣であり、延徳期から明応期にかけてその所見がある。その政治的立場は守護代長尾氏や八条上杉氏に比肩したとの指摘もあり、当時の政治体制において重要な役割を担った人物であったことは疑いない。今回は憲輔について整理してみたい。越後市川氏については片桐昭彦氏の研究に詳しい(*1、*2)。


1>憲輔の動向
文明末期成立の蒲原郡段銭帳(*3)には、「金津保之内御料所 市川和泉守方」「同庄(青海庄)小吉之条 代官市川」と市川氏が上杉氏御料所の代官であった事実が示される。文明末期成立の『越後検地帳』では「市川和泉守分」が記され、代官佐渡彦七の名が記載される。文明16年、19年の検地を経て、計15293束苅が記載される。これらの所見は和泉守定輔とその前代・和泉守憲輔の所見の境にあたる時期であり、どちらの人物を示すかは不明だが、和泉守系の所領としてその経済的基盤となっていたことが推測される。

[史料1]「上杉房定一門・被官交名」(『正智院文書』)
長尾信濃守平能景 廿八歳
 大安縫殿介源頼忠 卅五歳
市川和泉守憲輔 五十五歳
 物部越前守藤原房泰 五十七
 市川孫二郎藤原定輔 十六
 毛利左近将監大江定広 善根
 毛利弥五郎大江輔広 北条
 市川大和守藤原房宣
 平子平左衛門尉平朝政

(紙背)
 延徳三年辛亥記之
相模守房定 法名常泰 六十一
御子房能 九郎 十八歳
□□□顕定 四郎殿 三十八歳
十一月十四日、常泰御誕生日也、今日御日之所作ノ目録認進之、以次御信払ノ真言等奉授之了
 八条尾張守房孝

[史料1]より憲輔の実名、受領名、年齢が判明する。実名は越後上杉氏よりの偏諱であろう。年齢から逆算すると生年は永享9年となる。片桐氏は[史料1]において長尾能景と市川憲輔が他の守護年寄より明らかに別格上位に位置付けられており、憲輔が越後守護代と並ぶような地位にあったことを指摘している。

さらに憲輔は延徳4年に歌人・堯恵より『古今集延五記』を授与され、明応期には上杉房定、上条上杉房実らと共に『新撰菟玖波集』の作者としても登場するなど文化人として積極的な活動を見せる。これも彼が越後の政治中枢に深く関わっていることを示すものだろう。文明・明応期の文書である千坂実高書状(*4)には、千坂実高が刈羽郡善照寺から「不入之儀」について安堵を受けることを求められ市川憲輔と齋藤昌信に取り次いだことが記されている。

憲輔の政治的地位を示す文書として明応9年10月16日長尾能景宛平子朝政・斎藤珠泉連書状(*5)がある。これは揚北の本庄氏の反乱鎮圧のため派遣された守護方の軍勢から府中へ状況を伝える文書である。この中で以前の注進に対して「尾州次市川和泉守以添状被仰下候とあり」、府中から派遣軍への応答は八条上杉房孝と市川憲輔の副状からなされたことが森田真一氏(*6)によって明らかにされている。同氏により当時八条房孝は府中の守護所での活動が確認されるなど守護上杉氏と密接な関係にあったことが指摘されている。その八条房孝と並ぶ市川憲輔も守護権力内の宿老的存在として位置していたことが推測される。

また、この頃長尾輔景、北条輔広、飯沼輔泰、五十公野輔親など「輔」字を冠する人物が散見される。ここまで見てきた市川憲輔の政治的立場であれば、それは憲輔よりの偏諱である可能性もあろう。

以上憲輔の史料を確認したが、そこからは守護上杉房定のもと守護代長尾能景、有力一門八条房孝、そして市川憲輔が中心となって構成される当時の権力構造が透けて見える。八条上杉氏についても近年研究が進みやっとその存在が明らかとなりつつあるように当時の越後政治体制は不明な点多いが、憲輔を始めとする越後市川氏の存在が予想以上に大きなものである可能性が想定されている。


2>越後市川氏の一族
[史料1]にみえる当時16歳の市川孫二郎定輔は憲輔の後継者であろう。永正4年上杉定実知行宛行状(*7)で長尾房景へ古志郡石坂の「市川孫左衛門尉分」が宛がわれており、片桐氏はこの孫左衛門尉が孫二郎定輔の後身である可能性を指摘している。また同文書が越後市川氏の終見であり、片桐氏は永正の政変において市川氏が没落したと推測している。

憲輔の前世代としては文明12年10月黒川氏実から宮福丸への家督相続に関する書状に見える、市川伊賀守朝氏(*8)、市川和泉守定輔(*9)がいる。両者共に黒川氏実と贈呈品をやり取りし当時の周辺情勢について報告している。ちなみに、氏実は家督相続が認められた御礼を各所に進呈しており、その内容は守護上杉房定が馬と鳥目500疋、守護代長尾重景が太刀、馬と300疋、雲照寺妙瑚が200疋、市川朝氏、定輔は共に100疋となっている。市川氏がこの頃から既に権力中枢に関与していたことが窺えよう。

和泉守、「輔」字の共通性から和泉守定輔-和泉守憲輔-孫二郎定輔と系統が繋がっていると考えた方が自然だろう。それぞれ、父子関係やそれにごく近い関係であったことが推測される。

市川朝氏については詳細不明ながら定輔-憲輔の和泉守系統とは別の系統も上杉氏家臣として存在していたことを示す。[史料1]には別系統として市川大和守房宣が記載されており、片桐氏は和泉守系、伊賀守系と大和守系の3系統を想定している。ただ伊賀守朝氏と大和守房宣の所見は比較的離れており、房宣が朝氏の後継である可能性も想定されよう。また、「朝」、「定」、「憲」、「房」などは上杉氏からの偏諱と推測される。


ここまで市川憲輔を中心に越後市川氏について検討した。越後市川氏は永正の政変後姿を消すが、主に上杉房定の治世において大きな影響力を持ったと想定される。片桐氏は次のように言う、「越後の守護である上杉房定が、ここまで信濃北部の動向に執着し、積極的に介入する姿勢をみせていたのはなぜであろうか。それは越後守護上杉氏の基盤が、すでに中世前期から信濃越後両国にまたがる市川氏、中野氏、高梨氏、大熊氏などの領主たちが培ってきた基盤のもとに成立していたからではなかろうか。そして、とりわけ当時上杉家の有力な年寄として存在した市川氏の意向が反映したからではなかろうか。」。越後上杉氏、越後長尾氏を考える上で、非常に示唆に富む指摘といえよう。


*1) 片桐昭彦氏「越後守護上杉家と年寄の領主的展開」『新潟史学』63号
*2)片桐昭彦氏「十六世紀における上杉氏の分国支配体制と黒印状」『室町戦国近世初期の上杉氏史料の帰納的研究』
*3) 齋藤文書『新潟県史研究』19号、『新潟県史』資料編中世補遣一4450号
*4)『新潟県史』資料編5、2373号
*5) 同上、資料編4、1317号
*6) 森田真一氏「戦国期の越後守護所」『上杉謙信』高志書院
*7)『越佐史料』三巻、498頁
*8)同上、241頁
*9)同上、242頁