[史料1] 『新潟県史』資料編4、1482号
(張紙)「十四、黒川実氏書状案」
来簡之趣具令披見候、并使者口上之旨承候、然者中条間之義示給候、惣別今度之鉾楯、於様体者、大概去年以来申旧之条、不再意候、将亦先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷、伊達之人衆本庄・鮎川要害把之条、彼面々大宝寺へ退去、已他之国ニ罷成義、難ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き、然処ニ先弓矢之以威気、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候、如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候、如斯之処ニ我か儘之刷、無是非候、以是彼覚悟之様、可有御校量候、巨細猶使者任口説不具候、恐々
天文廿一年
六月廿一日 黒川実
山吉丹波入道(政応)殿
天文21年黒川実氏書状案[史料1]を検討して整理してみたい。これは伊達入嗣問題時の揚北衆の動向を詳しく確認できる好史料である。文書内の出来事を発生時期ごとにまとめながら逐一確認していきたい。
①「先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷、伊達之人衆本庄・鮎川要害把之条、彼面々大宝寺へ退去」
天文8年の伊達稙宗の越後侵攻に関する部分である。中条景資が伊達入嗣問題を推進し、伊達軍の本庄氏鮎川氏攻撃を手引きしたとある。
②「已他之国ニ罷成義、難ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き」
これは、伊達入嗣問題に反対する揚北衆の中条氏攻撃に関する部分である。伊達氏の侵攻で小泉荘の一部が他国になってしまったため、反伊達・中条派の黒川清実・実氏が色部勝長と共に揚北衆を糾合し中条氏の本拠鳥坂城を攻撃、「巣城」だけにしたという。「巣城計」と「落居之砌」が別々にあることから、巣城に押し込んだ後から落城までに時間差があったことが推測される。落城の際には、伊達晴宗の仲裁があり「無事」となり、府内長尾氏の意向も確認して従っていることが分かる。
[史料2]『新潟県史』資料編4、2076号
其以来態不申届候間、差越使者候、於其口日夜加世義、殊至于中条度々一戦勝利、併忠信無是非候、定落居不可有程候、弥被抽粉骨簡要候、委細可有彼口上候、恐々謹言、
九月廿八日 晴景御判
田中兵部少輔殿
この鳥坂城攻防戦についてここで年次比定を試みてみたい。[史料2]は鳥坂城攻防戦に関する色部氏家臣田中氏宛ての長尾晴景書状である。9月末の時点で落城寸前だったとわかる。この頃には為景ではなく晴景が書状を発給していることが注目される。これは天文10年末の為景死去が関係しているのではないか(*1)。さらに、鳥坂城落城の仲介を伊達晴宗が行っていることが重要と考える。黒川氏ら揚北衆にとって伊達氏は中条氏と並ぶ直接の敵対勢力であるはずで、その伊達氏との通交が可能なのは天文11年6月の伊達天文の乱(*2)で稙宗と晴宗に分裂後であろう。わざわざ伊達晴宗とあるのもそれと整合する。中条氏が伊達氏の分裂により後援を失ったこと揚北衆の攻勢が激化、揚北の混乱を治めて味方を増やしたい伊達晴宗が仲介に及んだというところだろう。
以上より、鳥坂城の落城は天文11年10月頃と比定する。①より天文8年には中条氏の伊達稙宗へ与する姿勢は明らかであるから、数年に渡る対立があった可能性がある。
③「然処ニ先弓矢之以威気、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候」
まず、「弥三郎」の人物比定が重要である。従来、色部弥三郎勝長に比定されることが多い。しかし、②にあるように伊達入嗣問題に関して色部勝長は黒川実氏と共に一貫して反伊達稙宗派、親府内長尾氏・伊達晴宗派であった。勝長から離反して伊達稙宗に味方した色部中務小輔らがいるが、「弥三郎事」は弥三郎個人を指していると見るべきであり、弥三郎=勝長では「重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意」という一文と矛盾する。よって、この「弥三郎」は中条弥三郎房資だと考える。この文書が黒川氏と中条氏の所領相論関連であることを踏まえると、府内長尾氏方黒川氏と伊達稙宗方中条氏の対立構図の強調が見られることは当然であり、反対に所領相論に関して仲介役の色部勝長を貶めることは利点がない。
「弥三郎」が中条房資だとすると、鳥坂城落城後の動向が見えてくる。「先弓矢之以威気、境候上郡山引付」とあるが、これは国境の上郡山氏が先の戦勝の勢いを以て攻めてきた、と解釈できる。上郡山氏の戦勝といえば、天文11年11月上郡山為家書状写に「就中去十小玉川之地江及行、遠藤平兵衛尉・舟山周防守為始、一類一人も不残討取候」とあるのが想起される。この書状からは小玉川だけでなく長井庄などでも稙宗方が優勢だったとわかる。よって、伊達天文の乱勃発の隙に鳥坂城を落とされた中条氏であったが、稙宗方の勝利に乗じて再びその陣営へ付いたと考えられる。
黒川氏の「対国逆意」という表現は、黒川氏が府内長尾氏側として行動していることを強調するものだろう。天文9年に長尾為景・晴景が獲得した「治罰の綸旨」を意識しているとも考えられる。
そして、この房資の行動は「旁々」の援助によりまもなく鎮圧されたと読み取れよう。②の時点で、中条氏に対し揚北衆は「揚北中」と表現されて中条氏に対抗しているから「旁々」は揚北衆とは別の存在であり、「旁々」が二人称であることを考えると、それは山吉氏に代表される府内長尾氏勢力を指す。すなわち、中条氏ら稙宗方勢力の鎮圧に府内長尾氏も直接支援していたということだろう。鳥坂城落城を天文11年と比定したため、これは天文12年頃のことだろうか。すると長尾景虎が中越下越の混乱に対して栃尾城へ派遣された年次とも一致し、越後国内の情勢と矛盾なく同期する(*3)。
④「更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候」
ここまでの部分を所領相論の判断材料にしてほしいという意味であり、それが所領相論の当事者黒川氏と中条氏に関することであることを補強するだろう。
⑤「如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候」
ここだけみれば「弥三郎」が色部勝長で「横合」が色部中務少輔らの反抗と捉えられるが、前述の部分と此の部分が共に「弥三郎」と名字が省略されていること、「以是彼覚悟之様、可有御校量候」という後の一文がやはり黒川氏が中条氏と対立する中での主張とみるべきであり、「弥三郎」は中条弥三郎房資に比定されるだろう。
では、追罰された「石井」とは何者であろうか。中条寒資・石井茂義・比丘尼恵順三名寄進状(*4)にその徴証がある。寒資は中条藤資の四世代前にあたる人物であり、寒資らはこの文書で寄進先の大輪寺に「亡父母」の菩提を弔い子孫繁栄を祈願している。従ってこの寄進を行った寒資と石井茂義は兄弟と見られ、中条氏家中に石井氏の存在を見出すことができる。
よって、天文12年以降中条房資家中に反乱があり黒川実氏が鎮圧に動いた、ということが想定される。そしてそれは、「如斯之処ニ我か儘之刷、無是非候」とあることから「追罰」は府内長尾氏の意向に沿ったものであったと考えられる。
以上、天文10年代の揚北の動向を伺い知ることができた。本文中でも言っているがこの書状は黒川氏が天文21年の所領相論の際に府内長尾氏へ自らの立場を主張したものであり、これらの記述は中条氏との対立を軸に府内長尾氏と矛盾しない立場での黒川氏の事績と考えるべきである。そして、それが天文後半の10年間にわたることに留意する必要がある。それを踏まえて上記の考察を進めた結果、伊達入嗣問題とそれ以後の揚北の混乱期において黒川氏は一貫して府内長尾氏との協調路線をとっていたことが理解され、また、裏返せば中条氏には混乱が生じていたことも読み取れる。今後はさらに、他の視点からも伊達入嗣問題を考察してみたい。
*1)[史料2]が天文11年となると、中条景資の進退に言及する『新潟県史』資料編4、1056号も天文11年に比定できる。すると、長尾晴景発給文書は父為景の生前には見られない。
*2)伊達天文の乱の勃発が天文11年6月であるのは「晴宗公采地下賜録」の奥書に「天文十一年六月乱之後」とみられることからわかる。
*3)この場合長尾景虎は中条氏を中心とする伊達稙宗派の反抗を制圧したと考えられるがその後中条氏が席次トップとなることと矛盾が生じ、検討が必要である。例えば、晴景からの権力移行や弘治年間の景虎隠居騒動といった混乱期に立場の変化があった、といったことが考えられる。元々、享禄天文の乱などにおいて中条氏は揚北衆の中心的立場にあり、そういったことも関連したのだろうか。
*4)『越佐史料』二巻、660頁
※2021/2/23 「石井」と中条氏の関連について加筆した。以前は憶測として記載していたが、史料的根拠から石井氏が中条家中に存在したことを示した。また「黒川氏家臣座敷図」なる史料に言及したが、文書などで見られる家臣団と姓名が大きく異なり「黒川氏家中」として鵜呑みして良いか疑問が生じたため削除した。