鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川実氏書状案の検討

2020-07-21 12:37:25 | 和田黒川氏
[史料1] 『新潟県史』資料編4、1482号
(張紙)「十四、黒川実氏書状案」
来簡之趣具令披見候、并使者口上之旨承候、然者中条間之義示給候、惣別今度之鉾楯、於様体者、大概去年以来申旧之条、不再意候、将亦先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷、伊達之人衆本庄・鮎川要害把之条、彼面々大宝寺へ退去、已他之国ニ罷成義、難ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き、然処ニ先弓矢之以威気、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候、如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候、如斯之処ニ我か儘之刷、無是非候、以是彼覚悟之様、可有御校量候、巨細猶使者任口説不具候、恐々
天文廿一年
  六月廿一日     黒川実
山吉丹波入道(政応)殿

天文21年黒川実氏書状案[史料1]を検討して整理してみたい。これは伊達入嗣問題時の揚北衆の動向を詳しく確認できる好史料である。文書内の出来事を発生時期ごとにまとめながら逐一確認していきたい。

①「先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷、伊達之人衆本庄・鮎川要害把之条、彼面々大宝寺へ退去」
天文8年の伊達稙宗の越後侵攻に関する部分である。中条景資が伊達入嗣問題を推進し、伊達軍の本庄氏鮎川氏攻撃を手引きしたとある。

②「已他之国ニ罷成義、難ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き」

これは、伊達入嗣問題に反対する揚北衆の中条氏攻撃に関する部分である。伊達氏の侵攻で小泉荘の一部が他国になってしまったため、反伊達・中条派の黒川清実・実氏が色部勝長と共に揚北衆を糾合し中条氏の本拠鳥坂城を攻撃、「巣城」だけにしたという。「巣城計」と「落居之砌」が別々にあることから、巣城に押し込んだ後から落城までに時間差があったことが推測される。落城の際には、伊達晴宗の仲裁があり「無事」となり、府内長尾氏の意向も確認して従っていることが分かる。

 [史料2]『新潟県史』資料編4、2076号
其以来態不申届候間、差越使者候、於其口日夜加世義、殊至于中条度々一戦勝利、併忠信無是非候、定落居不可有程候、弥被抽粉骨簡要候、委細可有彼口上候、恐々謹言、
九月廿八日     晴景御判
田中兵部少輔殿

この鳥坂城攻防戦についてここで年次比定を試みてみたい。[史料2]は鳥坂城攻防戦に関する色部氏家臣田中氏宛ての長尾晴景書状である。9月末の時点で落城寸前だったとわかる。この頃には為景ではなく晴景が書状を発給していることが注目される。これは天文10年末の為景死去が関係しているのではないか(*1)。さらに、鳥坂城落城の仲介を伊達晴宗が行っていることが重要と考える。黒川氏ら揚北衆にとって伊達氏は中条氏と並ぶ直接の敵対勢力であるはずで、その伊達氏との通交が可能なのは天文11年6月の伊達天文の乱(*2)で稙宗と晴宗に分裂後であろう。わざわざ伊達晴宗とあるのもそれと整合する。中条氏が伊達氏の分裂により後援を失ったこと揚北衆の攻勢が激化、揚北の混乱を治めて味方を増やしたい伊達晴宗が仲介に及んだというところだろう。

以上より、鳥坂城の落城は天文11年10月頃と比定する。①より天文8年には中条氏の伊達稙宗へ与する姿勢は明らかであるから、数年に渡る対立があった可能性がある。

③「然処ニ先弓矢之以威気、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候」
まず、「弥三郎」の人物比定が重要である。従来、色部弥三郎勝長に比定されることが多い。しかし、②にあるように伊達入嗣問題に関して色部勝長は黒川実氏と共に一貫して反伊達稙宗派、親府内長尾氏・伊達晴宗派であった。勝長から離反して伊達稙宗に味方した色部中務小輔らがいるが、「弥三郎事」は弥三郎個人を指していると見るべきであり、弥三郎=勝長では「重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意」という一文と矛盾する。よって、この「弥三郎」は中条弥三郎房資だと考える。この文書が黒川氏と中条氏の所領相論関連であることを踏まえると、府内長尾氏方黒川氏と伊達稙宗方中条氏の対立構図の強調が見られることは当然であり、反対に所領相論に関して仲介役の色部勝長を貶めることは利点がない。

「弥三郎」が中条房資だとすると、鳥坂城落城後の動向が見えてくる。「先弓矢之以威気、境候上郡山引付」とあるが、これは国境の上郡山氏が先の戦勝の勢いを以て攻めてきた、と解釈できる。上郡山氏の戦勝といえば、天文11年11月上郡山為家書状写に「就中去十小玉川之地江及行、遠藤平兵衛尉・舟山周防守為始、一類一人も不残討取候」とあるのが想起される。この書状からは小玉川だけでなく長井庄などでも稙宗方が優勢だったとわかる。よって、伊達天文の乱勃発の隙に鳥坂城を落とされた中条氏であったが、稙宗方の勝利に乗じて再びその陣営へ付いたと考えられる。

黒川氏の「対国逆意」という表現は、黒川氏が府内長尾氏側として行動していることを強調するものだろう。天文9年に長尾為景・晴景が獲得した「治罰の綸旨」を意識しているとも考えられる。

そして、この房資の行動は「旁々」の援助によりまもなく鎮圧されたと読み取れよう。②の時点で、中条氏に対し揚北衆は「揚北中」と表現されて中条氏に対抗しているから「旁々」は揚北衆とは別の存在であり、「旁々」が二人称であることを考えると、それは山吉氏に代表される府内長尾氏勢力を指す。すなわち、中条氏ら稙宗方勢力の鎮圧に府内長尾氏も直接支援していたということだろう。鳥坂城落城を天文11年と比定したため、これは天文12年頃のことだろうか。すると長尾景虎が中越下越の混乱に対して栃尾城へ派遣された年次とも一致し、越後国内の情勢と矛盾なく同期する(*3)。

④「更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候」
ここまでの部分を所領相論の判断材料にしてほしいという意味であり、それが所領相論の当事者黒川氏と中条氏に関することであることを補強するだろう。

⑤「如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候」
ここだけみれば「弥三郎」が色部勝長で「横合」が色部中務少輔らの反抗と捉えられるが、前述の部分と此の部分が共に「弥三郎」と名字が省略されていること、「以是彼覚悟之様、可有御校量候」という後の一文がやはり黒川氏が中条氏と対立する中での主張とみるべきであり、「弥三郎」は中条弥三郎房資に比定されるだろう。

では、追罰された「石井」とは何者であろうか。中条寒資・石井茂義・比丘尼恵順三名寄進状(*4)にその徴証がある。寒資は中条藤資の四世代前にあたる人物であり、寒資らはこの文書で寄進先の大輪寺に「亡父母」の菩提を弔い子孫繁栄を祈願している。従ってこの寄進を行った寒資と石井茂義は兄弟と見られ、中条氏家中に石井氏の存在を見出すことができる。

よって、天文12年以降中条房資家中に反乱があり黒川実氏が鎮圧に動いた、ということが想定される。そしてそれは、「如斯之処ニ我か儘之刷、無是非候」とあることから「追罰」は府内長尾氏の意向に沿ったものであったと考えられる。

以上、天文10年代の揚北の動向を伺い知ることができた。本文中でも言っているがこの書状は黒川氏が天文21年の所領相論の際に府内長尾氏へ自らの立場を主張したものであり、これらの記述は中条氏との対立を軸に府内長尾氏と矛盾しない立場での黒川氏の事績と考えるべきである。そして、それが天文後半の10年間にわたることに留意する必要がある。それを踏まえて上記の考察を進めた結果、伊達入嗣問題とそれ以後の揚北の混乱期において黒川氏は一貫して府内長尾氏との協調路線をとっていたことが理解され、また、裏返せば中条氏には混乱が生じていたことも読み取れる。今後はさらに、他の視点からも伊達入嗣問題を考察してみたい。


*1)[史料2]が天文11年となると、中条景資の進退に言及する『新潟県史』資料編4、1056号も天文11年に比定できる。すると、長尾晴景発給文書は父為景の生前には見られない。
*2)伊達天文の乱の勃発が天文11年6月であるのは「晴宗公采地下賜録」の奥書に「天文十一年六月乱之後」とみられることからわかる。
*3)この場合長尾景虎は中条氏を中心とする伊達稙宗派の反抗を制圧したと考えられるがその後中条氏が席次トップとなることと矛盾が生じ、検討が必要である。例えば、晴景からの権力移行や弘治年間の景虎隠居騒動といった混乱期に立場の変化があった、といったことが考えられる。元々、享禄天文の乱などにおいて中条氏は揚北衆の中心的立場にあり、そういったことも関連したのだろうか。
*4)『越佐史料』二巻、660頁


※2021/2/23 「石井」と中条氏の関連について加筆した。以前は憶測として記載していたが、史料的根拠から石井氏が中条家中に存在したことを示した。また「黒川氏家臣座敷図」なる史料に言及したが、文書などで見られる家臣団と姓名が大きく異なり「黒川氏家中」として鵜呑みして良いか疑問が生じたため削除した。

黒川実氏の動向

2020-07-19 11:25:32 | 和田黒川氏
実名を「実氏」とされる黒川四郎次郎(*1)は清実の次代として天文11年から所見される。

追記:20/11/8
「実氏」の実名は史料的根拠に乏しい。私は『越後過去名簿』の検討から、「実氏」の実名が実際には「平実」である可能性を提示している。

記事はこちら


天文11年に伊達天文の乱が勃発し、11月に伊達稙宗陣営上郡山為家が「黒川四郎次郎殿」を勧誘しているものが、実氏の初見である(*2)。黒川氏と地理的に近接する羽前小国の上郡山為家が「雖事新申義候、年来得御扶助候間、吉凶共に被仰合者可為本望候」と年来の親交を理由に稙宗陣営への参加を誘っている。同年12月には反対に伊達晴宗が実氏へ、稙宗側の中条氏と小河氏に圧迫されていた本庄氏を除く他の揚北衆と並んで「彼在城(上郡山為家居城)へ御調儀候而、被加対治候者、可為専悦候、頼入計候」(*3)と稙宗陣営の上郡山氏攻撃を依頼している。

この次の所見は天文21年と弘治元年の中条氏との所領相論に関わる文書となる。そして、弘治元年12月4日に長尾宗心書状案(*4)に「黒川下野守」とあるのが終見となる。弘治元年11月29日長尾宗心書状案(*5)には「黒川四郎次郎殿」と見えることから、所領相論と関連して弘治元年11月末から12月始に下野守の受領名を獲得したと考えられる。

永禄2年3月には黒川孫五郎が(*6)、永禄3年8月には黒川竹福丸が見える(*7)ことから、永禄2年(1559)までに死去したと考えられる。

実氏は仮名四郎次郎から清実の嫡子と考えられよう(*8)。前回清実の生年は永正前~中期(1503~1512頃)と推定した。実氏の初見天文11年(1542)を考慮すると、享禄年間(1528~1532)頃の出生であろう。その享年は30歳頃となる。

その後、黒川氏は永禄2年3月に黒川孫五郎が直江実綱より上条の地の郡司不入を認められているのが確認される(*6)。これは、黒川清実が直江酒椿に認められたもの(*9)の継承である。孫五郎は幼少の実氏子息竹福丸の後見であろうか。永禄2年の『祝儀太刀之次第写』には黒川氏の名前がなく、その理由は当主が幼少であることかと考えられる。

また、弘治2年の大熊朝秀の乱に際して蘆名氏傘下の山内舜通が大熊へ「然者越州辺之儀、小田切安芸守可走廻候由候也、依之承旨候、何様黒河令談合、一途ニ可走廻候」と伝えている(*10)。「黒河」を越後黒川氏と捉えればこの頃姿を消す黒川実氏との関係が気になるが、これは蘆名氏の本拠黒川を指すと考えられる。発給者の山内氏は金山谷横田を拠点とした領主であり、蘆名氏からは独立性の高い存在であった。すると、蘆名氏中枢から発給された文書ではないと考えられ、「黒河」が蘆名氏を指すと考えやすくなる。他国の者には「会津」と呼ばれる事が多いが、蘆名氏勢力内ではより詳細な「黒河」で呼ばれることもあったのだろう。蘆名氏を黒川と表現する例として、平等寺薬師寺嵌板墨書(*11)の「くろ川より不調儀之由御せっかん」などが挙げられる。よって、この書状は山内氏が蘆名傘下の立場から大熊に蘆名氏との連絡を密にするように助言した、といったところだろう。

今回は、天文21年黒川実氏書状案について言及しなかったが、天文後期の揚北の動向を詳しく知ることができる文書であり、別の機会に詳しく考察したい。



*1)実名「実氏」は、新潟県史1482号文書の外題「黒川実氏書状案」から確認できる。しかし、外題が後代に副えられたものである点には注意が必要である。
*2)『越佐史料』三巻、856頁
*3)同上、858頁
*4)『上越市史』別編1、132号
*5)同上、131号
*6)同上、163号
*7)同上、211号
*8)実名「実氏」は通字を一文字目においており、黒川氏歴代や他揚北衆を見ても珍しい。これは、伊達入嗣問題を経て黒川氏の権威が上昇したことを表している、または、実氏は庶子であった、もしくは、外題の伝える「実氏」が誤りである、といった可能性が考えられようか。
*9)『上越市史』別編1、119号
*10)『新潟県史』資料編5、3755号
*11)同上、2936号

※21/4/17一部加筆修正した。


黒川清実の動向

2020-07-18 14:22:40 | 和田黒川氏
前回の黒川盛実に引き続き、その次代清実の動向を追っていきたい。

黒川清実は享禄4年1月の越後衆連判軍陣壁書(*1)に「黒川四郎右兵衛尉 清実」と署名しているのが初見である。よって、享禄の乱では他領主と共に長尾為景に与したとわかる。

天文の乱では揚北衆は一転して上条定憲へ味方し、清実も例外ではなかった。天文4年6月に蒲原津に在陣していた上条定憲の元へ参陣した「奥山、瀬波の衆」(*2)に清実も含まると考えられ、8月には清実が上条方として本庄房長、鮎川清長、中条藤資と共に平子氏へ西古志郡領有を認める書状を発給している(*3)。9月には清実を含め揚北衆7名の連署で羽前庄内の砂越氏へ援軍の要請をしている(*4)。天文の乱以降は中条氏らと同様に天文6年までには為景と和睦したと考えられる(*5)。

天文8年までに出された長尾張恕(為景)書状(6*)の中で「中弾并黒兵へ度々覚悟旨申越候処、無相違返章」とあり、和睦以降は為景に協力する姿勢をみせている。この文書の後天文11年(1542)には次代黒川四郎次郎が史料上に現われ、清実から権力移行が図られたと考えられる(*7)。

しかし、清実は以降も史料に散見される。例えば、『越後過去名簿』において天文16年に黒川右兵衛尉を依頼者とする供養が複数確認できる。前嶋敏氏「景虎の権力形成と晴景」(*8)において『越後過去名簿』には権力中枢と関わりがある武将が多く、黒川氏もそうであった可能性が指摘されている。伊達入嗣問題を巡る揚北衆の混乱において伊達氏に協力した中条氏と相反する形で、清実父子は府内長尾氏との連携が深まっていったといえるだろう。

清実の終見は天文23年直江酒椿が清実へ知行する上条の地について郡司不入を認めたものである(*9)。よって、天文末期から弘治年間の死去と見られるだろう。

清実の初見は享禄4年(1531)、終見が天文23年(1554)である。前代の盛実は永正6年(1509)が初見であり、天文11年(1542)には次代四郎次郎がみえる。清実は永正前期から中期の誕生とみられる。四郎を名乗るのも、黒川氏代々の仮名四郎次郎に通じており盛実の嫡子とみていいのではないかと思う。

*1)『新潟県史』資料編4、269号
*2)『越佐史料』三巻、812頁
*3)同上、818頁
*4)同上、822頁
*5)同上、817頁、中条氏の回で検討した。
*6)『新潟県史』資料編4、1439号
*7)『越佐史料』三巻、856頁
*8)『上杉謙信』編福原圭一・前嶋敏、高志書院
*9)『上越市史』別編1、119号

黒川盛実(盛重)の動向

2020-07-15 10:30:58 | 和田黒川氏
今回からは数回かけて、和田黒川氏の系譜をたどりその動向を歴代当主ごとに詳しく追跡検討してみたい。まずは、黒川盛実(盛重)から始めることとする。

文明から明応年間にかけて黒川氏は祖父氏実入道応田から家督を継承した当主四郎次郎頼実を伯父駿河守治実が補佐する形で成立していた。明応9年の胎内川の戦いでは頼実が守護上杉氏から寝返り、中条土佐守を討ち取っている(*1)(*5)。

これ以降しばらく黒川氏は史料上に確認できない。永正4年の抗争では、長尾為景が敵として挙げるのは「本庄三河入道(時長)、色部修理進(昌長)、竹俣式部丞(清綱)」(*2)であるから、直接の敵対関係にはなかったとみられるが、黒川氏の所領である高野郷を上杉定実が中条藤資に宛がっているため(*3)、本庄氏ら寄りの立場であったかもしれない。どちらにしろ、この後は他の揚北衆同様為景に従ったと見られる。

永正6年の山内上杉可諄の侵攻により長尾為景・上杉定実が越中に逃れた際は、「黒川弾正左衛門尉」が為景陣営として伊達尚宗と連携していることが確認できる(*4)。これが盛実であり、黒川頼実の子であると考えられる(*5)。9月には「以旁御動揚北一遍、加地庄張陣之由申候」(*6)とあり、中条藤資らと共に周辺の敵対勢力と交戦していることもわかる。永正7年8月には黒川氏影響下にあると思われる土沢氏に上杉定実から知行宛行状(*7)が発給されていることからも、盛実が一貫して為景・定実方についていたと推測できる。

永正6年8月の中条藤資が盛実へ高野郷返還していることが確認できる(*8)。中条氏と黒川氏の所領を巡る複雑な動きが垣間見えるが、盛実の代においておおむね中条氏とは協調関係にあったといえる。

永正10年の為景と上杉定実の抗争においても、為景から中条氏への書状中で「御一覧後黒川殿へ可被進之候」とあることから、中条氏と共に為景方についたことが推測される。宇佐美房忠から七松城攻めを要請されているのもこの年である(*9)。盛実が弾正左衛門尉としてみえるのはこの史料が最後である。

永正16年西実助等連署書状(*10)に「去夏下野所へ被仰届候哉」とみえる。大永4年4月の「乙宝寺金銅製華鬘陰刻銘」(*11)に「平朝臣盛実」とあることから、この頃も盛実は当主として活動している。よって、盛実が永正16年までに下野守を名乗り活動していたことがわかる。

大永6年(1526年)1月の起請文(*12)には「黒川下野守盛重」とあり、大永4年から5年の内に盛実が改名したと考えられる。起請文の内容は以下の通りである。

「或本庄・色部・中条、其外国中面々、或親類被官等、縦雖被致不儀、某之事、至于為景御子孫、致不儀奉引弓事不可有之候、於国役等儀も、各前不可見合申候、此儀偽申候者(以下神文)」

黒川盛重はこの時まで一貫して長尾為景方につき、起請文を提出するなど他の揚北衆と同様に為景への従属を強めていったと理解されよう。この起請文が盛実の終見であり、享禄4年からは次代清実が見られるようになる。

生年は頼実の活動が見られるようになる文明18年(1486)以降と考えられる(*5)。史料上の活動期間は17年であり、その没年は大永末期から享禄始めであろう。


追記:実名について
黒川盛実は史料上度々「盛実」の実名で所見され、その実名は確実である。『新潟県史』において大永6年起請文署名が「盛重」とされることから、その盛実が後に盛重を名乗ったと解釈した。当ブログ黒川為実に関する考察の中で、「為重」とする文書があるも「実」と「重」の混同による誤記ではないかとした。そこで、「盛重」に関する検討も必要と考え、ここではよりくわしく実名「盛重」について検討する。

『越佐史料』は署名を「黒河下野守盛實」とし、綱文においても「黒河盛實」と表記している。ただページ上部には「黒川盛重ノ誓書」という注意書きがある。混乱が見られるものの、文書署名においては「盛実」と解釈しているようである。

『新潟県史』資料編3の付録においてこの起請文の写真が掲載されておりその署名を確認することができる。個人的な意見としては「盛実」と判読できるのではないかと考える。同じ頃黒川氏関係の文書である永正16年西実助等連署状(*13)における4名の家臣の署名にみえる「実」と比較した。起請文は花押と一部被っているためわかりにくいが、連署状における「実」字との共通点があると見た。

ただ、黒川盛実の文書における署名は起請文以外には所見がないため、本人の筆跡で比較ができないのが残念な部分である。

他に、状況から考えれば大永4年まで確実に「盛実」の実名が見えること、改名の契機が不明なこと、揚北衆において改名の事例がわずかであることなどから、一貫して盛実を名乗ったとするのは自然である。

以上から黒川盛実は『新潟県史』などにおいて「盛重」とされるが、『越佐史料』は「盛実」とし、私自身の見解としても署名が「盛実」であると考えることから、その晩年においても実名「盛実」を名乗り続けていた可能性について留意するべきである。


*1)『新潟県史』資料編4、1317号
*2)同上、1423号
*3) 同上、1320号
*4)『中条町史』資料編1、1-505号
*5)頼実は幼名宮福丸と名乗っていた文明12年に家督を相続、文明18年(1486年)には頼実の名で発給文書がみえる。盛実の初見は永正6年(1509年)である。よって、年齢的にも頼実と盛実の父子関係は矛盾しない。受領名下野守も黒川氏代々のものであり、盛実も嫡流とみてよいと考えられる。盛実の生年を文明末期頃としても明応9年の胎内川の戦いでは10歳程度とまだ若年であり、この年に見られる黒川四郎次郎は頼実で間違いないだろう。
*6) 『中条町史』資料編1、1-506号
*7)『新潟県史』資料編4、1323号、土沢氏は天正3年の『上杉家軍役帳』に黒川氏の同心として見える。
*8) 『越佐史料』三巻、522頁
*9) 『新潟県史』資料編4、1710号
*10)同上、1858号
*11) 乙宝寺へ仏殿装具の寄進に伴う銘文のこと。『中条町史』資料編1、3-19
*12) 『新潟県史』資料編4、236号
*13)『中条町史』資料編1、1-534号

※20/8/31 追記

中条房資の動向

2020-07-12 10:17:38 | 和田中条氏
前回まで、中条景資を中心に見てきたが、今回はその次代房資の活動を史料から読み取っていきたい。

伊達入嗣問題、伊達天文の乱以後、中条氏はしばらく史料上に現われない。天文後期になって中条黒川間の所領相論関係の書状にその名が見られる。所領相論の詳細は省略し中条氏に注目して見ていく。天文21年長尾景虎書状(*1)に「中弥爰元へ被絶音問候」とあるのが注目される。「中弥」は「中条方」と同等の意味で用いられていることからより中条弥三郎を表すのではないか、と考えられる。すなわち、景資の嫡子と考えられ房資のことであろう。天文21年(1552)には中条氏は既に房資を中心に活動していたと考えられる。この時、景資は40歳前後、房資の生年は享禄5年(1532)であるから既に21歳となっていた。

[史料1]『新潟県史』資料編1、1482号
(前略)将亦先年中条弾正忠(景資)伊達之義馳走、(中略) 中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、(中略)、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候、如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候、(後略)
天文廿一年
  六月廿一日     黒川実(実氏)
山吉丹波入道(政応)殿

景資と房資の交代時期はいつになるのだろうか。[史料1]は前回も載せた物の後半部分である。ここで「弥三郎」に注目したい。従来色部弥三郎勝長に比定されることが多く、確かに「弥三郎家中横合」は色部中務少輔の反乱とも取れる。しかし、「弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事」すなわち伊達氏に再び協力し黒川氏と敵対したという部分は色部勝長には当てはまらない。これを中条弥三郎とすれば立場が一致し「重而」という細かい部分も当てはまる。鳥坂城の落城を天文11年(1542)としたが、その際享禄5年(1532)生まれの房資は12歳になっている。若年だが既に元服を終えていてもおかしくはない。さらに、[史料1]において鳥坂城の落城を境に中条氏を代表する人物が「弾正忠」から「弥三郎」に代わっていることが注目される。これは、鳥坂城落城とその復帰に伴う家督交代と捉えられよう。これの例として、永正5年に村上本庄城を落とされた本庄時長が隠居し家督を子房長に譲った(*2)ことが挙げられる。景資も他の揚北衆、長尾晴景、伊達晴宗と周囲の全てを敵に回し、隠居するほかなくなったと考えられよう。ここに、若干10代前半で弥三郎房資が中条氏の家督となった。むろん弾正忠景資は後見として家中にその存在感を示していたことは想定できよう。[史料1]に「中条前」という表現が見えるが、「前」とは『戦国古文書用語辞典』(監修小和田哲夫、編鈴木正人)によれば意味の1つに「(父子の)持前、責任というぐらいの事」とあり、この頃の中条氏が景資房資父子での活動だったことを示唆するのではないだろうか。黒川氏も同じ時期に父清実、子実氏二人が史料上見えていることからも、自然なことといえるだろう。『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』において景資の受領名は越前守と山城守が併記されていることから、景資は家督移譲後に山城守を名乗ったと考えられよう。

さて天文21年(1552)に続いて弘治元年(1555)にも中条氏と黒川氏間の所領相論が史料に見える。ここで「中条越前守」が見える(*3)。相手方の黒川実氏も下野守の受領名を名乗っており(*4)、景虎との関わりの中で実氏、房資共に受領名の獲得に至ったと考えられようか。よって、天文末期から弘治元年に中条房資は越前守を名乗ったといえる。

そして、永禄2年(1559)『祝儀太刀之次第写』によれば、中条房資は「披露太刀之衆」の第一位に「中条殿」と記載されている。これは「直太刀之衆」の三人に次ぐ、地位を獲得していることを表している。伊達入嗣問題で長尾晴景、他揚北衆と対立し鳥坂城を落とされるまでに至った中条氏が、景虎政権下でここまで地位を向上させたのはいかなる理由であろうか。

『中条越前守藤資伝』において「景虎公兵を栃尾ニ挙ケ玉う時、藤資第一番ニ御味方ニ属シ、逆賊長尾俊景・黒田秀忠等ト大イニ戦フ」とあるのが興味深い。中条景資・房資父子は晴景政権から景虎政権へ転換する時、素早く景虎へ接近しその初期の権力基盤を構成することによって復権を狙ったといえるのではないか(*5)。その際、中条氏が府内長尾氏と姻戚にあったことは有利に働いただろう。『中条氏家譜略記』では景虎引退騒動に際し「藤資無二之以忠信一番出証人」とありここでも親景虎派の一面を見せる。上杉謙信から景勝への権力移行の際に鮎川氏の重用が終わり本庄氏の復権が見られたように、府内権力の移行期に諸将はその政治的立場を大きく変えることになったと考えられる。ただ、親景虎派といっても永禄期から柿崎氏や斉藤氏など領主層の政権への参画がみられる中、中条氏にそのような動きはみられずやはり揚北衆としての自立性は維持されていたと見るべきだろう(*6)。

永禄4年(1561)第四次川中島合戦では上杉政虎より房資へ感状が発給されている(*7)。これがいわゆる「血染めの感状」である。

そして、所伝を参考にすれば永禄11年(1568)2月に景資が死去する。この時、景資は55歳前後。房資は37歳であった。

永禄11年には「夏中茂従本庄弥次郎方之計策之書中指出」と武田信玄らに与した本庄繁長から誘いが来るも上杉輝虎寄りの立場を明らかにしている。11月には本庄繁長に内通した石塚玄蕃允という人物について対処し「輝虎一世中忘失有間敷候」と感謝されている(*8)。そしてこの頃再び、黒川氏との所領相論が勃発する。

この所領相論の関係文書を最後に房資は史料に見えず、所伝より天正元年(1573)8月22日に死去したと思われる。42歳であった(*9)。

以上、中条房資の動向について検討した。伊達入嗣問題や黒川氏との所領問題など複雑な問題との絡みが多く、言及できていない部分も多い。これらの問題は後日の課題としたい。

*1)『上越市史』別編1、99号
*2)『本荘氏記録』、『本庄系図』
*3)同上、130-132号
*4)同上、133号
*5)ただし、伊達入嗣問題及び伊達天文の乱にかけて中条氏は伊達氏に付いたと見られ、景虎の栃尾入城時にはむしろ敵対関係であった可能性がある。景虎の栃尾城主期はその期間の長さにくらべ史料が少なく、慎重に検討する必要があると考える。
*6) 上杉十郎や上条政繁など一門層でも参画がみられず、中条氏も一門として政権中枢から距離を取っていた可能性もゼロとは言えないと考えるが、景虎の近親「おまつ」が嫁いでいる領主層の斉藤朝信の活動は見られることから中条氏の参画がない理由は揚北の独立性故といってよいと思う。
*7)『上越市史』別編1、287号
*8)同上、626号
*9)所伝はこの没年を景資のものとするが、ここまでの考察よりこれは房資のものであろう。