鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

栗林次郎左衛門尉と「房頼」

2020-06-14 11:03:46 | 栗林氏
永禄中期から天正中期にかけて栗林次郎左衛門尉が所見される。また、謙信死後上杉景勝の元で栗林政頼がみえる。栗林政頼は治部少輔、のち肥前守を名乗っている。広井造氏「謙信と家臣団」(*1)において、[史料1]上杉景勝朱印状と「御家中諸士略系譜」の記述から次郎左衛門尉は政頼の養父であることが指摘されている。同氏はさらに、政頼との関係性は不明としながらも[史料2]から栗林房頼の存在を明らかにしている。

[史料1]『新潟県史』資料編5、3994
郡司之事、養父次郎左衛門尉扱之通、今以不可有別儀者也、
 (景勝朱印) 天正十二年二月十一日 
栗林肥前守(政頼)殿

[史料2]『新潟県史』資料編3、521号
其元 御着に付而、態御飛脚被下候、殊御機嫌能御座候由、被仰下候、自何以一身之様ニ満足安堵仕候、爰元御人数、少も無未進せんさくいたし、差置申候。此由可預御披露候、恐々謹言、
九月二十二日    栗林次郎左衛門尉房頼
斎木惣次郎殿

[史料1]にある「郡司之事」とは魚沼郡司の事を指し、栗林次郎左衛門尉が上杉謙信の元で魚沼郡司を務めていたとわかる。中野豈任氏はこの点を「旧郡司の地位は事実上、上杉氏にあり、栗林氏は上杉氏の官僚的代官にすぎない。」(*2)としている。

[史料2]について検討してみる。まず、実名の房頼は上田長尾房長からの偏諱と考えられる。長尾房長の活動時期と次郎左衛門尉の前代の栗林長門守経重が天文後期まで見えることなどを考慮すると、房頼の活動時期は天文末期から永禄以降かと考えられる。「せんさく」は穿鑿であり地下人の徴集を指し、房頼が上田庄の防備に努めている内容からも戦国期の関越国境の緊張が窺われる。以上から、謙信の元で上田衆を率いて活躍した栗林次郎左衛門尉は栗林次郎左衛門尉房頼に比定できるといえる。

栗林次郎左衛門尉と栗林政頼の混同が散見されるが、謙信期に栗林房頼が上田衆を率いて活躍し景勝期からその養子栗林政頼が活動を始めた、ということがわかる言えるだろう。

さらに[史料2]に注目してみる。宛名の斎木惣次郎は上田衆の一員である。天正7年斉藤朝信書状(*3)の宛名に「斎木殿」とあり、御館の乱の中斉藤朝信から上杉景勝へ与板城救援についての報告を披露して欲しいことが伝えられている。上杉謙信の在世中に斎木氏がその周辺で活動していたことは認められず、斎木氏は上田長尾氏の側近として活動していたと考えられる。すると、房頼が斎木氏へ依頼したのは上杉景勝に対してと考えられる。この文書も斉藤朝信書状と同様に御館の乱の頃のものかもしれない。

「自何以一身之様ニ満足安堵仕候」と表現している点は、房頼の景勝への心情を映しているようで興味深い。この想定が合っていれば、謙信期に「喜平次者共」と表現されながら上田衆を率いていた房頼と景勝の関係を教えてくれるようで貴重である。


追記:21/4/11
房頼を含め、戦国期栗林氏の系譜について新たに検討した。その上で、栗林次郎左衛門尉=房頼と見て間違いないと考えられる。

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追記:24/2/12
『先祖由緒帳』「富永五左衛門由緒」によれば天正期に所見される富永備中守は斎木土佐守の実弟であり、仮名惣八郎を名乗ったとある。[史料2]に見える斎木惣次郎は時期的に斎木四郎兵衛尉=斎木土佐守の前身と思われるが、実弟の仮名と類似していることはそれを補強するものといえる。


*1) 『定本上杉謙信』、池亨・矢田俊文編、高志書院
*2)「越後上杉氏の郡司・郡司不入について」『上杉氏の研究』戦国大名論集9
*3)『上越市史』別編2、1824号