鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

『先祖由緒帳』から見る琵琶嶋上杉氏

2021-05-15 21:19:04 | 琵琶嶋上杉氏
以前、私は琵琶嶋上杉氏や上条上杉氏、上条上杉弾正少弼入道朴峰について検討を行い、越後琵琶嶋を拠点とする琵琶嶋上杉氏は永正期に上条上杉氏から分家した存在である可能性を提示した。

まず、琵琶嶋上杉氏を八条上杉氏に比定する通説を否定する理由は次の通りである。
・通説は、両者が琵琶嶋を拠点とする共通点の他に根拠がないこと。
・八条氏は琵琶嶋氏とは別に、天文期まで越後国白川庄を拠点として存続していたこと。
・琵琶嶋氏が一貫して長尾為景に近い政治的立場を取り、八条氏のそれとは異なること。

これらの点から八条氏とは別の系統であると推定し、多数の分家があったことが分かっている上条上杉氏との関係を考えた。その上で、系統不明の上条上杉弾正少弼朴峰が琵琶嶋上杉氏である可能性を考慮し、状況的にも矛盾がないことを確認した。

以上がこれまでの私の検討結果であるが、琵琶嶋氏=八条氏説について否定しながらも琵琶嶋氏=上条氏説も推測に始終し、史料に基づいた根拠を示すことができないでいた。

今回は、『先祖由緒帳』に記される「富所八郎兵衛先祖書」に琵琶嶋氏が上条氏の分流であることを示す所伝を見つけたため、それを元に琵琶嶋氏と上条氏の関係について掘り下げていきたい。

以前の記事はこちら


『先祖由緒帳』は延宝5年に米沢藩によって作成された藩士の家伝を集成したものである。江戸初期の成立であることから、戦国期の所伝についても貴重なものが多い。現在には元禄初期に筆写された写本が残っている。

山田邦明氏の研究(*1)に拠れば、これらの所伝は相伝の文書や肉親からの言い伝えを元としており、ある程度の信憑性を持つと言える。もちろん明らかな誤伝もあり、注意は必要である。


1>富所氏家伝について
『先祖由緒帳』に載る、富所八郎兵衛が記す富所家家伝から戦国期についての記述を抜粋したものが[史料1]である。


[史料1]『先祖由緒帳』「富所八郎兵衛先祖書」
曾祖父富所伯耆、枇杷島之城主上条殿ニ相付罷在候処、謙信様より上意ニ付而春日山江罷越、御奉公仕候、上条殿御逝去之後、枇杷島鍛錬之者ニ候とて伯耆ニ同心数多御付被成、枇杷島江被使遣候、伯耆次男図書、謙信様御近習ニ被召仕、御腰物持申役仕候、景勝様御代、天正9年北崎分御加増被下置候、

つまり、江戸初期の人物富所八郎兵衛の曾祖父「富所伯耆守」は、「琵琶嶋之城主上条殿」に仕え、「上条殿」の死後は伯耆守が同心と共に琵琶嶋城を守ったというのである。その時期は上杉謙信の頃と伝わり、琵琶嶋氏の活動が確認される最中である。

「琵琶嶋之城主上条殿」は琵琶嶋上杉氏を指しており、琵琶嶋氏=上条氏とする直接的な言及である。


2>富所氏の系譜
ここからは戦国期富所氏の動向を簡単に確認し、この所伝について考えてみたい。


富所伯耆守は天正10年1月上杉景勝過所(*2)に所見される。そこで新発田重家の反乱に関して景勝から、前線へ派遣された伯耆守へ指示が出されている。これ以降、伯耆守は新発田重家の乱などで活躍し、上杉景勝から伯耆守宛の書状も多数残っている(*3)。

天正7年2月上杉景勝感状(*4)まで富所隼人佐の活動が見え、これを終見として入れ替わるように伯耆守が所見されることを考えると、隼人佐が受領名伯耆守を名乗ったと推測される。

『御家中諸士略系譜』を見ると、「富所伯耆守定重」が景勝期に家督を継ぎ、新発田重家の乱で活躍したことが記されている。この人物は始め隼人佐を名乗り、弟には「図書光重」がいたという。

富所図書助は天正9年2月上杉景勝朱印状(*5)にその名が見え、隼人佐/伯耆守と図書助の兄弟の活動が確認される。先祖書を記した八郎兵衛は図書の系統という。


しかし、『御家中諸士略系譜』において伯耆守定重は寛永14年の死去で、上記の感状を得た時にはまだ19歳であったという。また、同系譜には先祖書を記した「富所八郎兵衛俊重」も見えるが、「伯耆守定重」は大叔父にあたり、曾祖父ではない。

すると『先祖由緒帳』に見える富所伯耆守は、系譜で伯耆守定重の父とされる「伯耆守重則」のことであろう。「八郎兵衛俊重」の曾祖父にあたる。


上杉謙信期において「富所伯耆守」の所見はないが、永禄後期に「富所隼人佐」の所見がある。「伯耆守定重」は天正期に若年であったと推測されるため、謙信期に所見される「富所隼人佐」は「伯耆守重則」の前身であると推測される。

つまり、謙信期の富所隼人佐がのちに伯耆守を名乗り(「重則」にあたる人物)、天正6年以降は嫡男隼人佐が活動を始めた(「定重」にあたる人物)、ということだ。


3>富所氏と琵琶嶋氏
富所氏の系譜を整理したところで、琵琶嶋氏との関係を洗っていく。


永禄後期の上杉輝虎書状(*6)では、富所隼人佐が水原満家、竹俣慶綱、松木内匠助と共に軍事行動に及ぶ様子が読み取れる。また、年不詳上杉輝虎書状(*7)では、富所隼人佐と松木内匠助の二人に対して輝虎から指示が与えられている。

前述のように、天正期に所見される隼人佐/伯耆守「定重」の父「重則」である。


この二通で富所氏に併記される松木氏について『御家中諸士略系譜』を見ると、初名を「内匠」とする「松木石見貞吉」がいる。文書に見られる人物のことである。これに拠ると、松木氏は「越後ノ豪枇杷島家ニ属シ武功之士」であるといい、永禄12年に「枇杷島弥七郎」の死去により他に転出となったという。

『文禄三年定納員数目録』において「松木内匠」の弟「松木将監」と「松木大学」が、当時琵琶嶋を領していた山本寺九郎兵衛の同心として見えており、松木氏と琵琶嶋の関係は確かであると言えよう。


以上から、松木氏と琵琶嶋氏の関係は所伝の通り確かなものと言え、史料上松木氏と動向を共にする富所氏も琵琶嶋氏と関係が深かったと類推される。


また、刈羽上条を拠点とする上条定憲系統の上条氏家臣であった計見氏は、文書上富所氏・松木氏との接点はなく、『文禄三年定納員数目録』では「上条様附」として記載されるなど、その立場の違いは明らかである。富所氏の所伝が他系統の上条氏を混同したものではないことが、このような点からも窺い知れるであろう。


よって、富所氏の伝える「枇杷島之城主上条殿」は松木氏の言う「枇杷島家」を指し、琵琶嶋氏=上条氏を伝える所伝の信憑性は高いと言えるのである。



以上、琵琶嶋氏=上条氏という仮説について検討した。これまで推測に依存していた説であったが、信頼のおける所伝にその徴証を見つけることができた。

琵琶嶋氏を始め、越後上杉氏の分流の動向は越後史において最重要課題の一つである。今後も検討を重ねていきたい。


*1)山田邦明氏「上杉家先祖由緒書とその成立」(『日本歴史』、673号)
*2) 『上越市史』別編1、2264号
*3) 同上、2330号、2380号など
*4) 『越佐史料』5巻、641頁
*5) 『越佐史料』6巻、10頁
*6)『新潟県史』資料編5、3275号
*7) 『上越市史』別編1、983号


上条上杉弾正少弼入道朴峰を考える

2021-02-12 20:41:10 | 琵琶嶋上杉氏
戦国期越後国には上杉氏として様々な人物が所見されるが、政治的立場が重要であることが明かでありながらその詳細が不明である者が複数人存在する。彼らは越後の政治の中枢と深く関わっていたと思われ、その動向を考えることは越後の政治情勢を知ることに繋がると言える。今回から、そのような人物について整理していきたい。

具体的には『越後過去名簿』に見える上条上杉美濃守、上条上杉弾正少弼入道朴峰、『大宮家文書』に見える上杉房安が該当する。彼らに関する史料はごく僅かであり、確実なことを言うとすれば、詳細は不明としか言いようがない。しかしそれでは彼らや上杉氏の系譜に関する理解は進まないわけであるから、残っている史料から読み取れる点についての整理をし、そこから一つの試案を作成してみたいと思う。以下、便宜的に刈羽郡鵜川庄上条を拠点とする上条氏を刈羽上条氏、古志郡を拠点とする系統を古志上条氏とする。

以前の記事はこちら


今回は、上条上杉弾正少弼入道朴峰(以下朴峰)を考える。

それでは、各史料の所見を見ていく。
『越後過去名簿』(*1、以下『名簿』)
永正11年5月3日「春円慶芳 越後長尾為景御新蔵御腹様 上杉トノ上条殿上」
天文4年10月7日「朴峰永浮庵主 上杉弾正少弼御新蔵立 上条入道」

『公族及将士』(*2)
「朴峰永浮庵主 てんほさま御そんふ」

『天文上杉長尾系図』(*3)
長福院の前には「天祥祖晃」=上杉十郎定明が載り、「十郎殿無御息」とある。
「齢仙永寿 長福院殿 朴峯様ノ御息安夜叉丸殿 
            上杉少弼入道殿御事也」
「天受玄信 峯泉寺殿 長福院殿御舎弟惣五郎殿 頼房」
頼房の項には「定実ノ御孫子」とある。



史料を総合すると、上条上杉弾正少弼を名乗った朴峯の子として長尾為景の正室である天甫喜清、古志上条上杉定明に養子入りした安夜叉丸とその弟惣五郎頼房がいた、ということになる。永正11年に供養された春円慶芳が朴峰の妻、天文4年に朴峰を供養した「御新蔵」が朴峰の後妻と理解されている(*2)。

米沢藩の系図『外姻譜略』(*4)でも長尾為景室の父は「朴峯永諄庵主」と伝えられている(*5)。


では、朴峰についてその系統を推測し、人物比定を試みてみたい。

まず、上条定憲(弥五郎/播磨守)と朴峯の関係を確認しておきたい。『藤原姓上杉氏系図』(*4)で「定憲」という人物が「安夜叉丸」のことで、山内上杉顕定(可諄)養子となり上杉十郎定明の跡を継ぐ、とあることから上条定憲の父が朴峯とされることがある。

しかし、「古志上条上杉氏の系譜」で確認したようにこれは上杉十郎憲明という人物の事績を表わしており、上条定憲とは関係がない。安夜叉丸も『名簿』から大永2年の死去が確認されるから、定憲とは別人である。さらに『名簿』によれば、上条定憲の母は「芳雲寺殿 上杉ハリマ守御母花芳公 上条」として大永4年に供養されている。先にみた朴峰の妻とは異なる人物である。以上の理由から、定憲の父が朴峰である可能性は低いといえる。

また、『天文上杉長尾系図』「定実ノ御孫子」という記載から定実、頼房と朴峰の関係を考えたい。そのままに受け取れば、定実の孫が頼房だから頼房の父朴峰は定実の息子となる。ただ、天文期に伊達氏との入嗣問題が生じたことからも定実には息子はおらず、可能性としては今福匡氏(*6)が述べるように定実の娘婿が朴峰であった場合がなる。しかし、朴峰は娘が永正11年に「長尾為景御新蔵」見えるように為景の一世代上となり、定実はその為景と同世代である。従って、朴峰と定実の娘では世代が離れすぎていると感じる。さらにその子として頼房を想定すると尚更である。「古志上条上杉氏の系譜」で見たように『天文上杉長尾系図』もそのまま鵜呑みにできる史料ではなく、慎重な検討が必要であろう。ここでは朴峰と定実の血縁関係や婚姻関係は認めず、「定実ノ御孫子」についてもそのまま受け取ることは避ける。この部分の解釈については一旦保留し、後日に検討したい。


さて、片桐昭彦氏(*2)は『名簿』における記載「上杉トノ上条殿上」から、朴峰を「上条上杉家当主」と位置づけている。為景の正室を輩出しているわけだから、上条氏の一系統として存在していたと考えるのが妥当である。

同氏は、朴峰は後に上条政繁が継いだ系統ではないか、としている。しかし、以前当ブログ「上条上杉氏の系譜」で検討したように政繁はその仮名などから刈羽上条氏を継いだと推測され、刈羽上条氏には朴峰と同時代に上条定憲が当主として存在している。

定憲は永正6、7年の山内上杉可諄の越後侵攻や永正10、11年の内乱、享禄・天文の乱で一貫して長尾為景に敵対しながらも、永正初めから天文5年に死去するまで刈羽上条氏として存在する。定憲が上条を拠点にしていたことは、天文の乱で「上条要害」が為景に味方する近隣の領主毛利安田氏らに攻撃されているなど上条の地が争点になっていることから、明らかである(*7)。長尾為景の活動時期のほぼ全てで定憲が刈羽上条氏として見えることは、朴峰が刈羽上条氏の人物である可能性を否定する。先述のように血縁関係も想定しづらいから、朴峰を刈羽上条氏当主と位置づけるのは不適切であろう。


では、もうひとつの系統である古志上条氏について見てみる。『両上杉系図』には「房実」の子として「某 兵庫頭、号上条少弼入道」とある。すなわち、古志上条氏の系統であり私の検討に従えば定俊にあたる人物ということになる。しかし実子の安夜叉丸が養子に入ったことを考えると、朴峰を古志上条氏の人物とするのは不自然である。同系図では「頼房」が「房実」の兄「定顕」の子とされるなど明らかにおかしいところもあるから、古志上条氏に養子入りした安夜叉丸とその父朴峰を混同している可能性が高いだろう。

ここまで刈羽上条氏、古志上条氏について朴峰との関係を否定した。


ここで私なりの結論を言うと、琵琶嶋を拠点とした琵琶嶋上杉氏が実のところ上条上杉氏の一支流であり、永正期にその系統に名前が見える上杉正藤が朴峰にあたる人物として最も有力であると考えている。

琵琶嶋上杉氏が上条氏支流であることを示す史料はこちら


琵琶嶋上杉氏は八条上杉氏の後身とする説(*8)があるが、以前私は「琵琶島上杉氏の系譜」にてその説は根拠が不足している、と述べた。理由として、両者の繋がりが琵琶嶋を拠点とするという一点に留まる上、八条上杉氏が白川庄において天文期まで存続しているという点がある(*9)。

「琵琶島」の名が地名ではなく氏族の呼称として文書上で確認されるのは天文末期であり、為景・晴景期においては確認されない。為景・晴景期には「上条」と呼称されていたのではないか。「越ノ十郎」(*10)や「古志」(*11)などと表現される古志上条上杉氏が、『名簿』で「上条上杉十郎」(天文3年に供養された)と表記されている事例は類似ケースであろう。

また、天文4年8月長尾為景書状(*12)には「凶徒等相集、琵琶島へ及行候」とあり、多くの勢力が上条定憲に与した天文の乱においても琵琶嶋上杉氏は為景に味方していたことが推測される。これは琵琶島上杉氏と為景の間に婚姻関係といった強い繋がりを示唆しており、為景の舅である朴峰が琵琶嶋上杉氏であるならば合理的である。

よって、琵琶嶋上杉氏は八条上杉氏ではないという考えの元、琵琶嶋上杉氏が永正期に長尾為景によって擁立された上条上杉氏の支流ではないかと推測する。つまり、琵琶嶋上杉氏は長尾為景と近い関係にある上条上杉氏の分家として位置づけられると考える。


ただ、そうすると琵琶嶋に入部以前の存在形態は全くの不明である。想像を飛躍させれば、当ブログ「古志上条上杉氏の系譜」で検討したように山内上杉顕定(可諄)の介入により古志上条氏には憲明が房実の養子として入り、後継者であった定俊はそこから外された可能性がある点は参考になるかもしれない。つまり、同時期に山内上杉氏と近い立場を取る刈羽上条定憲が、古志上条氏と同様に顕定の後ろ盾により当主に就任したとすれば、刈羽上条氏内部でも対立が生じていた可能性があると推測されるのである。越後において山内上杉氏権力の影響力が強かった点は確かであると思われ、今後検討していきたい。


以上を踏まえて推測すると、琵琶嶋において永正5年に為景と共に寄進状(*13)を発給している上杉正藤こそ上条上杉弾正少弼入道朴峰である可能性がある、といえるだろう。


文書からもその徴証が窺える。


[史料1]『新潟県史』資料編3、2276号
 禁制     鵜川八幡宮
一、       於境内殺生之事
一、       猥伐採竹木事
一、       喧嘩狼藉之事
附り、放火之事
右之条々堅令制禁候也、
 天正十八年十一月二十八日   弾正少弼藤

[史料1]上杉正藤寄進状と同じ「鵜川神社文書」に伝来する禁制である。日付は上杉景勝の治世であり、花押も上杉景勝の天正期のものと一致するから景勝の発給と見られる。天正18年後半に景勝は出羽で軍事行動に臨んでいるから、その人員輸送等で柏崎に軍兵が滞在したため鵜川神社に禁制が必要となったのだろう。

ただ、注目は署名の「弾正少弼藤」であろう。景勝も弾正少弼を名乗ったから単なる誤記と言ってしまえばそれまでであるが、その誤りが生じた背景には過去に鵜川神社に縁の深い上杉正藤が弾正少弼を名乗っていた点があるのではないか。

間接的にではあるが正藤と朴峰に接点が見えることは示唆的である、と感じている。


以上、上杉弾正少弼入道朴峰について検討した。推測に頼る部分も多くなってしまったが、ひとつの仮説として提示しておきたい。


*1)山本隆志氏「高野山清浄心院『越後過去名簿』(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9号)
*2)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)
*3)『越佐史料』第三巻、17頁、
*4)『上杉御年譜』第二十三巻(米沢温故会)
*5)尤も、米沢藩は謙信の母が側室であることを憚ったためか正室天甫喜清と後室謙信母を混同している。結果、様々な誤解が重なり朴峯永諄庵主=長尾肥前守顕吉とされてしまっている。天甫喜清の父は上杉弾正少弼であることは上述のように明らかで、謙信母の父は古志長尾房景であるから、『外姻譜略』の記述には誤りがある。
*6)今福匡氏『上杉謙信』(星海社)
*7) 『越佐史料』三巻、798頁
*8)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川荘」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*9)『名簿』に天文11年8月、「白川庄八条憲繁」が供養されている。
*10)『新潟県史』資料編3、832号「越後平定以下祝儀太刀次第写」
*11)『越佐史料』三巻、806頁。天文6年長尾為景が下倉城在城衆へ「古志其他相談」を命じている。古志は古志上条氏のことであろう。同じ頃三条山吉氏も下倉城への援軍として活動しており、永正7年上田庄、上野国沼田庄での軍事行動における上杉定俊、山吉孫五郎の活動と共通性がある。
*12)同上、817頁
*13)『新潟県史』資料編4、2269号

※2021/2/17 上杉定実、頼房と朴峰の関係について加筆した。
※21/5/9 リンクを追加した。
※23/8/23 琵琶嶋氏が上条氏出身であることを示す『先祖由緒帳』記述についてのページリンクを追加した。

琵琶嶋上杉氏の系譜

2020-11-22 21:28:18 | 琵琶嶋上杉氏
前回に鵜川神社文書に見える「政勝」を琵琶嶋上杉政勝と比定した。今回は、それを踏まえて琵琶嶋上杉氏の系譜について考えてみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編4、2269号
刈羽郡琵琶嶋之八社宮拾八貫之地、永代寄進之処也、仍如件、
  永正五年
    八月拾七日        正藤

[史料2]『新潟県史』資料編4、2268号
刈羽郡琵琶嶋之八幡宮、拾八貫之地、永代寄進之処実正也、於神前抜丹誠、可致祈念者也、仍而如件、
 永正五年
   八月従七日        為景

[史料1][史料2]は上杉房能、八条尾張守父子死去後から続く八条成定との抗争が終結し、長尾為景と「正藤」という人物が琵琶島鵜川神社へ同日に発給した寄進状である。森田真一氏(*1)は「正藤」書状が簡潔で花押も大きいことから寄進主体とし、さらに「為景の指示を得て成定の後に、この『正藤』が八条上杉家(あるいは琵琶島家)の当主として担ぎ出されたのではなかろうか。」としている。

「正藤」を上杉氏一族琵琶嶋氏に繋がる系統とする点は納得できる。しかし、それが八条上杉氏の継承である点については安易に首肯できない。

琵琶嶋氏=八条氏説は、琵琶嶋氏が八条氏の所領琵琶島を拠点としている事実に基づいているが、裏返せばその他に明確な根拠はない。例えば、森田氏(*1)は『系図纂要』の犬懸上杉氏の持房の系統に「政藤」が見えることにも言及しているが、これは四条上杉政藤のことである。四条上杉政藤は木下聡氏(*2)が延徳2年に京都において死去したことを指摘しているから、「正藤」とは別人である。ただ、後述のように永禄期には琵琶嶋氏としても「政藤」がいたと推測される。

さらに、『越後過去名簿』より天文11年には「白川庄」の「八条憲繁」が供養されていることが確認でき、八条氏は永正期に長尾為景と戦い敗れながらそれ以降も白川庄を拠点にその存在を維持していたことがわかる。「憲」は山内上杉憲房の偏諱であると推定され、単なる傍流としては片付けられない人物である。

また、「正藤」が八条氏を継承したのならば、そのまま八条氏を名乗った方が良いとも思う。すると、琵琶嶋氏は八条氏ではない親為景派上杉氏から分かれた一族と考えられ、だからこそ区別するために「琵琶嶋」を名乗ったと推測できる。為景は要衝柏崎周辺の支配を円滑に行うために、後の琵琶嶋氏となる上杉氏分家を新たに擁立したのではないか。八条氏は15世紀後半に越後に下向した存在であり越後では在府したと推測されているから(*1)、琵琶嶋への在地性は薄かったと想定され、その土地の支配が八条氏の家臣団や支配構造の継承を必要とすることも少なかったであろう。

よって、琵琶嶋氏=八条氏という図式は、早計であると感じる。為景が正藤を擁立したのは”八条だから”ではなく”上杉だから”といえる。ただ、「正藤」の出身に関しては、はっきりと分からないのが正直な所であり、「正藤」の段階で琵琶嶋氏を名乗ったかも不明である。ひとまず、「上杉正藤」が八条氏の後に琵琶嶋に入り、その系統が琵琶嶋上杉氏を形成したと想定されることを留意するに止めておきたい。


[史料3]『新潟県史』資料編4、2272号
小地ニ候得共、先々うはらめの白山宮千二百かりのふんやしきともに、諸役をちゅうし、出し候、能々御きねん尤候、何様可然地候ハハ、重而見あてかい可申候也、仍而如件、
  永禄八 三月五日            政藤
   千日大夫 参

[史料3]は、前回検討した琵琶嶋政勝文書や[史料1]と同じく鵜川神社に伝来する文書である。その点から署名の「政藤」も、正藤や政勝と同じく琵琶嶋上杉氏と見ることができる。

正藤の次代であろう。正藤と政藤は、永正と永禄と大きく離れた時期での所見であるから別人である。ただ、その実名の共通性も琵琶嶋上杉氏である証左であろう。

天文24年の軍事行動の際長尾景虎が毛利安田景元へ「上条・琵琶嶋其外被加御意見」と要請しており(*3)、政藤の活動を表わすとみてよいだろう。『越後平定以下太刀祝儀次第写』の永禄2年に見える「びわ嶋殿」も政藤のこととなる。『上杉御年譜』には永禄12年に12月に「枇杷島弥七郎」が病死したとしており、本当であれば政藤にあたる。天文期から永禄期にかけての琵琶嶋上杉氏として政藤が存在したと推測できる。


続いて、天正元年上杉謙信書状(*4)の宛名に「琵琶嶋弥七郎殿」が見える。琵琶嶋政勝のことである。天正2年には政勝の判物(*5)、天正4年に前回検討した宛行状(*6)が所見される。


政勝の次代が御館の乱における天正6年上杉景虎書状(*7)の宛名に初見される琵琶嶋善次郎である。実名は不明である。御館の乱において琵琶嶋善次郎が琵琶嶋において上杉景虎に味方していることが史料上確認できることから(*8)、この頃まで琵琶嶋上杉氏が琵琶嶋を拠点としていたことが確実となる(*9)。

以降琵琶嶋氏は所見されず、御館の乱により琵琶嶋氏は没落したと考えるのが妥当であろう。


ここから、補足的に諸史料に見える琵琶嶋氏について確認する。

『文禄三年定能員数目録』には「西浜郷并琵琶島保 千六拾石 六拾二人 山本寺九郎兵衛」とあり、注釈として「右ハ兄又四郎長定一跡被下候、此九郎兵衛ハ琵琶島助兵衛ト云」としている。『御家中諸士略系譜』では「勝長」が九郎兵衛、伊予守を名乗ったとするが、「助兵衛」や琵琶嶋氏の話題はない。

『越後三条山吉家伝記写』には、景長の項に「後妻ハ琵琶島越中守娘也」とあり、別に「為景公御婿は上田正景、琵琶島越中守、上条入道冝順と云々」と記される。この「越中守」は年代的に政藤にあたる。

同『伝記』には「琵琶島ハ在名、本名ハ長尾也、白井長尾ハヒハシマ長尾より分ル」とあり、長尾氏からの養子入りも想定される。前回、政勝が長尾氏出身の可能性もあるとした。

『吉江系図』に永正二年生「宗信」の母が「琵琶島日向守春綱女」とする。しかし、永正2年以前に琵琶嶋氏の存在は想定し難く、信用できない。


ここまで、琵琶嶋上杉氏についての系譜を考察し、その存在について検討してきた。度々長尾為景に反抗した上条定憲や八条一族などの上杉氏とは異なり、琵琶嶋上杉氏は天文の乱においても為景に味方したことが確認できるから(*10)一貫して親為景派であったことがわかる。様々な系統の存在する上杉氏一族を考える上で、重要であるように思う。正藤の出身も含め、また別の機会に詳しく検討したい。


以上、琵琶嶋上杉氏として、

正藤-政藤-政勝(弥七郎)-(善次郎)、という系譜が想定される。

史料が少なく父子関係等は不明である。実名や活動時期から正藤-政藤は父子であろうか。また、所伝から政勝は他氏出身の可能性がある。


追記1 :
琵琶嶋上杉氏の系統についてさらなる検討を加え、上条上杉氏の分流である可能性を提示した。
追記2:
『先祖由緒帳』と呼ばれる史料から、琵琶嶋上杉氏が上条上杉氏の分流である徴証を示した。


*1)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川庄」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)、「戦国期の越後守護所」(『上杉謙信』高志書院)
*2) 木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」
*3)『新潟県史』資料編4、1568号
*4)『上越市史』別編1、1149号
*5)同上、1210号
*6)『新潟県史』資料編4、2273号
*7)『上越市史』別編2、1713号
*8)『上越市史』別編2、1713号、1715号
*9)今福匡氏『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派』(宮帯出版)
*10)『越佐史料』三巻、795頁、817頁

※21/5/9 追記1を作成した。
※21/5/15 追記2を作成した。

琵琶嶋弥七郎と「政勝」

2020-11-15 16:16:54 | 琵琶嶋上杉氏
戦国期越後国刈羽郡琵琶嶋を拠点とした一族に琵琶嶋氏がおり、天正3年の『上杉家軍役帳』(以下『軍役帳』)にある「弥七郎殿」は元亀4年上杉謙信書状(*1)の宛名にある「琵琶嶋弥七郎殿」と同一人物と推定されている。『軍役帳』において弥七郎は上条氏、山浦氏、山本寺氏といった上杉一門と並び記載されていることから琵琶嶋氏も上杉氏一門であるとわかる。すなわち、琵琶嶋上杉氏と呼ぶべき存在であったことが理解される。

今回は、琵琶嶋弥七郎という人物について検討してみたい。

琵琶嶋に位置する鵜川神社には戦国期の文書が多数残存している。まずは、その中の一つである、某政勝宛行状を見る。


[史料1]『新潟県史』資料編4、2273号
就軍役過上、彼地八幡田之義、可召放由存候へ共、様々致詫言候間、新而出之候、於向後者、八社詫言仕候共、於彼地相違有間敷候、連々宮之儀取立可申候、仍如件、
 天正四年
   七月二日            政勝
   千日大夫

[史料1]は天正4年に某政勝が千日大夫宛に「彼地」を安堵しているものである。内容は、政勝配下千日大夫の軍役と領地の調整である。天正3年に上杉氏において『軍役帳』が成立し、上杉謙信によって軍役の整備が進められていたと考えられる。その中で、天正2年上杉謙信軍役状(*2)では和田中条氏に対し「鑓」や「馬上」の数を増減させて調整している様子も見える。[史料1]もそうした動きに対応したもの、と推測される。軍役に合せて、「召放」(没収という意味か)が予定されていた土地を安堵していると捉えられる。

ここで注目するのは、『白川領風土記』の記載である。そこでは[史料1]が記され、政勝を「上杉七郎政勝」と伝えている。さらに「系図纂要上杉系図ヲ検スルニ亦政勝所見ナシ」、北越軍記に「上杉左衛門尉政勝」が登場するのみとし、「疑ヲ存シテ後考ヲ俟ツ」と記す。上杉七郎政勝についての考察過程がよくわかり興味深い所伝である。『越佐史料』もこれに従い、「上杉政勝」と比定している。

上杉七郎の名乗りと、琵琶嶋という土地から推測されるのは琵琶嶋上杉氏である。

よって、[史料1]は上杉一門として琵琶嶋に存在した琵琶嶋弥七郎政勝による文書であることが推測される。


[史料2]『越佐史料』五巻、227頁
細工之為辛労分、内藤分事五百苅、諸役停止出之、於何時も申付候細工之儀、無如在可致之者也、仍如件、
  天正二年六月十五日     政勝
            歌代神五郞

[史料2]は刈羽郡鵜川庄に伝来した文書であり、琵琶嶋を拠点とした政勝の発給とみて矛盾はない。

天正6年には琵琶嶋善次郎という人物が琵琶嶋で活動していることが確認され(*3)、この時点までに政勝は死去していたと考えられる。


また、『越後平定太刀祝儀写』永禄2年の部分には「びわ嶋殿」という記載があるがこれは政勝とは別人と考える。詳しくはまた別の機会に譲るが『上杉御年譜』には永禄12年12月に「枇杷島弥七郎病死ス」との記事を載せており、政勝はこの人物の後に琵琶嶋氏を継承したと推測される。また、今福匡氏(*4)は『上杉御年譜』には弥七郎死去に続いて「嫡子ナキニ付テ名字断絶ス」、『越後三条山吉家伝記之写』に「琵琶嶋は在名、本名は長尾」とあることから、長尾氏との関係を指摘しており、政勝は琵琶嶋氏直系ではない可能性がある。実際、他の上杉氏一門山浦国清なども他家からの養子であるように、それは十分に考えられるであろう。


以上、元亀~天正期にかけて琵琶嶋弥七郎政勝が存在したことを確認した。


*1)『越佐史料』五巻、173頁
*2)『新潟県史』資料編5、3698号
*3) 『越佐史料』五巻、624-625頁
*4) 今福匡氏『上杉景虎 -謙信後継を狙った反主流派の盟主-』(宮帯出版)