鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

後閑下野守・又右衛門尉の動向

2020-12-24 17:53:36 | 新田後閑氏
戦国期後閑氏には、上野国碓氷郡にて活動した後閑信純とその息子宮内大輔・刑部少輔とは異なり、惣社周辺を拠点とし武田氏滅亡後は厩橋北条氏に従った後閑下野守、又右衛門尉が所見される。厩橋北条氏は天正7年8月以降武田氏に従い、その滅亡後は天正11年9月まで小田原北条氏に抗い(*1)、越後上杉氏との関係も確認される存在である。今回は、この下野守系統の後閑氏について検討してみたい。


[史料1]『上越市史』別編2、2354号
長倉之巣鷹三居到来、誠早々着之事、別而被悦思食候、如件
  天正十年壬午
      七月一日            安芸守
       後閑下野守殿

[史料1]は厩橋北条芳林(高広)が後閑下野守に贈り物について言及している文書である。ここで、「別而被悦思食候」という尊敬表現は、芳林自身が喜んでいるわけではなくその上位の人物が喜んでいることを表わす。この頃厩橋北条氏は越後上杉景勝と通じているから(*2)、下野守の鷹は越後上杉氏関係者に贈られたのではないか。

この頃、下野守と同様に厩橋北条氏への従属が確認される瀬下氏が見られる(*3)。この瀬下氏は天正13年に上杉景勝から直接「其地令在城、別而走廻り之由」を賞されているから、後閑下野守や瀬下氏が厩橋北条氏へ従属した背景には上杉景勝の存在があったとみて良いだろう。すなわち、この頃の厩橋北条氏は小田原北条氏へ対抗するため、また下野守を始めとする周辺小領主の支持を得るためにも、戦国大名権力として確立している越後上杉氏への帰属が求められたと捉えられる。


下野守は天正5年武田家官途状(*5)に所見される「後閑下野守」と同一人物であろう。天正4年武田家官途状によって「後閑又右衛門」が所見されることが想起される(*6)。この二通は伝来が同じで有り、後述するように下野守の次代にも又右衛門尉が見られることを考えても、天正前期の後閑又右衛門尉が後に下野守を名乗ったと考えられる。


天正11年12月には同じく厩橋北条芳林から後閑又右衛門尉へ「善之内闕分二十貫文」を宛がわれ、「軍役番普請等之儀、別而可走廻者也」と命じられている(*7)。これを含め、天正11年以降に所見される又右衛門尉は下野守の次代にあたる人物であろう。

天正11年9月に小田原北条氏によって厩橋城が落とされ、厩橋北条氏が大胡へ退去し厩橋城が小田原北条氏の管轄下となると、又右衛門尉も小田原北条氏に従った。

又右衛門尉は天正15年10月には大道寺政繁から北条氏政の下総国佐倉制圧を図る軍事行動のため福田氏、「鑓衆」と共に江戸への参陣を命じられている(*8)。この書状で又右衛門尉は同道する「鑓衆」の扶持を松井田で受け取るように命じられている。さらに、天正17年大道寺政繁書状(*9)には政繁が又右衛門尉に「松井田新堀へ御移候哉承度候、早々御移可為肝要候」とあり、松井田城に在番が命じられている。

又右衛門尉は、松井田城を拠点とする小田原北条氏重臣大道寺政繁の同心として配置されたことがわかる。


以上から、後閑又右衛門尉/下野守とその次代又右衛門尉は後閑信純と同様に甲斐武田氏に従うも、その滅亡後は信純の系統とは行動を異にして越後上杉氏権力を背景にした厩橋北条氏に従属、その後は小田原北条氏に従い大道寺政繁の同心として活動したと考えられる。


最後に、この下野守系が後閑信純とどのような関係にあるか整理したい。

『日本城郭大系』は『上州故城塁記』『上野志』『上毛国風土記』などから、下野守は後閑信純の長子「信重」であり天正5年に惣社へ分家したとして伝えている。下野守が官途名を名乗ったのが天正4年、その受領名を名乗ったのは天正5年であり、後閑宮内大輔・刑部少輔兄弟が官途名を名乗る以前のこととなる。よって長子であるとする所伝には合致するものの、下野守の次代又右衛門尉と信純の子である宮内・刑部兄弟が同時期に活動することを考えると、下野守を信純の子とするのは少し世代的にそぐわない感もある。

新田後閑氏の系譜は不明な点が多いため、下野守系統の位置づけも確実なことはわからないようである。

また、既に天正4年の時点で官途状(*6)が惣社周辺の領主瀬下采女らと同時に発給されていることから、惣社に分家した時期は所伝にある天正5年ではなく天正4年以前とみられる。瀬下氏と後閑下野守/又右衛門尉はその帰属先を武田氏-厩橋北条氏-大道寺氏(小田原北条氏)と同じくしており、この地域の小領主の動向を表わしている様で興味深いといえる。



*1) 栗原修氏「厩橋北条氏の存在形態」(『戦国期上杉氏・武田氏の上野支配』岩田書院)
*2)『越佐史料』六巻、394頁
*3)栗原氏(*1)に拠れば、天正10年6月には惣社領を攻める厩橋北条高広から「瀬下采女佐」に「従惣社爰陣江被相移、愚老在手前、昼夜忠信心遣被走廻候」のため知行が約束され、実際に翌月惣社を攻略した高広から知行を宛がわれている。よって、瀬下氏も厩橋北条氏に従っていたことがわかる。
*5)『戦国遺文武田氏編』五巻、2875号
*6)『武田氏編』四巻、2737号
*7)『戦国遺文後北条氏編』三巻、2600号
*8)『戦国遺文北条氏編』四巻、3201号
*9)『戦国遺文北条氏編』五巻、3930号


後閑宮内大輔・刑部少輔の動向

2020-12-22 19:46:18 | 新田後閑氏
永禄-天正期に活躍した後閑信純の後、新田後閑氏としてその子宮内大輔と刑部少輔の活動が顕著である。今回はその二人について検討する。


[史料1]『戦国遺文武田氏編』五巻、3089号
一、後閑之儀、弥太郎殿・善次郎殿両息江五百貫文宛配分之事、
一、家財之儀者、簾中へ可被出置之事、
右之両条、任承旨令領掌之上者、速可有譲与、永代不可有相違者也、仍如件、
天正七年己卯
    二月廿日 勝頼
    上条伊勢入道殿


[史料1]によって、信純の子に弥太郎と善次郎がいたことが分かる。信純は同月に死去しているから、代替わりを示す文書と見られる。同年4月にはそれぞれに武田勝頼から判物が発給されており(*1)、宛名に「後閑弥太郎殿」、「上条善次郎殿」とあることから、後閑氏と上条氏をそれぞれが名乗った事が理解できる。なお、この両通に「任聴松軒譲与之旨」とあることから、信純が入道後は上条聴松軒を名乗っていたことがわかる。


[史料2]『戦国遺文武田氏編』五巻、3235号
一、高林郷 五百貫文
一、岩松之郷 七百貫文
一、高島之郷 三百貫文
右如此為旧領為之由候之間、東上州本意之上、速可進置之候、弥可被励忠勤儀、可為肝要候、恐々謹言、
追而、先判所持之人、又難去以忠節、右之地他人江出置候者、以替地可補候也、
天正八年庚辰正月廿日 勝頼
  上条宮内少輔殿


[史料2]では後閑氏の旧領として現在の太田市である高林、岩松の地が挙げられている。新田岩松氏の本拠地金山城の周辺であり、その関連は新田後閑氏が岩松氏の流れを汲むことを考えると興味深い。宛名の上条宮内少輔は、上条善次郎の後身である。


[史料3]『戦国遺文北条氏編』三巻、2483号
武田家以来被拘置候後閑之内五百貫文、無異儀進置候、軍役等厳重之儀専一候、畢竟武辺於御稼者、涯分可引立申候、恐々謹言、
 天正十一年癸未正月十一日    氏直
        後閑形部少輔殿

[史料4]同上、2484号
御本領之儀者、武田家之砌相違以来小幡拘来候条、無是非候、然間永禄十年丁卯武田信玄被申合候後閑之儀進置候、相当之軍役厳重之儀、可然候、自今以後武辺別而於御稼者、涯分引立可懇切申候、恐々謹言、
 天正十一年癸未正月十一日    氏直
     後閑宮内少輔殿


[史料3][史料4]は武田氏滅亡後、後閑氏が小田原北条氏へ帰属したことを表わす文書である。[史料4]から宮内少輔が上条氏から後閑氏へ復姓していることが分かる。復姓の契機は武田氏滅亡が最も有力であろう。そうすると[史料3]の後閑形部少輔は信純のもう一人の息子弥太郎の後身であろう。

さて、二通を比べると宛名の位置が宮内少輔の方が高い。信純の名乗り宮内少輔を継承していることを踏まえても、善次郎/宮内少輔が嫡男と考えられる。

[史料4]では、宮内少輔へ小幡氏の領有する「御本領」について言及されている。これは前回みた丹生の地のことである。後閑氏にとってやはり丹生が本貫地であり、嫡男宮内少輔がその回復を小田原北条氏へ帰属する際に掛け合ったのではないか。ただ、それは認められなかったことが読み取れる。


天正12年には後閑宮内少輔・形部少輔が厩橋城に在番している様子が見える(*2)。これ以後、宮内少輔は宮内大輔として記される。また、宮内大輔(少輔)は単独で宛名に見られるが、形部少輔へは一貫して宮内大輔との連名で書状が宛てられていることも特徴である(*3)。これらは兄弟がそれぞれ家を持ちながらも、やはり嫡流として宮内大輔(少輔)が存在していたことを表わすだろう。

また、「両後閑」と表現される文書も見られ、宮内大輔と形部少輔の二人を指す表現であろう(*4)。

天正11年9月に小田原北条氏は厩橋北条氏を攻め厩橋城の接収を果たし、家臣を城将に置き周辺領主を在番させる体制を取る。新田後閑氏もそれに漏れず厩橋城への在番が命じられている。天正16年にも後閑宮内大輔の厩橋城在番に関する書状が見られる(*5)。黒田氏は後北条氏における後閑氏の取次について、「指南」は不明ながら「小指南」を垪和康忠と明らかにしている(*6)

『小田原一手役之書立写』では、周辺の大領主安中氏、和田氏、小幡氏らが「一手役」と称され軍事編成の一単位を構成するのに対し、後閑氏は後北条氏直属の「旗本之一手」すなわち旗本衆に編成されたという(*7)。これは、後閑氏は所領規模で劣るものの、他領主の同心ではなく後北条氏に直接被官化した、政治的に自立した存在であることを意味している。

天正17年の豊臣秀吉と小田原北条氏の抗争においては、後閑宮内大輔が「陣用意火急ニ可有之候、先正月三ヶ日立、翌日諸軍打立、可令参府筋目之事」と命じられている(*8)。少なくとも宮内大輔は小田原城にて籠城したと考えらよう。そして、新田後閑氏は後北条氏と共に滅亡するに至る。


以上、新田後閑氏として信純(宮内少輔/伊勢守/入道聴松軒)とその息、(善次郎/宮内少輔/宮内大輔)と(弥太郎/形部少輔)を確認した。さらに信純とその息善次郎/宮内少輔/宮内大輔は一時上条氏を名乗り、期間は天正元年頃から天正10年と推測される。


最後に、二人の実名について考えてみたい。所伝、系図に伝えられるものを纏めると以下の通りである。

『系図纂要』岩松系図では、景純-信純-某-信久、と続く。某は上条善二郎、宮内少輔を名乗ったという。信久は信純の子とも記され刑部少輔とあるも、「大道寺麾下」とありこれは惣社周辺を拠点とした後閑下野守の系統、後閑又右衛門尉との混同がある。

『日本城郭大系』は『上州故塁城記』、『上野志』、『上毛国風土記』を参考として、後閑信純の長子を後閑「下野守信重」、次子後閑「重政」、三子上条「信久」、と伝える。

『新田族譜』では信純の子を「信久」とし今川家との合戦で戦死したと伝える、という(*9)。『系図纂要』にも「信純子信久今川合戦討死」との説も伝えられているが、そのような合戦で後閑氏一族が戦死した事実はない。

『甲斐国志』は信純の子を「刑部丞信久」と伝えている(*9)。

また、『西上州の中世-安中市の中世文書-』では信純の嫡子を「久純」としている。

このように、所伝類を比べて見ると天正期に活動した後閑宮内・刑部兄弟、後閑下野守・又右衛門尉父子の四人でその実名が混乱していることがわかる。従って、系図・所伝における実名をそのまま信ずることはできない、といえる。ただ、「信久」については多くの所伝にみえるから、宮内・刑部兄弟のどちらかの実名である可能性はあるかもしれない。


*1)『戦国遺文武田氏編』五巻、3114号、3115号
*2)『戦国遺文北条氏編』四巻、2616号
*3)同上、2833号
*4)『戦国遺文北条氏編』三巻、2500号
*5)『戦国遺文北条氏編』四巻、3250号
*6)黒田基樹氏「白井長尾氏の研究」(『増補改訂版戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*7)黒田基樹氏「和田氏の研究」(同上)
*8) 『戦国遺文北条氏編』四巻、3566号
*9)太田亮氏『姓氏家系大辞典』
*10)元亀元年12月武田家朱印状(『戦国遺文武田氏編』1628号)では、須賀佐渡守へ「後閑堀之内刑部少輔分」が宛がわれている。上述の後閑刑部少輔とは別人であり、以前より刑部少輔を名乗る新田後閑氏庶家があった可能性が想定される。


後閑信純の動向

2020-12-19 21:11:23 | 新田後閑氏
戦国期上野国碓氷郡後閑は、永禄期に長尾景虎の関東出陣と甲斐武田氏の西上野進出を契機に新田岩松氏の流れを汲む後閑氏によって支配されるに至る。今回は、この後閑氏について永禄-天正期を中心に、その系譜と動向について検討していきたい。

後閑氏は新田岩松氏が名乗る以前にも存在した。『有道氏系図』に児玉党出身として後閑氏が見え、享徳の乱において長禄4年に足利義政から「後閑弥六」へ感状(*1)が下されている。ただこれ以降は所見がなく、没落したようである。新田岩松氏がこの元々の後閑氏の名跡を継ぐ形を取ったのか、単に入部した土地の名を取ったのかは不明である。新田岩松氏の後身である後閑氏を新田後閑氏として、以後進めていく。


[史料1]『戦国遺文武田氏編』一巻、772号
新田岩松方被拘来候知行并丹生之地、在郷之被官等以下之儀、向後不可有綺候、為後日令啓候、恐々謹言、
永禄五壬戌年
   三月九日 信玄
    小幡尾張入道殿

永禄5年頃に金山岩松氏が西上野の丹生を当地行していたとは考えられないから、「新田岩松方」は後の新田後閑氏のことを指す。これは後掲の[史料3]で後閑信純の本領は小幡氏が知行している、とあることからも明らかである。よって、永禄5年時点では後閑氏ではなく、新田岩松氏を名乗っていたと推測される。(後閑氏を名乗るのは永禄10年からであるが、便宜的に一貫して新田後閑氏と表記する。)

[史料1]からは、永禄5年の時点で新田後閑氏が所領を維持できなくなっていたことがわかる。他氏によって丹生を攻略されたためそれを奪回した武田氏が小幡氏へ与えてしまったのだろう。「被拘来候」とあるから、その契機は永禄3-4年の長尾景虎の関東出陣であろう。

新田氏(後閑氏)は『関東幕注文』にその名がなく以後甲斐武田氏へ亡命していることから、景虎の関東出陣に従わなかった可能性が高い。同じく景虎に従わなかった飽間氏も景虎の関東侵攻前後に没落したと推定されており(*2)、『関東幕注文』の後に離反した諏方氏も永禄4年末までにその所領を失っている(*3)。新田後閑氏も同様の転帰を辿ったと推測される。特に、諏方氏は武田氏へ亡命しその支援を受けるが西上野制圧後も本拠の松井田を回復できなかった。丹生を取り戻せなかった新田氏後閑氏とよく似ている。


さて、ここで永禄以前の新田後閑氏と後閑の地の関係を考える。本拠が丹生であり、後閑への入部が永禄10年を待つことは確認した。永禄4年から10年までは、安中氏が後閑を支配していたことも明らかにされている(*2)。永禄4年以前、新田後閑氏と後閑に関わりがあったかを検討してみたい。


[史料2]『西上州の中世-安中市の中世文書-』、17号、「長源寺文書」
  定
寄進状之事、三木十五貫文並門前屋敷八人、下郷之内二十貫文百姓四人、奉寄進之者也、為後日仍如件、
弘治元年乙卯九月十三日
        新田 伊勢守
進上長源寺

[史料2]は上後閑にある長源寺に土地を寄進した文書の写しである。署名の「新田伊勢守」は後閑信純とされているが、その花押型は生島足島神社起請文(*5)にある信純の花押型とは異なる。さらに、後述の様に信純は永禄10年以前では宮内少輔を名乗っていたから、発給者は信純ではない。花押型について信純との類似点が見受けられることや信純自身も後に伊勢守を名乗ることから、信純の先代にあたる人物だろう。『系図纂要』を始め、系図や所伝で見られる「景純」にあたる。

[史料2]をそのまま受け取ると、新田後閑氏は永禄期以前既に後閑氏を領有していた時期があった、ということになる。ただ、この「長源寺文書」は信憑性に問題があるようである。

安中市は「長源寺文書」を[史料2]と依田全棟発給文書二つの三点とするが、黒田基樹氏は「長源寺文書」について全棟の署名のある二点としている(*4)。実際、[史料2]は文明期の日付を持つ依田氏発給の他二点と文章や形式が不自然なまでに酷似している。「長源寺文書」は写であり黒田氏も文書の年代は直ちに信用できないとするように、[史料2]も鵜呑みにできるものではない、と言える。

そして、黒田氏は後閑の地について永禄3-4年の景虎関東出陣まで板鼻依田氏の領有を想定している。後閑に位置する長源寺も開山は依田全棟と伝わるという。

新田後閑氏と後閑の地を繋ぐものとしては、他に『上州故城塁記』や『系図纂要』の所伝がある。そこには、「景純」の代に「北条政時」から後閑を奪ったとされる。「北条政時」という人物は確認できず、明らかに誤りであろう。ただ、景純が後閑を奪ったとする点は一考の余地がある。天文末期から弘治年間であれば、山内上杉氏と小田原北条氏の抗争に乗じて板鼻依田氏からの後閑を奪うことも可能であろう。「北条政時」というのも或いは小田原北条氏との関連を示すものなのかもしれない。

以上、元々後閑は板鼻依田氏の支配を受けていたと想定されるが、永禄期に近い時期の状況は詳らかでなく、確実なことは不明と言わざるを得ないだろう。後閑信純の先代にあたる「新田景純」が山内上杉氏と小田原北条氏の抗争に乗じて後閑を制圧したとする見方も可能である、とするに留めておきたい。


話を新田後閑氏が甲斐武田氏の元へ亡命した時点に戻す。

永禄9年武田信玄書状(*5)には「新田宮内少輔」の名が見える。この人物が信純である。信純について信玄は工藤昌秀へ「不私高家と云、又武辺等無二心懸御方之条、則懇切申候」、「新田殿へ無疎略、可被致指南」と、信純を「高家」と表現し非常に篤い配慮を見せていることが注目される。武辺を無二に心懸ける人物と評されているのは、信純の人物像への言及であり興味深い。

また、ここで信玄は信純へ南栗林(現松本市)の内300俵を与えている。さらに「自身其地へ御越候」とあり、信純が北信濃へ派遣されそれに伴う扶持であったことがわかる。


[史料2]『戦国遺文武田氏編』二巻、1088号
近年在府候之間、本領安堵之儀、雖可申付候、以先忠小幡知行候之間、無是非候、因茲後閑遣置候、可被勤相当之軍役候事肝要候、恐々謹言、
永禄十年丁卯
   六月廿七日 信玄
  後閑伊勢守殿

[史料2]によって、それまで新田宮内少輔を名乗っていた信純が後閑伊勢守を名乗っていることがわかる。[史料2]では、先に信濃との関わりが見えたものの「近年在府」とあることから基本は甲府にいたこと、「後閑進置」より永禄10年に[史料1]で小幡氏に宛がわれてしまった本領丹生に代わる土地として後閑の地を宛がわれていることも読み取れる。よって、永禄10年に新田信純が後閑を宛がわれ後閑氏を名乗ることとなったと理解される。

また、同年7月朔日武田家朱印状(*6)で後閑伊勢守へ軍役が定められ、同年7月7日武田家朱印状(*7)では後閑宮内少輔が「安中者并松井田之知行」などを宛がわれている。この二通では伊勢守と宮内少輔が重複して見えるが、『戦国遺文』は双方、信純に比定している。この後、宮内少輔が所見されなくなることからも両者は同一人物であろう。

永禄10年8月の生島足島神社起請文(*8)を、「後閑伊勢守信純」が単独で跡部勝資へ提出している。ここで、実名「信純」が明らかになる。武田信玄の偏諱であろう。また、黒田基樹氏(*9)は武田氏家中で後閑氏への取次を務めた者の内「小指南」(簡便に言えば、当主近辺の取次のこと)をこの跡部勝資に比定し、また西上野の領主全般に当てはまることとして「指南」(支配地域近辺の取次のこと)甘利信忠を想定している。


さらに、信純は天正元年までに上条氏(カミジョウ)を名乗り、入道していることが天正元年武田勝頼書状(*10)の宛名「上条伊勢入道殿」からわかる。『尊卑分脈』に拠れば、上条氏は甲斐源氏武田氏一族の一条忠頼の孫頼安を祖とする氏族であるという。新田氏の出身という血筋から、武田氏がその名跡を継がせたと考えられる。

また、武田勝頼判物(*11)から入道後は、上条聴松軒を名乗ったことが明らかである。


高野山清浄心院『上野日月供名簿』には「新田伊勢守殿」が天正7年2月11日に供養されている(*12)。前日には後閑の所領を二人の息子に分割し家財を妻に与えているから(*13)、信純が危篤となりまもなく死去したことを思わせる。

信純の妻は、同名簿から天正9年4月に死去していることがわかる。

年不詳1月武田勝頼書状(*14)は「上条伊勢守殿」すなわち信純に宛てられており、武田信豊、逍遙軒信綱らの活動する下伊那方面大島城への着陣を要請されている。天正10年の織田氏甲斐侵攻に際した文書とも捉えられるが、信純の没年から天正7年以前に比定される文書となる。


以上が、新田後閑信純の動向である。次回は、信純の次代について検討してきたい。


*1)久保田順一氏「上州白旗一揆の成立とその動向」「享徳の乱と地域社会」(『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院)
*2)黒田基樹氏「安中氏の研究」(『増補改訂戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*3) 『戦国遺文武田氏編』一巻、764号
*4)黒田基樹氏「天文期の山内上杉氏と武田氏」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*5)『戦国遺文武田氏編』、二巻、1027号
*6)同上、1090号
*7)同上、1093号
*8)同上、1160号
*9) 黒田基樹氏「武田氏の西上野経略と甘利氏」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)
*10)同上、三巻、2173号
*11)『戦国遺文武田氏編』五巻、3114号、3115号
*12)久保田順一氏「戦国期碓氷郡の町と宗教的環境」(『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院)
*13)『戦国遺文武田氏編』五巻、3089号
*14)同上、3688号

享徳の乱における上杉治部少輔・刑部少輔と越後永正の政変における上杉治部大輔について

2020-12-06 14:28:52 | 四条上杉氏
※追記(2022/10/30)
以下において『松陰私語』に登場する「治部少輔」、「刑部少輔」は八条上杉氏ではないと考えて検討を進めている。しかし八条上杉氏の系譜を検討した結果、両者共に八条上杉氏の人物であると推測される、との結論に至った。また同様に、『東寺過去帳』の「上杉治部大輔」についても上杉房能との混同である可能性が高いと考えらえれる。この記事の考え方は訂正すべきであることを明記しておく。記事自体は検討の過程として残しておきたい。

新しい検討結果についてはこちら



関東享徳の乱において上杉氏の人物は多数確認されるが、人物比定の難しいものとして『松陰私語』(*1)に記録される「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」が挙げられる。『松陰私語』は同時代の陣僧の記録であるから、そこに登場する人物は実在したと見て間違いない。今回は、後年越後で見られる「上杉治部大輔」についての考察も加えながら、この二人の人物について検討していく。


『松陰私語』での二人の所見は二ヶ所ある。まず、文明3年(1471)児玉陣に関する部分で「上杉治部少輔、同名刑部少輔」が他の武将と共に出陣していることが見える。次に、文明4年(1472)の五十子陣の武将を記載した部分に「桃井讃岐守、上杉上条、八条、同治部少輔、同刑部少輔、上杉扇谷、武上相之衆、上杉廳鼻和、都合七千騎」とある。


一般的な比定は”同”を八条氏と捉え、二人を八条上杉氏と見るものである。後に越後で活動が見られる八条成定が「刑部入道」(*2)と名乗っていたことから、「上杉刑部少輔」は成定に比定される。これを仮説1とする。

八条成定は八条中務大輔持定の次代とされる(*3)。よって、二人の前に記された「八条」は持定を表わすことになる。持定は将軍足利義持からの偏諱であり、義持の没年は応永35年(1428)であり、その年までに元服したことになる。『松陰私語』に所見のある文明4年(1472)には60歳を越えていたと見られる。長禄4年(1459)足利義政御内書に「上杉中務大輔」が見えるから、その時点で持定が関東へ出陣していたことは確かである。

八条成定は将軍足利義成(後の義政)からの偏諱であり、義成は文安6年(1449)から享徳2年(1453)の名乗りであるから、成定の元服もその間である。成定は永正4年(1507)の死去であり、元服時15歳程度とすると享年は推定70歳前後になる。文明4年頃には30代中盤から後半といったところであろう。持定、成定父子の両人とも文明4年の人物に比定しても年齢的な矛盾はない。

以上から、仮説1に関して矛盾はなく最も有力な説として挙げられる。ただ、仮説1では「上杉治部少輔」についてはあてはまる人物がおらず、その存在が浮いてしまう。また、二人を八条上杉氏と見ると五十子陣の武将記載において八条上杉氏だけ詳細に人物が記されていることになり、違和感もある。


仮説1とは別に、”同”を単に上杉氏として捉えたら、どうだろうか。この時代、治部少輔を名乗った人物として、上杉教朝とその子政憲がいる。

教朝は諸系図で上杉氏憲(入道禅秀)の四男とされ、政憲は教朝の子である。教朝と政憲の父子は、共に治部少輔を名乗り堀越公方足利政知の補佐する役割を担い享徳の乱の頃に活動したことが明らかにされている(*4)。教朝は寛正2年に死去したから、享徳の乱における「治部少輔」の所は寛正2年以前なら教朝、以降なら「治部小輔」は政憲に比定できるといえる。

上杉政憲は文明12年に都鄙合体に関する交渉を幕府と行っていることから(*5)、その役割は堀越公方内だけでなく享徳の乱における幕府・関東管領上杉氏体制の中でも大きなものであったことが松島氏によって推測されている。従って、「上杉治部少輔」は政憲であった可能性は十分にある。

「上杉治部小輔」を政憲に比定すると「上杉刑部少輔」も八条氏ではないことになるわけだが、これも比定可能である。前回検討した四条上杉氏の上杉教房は享徳の乱において討死したが、その弟「刑部」も出陣していたとの記載が『上杉系図大概』にある。『系図綜覧』は教房の弟を「憲秀」、「刑部少」とし、『藤原姓上杉氏系図』『系図纂要』は「憲秀」、「刑部大輔」としている。この人物については文書等で確認はできないが、系図類から刑部少輔を名乗ったと考えられるよう。

よって、「上杉治部少輔」が上杉政憲、「上杉刑部少輔」を四条上杉教房の弟「憲秀」、とする説も矛盾なく成り立つことが理解される。この説ならば『松陰私語』の記載も、上条上杉氏、八条上杉氏、堀越公方に付いた上杉氏、四条上杉氏、扇谷上杉氏、廳鼻和上杉氏、とそれぞれの氏族一人ずつとなり収まりは良い。これを仮説2とする。


さらに、”同”を上杉氏と捉えながら、別の人物比定も可能である。

文明3、4年の時点で「上杉扇谷」にあたる人物は扇谷上杉氏当主の上杉政真であるが、政真の叔父にあたる上杉朝昌が刑部少輔を名乗ったとされる。扇谷上杉氏については黒田基樹氏の研究に詳しく(*6)、上杉朝昌は始め京都蔭涼軒の喝食でありながら還俗し扇谷上杉氏の一翼を担ったという。すなわち、「上杉刑部少輔」を扇谷上杉氏一族上杉朝昌に比定することができる。

すると、「上杉治部少輔」の比定であるが、朝昌の兄で政真死後扇谷上杉氏の家督を継ぐ上杉定正の可能性がある。

定正は文書から当主として修理大夫を名乗ったことは明かであるが、政真も修理大夫を名乗っているため定正が修理大夫を名乗るのは政真の死去する文明5年以降であり、定正は文明3、4年時点ではそれ以外の名乗りであったと推測される。すると、『松陰私語』において上杉定正が「河越之治部小輔殿」と表現され、定正の養子朝良も後に治部少輔を名乗っていることを考えると、修理大夫以前の名乗りは治部少輔であったと推測できる。

官途の変更は、後年庶流から扇谷上杉氏の家督となった上杉朝興が当初蔵人大輔を名乗り家督継承後に修理大夫へ改めている事例から補強できる(*6)。

以上、「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」がそれぞれ当時扇谷上杉氏一族であった上杉定正、朝昌兄弟に比定される可能性を挙げた。二人が行動を共にしているのも兄弟なら納得であるし、記載順も長幼の順である。定正の養子朝良は朝昌の実子であるから、関係性も確かである。仮説3としたい。

ただ、この説では扇谷氏一族多く記載され、さらに一族が当主より前に記載されてしまう点が不自然である。

また、黒田氏は「結番日記」文明12年10月8日条で足利義政へ進物を贈っている「上杉刑部少輔」を朝昌に比定しその存在の政治的高さを推測しているが、谷合伸介氏(*7)は同史料の「上杉刑部少輔」を八条成定に比定している。『上杉系図』には朝昌の娘が山内上杉顕定の妻であるというから扇谷上杉氏を代表する一族の一人であったことは確かであるものの、朝昌が実際に幕府-関東管領上杉氏体制でどの程度の地位にあったかは不明である。


ここまで、三つの仮説を提示した。

続いて、一つの文書を参考にまた別の観点から考えてみたい。

[史料1] 『上越市史』資料編3、577号、東寺過去帳
上杉治部大輔其外数十人
  同御曹司五才八条尾張守一家衆
「永正四八三与同名一族其外若党以下腹切或生涯
   越後国 為長尾被生涯         」


[史料1]は永正4年の政変で長尾為景に殺害された越後上杉氏の一族の記録である。

「上杉治部大輔」は自然に考えれば、民部大輔を名乗った房能の誤記と考えられる。


しかし、森田真一氏(*8)は誤記である可能性を踏まえながら「上杉治部大輔」が享徳の乱における「上杉治部小輔」と同系統である可能性も指摘している。そうであれば、この人物の比定は重要である。

[史料1]には「上杉治部大輔」と「八条尾張守」とあることから、上杉氏と八条氏の二つに区別されているように見える。すなわち、「上杉治部大輔」は八条氏以外の系統である可能性が想定される。

すると、「上杉治部大輔」は上杉政憲の後裔である可能性も考えられる。上述の仮説2に従う形である。

政憲に関してその晩年は全く不明であり(*4)、その子孫が八条氏、桃井氏と同様に越後下向という転帰を辿っても何らおかしくはない。さらに、[史料1]に屋号ではなく「上杉治部大輔」とある点も、『松陰私語』において「上杉治部少輔」と記され、”同”=上杉、と推測したこととに合致する。

尤も、八条氏でも「上杉中務大輔」(*9)や「上杉八条刑部入道」(*10)などの表現も見られるから断定はできない。また、上杉政憲と越後の関係を示すものもない。

そもそも[史料1]において上杉房能の誤記である可能性が有力であるわけであるから、あくまで仮説として記すに留めておきたい。


以上、享徳の乱における「上杉治部少輔」「上杉刑部少輔」について比定を試みた。いくつかの仮説を挙げたように複数の可能性があり、その中でも両氏を八条氏とする説は諸研究者方によっても言及され有力である。ただその上で、後年越後に所見される「上杉治部大輔」との関連から、両人が上杉治部少輔政憲と四条上杉教房の弟刑部少輔に比定され、上杉政憲の後裔は八条氏と共に永正4年の政変まで越後上杉政権に深く関連していた可能性を提示した。


*1)『松陰私語』記述の年次比定は、細谷昌弘氏「『松陰私語』の編年整理」(峰岸純夫氏ら『松陰私語(史料編纂 古記録編)』八木書店)、峰岸純夫氏『享徳の乱』(講談社メチエ)による
*2)『上越市史』資料編3、589号
*3)片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*4)松島周一氏「上杉教朝と享徳の乱」
*5)『大日本古文書』蜷川家文書の一、179頁
*6)黒田基樹氏「扇谷上杉氏の台頭」「上杉朝興・朝定と北条氏の抗争」(『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院)
*7)谷合伸介氏「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的考察」(『関東上杉氏』戒光祥出版)
*8)森田真一氏『上杉顕定』(戒光祥出版)
*9)『新潟県史』資料編5、3894号
*10)『上越市史』資料編3、588号


※21/10/13:一部表現を変更した。