黒田秀忠は戦国期越後において守護代長尾為景、同晴景の元で活動した重臣である。天文後期二度に渡り反乱を企て長尾景虎によって成敗されたという話は有名である。しかし、黒田秀忠の乱の年次比定は諸史料によって異なる部分があり、整理してみたい。また、黒田秀忠の乱と長尾景虎の家督相続を関連づけて考えてみたい。
二度に渡る黒田秀忠の乱は『越佐史料』でそれぞれ天文14年と15年に比定され、手元にある書籍などでは天文13年に1度目の反乱、天文14年10月から翌年2月に2度目の反乱があったとするものもある。
一方、前嶋敏氏はその研究(*1)の中でその年次を天文17年、18年に比定されることを明らかにしている。それによると、[史料1]と[史料3]の二通から「黒田氏は天文十七年十月に反乱を起こして成敗され、このときは赦免されたものの、天文十八年二月に再び反乱を起こし、結果として一族が滅亡に追い込まれたといえる。」としている。
[史料1]『上越市史』別編1、3号
兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候、覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候、何様爰元於本意之上者、晴景成奏者成之可申候、恐々謹言、
十月十二日 平三景虎
村山与七郎殿
[史料2]『上越市史』別編1、11号
態御飛脚、則御書中之旨令披露候処、一段快然之由、被成直報候、仍如仰 屋形様御掟を以、御無事相調、旧冬晦日、当地鉢嶺へ御移候、定目出ニ可思召候、然者、従去秋御理之段、条々申旧候、畢竟、其元御かせ義簡要ニ存計候、此方御取合の儀者、可有御心安候、毛頭不可有如在候、目出重而可申入候、恐々謹言、
正月四日 庄新左衛門尉
上野源六殿
[史料3]『上越市史』別編1、5号
対晴景、黒田和泉守年来慮外之刷連続の間、去秋此口へ打越、可加成敗分候之処、其身以異像之体、可遁れ他国之由、累嘆之候間、任其旨、旧冬当地へ相移候処、無幾程逆心之企現形之条、即以御屋形様御意、黒田一類悉愈為生害候、依之、本庄方へ被成御書候、爰元之儀、定可為御満足候、恐々謹言、
二月二十八日 長尾平三景虎
小河右衛門佐殿
兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間、遂上郡候、覃其断候処、桃井方へ以御談合、景虎同意ニ可加和泉守成敗御刷、無是非次第候、何様爰元於本意之上者、晴景成奏者成之可申候、恐々謹言、
十月十二日 平三景虎
村山与七郎殿
[史料2]『上越市史』別編1、11号
態御飛脚、則御書中之旨令披露候処、一段快然之由、被成直報候、仍如仰 屋形様御掟を以、御無事相調、旧冬晦日、当地鉢嶺へ御移候、定目出ニ可思召候、然者、従去秋御理之段、条々申旧候、畢竟、其元御かせ義簡要ニ存計候、此方御取合の儀者、可有御心安候、毛頭不可有如在候、目出重而可申入候、恐々謹言、
正月四日 庄新左衛門尉
上野源六殿
[史料3]『上越市史』別編1、5号
対晴景、黒田和泉守年来慮外之刷連続の間、去秋此口へ打越、可加成敗分候之処、其身以異像之体、可遁れ他国之由、累嘆之候間、任其旨、旧冬当地へ相移候処、無幾程逆心之企現形之条、即以御屋形様御意、黒田一類悉愈為生害候、依之、本庄方へ被成御書候、爰元之儀、定可為御満足候、恐々謹言、
二月二十八日 長尾平三景虎
小河右衛門佐殿
前嶋氏は理由を、[史料1]の「上郡」が[史料3]では「此口」と表されること、[史料3]に「旧冬当地へ相移候」とあることの二点によって二つの史料が天文17年12月晦日の家督相続([史料2])の前後にあるとわかるため、とする。
そうすると[史料2]の「此方御取合の儀」を黒田秀忠との抗争と捉えると自然である。黒田の乱が景虎の家督相続と時期を同じくしていることは注目すべき点である。
ここからは黒田の乱と景虎の家督相続の関係考えていきたい。
晴景と景虎の家督継承には軍事行動を伴う対立があったする説も散見され、池亨氏(*2)は「家督譲渡は『御屋形様御刷』によって実現されたのであり、『北越軍記』が伝えるような大規模な衝突はなかったにせよ、兄弟間に確執があったことはたしかである。」とする。前嶋氏(*1)は上野氏と下平氏の所領争いを例に「晴景と景虎の間には対立の構図があったといえる」としている。
しかし、ここで上の二つの史料をみていくと[史料1]「兄候弥六郎兄弟之者ニ、黒田慮外之間」、[史料3]「対晴景、黒田和泉守年来慮外之刷連続の間」とあり、黒田秀忠方と長尾晴景・景虎方の二極に分かれて争っていることがわかる。この、黒田の乱が家督相続の前後である天文17年、18年に比定されたことから、家督相続時には晴景と景虎は協調して黒田氏へ対抗していたことが理解される。
すなわち、黒田秀忠の反乱に直面した晴景がその対応として取った行動が景虎への家督移譲であった、といえる。晴景の個人的な感情が隠居を望んでいたか、気が進まないものであったかを知る術はないが、当時の状況において府内長尾氏存続のためには有利な選択であり晴景もそれを受け入れたということであろう。
よって、家督を巡る晴景・景虎間の軍事的対立はなかったと言って良い。黒田の乱を正しく把握できていなかったことによる後世の創作であろう。何らかの対立があったとすれば、晴景と景虎という次元ではなく、上野・下平相論に代表される家臣層、領主層間の所領や権力を巡る抗争であろう。代替わりに際しての主流派を決める争いとも換言でき、だとすれば晴景から景虎への家督継承の契機となった黒田氏の乱自体も晴景政権の弱体化と景虎勢力の伸張に伴う歪みの産物とも言える。これは前嶋氏(*1)も「晴景権力の中枢として黒田氏との対立があったとみられる」と指摘している。
晴景政権の弱体化の理由としては、晴景の健康状態が挙げられる。後年、景虎は「兄ニ候晴景病者故歟、奥郡之者、不遂上府、号間宿意、我侭之働無際限候。宗心乍若輩、且先考、且名字存瑕瑾故、不図上府、春日山罷移、何与哉覧国中如形静謐」すなわち、晴景が病気のため統治に支障を来した、と書き記している(*3)。天文12年長尾晴景書状(*4)には晴景自身が「爰元無油断療治、早々平癒可心安候」と述べ、病気がちであったのは確かであろう。
さて家督を巡る抗争がなかったことを踏まえて、[史料2]「御屋形様御刷」の意味を考えてみたい。結論から言うと、これは当時黒田の乱に直面した守護代長尾晴景と景虎が上杉玄清の守護権力の支持を以って越後支配の正当性をアピールしたかったということではないかと考えている。嫡流ではない景虎が守護上杉玄清の後ろ盾を得ることで、黒田の乱で動揺する諸領主さらには独立性の高い揚北衆などに対し正当な守護代長尾氏の当主であることを伝え、越後支配の最初の一歩としたのではないか。さらに私はこの時期上田長尾政景との抗争も進行していたのではないかと考えており(*5)、そうした状況も理由の一つであろう。
守護代の家督相続を守護が認めることは当たり前のように聞こえるがそうではなく、長尾為景が守護との対立に苦労したようにいつ守護と守護代と対立するかわからない時代であり、特に晴景の治世においては守護の復権がみられた。だからこそ、兄弟間の家督争いといった特殊な事情が無くとも「御屋形様御刷」の意義は重要だったはずであり、景虎もそれを尊重したのである。
この守護の権威が黒田の乱鎮圧に際しても必要だったことは[史料3]「以御屋形様御意、黒田一類悉愈為生害候」からもわかる。
以上、黒田秀忠の乱と長尾晴景から景虎の家督相続が密接に関係していたことが理解される。そして、守護上杉玄清の権威も依然として求められていたことがわかる。これらは、前嶋氏の研究(*1)にある「定実らは黒田氏の討伐と景虎の家督継承を一連のものとして把握していた可能性が高い」という一文に集約されるであろう。
黒田秀忠の乱は、上田長尾氏との抗争とも関連していると考えているがそれは別に試考えてみたい。
*1)前嶋敏氏「景虎の権力形成と晴景」(『上杉謙信』、高志書院)
*2)池亨氏「謙信の越後支配」(『定本上杉謙信』、高志書院)
*3)『上越市史』別編1、134号
*4)『越佐史料』三巻、866頁
*5)当ブログ「景虎と上田長尾政景の抗争」参照
※2020/10/9 わかりやすくするため、一部改筆した。