鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

山内上杉憲房の政治的立場

2024-03-01 22:51:27 | 山内上杉氏
山内上杉憲房は山内上杉氏として活動する人物であり、山内上杉顕定(入道可諄)の後継者として語られることが多い。また、憲房が顕定の養子となっていたと推測されることが多々ある。しかし近年の研究において、憲房が正当な後継者山内上杉顕実との抗争の末に家督を継承したこと、憲房自身が顕定の養子となった事実はないこと、などが明らかにされている。また、憲房の存在形態は前回検討した越後上杉定昌と類似点が認められる。今回は、憲房の動向と定昌との関係性について考えてみたい。

憲房は『上杉系図』、『上杉系図浅羽本』(*1)において大永5年4月16日に享年59歳で死去したとされ、逆算すれば応仁元年の生まれとなる。これらの系図より、父は山内上杉房顕の弟周晟(周清)であり、妻は扇谷上杉朝昌の娘とされる。

1>近年の研究における憲房
憲房の初見は文明13年である。黒田基樹氏(*2)は鑁阿寺文書における文明13年上杉憲房書状(*3)と同年長尾景春副状(*4)、長尾景春書状(*5)を検討し、当時山内上杉顕定に反抗していた長尾景春によって当時15歳前後の憲房が推戴されていたことを指摘している。黒田氏によると、こういった事態は山内上杉氏被官の支持を獲得するために同氏の当主を擁立することが有効と考えられたことが原因とされ、両者は山内上杉氏当主憲房・その家宰長尾景春という政治的構造を志向したという。憲房のその後の動向については詳らかでないが、長享の乱において顕定に従っていることが見えることから、文明14年11月における古河公方家と上杉氏における都鄙和睦前後に帰参したと推測されている。長尾景春との関係は解消されたとみられる。

その後しばらく憲房の発給文書はなく、山内上杉顕定に従い活動していたようである。永正6年における顕定の越後出陣にも従い、憲房の発給文書も確認される。しかし、顕定は翌年越後戦死し、憲房にも転機が訪れる。この時山内上杉顕定57歳、同憲房44歳であった。

黒田氏(*6)は「顕定の戦死後、家督を継いだのは本拠の武蔵鉢形城の留守を務めていた養子の顕実」とする。顕実は古河公方足利政氏の三男である。顕実は永正4年8月頃に顕定の養子になっていたと推測されている(*7)。顕実は古河公方家出身という政治的地位と、顕定より居城鉢形城を預かり、共に仮名四郎、「顕」の一字を名乗る事実からも山内上杉氏の正統な家督継承者であったことは確かであろう。つまり、永正7年6月の顕定戦死後に顕実が家督を継承したが、憲房と憲房を支持する家臣団は承服せず内部抗争に至ったという。

背景には当時古河公方内部で足利政氏・高基父子の抗争、山内上杉氏内部での権力争いなどが想定される。実際黒田氏(*8)により、足利政氏は顕実、高基は憲房を支持、山内上杉氏内部でも顕実を支持する惣社長尾氏、忍成田氏、舘林赤井氏らと憲房を支持する足利長尾氏、箕輪長尾氏、新田横瀬氏など二分される様子が明らかにされている。乱は永正8年9月まで生じ、永正9年6月に顕実の本拠鉢形城が落城することにより大勢が決したとされる。抗争を経て山内上杉氏の家督を継承した憲房は、上野国平井城を拠点として活動したことが確認される。

通説においては、顕実と共に憲房も養子であったとされ、養子二人が家督を争ったと解釈されてきた。憲房が顕定の養子とする説は『上杉系図大概』「顕定養子」あることなどが根拠にある。しかし、上述のように憲房の政治的立場は顕定の後継者ではない。黒田氏は、仮名五郎からも当初から憲房を後継とする構想はなく、有力庶家としての位置づけであったと想定している。「顕定養子」の記載は憲房が家督を継承した後の粉飾であろうことを推測している。永正6年越後出陣に際しても憲房は顕定とは別に有力な一軍を構成していることがうかがわれ、そこからも有力一門としての地位が反映されていると述べている。

森田真一氏(*9)は憲房を有力一門とする黒田氏の論説に同調し、その上で白井城を拠点し長享2年に死去した越後守護家上杉定昌の権力基盤を引き継ぎ統治した存在と位置付ける。その根拠として、永正期に憲房も定昌と同様に白井城を拠点としていたこと、憲房と魚沼郡の領主間の所領問題に介入し地域における保証主体として存在していること、家臣団の中に越後上杉氏家臣出身の石川駿河守が所見されることなどを挙げている。

個人的にも白井城を基盤とした定昌権力を憲房が継承したことに同意したい。仮名五郎もそれに伴って名乗った可能性がある。黒田氏(*2)は五郎を当初からの名乗りとするが、古志上杉氏を継いだとされる憲房の実弟憲明も同氏由来の十郎を名乗っており、憲房や憲明は越後に対しその正統性を主張するため仮名を改めた可能性も十分あろう。

2>憲房に関するいくつかの私見
ここまで憲房に関する新たな事実を整理してきた。しかし、まだ言及されていない点は多い。ここでいくつかの疑問点について私見を示してみたい。

まずは、白井を中心とした権力基盤が越後守護家の上杉定昌から別家の山内上杉憲房へ受け継がれた理由である。大きな背景として山内上杉顕定が越後上杉氏出身であることから当時山内上杉氏と越後上杉氏が政治的に一体となっていたことが挙げられるだろう。しかし、やはり定昌の死がその原因にあるように思えてならない。つまり、定昌の死が末弟房能を推戴する越後家内部の勢力との政争にあるとすれば、その遺跡が越後家に継承されない理由になり得ると考えるのである。そもそも白井城が山内上杉氏の影響下にあったからとも考えられるが、石川駿河守といった越後出身の家臣団や越後国内の一部所領も憲房が継承していることを踏まえるとやはり前述の理由で定昌亡き後その権力基盤が越後家から定昌と近かった顕定の山内家へ移行していることは確かである。

また、後継者でもなく有力一門の一人にすぎないと明らかにされた憲房が越後進攻に関連して発給文書が散見され顕定と並び御内緒を受給する存在となる理由を検討したい。

[史料1]『戦国期山内上杉氏文書集』87号
伊勢八郎左衛門尉盛正知行分越後国松山保事、近年不知行由候、如元申付者可為神妙、委細貞陸可申候也、
  十二月廿四日
     上杉四郎入道とのへ    同五郎とのへ

[史料1]は永正6年12月に出された将軍足利義伊御内書である。当時越後の上杉定実・長尾為景を追放し府中に在陣していた山内上杉四郎顕定入道可諄・同五郎憲房へ越後国内の所領問題の解決を命じている。この文書は顕定とその後継者・憲房という構図の根拠ともなり得るが、黒田氏により否定されている。しかしそれでは越後を制圧した山内上杉氏当主で関東管領の顕定と単なる一門にすぎない憲房が連名で記されていることとなり、不自然な感がある。ここで、上述したように山内上杉五郎憲房が越後上杉五郎定昌の権力基盤を継承したことが思い浮かぶ。つまり、憲房は定昌の遺跡を継承し、越後守護房能が敗死した後に越後守護家の正統な後継者として顕定に擁立されたのではないか。[史料1]において憲房は山内上杉氏後継ではなく、越後守護家後継として記載されたのではなかろうか。

永正7年に顕定も敗死しその支配が継続しなかったためあまり話題にされることはないが、もし顕定の支配が続けば越後守護と越後上杉氏は誰が継承したのか。実際にはそれぞれの家臣団の思惑や将軍家の意向、さらには古河公方や扇谷上杉氏など関東諸家とのパワーバランスもあり、既に山内家である顕定が越後守護や越後上杉氏を併呑できたとは考えにくい。そのため顕定は自身によって越後の統治を安定化させた後、憲房は越後上杉氏としてその支配にあたらせようとしていたのではないだろうか。その結果が[史料1]に見える御内書や永正6、7年に見える越後諸氏への発給文書と考える。

また、憲房の実弟十郎憲明(入道長茂)が時期は不明ながらも古志上杉氏を継承していた可能性が指摘されている(*2)。古志上杉氏の仮名十郎を名乗り越後で活動する実弟憲明と、元々守護継承が予定された五郎定昌の遺跡を継いだ五郎憲房の存在は顕定が越後への介入を強めていたことを推測させる。その契機は、親しい存在であった庶兄定昌の越後家における政争による死ではなかったか。しかし、以前の記事(古志上条上杉氏の系譜 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)で推測したように古志上杉氏への介入が上杉定実の離反を招いた可能性があり、越後国内では関東勢力と越後勢力の権力闘争が生じていたことが考えられる。当時の越後家と山内家は政治的に一体でありながらも内部に矛盾を孕んでいたと類推されるのである。

これらは憲房と越後を考える上での一説として提示しておきたい。


*1)『上杉系図』、『上杉系図浅羽本』(『続群書類従』第六輯下)、黒田氏は(*2)で当系図を参考にして死去日を「大永5年3月26日」としているが、系図を確認すると「4月16日」とある。
*2)黒田基樹氏「上杉憲房と長尾景春」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*3) 「戦国期山内上杉氏文書集」30号(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*4)同上、参考21号
*5)同上、参考20号
*6)黒田基樹氏 「戦国期山内上杉氏の発給文書」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*7)黒田基樹氏 「永正の乱における足利政氏の動向」(『足利成氏・政氏』戒光祥出版)
*8)黒田基樹氏「山内上杉氏と永正の乱」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*9)森田真一氏『上杉顕定-古河公方との対立と関東の大乱-』(戒光祥出版)