鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

村山与七郎宛椎名長常発給文書の検討

2021-03-14 19:40:19 | 椎名氏
従来、越中における反乱を伝える椎名長常書状[史料1]は永正16年に比定されることが多いが、正しくは天文13年であったことが明らかにされている。今回は、その文書を紹介し、検討を加えてみたいと思う。


1>文書の年次比定について

[史料1]『越佐史料』三巻、648頁
就当国錯乱、御合力之儀申入候処、可被成御出陣之由示預候、寔御懇志、難述筆舌候、旧冬已来従能州以取扱、属無事分候、先以可御心易候、於相替儀者、必可頼入候、委細飯坂隼人佑可令申候、恐々謹言、
  卯月二十四日               椎名弾正左衛門尉長常
   村山与七郎殿御宿所

[史料1]の発給者は、越中国新川郡を拠点とする椎名長常である。越後西頸城の領主村山氏に対して、越中国内で反乱が生じるも能登畠山義総の仲介で和睦したことを伝えている。

『越佐史料』などはこれを永正16年とみる。神保氏と一向一揆の制圧を目論む越中守護畠山卜山の意向により、永正15年から大永元年にかけて断続的に行われた長尾為景、畠山勝王、畠山義総らの越中出陣に関連したものと捉えた結果である。

一方、『加能史料』戦国11はこの文書を天文13年に比定している。天文13年に比定する最大の根拠は[史料2]『天文日記』の記載である。


[史料2]『加能史料』戦国11、267頁
(天文十三年三月)十一日
(中略)
一、又自尾州書状、越中国神保与椎名執相之間、自能州和与之扱有之、又尾州より相扱之条、加州・越中門下雖左右方相語、無合力之様可申下之由、以一書申来也、
十三日
一、畠山尾張へ、返状両通出之、
一、就越中取相事被申候、返語者、彼国門葉之儀者、其地頭・領主ニ相随事候間、難申付、又加州之儀者、可申下之由、以口状示呈之、

『天文日記』は本願寺証如が天文年間の様々な事柄を記録したものであり、当時の史料として貴重なものである。その天文13年3月11日の条項には「畠山尾張」=畠山稙長が本願寺証如へ越中、加賀の門徒が越中の内乱に加担しないよう工作してほしいと頼んでいることが記される。稙長は越中守護の家柄であり、能登畠山義総の支援を得ながら越中の安定化に努めていた。証如は加賀の門徒には命令するが、越中の門徒は現地の領主に従っているから命令は難しいと返答している。

この記録の内、「越中国神保与椎名執相之間、自能州和与之扱有之」が[史料1]における「当国錯乱」を指すと思われる。具体的には神保氏と椎名氏の対立であったことがわかる。

以上のように、[史料1]が天文13年の文書であったことが明らかにされる。従来の比定よりもその年次は大きく繰り下がることになり発給者椎名長常、受給者村山与七郎の活動時期等を考える上でも意味深いといえる。


2>文書の解釈について
また、[史料1]の「御出陣」の解釈についても言及しておきたい。『上杉氏年表増補改訂版』(*1)では、椎名長常への援軍主体を守護代長尾氏と捉えている。つまり、[史料1]について村山氏を介した椎名氏から守護代長尾氏への音信と解釈したこととなる。

果たしてそうだろうか。村山氏が守護代長尾氏政権の中枢と結びつくことを示す文書は所見されず、あくまで西頸城の戦国領主として存在している。中条氏や黒川氏といった揚北衆と同様の存在形態といえる。従って、守護代長尾氏の援軍派遣といった政治的問題を村山氏が取次ぐとは考えにくい。

村山氏の場合守護代長尾氏と本拠地が近いため両者の関係が揚北衆よりも深く、村山氏が守護代長尾氏の取次を務めても不自然ではないと錯覚してしまう理由であろう。あくまで領主は領主であるから、取次とは全く別次元の存在として考える必要がある。

もちろん、椎名氏から守護代長尾氏へも連絡がなされ、村山氏が出陣するにあたり守護代長尾氏の理解は必須であったことに異存はない。類似の事例を提示すると、文亀3年中条藤資宛伊達尚宗書状(*2)が挙げられる。ここで蘆名氏と抗争中の伊達氏は上杉房能に援軍を要請したため房能から出陣命令があるだろうとした上で、中条氏自体にも直接「御合力」を依頼している。

[史料1]も、守護代長尾氏権力を背景にしながらの椎名氏-村山氏間での交渉だった可能性がある、といえよう。天文中期に至っても領主層の独立性が維持されていたことを示唆する一例といえるのではないか。


ちなみに、天文13年4月後奈良天皇綸旨(*3)により「当国中令静謐」が願われ、同年10月上杉定実知行宛行状(*4)では「今度一乱以来、守前々旨走廻、致忠信間」と言及されていることから、越中で反乱が起きていた天文12年から13年にかけて越後でも大きな抗争が勃発していたことが明らかである。[史料1]において椎名氏が村山氏へ依頼した援軍が約束のみに留まっている点も、それを踏まえるとやむを得ないことであったと考えられよう。


*1)池亨氏、矢田俊文氏『上杉氏年表増補改訂版』高志書院
*2)『新潟県史』資料編4、1930号
*3)『新潟県史』資料編3、776号
*4)『新潟県史』資料編4、1495号


吉江忠景の動向 ー天文期ー

2021-03-06 16:32:38 | 吉江氏
吉江忠景は長尾景虎、上杉謙信の家臣の一人として確認できる武将である。しかし、忠景に関する詳しい検討を目にすることは殆どない。今回は吉江忠景関連文書を基に、特に天文期における忠景の動向を検討していきたい。


[史料1]『越佐史料』三巻、819頁
御懇書具令披見候、去ハ正印御合力被申候かきり□筑州へ返被申候哉、御本領之義候間、無余儀候歟、然者御家風中へ御はいたふ候間可有御詫言之由、是又無余儀候、付之御意見可申之由承候、左候に、吾等如何共可申定様無之候、但渡御申有間敷之由仰被切候者、始末之義如何ニ存候、畢竟ハ御合力被申候付分約束被申旨可有之候より幾も御思案不過之候、委細御使申宣候、恐々謹言、
  八月十三日              吉郷中務丞
   平子殿参人々御中              忠智


[史料2]同上、820頁
以長尾越前守方、連々如承者、被属味方可被抽忠信之由候哉、尤以簡要之至候、然者西古志郡内皆以可被抱候、不可有相違候、委細越前守方へ相断候、定可有伝語候、恐々謹言、
  八月十七日                  定兼
   平子弥三郎殿


[史料1]は『越佐史料』において天文4年8月に比定されている文書である。同書は発給者を「吉郷忠智」としている。

[史料2]は天文の乱の最中に上条定兼(前名:定憲)が平子弥三郎に対し陣営への勧誘と所領の安堵について交渉しており、日付が近いことから[史料1]もそれに関連した文書と捉えられてしまったと思われる。

しかし、発給者、年時の比定双方誤りである。


まず発給者であるが、正しくは吉江忠景である。

忠景の官途名が「中務丞」であることは文書から判明している(*1)。

郷と江、智と景はそれぞれくずし字が似ている場合がある。東京大学史料編纂所がこの文書を「吉江忠智書状」としていることからも「吉江」であることは確かである(*2)。智と景を混同された事例として長尾景信発給の書状がある。『栃木県史』所収「長尾智信書状」(*3)について佐藤博信氏(*4)が「智信」は「景信」と読むべきであると指摘している。よって、「忠智」も実際には忠景と読むべきであろう。


続いて、年時比定について言及したい。正しくは、天文21年8月である。


[史料3]『新潟県史』史料編5、3500号
去年以来御詫言候、西古志郡内山俣参拾貫分之事、松本様々雖申子細候、先以堅申付、彼地事進置之候、年来景虎以加世義、若干御知行分被入御手候、此上之義者、筑後守領分隠接待屋、近年被拘置候地事、速彼方へ可被打渡事簡要候、恐々謹言、
                   長尾弾正少弼
   八月七日                 景虎
   平子孫太郎殿

天文21年8月頃、越後国主の地位を固めた長尾景虎は平子氏と周辺領主との所領問題について介入していた。それが[史料3]である。注目は景虎が平子氏へ「筑後守」という人物の所領を返還するように求める点である。[史料1]の「筑州へ返被申候哉」と合致する。[史料2]で見た天文4年の上条氏-平子氏の交渉は所領の安堵について伝えているから、所領の返還を要請する[史料1]はそぐわない。よって、[史料1]が天文21年の「筑後守」の所領を巡る平子氏への交渉に関連した文書であることがわかる。

『越佐史料』は[史料1]「去ハ正印御合力被申候」の「正印」を上条定兼と見るが、天文21年時に定兼は死去している。「正印」は主人・君主を指す語(*5)とされ、長尾景虎もしくはこの頃越後へ亡命し関東出陣を要請していた山内上杉憲政を指すと考えられよう。


年時比定の誤りを訂正したことにより、吉江忠景が天文の乱において上条方に与したとは言えなくなった。またその初見も天文18年本庄実乃書状[史料4]まで繰り下がる。私見では、後述するように吉江氏は譜代家臣として活動しており天文の乱でも守護代長尾氏陣営に与したと考えている。さらに、忠景の初見が天文18年となったことを踏まえると、天文の乱時の吉江氏が忠景の前代であった可能性も高いであろう。

ちなみに、[史料1]と同じ天文21年8月には吉江茂高が平子孫太郎へ関東出陣や所領問題について音信を交わしている(*6)。茂高と平子氏の関係には同族である忠景の存在も影響している可能性があり、吉江氏の系譜関係を考える上でも貴重な検討材料になるといえる。


では、ここからは[史料1]が発給された天文末期頃における吉江忠景の存在形態について考えていきたい。まず、平子孫太郎と吉江忠景の関係は[史料4]天文18年本庄実乃書状にも見える。本庄実乃は長尾景虎の重臣である。


[史料4]『越佐史料』四巻、13頁
御屋形様へ為御音信被仰立候、則景虎披露被申候処、御悦喜候段被遣御書、御目出ニ存計候、景虎も一段喜悦候由候、
(中略)
一、如斯義軽千万ニ候へとも、代々被懸御目ニ候間申入、雖被申迄、時分相急キ候、御近辺ニ者吉江中務踞候間、いかにも御懇切簡要存候、人如何ニ違候共、せうせう義御堪忍候而、御懇切尤候、目出重而、恐々謹言、
                庄新
    七月四日          実乃
   平子孫太郎殿御宿所

省略した部分には、宇佐美氏居城が対立する上田長尾氏によって放火されたこと、平子氏居城の整備を命じること、関東出陣を命じることなど軍事関係のみならず、平子孫太郎舎弟を出仕させることなど政治的な部分もある。

特に政治的な条項について、井上鋭夫氏(*7)は上杉定実を中心とした解釈を取っている。つまり、平子氏は舎弟を上杉定実の元へ出仕させ、定実への取次も頼んでいるという。しかし、この構図は疑問である。景虎方、平子方の両者にとって、既に実力の伴わない上杉定実の必要性は薄い。文書が「御屋形様」=上杉定実への音信を謝す一文で始まっていることを以て、その後の内容も全て定実に関係するものとして捉えてしまったように思える。

この頃の定実の政治的立場を示す例として、同年11月平子孫太郎宛長尾景虎安堵状(*8)には「御館様御判之儀者、追而可申成候」、つまり守護上杉氏の文書なしに景虎が平子氏へ土地が安堵していることが挙げられる。木村康裕氏(*9)は守護御判の裏づけを必要としない文書であることから、この時期長尾景虎が守護上杉氏権力を抑えて実質的権利を掌握したと指摘する。当時、定実の存在は形式的なものに留まり本質は伴わないわけであるから、[史料4]本文の内容は長尾景虎と平子孫太郎間での政治交渉と見るべきである。

平子氏舎弟の出仕先も定実ではなく景虎の元であろう。安堵状からわかるように平子氏も定実より景虎との繋がりを重要視し、景虎も有力領主の近親を定実と結びつけるより自らの手元に置いておきたいと考える方が自然である。


その上で、吉江忠景に関する条項を見ていきたい。「代々被懸御目ニ候間申入」なる部分は、同年長尾景虎書状(*10)で平子氏は「道七以来無別条方に候」と述べているように、守護代長尾氏との良好な関係を表わしている。平子弥三郎が上条方についた享禄・天文の乱においても平子右馬允なる人物は為景に味方しており(*11)、この言葉に間違いはない。つまり、代々の関係性から平子氏の取次として本庄実乃が景虎へ申入れた、という文章とわかる。その実乃が忠景との関係強化を勧めていることから、実乃と同様に吉江忠景も景虎の重臣にあったことが窺われる。記載順に政治的立場が反映されている天正3年『上杉家軍役帳』では、本庄実乃の後継者清七郎や直江景綱、山吉豊守といった重臣に並び記載されており、その立場は明らかである。井上氏(*7)を始めとして、彼らは「旗本」と呼ばれることが多い。


続いて、実乃が忠景との関係強化を勧めた理由を表わす「御近辺ニ者吉江中務踞候」の意味を考える。「時分相急キ」とあり政治的な交渉を伴うと思われ、忠景の役割とは平子氏と景虎間の取次ではないだろうか。「人如何ニ違候共、せうせう義御堪忍候」は、取次が実乃であるか忠景であるかという少々のことは我慢するように求めていると捉えられる。

ただ、[史料5]において「景虎も一段喜悦」とあるように、形式上定実を立てるため景虎へ丁寧な言葉遣いはされていないから、「御近辺」とあるのは景虎に関する事柄ではないようにも思える。つまり、これは平子孫太郎の「御近辺」を意味すると考える。平子氏の本拠は小千谷であり、その周辺地域に忠景が在城していたと推測される。

その根拠として、天文19年長尾景虎書状(*12)から忠景が庄田定賢と共に小千谷に程近い下倉城周辺に派遣されていることがわかる点が挙げられる。忠景が派遣されたのは上田長尾氏との緊張関係が高まっていた時期であり、前線において軍事・政治面での活躍が期待されたのであろう。庄田定賢は天文21年宇佐美定満書状(*13)から宇佐美氏の取次を務めていることがわかる。忠景も庄田定賢と同様に、軍事的・政治的活動は魚沼郡周辺との関係の中で成されていたと推測される。

その上で、忠景が永禄9年に下野佐野城へ派遣され交渉用印判の使い分けを説明されている点は注目である(*14)。つまり、永禄9年時に忠景は前線への在番と周辺との交渉が任せられていたのである。この事実は、天文末期に当時の前線下倉城周辺で軍事・政治活動を求められたという上記の推測と相似形を成す。忠景の「旗本」としての具体的な活動内容が浮かび上がるといえる。


ここまで、吉江忠景について天文末期を中心に検討した。忠景は長尾景虎の家督相続と同時期に文書上初見され、本庄実乃や庄田定賢らと並ぶ重臣(=「旗本」)に位置していたと考えられる。天文末期には景虎と上田長尾氏の対立の高まりに伴い、その前線に派遣され周辺領主である平子氏の取次を果たしていたことがわかった。

今回は「旗本」に位置づけられる忠景の活動についてその一部を素描できたものの、それがそのまま「旗本」全般に当てはまるとは限らないだろう。他の譜代家臣の検討も踏まえた上で「旗本」の存在形態について、さらに掘り下げていきたい。

また吉江忠景本人についても、天文期以降の動向を今後検討していきたい。


*1) 『新潟県史』資料編5、3938号など
*2) 東京大学史料編纂所データベース
*3) 『栃木県史』史料編中世、1132号
*4)佐藤博信氏 「越後上杉謙信と関東進出」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)
*5)小和田哲男氏、鈴木正人氏『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
*6) 『越佐史料』四巻、77頁
*7)井上鋭夫氏『上杉謙信』
*8) 『新潟県史』資料編5、3497号
*9) 木村康裕氏「上杉謙信発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*10) 『新潟県史』資料編5、3496号
*11)『越佐史料』三巻、829頁
*12)『越佐史料』四巻、263頁、書状中「吉江・庄田」とあり、これを忠景に比定している。派遣先は宛名の福王寺氏から下倉城と推測されるが、長尾景虎書状(『越佐史料』4ー263)より天文18年2月には庄田定賢が下倉城近隣の真板平城に在城しており、「下倉城周辺」という表現に留めた。
*13) 同上、80頁
*14) 『新潟県史』資料編5、3683号