鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾景満の動向

2021-10-23 21:29:24 | 長尾氏
戦国期越後に関する論稿や資料集に「長尾景満」という人物が登場することがあるが、詳細な検討はなく、長尾景信や上杉信虎との混同もあってわかりにくい人物の一人である。そのため、今回は長尾景満という人物について、実際の史料を元に整理してみたい。


まず、私が前回までに、長尾景明、同景信、上杉信虎という人物を考察し、その中で長尾景満は景信の次子で信虎の弟であるという検討結果を示している点を前提として進めていく。

根拠として『越後長尾殿之次第写』(以下『長尾次第』)があることなどは、以前の記事を参照にしてほしい。ちなみに、実名「景満」も同史料による。

以前の記事はこちら


ここから、景満について見ていく。

まず景満の母であるが、はっきりしたことは不明である。

弟景直と同腹ならば母は為景娘「秀林永種」となる。ただ、「秀林永種」は景直に供養されており、景満は上杉信虎や景直に比べ上杉謙信家臣団の中でも史料の残存が少なく、謙信の近親としての活動も見られないことから、景満は庶子であった可能性も考慮すべきかもしれない。

『上杉家軍役帳』においても信虎、景直は80人を越える軍役を負担していることが記されるが、景満の記載はない。また、後述のように景満は御館の乱において上杉信虎と異なる景勝方に味方しているが、それも異母兄弟であったとすれば理解しやすいと感じる。


兄信虎は古志上条上杉氏、弟景直は椎名氏を継承しているから、父景信の跡目を継いだ人物は景満であろう。官途名右京亮を継承していることからも、それは肯定される。


さて『長尾次第』に拠ると、景満は天正6年夏に直峰城において自殺したという。息子は二人いたが出奔したという。娘は一人とある。

『先祖由緒書』戸沢氏の家伝には、「縫殿之助儀、直嶺之城ニ長尾右京と同城ニ被指置、直峯之地より春日山之通融切レ申候ニ、舟路ヲ以夜ニ紛御注進申上候ニ付而、御感状并御書被下置候」とあり、直峰城に在城する「長尾右京」=景満が春日山と手切れとなったことが記されている。


この動向は文書からもわかる。

御館の乱勃発後の天正6年6月17日上杉景勝書状(*1)において上杉景勝が吉益伯耆守、佐藤平左衛門尉、そして長尾右京亮=景満に向けて軍事行動について指示している。

この文書では赤澤や九戸など直峰城に近い地名は出てくるが、在城地は「其元」や「其地」としかない。ただ、同年5月23日上杉景勝書状(*2)において吉益伯耆守が直峰にて活動していることが明記されているから、吉益氏と同様に長尾右京亮も直峰城に在城していたと推測できる。

また、天正7年1月上杉景勝書状(*3)においても吉益伯耆守らと共に長尾右京亮が宛名に所見される。


その後、天正9年6月上杉景勝判物(*4)において「長尾右京亮分」が栗林政頼に宛がわれている。景満の所領が没収されたことを表わすと推測される。

天正6年御館の乱では上杉景勝に与したものの、その後は伝承通り景勝と対立し自害するに至ったと考えられる。

『長尾次第』には寅年つまり天正6年の夏に死去とあるが、天正7年1月に文書上所見されるから天正7年夏もしくは天正8年夏の誤りではないか。上杉景虎が自刃し御館の乱は終結したものの、織田氏の攻勢が強まり神余氏ら国内の抵抗勢力も残存する、越後国内がまだ混乱していた時期のことであろう。


[史料1]『新潟県史』資料編5、3996号
就荒戸之地在城申付、一村之内料所并長尾右京亮分、但野田之内豊司俣分除之、宛行候、用心普請等厳重ニ可務之者也、仍如件、
  天正九
    六月三日              景勝
       栗林治部少輔殿

[史料1]が所領の没収を示す文書である。栗林政頼に「長尾右京亮分」、つまり景満の所領が与えられている。

「荒戸之地在城」に伴い与えられていることから上田庄周辺の土地であることが推測される。

さらに「野田之内豊司俣分除之」という一文がある。野田という地域は現在も南魚沼市にあり、[史料1]「野田」がそれを表わしているとすると、景満の所領は現在の南魚沼市野田を含む一帯であることが示唆される。

これが祖父長尾景明の頃から関係の深かった地域と考えると、景明が上田長尾氏の一族であった点や、景満らが景明と血縁であることを補強する好史料といえる。


景満の妻は『藤原姓市川氏系図』に市川信房の娘とある。娘は『福王寺系図』から福王寺景重の妻であったことが推定される。

前者では「直峰城主長尾左京亮景明室」、後者には「長尾左京亮景明女」とあるが、年代的に景明とは考えられない。直峰城との関連、「左京亮」が「右京亮」の混同であること考えて、景満の伝承であると推測した。


以上、長尾景満について検討した。史料が少なく不明な点が多いが、その輪郭を素描することができたのではないかと思う。


関連文書
天正6年6月17日長尾右京亮他二名宛上杉景勝書状(『越佐史料』五巻、526頁)
天正7年1月27日長尾右京亮他三名宛上杉景勝書状(『上越市史』別編2、1740号)
天正9年6月3日栗林治部小輔宛上杉景勝判物(『新潟県史』資料編5、3996号)


*1) 『越佐史料』五巻、526頁
*2) 『上越市史』別編2、1513号
*3) 同上、1740号
*4) 『新潟県史』資料編5、3996号


長尾景明とその系譜

2021-10-13 14:55:04 | 長尾氏
ここまで二回に渡って長尾右京亮景信・上杉十郎信虎の検討を行った。今回は、長尾景明という人物について確認していき、景明から景信、信虎へと続く系譜を整理してみたい。



1>系図類からみる景明
まず、最初の課題として景明の系譜が系図類によって全く異なる点がある。

『平姓府中長尾系図』には守護代長尾為景の三男として「左京亮 景明」(別名「景直」とある)と見える一方、『越後長尾殿之次第写』には上田長尾顕吉の長子「右京亮 景明」と載る。


ここで『越後長尾殿之次第写』(以下『長尾次第』)の記載に言及しておきたい。

『長尾次第』は「当丙戌五月御上洛、六月廿二日参内正四位左近衛権少将摂任、七月六日御帰国」という部分から、これが天正14年の上洛と同じ年に記された記録であることがわかっている。関係者が多く生存していた頃の記録であり、正確性へ信頼がおける史料である。

しかし、不自然な点もあり、それが今回の検討対象である長尾景明とその父顕吉に関する部分である。これについては以前に検討しているため、詳しくは割愛する。

簡単に言うと、顕吉の次世代以降が後世において改変された可能性がある。よって、景明の系統に関しても『長尾次第』を利用する際は慎重な姿勢が必要である。

以前の記事はこちら


『長尾次第』の記載は以下の通りである。(男子/女子)
長尾顕吉の実子:右京亮景明・玖圓侍者・伊勢守景貞/天甫喜清・光室妙智
長尾景明の実子:上杉十郎景信・右京亮景満・小四郎景直/本庄殿内儀

顕吉の実子については、以前に検討した通り天甫喜清や光室妙智など明らかな誤りが所見される。

すると、景明の所伝の信憑性も問題になる。しかし、景明は後述するように文書から上田長尾氏一族としての活動が確認できるから、顕吉の実子である可能性は十分に考えられる。景明の弟とされる「伊勢守景貞」も、文書にて伊勢守を名乗る上田長尾氏一族が確認できることから、一定の史実を伝えるものであろう。

よって『長尾次第』における顕吉の次世代は、正しい所伝に誤った情報が加えられたものと見ることができる。


景明の子供について見ていく。

『長尾次第』において景明の嫡子「景信」が上杉十郎を名乗り、天正6年居多浜合戦で戦死したとあるが、明らかに上杉信虎との混同である。「本庄殿内儀」=本庄繁長妻は『本庄系図』等でも見られる人物で、「上杉信虎妹」とされる人物である。

つまり、景信世代が抜け、信虎が景信に置き換わってしまったと推測できる。景明の子供とされる兄弟「右京亮景満」「小四郎景直」は、実は景信の子供、信虎の兄弟であったと見られる。

ちなみに、永禄4年上杉政虎書状(*1)などから景信は右京亮を名乗り、右京亮景満は上杉景勝判物(*2)より上田庄に所領を持っていたと推定されるから、景信や景満兄弟が景明の系統であることは確かであろう。


よって、景明に関する『長尾次第』の記載は、明らかな誤りを除くと概ね信頼できるといえる。


一方『平姓府中長尾系図』は後世の作であり、「左京亮」という名乗りも右京亮の誤伝であろう。景信の妻は為景娘であり、それがこの一族が守護代長尾氏の系譜に紐付けられた原因であろう。また、景直と景明が混同されている点も、二人が血縁関係にあることの徴証であろう。


以上『長尾次第』より、景明は上田長尾顕吉の長子である、と推測される。


2>文書から見る景明
さて景明について、実際の文書から探ってみたい。


[史料1]
源左衛門尉望、不可有相違候、謹言
 四月廿三日      景明
 穴澤源左衛門殿

[史料1]は、景明の活動を示す史料である。宛名の穴澤氏は上田長尾氏被官である。

『穴澤系図』に拠ると、その系譜は「次郎右衛門尉景長」-「源左衛門尉泰長」-「新右兵衛尉長勝」と続くという。穴澤次郎右衛門尉は長尾顕吉の活動時期に所見され、新右兵衛尉は天文4年1月上条定憲書状(*3)に初見される。つまり、穴澤源左衛門尉は永正期から天文初期の間の穴澤氏当主と推定される。

以前検討したように永正7年9月から翌年1月までに顕吉からその甥房長へ家督交代が行われたと推定され、長尾景明が上田長尾氏の当主である可能性はないが上田長尾氏一族として穴澤氏に対して文書を発給していたようだ。


永正8年1月月洲書状(*4)が穴澤源左衛門尉へ宛てられており、[史料1]は永正8年1月以前の文書であるといえる。

文書の年次比定は以前行った長尾平六の乱の検討結果によるものである。


この事実を換言すると、守護代長尾氏と上田長尾氏の対立が続いていた時期の発給文書となり、長尾景明が上田長尾氏として守護代長尾氏とは別陣営に属していた人物とわかる。

よって『平姓府中長尾系図』に見えるような、景明が守護代長尾氏系統の出身という説を文書から否定でき、上田長尾氏の人物と見られる。つまり、『長尾次第』にある顕吉の長子という説を裏づける。


また、天文9年6月には「長尾右京亮分」が栗林政頼に与えられている(*5)。これは長尾景明の孫にあたる右京亮景満の所領である。

そこには「野田」という地域を含んでいることが記され、野田は現在の南魚沼市に存在する。つまり、景明の系統が上田庄周辺に所領を持っていたことが示され、景明と景満らに血縁関係にあること、景明が上田長尾氏出身であることを示すとものいえる。


[史料2]『新潟県史』資料編3、854号
就新六殿御下向、慮外儀出来、誠口惜存候、此上毎篇御遠慮簡要候、為景事、奉対貴所吉凶共不可有疎欝候、長景事同意候、八幡大菩薩、春日大明神、諏方上下大明神、可有照覧候、全不存別心候、只自幾も御思惟専一候、委曲景明へ申候間、抛筆候、恐々謹言、
   十一月十三日        中務小輔長景
謹上 長尾肥前守殿

[史料3]は長尾為景・上杉定実による府内政権の中枢に位置する長尾長景から長尾顕吉に対して発給された文書である。「新六殿」=上田長尾房長の下向が問題となっており、上田長尾氏が為景に従属する際の条件についての交渉の一端であると推測できる。その場合、自然と上杉可諄敗死後の永正7年11月に比定することができる。詳しくは以前検討した。


「委曲景明へ申候間」とあり、守護代長尾氏へ上田長尾氏側の使者として景明が派遣されたことがわかる。


[史料3]『越佐史料』三巻、815頁
十二日六郎致同心奥へ可参候、速見之可供候、穴澤兵衛太郎・彦三郎・五郎三郎可申付候、謹言
 六月六日       景明
 穴澤源左衛門尉殿

[史料3]で、景明が穴澤源左衛門尉へ「六郎」=長尾為景に従い奥郡へ従軍するように命じている。長尾為景が奥郡を攻撃していることから、永正9年5月に発生した鮎川式部大輔入道の反乱に関する文書であると理解される。

鮎川氏の乱では穴澤氏と地理的に近い福王寺氏や江口氏の出陣も確認でき(*6)、穴澤氏の出陣も不自然ではない。


3>景明の政治的立場
文明から永正にかけての上田長尾氏当主、顕吉は早逝した兄憲長の子房長へ家督を譲っており、景明は長子でありながら家督を相続していない。

ただ、米沢藩により延宝年間に作成された『先祖由緒書』にも穴澤氏が家伝文書として「上杉房長様御一家」の御書と、「長尾景明様御一家」の御書を所持していることが記される。「上杉房長」とは上田長尾房長のことであり、房長と景明がそれぞれ別家として区別されていることは注目である。

ここから推測すると、前当主の実子であることにより相応の立場があったと見るべきであろう。それが[史料1]に見られた穴澤氏への官途状発給や、[史料2]守護代長尾氏への使者、[史料3]穴澤氏への軍事に関する命令などの行為につながったのではないか。


さて、[史料3]、[史料4]を見て気になる点がある。それは、景明が府内政権=為景と距離が近い、ということである。

もちろん数が少なく断定できないが、景明の次代景信の妻が守護代長尾為景の娘である点、孫世代の上杉信虎、長尾景直らが上杉謙信に重用された点を考えると、景明の系統は上田長尾氏出身でありながらも守護代長尾氏に接近していることは明らかである。

そして、長尾景直が「春日山御屋敷」とよばれ、その父景信を指すと思われる法名も「御屋敷」と記されることを踏まえると、景信の代には既に上田長尾氏との関係が消滅していたとみて間違いないだろう。


景明の系統が上田長尾氏を離反し守護代長尾氏に帰属した時期とはいつだろうか。

推測するに、それは天文2年に勃発した天文の乱の際ではなかったか。

まず、景明の父顕吉の三回忌を享禄5年6月に房長が行っているから、その時点まで上田長尾氏との関係は維持していたと考えるべきであろう。また、この時までは長い間守護代長尾氏と上田長尾氏は友好関係にあり離反の機会もない。

天文2年以降数年間に渡り為景と房長は抗争関係にあるから、この際に景明は守護代長尾氏に味方したのであろう。

景明の孫で為景娘の子である景直が天文23年に活動しているから、守護代長尾氏との婚姻は天文期における離反以前のことと推測される。永正7年以降の友好関係にあった期間に、為景は上田長尾氏内部に自らの味方となる勢力として景明系統と関係を深めていたのではないか。

天文期という時期を考えると、離反主体は景明の次代で為景娘を妻に持つ景信であった可能性もある。

ともかく、為景が上田長尾氏に対して打ち込んだ楔である景明・景信父子との婚姻関係が天文の乱に際して景明系統の離反という結果に繋がったといえるだろう。「御屋敷」という呼称も上田庄を離れ、春日山へ寄寓する立場に由来するとも考えられる。


4>景明-景信-上杉信虎の系統についての整理
さて、ここまで長尾景明、景信、上杉信虎の三世代を見てきた。三人を検討し終えた所で、世代間の整合性などが取れているか、確認しよう。

まず、起点とする人物は上田長尾顕吉である。以前の検討で、顕吉の生年は文明期前半から中頃と推測した。

すると、長尾景明の確実な初見である永正7年には顕吉は30代前半程度となる。長子が活動を始める年頃として矛盾ない。

よって、景明は永正7年時には10代後半くらいの若者と見られる。

景明の子である景信は所見が少なく活動時期を絞れないが、末子景直が天文23年に活動しているから天文初期には子供がいたと見られる。

前回までに景信の妻は長尾為景娘=上杉謙信姉と推定したが、それにふさわしい年齢である。


以上、三世代が矛盾なく接続している様子が理解される。



ここまで、景明とその一族について検討した。

今回私が示した考察は私見であり、不十分な点も多い。ただ、従来の「長尾景信」や「上杉十郎」に関する通説はあまりに短絡的であり、彼らを語るには私が紹介したような史料の十分な検討が必要であることを理解してほしい。

次回以降、長尾右京亮景満、長尾小四郎景直についても検討していく。


参考:長尾景明関連文書一覧
永正7年11月3日長尾肥前守宛長尾長景書状(『新潟県史』資料編3、854号)
年不詳4月23日穴澤源左衛門尉宛長尾景明官途書出(『越佐史料』三巻、815頁)
永正9年6月6日穴澤源左衛門尉宛長尾景明書状(『越佐史料』三巻、815頁)


*1) 『越佐史料』四巻、370頁
*2) 『新潟県史』資料編5 、3996号
*3)同上、3727号
*4)同上、3616号
*5)『新潟県史』資料編5、3996号
*6)『越佐史料』三巻、583頁


※24/6/29  長尾景信を永正期生年と想定していたが、享禄年間等も否定できないため、当該箇所を削除した。

長尾右京亮と「景信」

2021-10-06 14:18:34 | 長尾氏
長尾景信は上杉謙信の一族として有名でありながらその出身や動向について詳細な検討がなされておらず、一般に通説とされるものには不正確な部分が多い。

従来、景信は「上杉十郎」に比定されるが、実際には「長尾右京亮」として活動していたと推定される。前回、上杉十郎信虎について検討しており、そちらも参考にしてほしい。

以前の記事はこちら

今回は長尾景信について、基本情報を整理してみたい。


1>編纂物からみる景信
『上杉御年譜』における景信に関する記載を見ていく。『上杉御年譜』から上杉信虎、長尾景信に関する記載を抜粋したものが以下である。

・永禄2年10月28日
今度御在京首尾ヨク御帰国ニ依テ諸士是ヲ賀シ奉ル、次第不同ニ各御祝儀ヲ献ス、先御一族ニハ長尾越前守政景、長尾十郎景信、山浦源五国清、上条弥五郎政繁、長尾小四郎景行、長尾右京亮、枇杷島弥七郎、山本寺伊予守、長尾修理亮景国、長尾伊勢守、長尾遠江守藤景、同弟長尾右衛門、桃井清七郎、(以下略)

・永禄4年3月12日
(小田原城攻めに参加した武将として)御一族ニハ上田城主長尾越前守政景、能州三崎城主上条弥五郎政繁、栖吉城主長尾右京亮景信、越中戸山城主長尾小四郎景行、(以下略)

・永禄4年12月
依之政虎公ヨリモ長尾右京亮満景ヲ古河ニ付置レ

・永禄10年8月上旬
重ネテ助勢トシテ御一族ノ内、上杉十郎、山本寺伊予守

・天正3年正月上旬
飛州退治有ヘキトテ、諸勢ヲ催サル、先大将ニハ山浦源五国清、長尾右京亮景信ニ軍兵数多差添ラル

・天正3年3月
御一族並越府ノ大家ニ軍役ヲ定ラル。(中略)、長尾喜平次殿、山浦源五国清、上杉十郎景行、上条弥五郎政繁、長尾弥七郎景通、山本寺伊予守定景、(以下略)

・天正6年6月11日
景虎ノ将士ハ上杉十郎信虎ナリ、(中略)、敵将上杉十郎小田口ニ於テ村田討取シカハ、敵軍乍チ敗崩ス。抑上杉十郎信虎ハ公ノ御一族ニテ、長尾右京亮景信ノ男ニテ始メ長尾十郎景満ト云、後称号ヲ賜リ上杉十郎信虎ト号ス。

・天正11年7月12日
(本庄繁長について)剰ヘ座列ニ於テハ上杉十郎信虎ノ席ニ居ルヘシ。若他日信虎ノ家督ヲ立ラレハ、出仕ノ時ハ隔日タルヘキ旨御懇ノ仰ヲ蒙レリ。抑十郎信虎ハ戌寅ノ役ニ三郎景虎ニ従属シ、六月十一日大場表ニ於テ討死ス。


以上をまとめると、「長尾十郎景信」が所見一件、「長尾右京亮景信」は所見三件、「上杉景信」や「上杉十郎景信」は所見されない。また、「長尾十郎景信」の唯一の所見永禄2年10月においても「長尾右京亮」が続けて記され、混同があるようにも思える。従って、『上杉御年譜』から推測される景信の通称は「右京亮」である。

また、『御年譜』の中にも「栖吉城主」という所見があり、景信が通説において栖吉長尾氏と位置づけられる原因の一つである。しかし、これは息子信虎が古志上条上杉氏を継承した点との混同と見られ、事実とは考えられない。確実な史料では景信と栖吉長尾氏との接点は皆無であり、実際に栖吉長尾氏の系譜を検討した際も景信の関与を認められなかった。

軍記物の中では『北越軍談』に「古志民部少輔景信」、『川中嶋五箇度合戦之次第』に「古志景信」といった表記が見られ、これらの無批判な利用も誤解の一因であろう。

過去記事はこちら


さらに、『謙信公御書集』を見る。

・永禄2年1月
上洛に際して供奉する重臣が列挙される。
「長尾右京亮景信、同遠江守藤景、柿崎和泉守景家、御籏奉行吉江織部佑景資、北條下総守高常等也」

・同年4月
同様に上洛の記述中に、「長尾右京亮景信」が見える。

・同年11月
帰国を祝う武将の中に、「長尾右京進景信」「長尾十郎景満」


『謙信公御書集』においても『御年譜』と同様、景信=右京亮という認識である。


2>文書からみる景信
[史料1]『栃木県史』史料編中世一、565号
就當城江被移 御座候、為御祝儀、御扇・抹茶被進之候旨、令披露候処ニ、尤珍重被思召候由、被成 御内書候、次拙者江五明被懸御意候、畏存候、猶従是可申候、恐々謹言、
   八月廿九日     景信
   千手院 貴報

[史料2]同上、576号
就御當城御鎮座之儀、急度従御衆中御祈祷之巻数并御樽一荷、御肴三種、進納、珍重之義候、并従貴院扇子両金、抹茶一壺、別而御進上之段、条々目出被思召候、将又愚所へ扇子両金、被懸御意候、毎事御懇志之至候、自 上意御内書被成之候間、可為御祝著候、猶期後音候、恐々謹言、
八月廿八日   岌長
謹上 千手院 貴報

実名「景信」は[史料1]から明かになる。[史料1]は[史料2]と共に永禄4年に比定される文書である。この文書は佐藤博信氏の研究に詳しく(*1)、内容は近衛前嗣の古河城入りを伝えるものである。ここから、永禄4年に景信が近衛前嗣、足利藤氏、上杉憲政の三人が在城した古河城に景信が配置されたことがわかる。


[史料3]『越佐史料』四巻、370頁
上意之段、無御余儀候、弓矢甲乙更不可有御不足候、此口へも晴信・氏康合手相動候、政虎依備手堅、敵之動至于今日無一道候間、敗北之義眼前候条、其元御備も可為堅固候、何篇ニも公方様御進退、梁田可被任置之段、方々へも能々可申上候、此分者、敵可敗軍候間、翌日向佐野政虎可出馬之条、其時分公方様可奉拝候、此上之備心安可存候、謹言、
  十二月九日     政虎
   長尾右京亮殿

[史料4]『新潟県史』資料編5、3422号
上洛之已後、早々以使者礼儀可申候処ニ、兎角取乱背本意候、余ニ遅延之間、以脚力申候、在国中者、種々懇意之次第、誠以喜悦之至候、条々可然様輝虎へ伝越頼入候、猶々向後切々可申候条、弥入魂可為本望候也、
  八月十一日                   (近衛前久花押)
    本庄美作入道とのへ
    直江大和守とのへ
    長尾右京亮とのへ
    河田豊前守とのへ

[史料3]は永禄4年、[史料4]は永禄6年に比定されている文書である。ここに長尾右京亮が所見される。[史料3]からは永禄4年に長尾右京亮が古河城に在城していたことがわかり、[史料4]は右京亮が近衛前嗣と関係があったことを示す。

つまり、[史料3][史料4]における右京亮の活動内容と、[史料1]で見られる景信の活動内容が一致する

よって、文書からも永禄期の長尾右京亮が景信のことであると推定できる。


ちなみに前回検討した信虎は天文末期の元服と推定されるから、景信は永禄4年頃に40歳前後ではないか。その場合、永正末期から大永期の誕生である。


3>景信と上杉姓
続いて、景信と上杉姓について考察する。上杉信虎の検討の記事において検討したが、ここでは景信側の視点から再び検討する。


まず、『上杉御年譜』において一貫して長尾姓で所見されている点がある。実際に上杉十郎信虎は景信と別人であることは、ここまで述べてきた通りである。

また、[史料4]から永禄6年時点で長尾姓を名乗っていたことが史料的に明らかである。何度も言うように景信は永禄期には右京亮を名乗っていたから、「長尾右京亮」を名乗った後に仮名十郎を名乗ったとは考えにくい。「上杉十郎景信」という名乗りには矛盾点が多く不自然である。


景信が上杉十郎と同一人物と誤った解釈がされた原因は、『上杉御年譜』に景信が「栖吉城主」とあったことで、享禄4年越後衆連判軍陣壁書写(*2)の「十郎」や永禄2年『越後平定太刀祝儀次第之写』の「越ノ十郎」と景信を結びつけてしまった結果であろう。

古志上条上杉氏と栖吉長尾氏の鑑別、また「上杉十郎」の人物比定が不十分であったことが原因である。


以上から、景信は上杉氏を名乗らず、長尾氏として生涯活動したと推測できる。仮名については史料がなく、実際のところは不明である。


4>景信の妻
前回、上杉信虎の母=景信の妻が長尾為景娘と推定されることに言及した。ここでより詳しく説明したい。


米沢藩の作成した戒名書上『公族及将士』がある。片桐昭彦氏の研究(*3)によると長尾為景の血縁者が載る史料という。

その中に、「秀林永種大姉 小四郎との御ろうバさま」という人物がいる。秀林永種は『越後過去名簿写本』にも見え、そこには天文23年11月「越後春日山長尾御屋敷小四郎殿為ニ老母立之」とあり長尾小四郎が母を供養したことがわかる。

つまり、小四郎景直の母は長尾為景の縁者であり、景直自身は春日山に居住し「御屋敷」と呼ばれていたことが明らかになる。片桐氏は秀林永種を、「謙信の姉妹かごく近親者」と推定している。景直は『越後長尾殿之次第』より景信の末子と推定されるから、景信の妻が為景の近親とわかる。


さらに、米沢藩により延宝5年に作成された『先祖由緒帳』歌川氏に関する部分において「長尾小四郎頼景と申、 宗心様甥子様ニ御座候、越中四郡被進候」とある。つまり、「長尾小四郎」=景直が「宗心様」=上杉景勝の甥である、という所伝である。江戸前期の成立であり一定の信憑性のある所伝ではあるが、天文23年から活動している景直が景勝の甥とは考えられない。

すると、"上杉景勝の甥"は"上杉謙信の甥"の誤りであると推測できる。すなわち、為景の近親と推定された景信妻は、具体的に謙信姉妹=為景娘であったことが推測できるのである。

景直の活動時期からその女性は謙信の姉であろう。


また、片桐氏は『公族及将士』に見える「一峰源統禅定門」が「御やしき」と記されていることからこの人物を「小四郎の先代で御屋敷を称する長尾氏の当主であったとみられる」としている。この場合、その法名は長尾景信のものである可能性がある。秀林永種の夫として記されたのだろう。



以上、長尾景信について検討した。右京亮を名乗り、一貫して上杉氏ではなく長尾氏として存在したことを述べてきた。また、古河城の守備や鑁阿寺との交渉を任されるほどの信頼も得ていた。景信の存在が長尾景虎/上杉謙信にとって重要であることは間違いないといえる。

次回に、景信の父景明と『越後長尾殿之次第』に見える一族の系譜関係について検討していく。


参考:関連文書一覧
永禄4年8月29日千手院宛長尾景信書状(『栃木県史』史料編中世一、565号)
永禄4年8月29日鑁阿寺宛長尾景信書状(同上、132号)
永禄4年12月9日長尾右京亮宛上杉政虎書状(『越佐史料』四巻、370頁)
永禄6年8月11日長尾右京亮他三名宛近衛前久書状(『新潟県史』資料編5、3422号)



*1)佐藤博信氏「越後上杉謙信と関東進出」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)
*2)『新潟県史』資料編3、269号
*3)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)


上杉十郎と「信虎」

2021-10-02 13:31:08 | 上条上杉氏
永禄期から天正期にかけて、上杉謙信の一門として「上杉十郎」の活動が見られる。

私は以前にこの上杉十郎を実名「信虎」として古志上条上杉氏を継承する存在とした(*1)。

結論から言えば、長尾景虎・上杉謙信期に所見される「上杉十郎」は全て「信虎」に比定される。従来、長尾景信が「上杉十郎」に比定されることが多いが、信虎は景信の息子と推定される。つまり、景信を「上杉十郎」に比定する通説は誤りであり、景信は上杉姓を名乗っていないと考えられる。

『越後長尾殿之次第』などから長尾景信は上田長尾顕吉の長子景明の嫡子であり、『公族及将士』、『先祖由緒帳』などから妻は長尾為景の娘である、と推測される。

景信が「古志」であり「上杉十郎」であるとする通説は、信頼性の劣る史料の無批判な利用が招いた誤りであると思われ、そういった通説が浸透している現状は好ましくないと感じている。

今回から、数回に分けて長尾景明、長尾景信、上杉信虎、長尾景直、長尾景満を検討し、彼ら一族に関して包括的な研究を行っていきたいと考えている。

長尾景信と上田長尾氏云々については次回以降に検討するとして、今回はまず上杉十郎信虎について詳しく検討していく。


1>実名「信虎」について
始めに、文書において確認することのできない実名「信虎」について妥当性を評価したい。

後掲のように『上杉御年譜』、『謙信公御書集』、『覚上公御書集』、『本庄系図』などで「信虎」と伝えられている。


ここでまず疑問となるのは、上杉謙信(長尾景虎)からの偏諱と想定される「虎」字を後ろに置く点である。これについては、平山優氏の研究(*2)が参考になる。

平山氏は『本山寺文書』にある永禄4年書状の署名「小笠原喜三郎貞虎」について、後の小笠原貞慶であることを明かにし、その「虎」字は父小笠原長時と共に越後に滞在していた際に長尾景虎から拝領した可能性が高いと指摘している。

小笠原父子の越後滞在は『小笠原系譜』を始めとした後世の系図、編纂物だけでなく、同書状文中に「今度下国」とあることからも読み取れ、信憑性は高い。

小笠原貞虎の偏諱は永禄元年の元服の際と推測されているから、後述する信虎の推定元服時期とも近い。信虎の「虎」字も景虎からの偏諱と見て矛盾ない。


では、同じ上杉一族の上杉景勝や上条政繁らと異なり、信虎が与えられた一字を後ろに置く理由はなんだろうか。

私は、それが元服の時期にあると見る。他三名は既に上杉氏を継承した上杉謙信(政虎/輝虎)によって偏諱がなされたため通常の形を取ったが、信虎は謙信が未だ守護代長尾景虎として活動する天文末期に古志上条上杉氏として元服している。このため、当時の景虎から目上の存在である上杉氏一門への偏諱となり、特殊な形となったのではないか。

小田原北条氏において北条氏康が世田谷吉良氏に対し偏諱を行った際、高い家格に配慮し「吉良頼康」と名乗らせた事例はこれに類似するものであろう。


複数の所伝類に伝えられ、偏諱の整合性も取れることから、上杉十郎は実名「信虎」を名乗ったと推測できる。


2>編纂物に見える信虎
ここで代表的な編纂物における信虎の所見を紹介したい。

『上杉御年譜』
・天正3年3月
「御一族並越府ノ大家ニ軍役ヲ定ラル(中略)、長尾喜平次殿、山浦源五国清、上杉十郎景行、上条弥五郎政繁、長尾弥七郎景通、山本寺伊予守定景」

・天正6年6月11日
「景虎ノ将士ハ上杉十郎信虎ナリ、(中略)、敵将上杉十郎小田口ニ於テ村田討取シカハ、敵軍乍チ敗崩ス。抑上杉十郎信虎ハ公ノ御一族ニテ、長尾右京亮景信ノ男ニテ始メ長尾十郎景満ト云、後称号ヲ賜リ上杉十郎信虎ト号ス。」

・天正11年7月12日
「(本庄繁長について)剰ヘ座列ニ於テハ上杉十郎信虎ノ席ニ居ルヘシ。若他日信虎ノ家督ヲ立ラレハ、出仕ノ時ハ隔日タルヘキ旨御懇ノ仰ヲ蒙レリ。抑十郎信虎ハ戌寅ノ役ニ三郎景虎ニ従属シ、六月十一日大場表ニ於テ討死ス」


『謙信公御書集』、『覚上公御書集』
・天正3年2月
(上杉家軍役帳の成立に伴い)「御一族、長尾喜平次顕景、山浦源五国清、上杉十郎信虎、上条冝順斎政繁、山本寺伊予守定景」

・天正6年5月13日
(御館の乱勃発に伴い)「上杉十郎信虎嫡子同惣四郎憲藤父子入テ御館城也」
・天正6年6月11日
(大場口・高田口での合戦に伴い)「高田口大将上杉十郎信虎」「大将上杉十郎信虎討捕之就得大利」「村田勘助今般於居多浜上杉十郎方討捕依抽忠信」


『本庄系図』
・「同(天正)十一年七月十二日有命為上杉十郎信虎名跡賜幕之紋竹雀及信虎座席」
・「繁長 室 上杉十郎信虎妹永禄八年十月廿四日卒法名華渓貞香大姉」
・「顕長」「母上杉十郎信虎妹」


『本荘氏記録』
・永禄6年
「繁長嫡子出生 号新六郎 母ハ上杉十郎信虎ノ妹」
・天正11年
「御館一乱以来 数度ノ忠勤ヲ感セラレ 御一族上杉十郎信虎ノ命跡ニ命シ


このように多くの史料が上杉十郎を「信虎」としている。さらに、『上杉御年譜』では信虎の父は長尾景信であることが示されている。「上杉十郎景行」、「十郎景満」とされている部分があるが、これは信虎の兄弟との混同である。

信虎の兄弟については次回以降検討するが、『越後長尾殿之次第』より「景満」は信虎の次弟長尾右京亮景満、景行は末弟長尾小四郎景直との混同と推測される。


『覚上公御書集』では、「上杉十郎信虎嫡子同惣四郎憲藤父子」との記述がある。この「憲藤」は『藤原姓上杉氏系図』には関東管領上杉憲政の二男「宗四郎 憲藤」として載る。

信虎の息子については他に所見がなく定かではないが、信虎の養子として上杉憲政の息子憲藤が入っていた可能性を示唆する記録である。


3>信虎の活動時期
さて、ここからは信虎の活動時期を推測する。そのために、まず元服時期を推定していく。


『越後過去名簿』から天文23年11月に「長尾御屋敷小四郎殿」が自身の母の供養を依頼していることがわかっている。この人物は長尾景直のことであり、『越後長尾殿之次第』より信虎の末弟と推測される。

よって、景直の兄である信虎は天文23年以前に元服を済ませていたと考えられる。二人の間には次子景満もいることを考えると、信虎の元服は天文10年後半のことではないか。


また、『本庄系図』『本荘氏記録』より信虎の妹が本庄繁長に嫁ぎ、その子新六郎を生んだとされている。新六郎は永禄12年土佐林禅棟書状(*4)に「千代丸」の幼名で、天正6年上杉景虎書状(*4)に「新六郎」として見え、その存在は確実である。

つまり、永禄6年時に繁長妻=信虎妹は出産可能年齢であったことがわかり、系図類の所伝より当時夫の繁長が25歳であることを加味すれば、その女性は10代後半から20代前半であろう。すると、その時点で兄信虎はそれ以上の年齢であり、元服は永禄初頭以前となる。


本庄繁長は天文20年までは署名「弥次郎 長」(*5)などとあるが弘治4年には「弥次郎 繁長」(*6)と初めて実名で署名しているから、元服はこの間にあったと推測される。『本荘氏記録』などには天文22年15歳で初めて春日山城へ登城した、とあるから元服はこの年の可能性がある。

すると、繁長と同世代の信虎もやはり天文末期頃の元服と見られる。上述の推測と矛盾ない。

よって、信虎の元服は天文期後半であり、永禄期以降に所見される「上杉十郎」は全て信虎を指すとみて間違いない。


『越後平定以下太刀祝儀次第写』永禄2年の項にある「越ノ十郎」は信虎のことであり、初見となる。


また、古志上条上杉氏の歴代の仮名「十郎」を名乗ることから信虎の入嗣は計画的であったと推測されるわけだが、古志上条上杉氏として天文後期に活動したと推定される上杉頼房は『越後過去名簿』より天文22年に死去したことが明かであり、信虎の元服時期に近い。


ちなみに信虎が古志上条上杉氏を継承した点であるが、『越後長尾殿之次第』(*7)に「先代管領於古志郡被下陽谷院殿跡称上杉」つまり、長尾景虎の命で古志上杉氏の跡目を継いだとある。ただ、先代頼房の跡目ではなく天文3年に死去した先々代「陽谷院殿」=古志上杉定明の跡目とされている。

『越後過去名簿』には永禄3年2月に「越後上杉十郎殿優婆」が供養された記録が残る。永禄期であるから、「上杉十郎」は信虎を指す。「優婆」は祖母を表わすと思われるが、それ以上のことは不明である。実母は景直が供養依頼していることから、信虎の供養依頼は古志上条氏に関係する女性と考えられ、具体的に言えば、義理の祖母にあたる上杉定明の妻となる。この定明妻と信虎の関連性が、上記の所伝に繋がった可能性もあろう。


以上、信虎は天文前期に誕生、天文末期に古志上条氏である上杉頼房の死去の前後でその名跡を継承したと考えられ、それ以降天正6年までに所見される「上杉十郎」は全て信虎を指すといえる。そして、天正6年御館の乱で戦死する。

天文末期の元服時から考えると、没年は50歳前後であろう。


4>信虎と政治的位置
では、信虎は長尾景虎・上杉謙信体制の中でどのような立ち位置だったのだろうか。


まず信虎自身、守護代長尾氏の血縁である。

長尾為景の血縁者が載る米沢藩の戒名書上『公族及将士』に、長尾小四郎の母「秀林永種」が記されており、片桐昭彦氏(*8)は為景の娘と推定している。

さらに、米沢藩作『先祖由緒帳』に長尾景直が上杉謙信の甥であることが示唆されている(*9)。

つまり、景直母=景信妻は長尾為景娘=上杉謙信姉妹であったといえる。年齢から見て、謙信の姉であろう。

信虎も景直と同腹の場合その母は為景娘であったことになる。古志上杉氏を継ぐ立場を考えると側室の所生とは思えず、信虎も景直と同様に為景娘を母に持つと見てよいだろう。


また『諸士系図』を見ると、天正6年6月に「小田口」=居多浜で戦死した人物が信虎にあたる。その人物は父を「右京 景信」とし、実名は「景行」別名を「上杉十郎景満」とされ、これも信虎とその兄弟を混同している。

ここにおいて、「室 晴景女」と記載のある点が注目される。つまり、上杉信虎の妻は長尾晴景の娘、上杉謙信の姪にあたる人物であった可能性がある。

同系図はその内容について信頼性に問題はあるが、信虎が「十郎殿」として尊重されていた点を踏まえれば、その妻が「晴景女」であった加能性は十分に考えられる。


また、先述したように『覚上公御書集』の記載から信虎の後継として上杉憲政の二男憲藤が予定されていた可能性も想定される。


以上から信虎は、兄弟や子供に恵まれなかった謙信にとって血筋で最も近い存在であったと推定される。



ここまで、上杉十郎信虎について検討した。従来、長尾景信との混同などによりわかりにくい点が多かったが、ある程度整理できたと思っている。後日、長尾景信について検討した記事も掲載する予定であり、そちらとも照らし合せてもらうと、より「上杉十郎」の人物比定について理解していただけると思っている。

また参考として末尾に、上杉信虎に関連する文書を挙げておく。


参考:関連文書一覧
永禄11年8月10日須田左衛門大夫他四名宛上杉輝虎書状(新4312)
永禄11年8月18日柿崎和泉守・直江大和守宛上杉輝虎書状(上613)
元亀4年4月20日上杉十郎他十四名宛上杉謙信書状(越5-173)
天正2年8月3日上杉十郎他三名宛上杉謙信書状(越5-236)
天正6年6月11日村田勘助宛上杉景勝感状(越5-522)
天正6年6月12日菅名孫四郎他三名宛上杉景勝書状(上1542)
天正6年6月22日板屋修理亮宛上杉景勝書状(越5-534)
天正10年4月19日芋川越前守宛上杉景勝判物(越6-181)
天正11年7月12日本庄越前守宛上杉景勝判物(越6-459)
年不詳8月1日上杉輝虎書状(新2898)

新=『新潟県史』資料編、上=『上越市史』別編、越=『越佐史料』


*2)平山優氏『天正壬午の乱・本能寺の変と東国戦国史』(学研パブリッシング)
*3)『越佐史料』四巻、749頁
*4) 『上越市史』別編2、1686号
*5) 『新潟県史』資料編4、1985号
*6) 同上、1119号
*7)『越後長尾殿之次第』において古志上杉氏を継いだ「上杉十郎」は「景信」とされるが、御館の乱に伴い居多浜で戦死したという事蹟が記されており、信虎との混同である。
*8)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)