鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

水原親憲と大関氏

2021-01-23 20:38:48 | 大見水原氏
越後国古志郡には大関氏が存在し、只見氏や庄田氏に並ぶ栖吉長尾氏重臣として位置づけられている(*1)。また、天正期以降に活動が見られる水原親憲は始め大関氏を名乗っている。今回は大関氏の系譜を検討し、その上で水原親憲との関連を探ってみたい。


文明末期の『長尾飯沼氏等検地帳』(*2)において、飯沼遠江守輔泰の被官として高波保名木野に「大関与三左衛門尉」、同保上条乙吉に「大関太郎左衛門尉」が確認できる。よって、この時点ではまだ栖吉長尾氏との被官関係が形成されずに飯沼氏との繋がりが深かった、と推測される。

明応後期から永正初め頃のものと推測される長尾能景書状(*3)では能景が栖吉長尾丸に「御被官大関蔵人丞」と述べており、明応年間の栖吉長尾氏への被官化が想定される。

明応6年7月に役銭納入を記載した大関政憲外三名連署役銭注文(*4)から、栖吉長尾氏領内の役銭収納に「大関勘解由左衛門尉政憲」と「大関蔵人丞貞憲」らがあたったことがわかる。大関氏の栖吉長尾氏被官化は文明末期から明応5年までと言えるだろう。

同注文では役銭を徴収された人物の中に「大関孫六」も確認される。また、諸史料からは大関掃部、大関式部、大関五郎左衛門などの一族も確認されるという(*1)。

大永7年には大関氏の五十嵐保内の所領を巡って、山吉氏と栖吉長尾氏との間で交渉が持たれている(*5)。

享禄の乱に際して、享禄3年に長尾為景に攻められ「松ヶ岡」から現在の福島県金山町付近の領主山内氏へ逃亡した人物として「牢人寺内長門守、大熊新左衛門、大関一類」が挙げられている(*6)。金山町は古志郡から会津へ抜ける線上に位置し、「大関一類」が古志郡大関氏である可能性も考えられる。

『越後平定以下祝儀太刀次第写』において永禄2年に太刀を献上した者の中に「大関殿」が見える。

永禄3年渡辺綱外六名連署起請文(*7)には大関氏として「大関平次左衛門尉実憲」と「大関勘解由左衛門尉定憲」の二名が見える。

御館の乱中天正8年には上杉景勝が栃尾城本庄清七郎を没落させたことによって佐藤氏や安部氏に栃尾在城を命じると共に土地をあてがっており、その中に「大関平次左衛門」と「大関蔵人」分の土地が見える(*8)。ここから、大関氏は栃尾本庄氏に従い御館の乱において没落したことがわかる。


官途名は明応期から「~左衛門尉」「蔵人」で共通しており、一貫した系統であるといえる。いくつかの史料では大関氏として二人が並んで記されており、有力な家系が二つあったのではないだろうか。


次に、始め大関親憲を名乗り後に水原氏を継承した水原親憲について検討していく。

天正7年2月に上杉景勝へ小平尾城を攻め落とした「大関」(*9)が親憲のことと考えられ、これが初見である。小平尾城は古志郡に近接した魚沼郡の城である。

翌年5月には「大関弥七」が栗林政頼、深沢利重らと共に行動していることが確認される(*10)。

天正11年には「大関常陸介」の名で越中において活動する様子が確認され(*11)、天正12年にも「大関常陸介」が文書上にみえる(*12)。

天正16年1月の日付を持つ「上杉景勝一座連歌」(*13)には「水原常陸親憲」とあるが、この年末に「長」字を与えられるはずの千坂長朝が既に「千坂与市長朝」と記載されるなど後世の手による点もあるから、これを根拠としてこの時点で水原氏を名乗ったとは断定できない。

事実、文禄3年2月には上杉景勝から「大関常陸介」宛てに朱印状が発給されている(*14)から文禄初期まで大関氏を名乗ったと考えられる。

『文禄三年定納員数目録』において「水原常陸介」が確認できる。以後、慶長年間には「水原常陸介」として確認される。

このように、親憲は文禄初期まで大関氏として所見されており、『平姓水原氏系図』、『平姓水原氏系譜』に伝えられる天正14年春の水原氏継承は認めがたい。水原氏には小田切氏からの入嗣問題が生じるなど水原氏の家督が円滑に継承されなかったことが史料的に明らかであるから(*15)、親憲の水原氏継承が文禄年間であってもおかしくはない。


次に、親憲の出自を考えてみる。結論から言えば、上述の古志郡を拠点とした大関氏の一族であったといえる。

まず、語られることが多い浦佐との関係について確認したい。例えば『日本城郭大系』は浦沢城(浦佐城)について「戦国時代末期に上田長尾氏の家臣大関親憲が水原に移って以後の天正6年に清水左衛門が在城した」とする。『越後野志』にも、大関親憲が浦佐(浦沢)城主であったとの記述があるという。

しかし、浦佐やその周辺地域の文書に大関氏の名前は一切ない。例えば、浦佐普光寺には多数の文書が残存するがそのほとんどは長尾氏のものである。『越後過去名簿』にも「浦佐長尾」なる人物が見られる。主要な上田衆約50名が記される永禄7年上杉輝虎感状(*16)においても、大関氏は見えない。浦佐やその周辺に領主として大関氏が存在した痕跡がない、ということである。

すると、親憲と浦佐の関係は御館の乱時の行動が誤伝されたのではないかと思う。上述したように天正7年には関越国境近辺の守備を担当する栗林政頼、深沢利重と行動を共にしており、関越国境に近い浦佐城と関わりがあったとしてもおかしくはない。


では、古志郡大関氏との関係をみていきたい。

まず、親憲の父であるが、『平姓水原氏系図』、『平姓水原氏系譜』では「大関阿波守盛憲」とする。『上杉御年譜』では永禄4年に「大関阿波守盛憲」という人物が登場する。『御家中諸士略系譜』は「大関阿波守親信」の子とする。どちらにせよ一次史料には現れず、後述する御館の乱における動向を考慮しても親憲は庶流であろう。また、『平姓水原氏系図』などは親憲を越中生まれとするが、これも浦佐同様に越中での一時的な活動から派生した誤伝であろう。

『平姓水原氏系図』では盛憲の叔父に「大関平次左衛門尉定憲」(ママ)、「大関勘解由左衛門尉定憲」がいたとし、『平姓水原氏系譜』では盛憲の弟に「大関平次左衛門尉実憲」、「大関勘解由左衛門尉定憲」がいたという。大関実憲、定憲は先述した永禄3年起請文(*7)によって古志郡大関氏と確認できる。よって、ここに親憲が古志郡大関氏の一族であったことが明確にされる。御館の乱において没落した大関氏として平次左衛門尉、蔵人の二人が確認されるから、一族において上杉景勝方、上杉景虎方のそれぞれに分かれたことが窺われる。

御館の乱において親憲が古志郡に近い小平尾城攻めたというのも、古志郡大関氏出身であることと関係が深いと推測される。実名「親憲」も大関氏の通字「憲」を踏まえたものであろう。


以上、大関親憲(弥七郎/常陸介)、後の水原親憲は古志郡大関氏出身であり、文禄3年頃に水原氏を継承したことを確認した。また、大関氏の動向は飯沼氏や栖吉長尾氏との被官関係や御館の乱における分裂など、戦国期中小領主の存在形態を如実に表わしているようで興味深いといえる。


*1)阿部洋輔氏「古志長尾氏の郡司支配」(『上杉氏の研究』、吉川弘文館)。また当ブログにおいて「古志長尾氏」という表現を用いてきたが、今回から同氏をその本拠にちなんだ「栖吉長尾氏」という表記に改める。以前のページ中で使用されている部分も変更した。同氏については別の機会に検討したい。
*2)『越佐史料』三巻、271頁
*3)同上、424頁
*4)同上、407頁
*5) 『新潟県史』資料編3、452号、485号、当「山吉景盛の動向」参照
*6)『越佐史料』三巻、774頁
*7) 『新潟県史』資料編3、561号
*8)『越佐史料』五巻、786-787頁
*9) 『上越市史』別編2、1757号
*10) 『越佐史料』五巻、764頁
*11)『新潟県史』資料編5、3472、3473号
*12) 『上越市史』別編2、2954号
*13) 同上、3208号
*14) 同上、3583号
*15) 『新潟県史』資料編4、1671号、当「水原氏の系譜」参照
*16)『新潟県史』資料編5、2478号

大見水原氏の系譜

2020-11-07 20:57:05 | 大見水原氏
戦国期越後における大見水原氏の系譜を整理してみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編4、1524
 譲渡文書重代并当知行所々事
一所 白川庄内水原条并船江条
一所 山浦一分方
一所 豊田庄本田村
一所 新御恩黒川知行内所々
一所 新御恩津波目分         (長尾能景裏花押)
 右所領者、為又三郎景家名代譲渡処実也、不可有他妨候、仍譲与状如件、
  明応六年丁巳十二月十三日       憲家
    水原又三郎殿

明応6年には[史料1]にあるように、水原憲家から又三郎景家へ家督が譲られている。

憲家は伊勢守を名乗り(*1)、景家は死去時まで又三郎である(*2)。よって、文亀3年に知行の検断不入を認められている「水原伊勢守」も憲家である。

永正3年9月に長尾能景が越中に出陣し般若野の戦いで戦死するが、この戦いで景家が戦死している(*2)。この際、景家息女「水原祢々松女」に対して上杉房能は「雖為女子、遺跡事相計、以代官軍役奉公勤之、当地行領掌不可有相違」と伝えている。これを『越佐史料』は「遺子ヲシテ相続セシム」と解釈し、渡辺勇氏(*3)も祢々松が水原氏を継承し短期間の支配の後にその伯父政家が相続した、としている。


永正17年5月には長尾為景が「水原伊勢守」に「御舎兄伊勢守憲家遺跡并本新当知行地事、此如間、御執務不可有相違」と伝えている(*1)。この時点で憲家の弟である政家が伊勢守を名乗り水原氏を継承したと考えられよう。

享禄4年1月越後衆軍陣壁書写(*4)において「水原伊勢守政家」という署名が確認される。天文4年には天文の乱で長尾為景と対立する上条定兼(前名、定憲)の味方として政家が活動している様子がわかる(*5)(*6)。『越後過去名簿』の天文5年5月に供養された記録がある「等巖成公 水原トノ」は政家を指す可能性があろう。


『越後平定以下太刀祝儀写』には永禄2年に太刀を献上した者の中に、「水原小太郎」が所見される。政家の次代にあたるだろう。永禄後期と思われる上杉輝虎書状(*7)には宛名として「水原蔵人丞殿」が確認でき、小太郎の後身であろう。


天正3年の『上杉家軍役帳』には「水原能化丸」が記載されている。小太郎/蔵人丞の次代とみて良いだろう。天正5年3月の梶原政景書状(*8)の宛名、天正6年跡部勝資書状(*9)の宛名に「水原弥四郎殿」が見られ、能化丸の後身であろう。


「平姓水原氏系譜」によれば、政家-隆家-実家-満家、と続くとしており、これは一次史料からみえる水原氏の世代数とも一致する。よって、上記の小太郎/蔵人丞は隆家に、能化丸/弥四郎は実家に比定できる。共に一次史料では確認できない実名ではあるが、前後の政家、満家は確認され、永禄から天正にかけての細かい人物の変遷とも合致することなどから信用できるのではないか。実家と満家は年代的に父子関係とは考えにくく、年代的に推測すれば二人は兄弟で共に隆家の子であろうか。


天正10年3月には「水原平七郎満家」の活動が見える(*10)。弥四郎の次代であろう。この満家は、天正10年10月新発田重家の乱に関連した放生橋の戦いにおいて戦死した、と『景勝一代記』『管規武鑑』に伝わる(*11)。

『景勝一代記』『越後治乱記』は満家戦死後、水原氏家臣の二平(二瓶)氏が水原城に置かれていた荻田三左衛門を殺害して新発田方に寝返ったと伝え、『管規武鑑』は、満家戦死後水原城を家老細越氏が預かるも、同年12月に番手衆の過半を殺害して新発田氏へ降った、とする。すなわち、満家の死を契機に水原城が新発田氏の支配下になったと想定される。

のち水原城は上杉方に奪還され、『増補改訂版上杉氏年表』(*12)や『上越市史通史編2』では、天文15年5月13日のこととしている。


満家の次代として大関親憲が入嗣する。のち、慶長末期の大阪の陣などでの活躍は有名である。『文禄三年定納員数目録』には「水原常陸介」として確認される。親憲についてはまた別の機会に詳しく検討したい。

しかし、親憲の入嗣に至るまで水原氏の家督について問題が生じている。


[史料1]『新潟県史』資料編4、1671号
尚々下衆廿九日風雨之きらいなくうちこし申へく候由、いかにもいかにもきふく可申付候、
今度当方不安弓矢にて候間、下衆ことごとくまかり立へきの由、可申付候、然者小田切左馬助子すいばらの名代つき候とて越後へうちこし候由呼候、当方のもの越後へうちこし候事ハ、謙信代よりきふく申あハせ、たかひにこさす候、せひうちこし候ハハ、くちおしかるへく候、ゆくえのためにて候間、理候、かしく、

[史料1]は年不詳、差出人宛名不明の文書であるが、その内容は注目すべきものである。伝来と文脈から蘆名氏よりその配下で越後小河庄を拠点とした小田切氏への書状であろう。要約すると、満家の戦死の後に小田切左馬助の子が水原氏を継ぐ計画があったが、謙信時代に蘆名氏と上杉氏の間では”互いに越さず”ことをきつく結んでおり、将来のためにも中止するように命じた、となる。

ここから、謙信は戦国大名領国下での領主統制の一環として、近隣大名と相互に傘下領主の入嗣禁止協定を結んでいたことが明らかになる。謙信の領主層に対する支配体制の一端について具体的に記されている貴重な文書である。また、これは上杉氏、蘆名氏が共に支配下領主を自勢力と他勢力にしっかり線引きしていたと捉えられ、大名による領国境界の形成、維持に関する好史料ともいえる。


以上戦国期水原氏の系譜をまとめると以下の通りである(明らかに父子関係でない部分を=で表わした)。

憲家(伊勢守)-景家(又三郎)-祢々松=政家(伊勢守)-隆家(小太郎/蔵人丞)-実家(能化丸/弥四郎)=満家(平七郎)=親憲(常陸介)


*1)『新潟県史』資料編4、1529号
*2)同上、1528号
*3)渡辺勇氏『水原氏の研究』、水原町教育委員会
*4)『新潟県史』資料編3、269号
*5)『越佐史料』三巻、811頁
*6)同上、823頁
*7)『新潟県史』資料編5、3275号
*8)『越佐史料』五巻、373頁
*9)『新潟県史』資料編5、3475号
*10)『越佐史料』六巻、138頁
*11)『景勝一代記』には「菅名但馬守、水原、上野九兵衛討死也」とある。
*12)『増補改訂版上杉氏年表』編池亨・矢田俊文、高志書院