鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

千坂氏の系譜

2020-11-28 16:30:13 | 千坂氏
越後上杉氏譜代の重臣として千坂氏がいる。その系譜を検討してみたい。

まず、木村康裕氏の研究(*1)に拠れば、長享2年に『蔭涼軒日記』の中で、長尾氏、石川氏、斉藤氏、平子氏が「古臣」「評定衆」とされ、このうち長尾氏、斉藤氏、千坂氏に飯沼氏を加えた四氏が守護の意向を元に発給される奉書に署名が見られるという。

片桐昭彦氏(*2)は千坂氏について、享徳元年(*3)から文明10年(*4)に所見される対馬守定高、文明12年(*5)から明応5年(*6)までみえる対馬守実高がおり、父子関係と推測、さらに『文明検地帳』に見える千坂七郎三郎、康正3年請取状(*7)などに見える千坂与五郎高信を千坂氏一族としている。

また、長享元年中条定資書状(*8)に「千坂千松軒」が所見され、定高と思われる。「千松軒御在世之上者、不可有私曲候」とあるから、高齢でありならも存命であったことが窺われる。これが定高の終見であろう。


さらに、明応7年には千坂能高が所見される(*9)。実高の後継とみられる。仮名、官途名、受領名は不明である。


永正10年(1513)2月上杉氏老臣連署奉書写(*10)に「右衛門尉景長」、同年8月老臣連署奉書においても「景長」(*11)が、永正18年(1521)越後長尾氏被官連署契状(*12)に「千坂藤右衛門尉景長」が確認される。千坂景長は能高の後継であろう。


時代は下り、天正3年(1575)2月『上杉家軍役帳』に、「千坂対馬守」を確認する。千坂景親の初出である。以降、景親は上杉景勝のもとでその活躍が顕著である。

『御家中諸士略系譜』は景親を「千坂景長之一男」とする。また、村松、護摩堂に在城、文禄4年から伏見御留守居に命じられるなど活躍、慶長11年(1606)4月死去とする。

しかし、景長と景親の間には史料所見で54年もの歳月が流れている。初見時にはそれぞれ景長は老臣奉書に署名し、景親は受領名を名乗っているから幼少とは考えにくく、比較的若く見積って景長初見時20歳、景親初見時20歳と仮定すると、景親誕生時に景長は62歳である。実際にはさらに年が離れていた可能性もあり、父子関係とするには不自然である。ましてや「一男」すなわち長男と考えるには無理がある。

また、赤田斉藤氏を例とすれば、千坂景長と同時期に活動していた斉藤昌信と景虎~謙信・景勝期に活動した斉藤朝信は祖父と孫の関係である。

以上から、千坂景長と景親二人の間に一世代存在する可能性を考慮すべきである。ここで「千坂対馬守」の存在が注目される。

天文18年平子孫太郎宛本庄実乃書状(*13)において、「斉藤小三郎殿、御捨弟平七郎殿、又者千坂筑前御捨弟源七郎殿、何も台飯式ニ而御詰候間」と、平子孫太郎に斉藤朝信と千坂筑前守の弟の動向を伝え、その弟平子孫八郎の進退について言及している。すなわち、内容は斉藤氏の当主と弟、平子氏当主と弟が比較されており、そうすると斉藤氏と並び言及された千坂氏についても当主とその弟であると考えられる、この時点で千坂氏当主は「対馬守」であったと推測できる。

平子兄弟は「御袋様」が進退について嘆願することや仮名を名乗ることからまだ若く、斉藤朝信も仮名を名乗りこの後天正後期まで所見されることを考えるとこの時点ではまだまだ若い武将である。すなわち、領主層の若年の弟の処遇について平子氏と交渉しており、仮名を名乗る千坂源七郎についても同じように若年の武将であったと推測できる。

もし、「対馬守」が景長ならばこの時少なくとも50歳は越えており、先代能高の活動時期から見ても、仮名を名乗る様な若年の弟の存在は考えにくい。従って、「対馬守」は景長次代、景親の先代にあたる千坂氏として比定できるのではないだろうか。

『越後以下平定太刀祝儀次第写』にある、「千坂殿」も景長の次代で景親の先代にあたる対馬守であろう。

『御家中諸士略系譜』は江戸中期のものであり、明かに誤っている点が散見される。米沢藩伝来の文書を参考にしていると思われるが、それ故に史料に残っていない人物については抜けている可能性がある。また、景親の跡を継承した人物が直系ではないことも理由のひとつかもしれない。

追記(2022/6/12)
これまで『越佐史料』や『上越市史』などの翻刻に基づき「千坂筑前守」と記載していた。しかし、中村亮佑氏「越後上杉氏直臣に関する基礎的考察-越後千坂氏を中心に-」(『戦国・織豊期と地方史研究』岩田書院)において、天文18年平子孫太郎宛本庄実乃書状(*13)における「千坂筑前」はくずし字の誤翻刻であり、正しくは「千坂対州」であったことが指摘されている。つまり「千坂筑前守」ではなく、千坂対馬守を名乗ったと見るのが正しいようだ。訂正したい。

ただ、中村氏は『御家中諸士略系譜』の記載のみを根拠としこの対馬守を景親と同一人物とみて、景長ー景親という二代の系譜を示している。この点について私は本文中にも記載した通り、活動時期などを踏まえて景長ー対馬守ー景親という三代の存在を推定している。



千坂景親の子として、千坂靏寿麿がいる。靏寿麿は天正16年9月上杉景勝書状(*14)に「近年父子奉公感入候」として「下条采女本地」を宛がわれている。『御家中諸氏略系譜』に拠ると、景親には子として嫡男「太郎左衛門」、次男「対馬守 長朝」の二人おり、太郎左衛門は病身のため家督を継げなかったという。

同年12月には上杉景勝から「千坂与市」へ「長」の一字が与えられている(*15)。『御家中諸士略系譜』や「上杉景勝一座連歌」(*16)にその名が見られる千坂長朝の元服と見られる。すると、先の靏寿麿は長朝である可能性が高いであろう。


景親の家督は、同系譜より千坂一族の満願寺仙右衛門が継いだとされる。この人物は実名「高信」であり、受領名伊豆守、安芸守を名乗ったことが文書からも確認される。


以上、父子関係等については明確ではないものの、戦国期千坂氏の系譜として

定高/入道千松軒(対馬守)-実高(対馬守)-能高-景長(藤右衛門尉)-(対馬守)-景親(対馬守)=高信(伊豆守/安芸守)

と想定される。




*1)木村康裕氏「守護家奉書形式の文書名について」「守護上杉氏発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*2) 片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*3) 『新潟県史』資料編4、1543号
*4)同上、1550号
*5) 同上、1358号
*6)『新潟県史』資料編5、2674号
*7)『新潟県史』資料編4、1522号
*8)『越佐史料』三巻、315頁
*9) 『新潟県史』資料編3、231号、232号、資料編4、1639号
*10) 『新潟県史』資料編5、2796号
*11) 『越佐史料』3巻、598頁
*12) 『新潟県史』資料編3、275号
*13) 『上越市史』別編1、20号
*14) 『上越市史」別編2、3260号
*15)同上、3273号
*16)同上、3208号。天正16年正月の日付を持つが、記載される武将の活動時期とは合わない。


※20/12/7 千坂長朝の記述を追加した。
※21/3/7 千坂千松軒の記述を追加した。千坂靏寿丸を長朝に比定した。