[史料1] 『越佐史料』三巻、866頁
細々音信満足之至候、爰元無油断療治、早々平癒可心安候、其地(栃尾ヵ)陣所之儀、皆共談合堅固之仕置肝心候、珍儀候者、急度注進相待候、万吉重而謹言、
追而、景虎近日可取出候由、勝利眼前候、以上、
八月十八日 晴景
本庄新左衛門(実乃)殿
[史料1]は、天文12年に比定される長尾晴景書状である。「景虎近日可取出候由」を以て天文12年に景虎が栃尾城に入城したとされる。景虎は後日の書状(*1)において「宗心(景虎)事、幼稚之時分、後父、無程古志郡ニ罷下候処、見懸若年、近郡之者共従方々向栃尾取立地理或不慮之致備間、及防戦候」と述べている。[史料1]と(*1)は栃尾周辺の抗争であることから同じ合戦を指すだろうと考えられる。
私が気になるのは、[史料1]「景虎近日可取出候由」の「由」という表現である。これにより、晴景が景虎の派遣を本庄実乃に伝えているというより、実乃から景虎の出陣を聞きそれに晴景が応答した、と捉えられる。すなわち8月の時点では景虎が栃尾城で軍事活動を催していたと考えられる。「細々音信」が実乃からの景虎出陣の報告などのことであろう。
ここで改めて景虎の栃尾入城の時期を考えてみると (*1) より天文10年12月為景死去(年月日は『越後過去名簿』による)の後程なく、と述べられているから天文11年中の可能性もあったかもしれない。景虎の栃尾城入城は、天文11年以降で天文12年8月よりは遡ると考えられる、と示しておきたい。
天文12年頃に越後国内で抗争があったことは、晴景が天文13年4月に越後静謐についての後奈良天皇綸旨と御心経を獲得したこと、天文13年10月上杉玄清(*2)が揚北衆大見安田長秀へ「今度一乱以来、守前々旨走廻、致忠信」したことに対し知行が宛がわれていることからわかる。同日に長尾晴景からも添状(*3)が出されており、そこで「先年国中各以同心、対府内雖企不儀、被相守前々筋目、被抽忠功」と表現されていることから、玄清のいう「今度一乱」は「先年」から続いた組織的で大規模な府内政権への反乱であったと考えられる。景虎の動向や大見安田氏の活躍を考えると、中郡から奥郡にかけての領主の反乱であろうか。ただ、(*1)に「道七(為景)死期之刻、膝下迄凶徒働至体ニ候間、寔着甲冑調葬送候」とあり、長尾為景の葬式は当主晴景によって本拠地春日山周辺で行われたであろうから、為景死去の動揺も相俟ってか上郡に反抗的な勢力存在していたとわかり、天文12年頃の反乱の際上郡にも影響が及んでいたことは想定される。
※24/5/11 追記
その後、長尾晴景と天文11年の乱 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~において越後における抗争を検討し、紛争は天文11年を中心に展開したことを示した。[史料1]が天文12年とする通説には確実な根拠はなく、天文11年8月であった可能性もありそうである。その場合長尾景虎の栃尾城入城も天文11年8月までのこととなる。
[史料2]は景虎の栃尾城主としての支配を示す文書であり、これにより[史料1]「勝利眼前候」の言葉通り天文12年9月ころには景虎は勝利を収め周辺の支配のため活動を始めたと考えられる。
[史料2]『新潟県史』資料編5、2689号
今度(長尾)実景以後之判形等、無紛失被成所持、神妙ニ存候、先代任判形旨、殊更御忠信故、亡父数カ所之御寺領、於末代不可有相違候也、
天文十二年
九月二十日 景虎
本成寺侍従阿闍梨日意御坊
[史料3]同上、2686号
当寺之事、任亡父久盛判形之旨、諸役等已下甲乙人等違乱之義、不可有之者也、仍件如、
永正八年九月十七日 (山吉)正盛
本成寺
[史料4] 同上、2685号
当乱中山吉被仰合、御加世儀具承候、無比類存候、然者大面庄内村上分薄曽祢并新堀・上条・吉野谷令寄進候、御知行於末代不可有相違候也、仍件如、
永正七年三月七日 為景
本成寺
次に、景虎の栃尾城入城後の支配がどのようなものだったかを考えたい。[史料2]は三条の本成寺に宛てた安堵状である。景虎の入部後[史料2]が発給されたわけだが、これは内容的に[史料3]に類似するものであることより、山吉氏の支配権を継承したものと捉えられよう。永正8年には山吉正盛が[史料3]安堵状を発給していることから、本成寺は景虎の入部以前は山吉氏の支配下にあった。三条は府内長尾氏の被官山吉氏が支配していた。[史料4]永正7年長尾為景書状の「当乱中山吉被仰合、御加世儀具承候」からも読み取れる。景虎は栃尾城入城に伴い古志長尾氏(栖吉長尾氏)を継承したことは阿部洋輔氏「古志長尾氏の郡司支配」(*4)などで指摘されているが、同時に三条山吉氏を始めとする蒲原郡諸氏へも支配権を持っていたと推測する。栖吉長尾氏は古志郡司を務めており、山吉氏も本成寺宛山吉正盛書状(*5)に「三ヶ条之人体出来之時者、科人計渡給」とあるように蒲原郡司を務めていた。従って景虎の継承した諸々の支配権とは、蒲原、古志両郡の郡司として権力であったと考えられる。ただ、蒲原郡司山吉氏自体は健在であり、景虎が郡司の上位権力として地域的な支配を行ったと類推される。
また、栖吉長尾氏の継承は母を栖吉長尾房景娘とする血縁関係から実現したと考えられる。上田長尾氏への仙洞院婚姻と並ぶ府内長尾氏の国内勢力取り込みの一環だったとも想定できよう。
ここで、より具体性を出すために他家の支配体制とこの時期の景虎のそれを比較し考察してみたい。当主の一門として10代前半にして前線に派遣され領域支配を任されたという点で、相模北条氏康の弟である玉縄城主北条為昌が挙げられる。黒田基樹氏「北条為昌の支配領域に関する考察」(*6)によると、北条為昌は12~13歳で当時江戸城を最前線とする後北条氏領国の中で有力一門北条氏時の跡を継承し玉縄城に入城、相模において東郡、三浦郡、武蔵において久良岐郡、橘樹郡、都筑郡を支配した。それは当主一門という背景を元に領域支配権が譲与され、従来の支配体制である郡代大道寺氏、山中氏、笠原氏の上位権力として君臨する形をとった。黒田氏はこれを事実上の郡代北条為昌、代官に元郡代という体制とみる。以上を景虎と比較してみると、有力諸家栖吉長尾氏の後継に入り複数の郡を一門の立場から支配、その配下に郡司山吉氏を伴うなどよく似ていることがわかる。後北条氏と府内長尾氏では天文10年頃では戦国大名として成熟度に大きな差があり二人が同じ論理で存在したとは言えないが、前述した景虎の支配体制についての推論を補強するものにはなるだろう。
次は、具体的に景虎が継承したと思われる郡司権力はどのようなものだったか考えたい。その支配が開始されたのは[史料2]を「代替わりの安堵」と捉えて、天文12年9月と推測できる。
[史料5]『上越市史』別編1、2号
吉日を以きしん申候、かんはらくん(蒲原郡)内玉虫新左衛門分一せき、すもん大明神奉末代進候、恐々敬白、
天文十三年甲辰二月九日 平景虎
藤崎分六
[史料5]は景虎が守門神社へ玉虫新左衛門分の一跡を寄進したことを表す書状である。文明後期の「長尾飯沼氏等知行検地帳」では高波保に長尾能景被官として玉虫新左衛門尉の所領が確認される。するとこの書状は蒲原郡内の闕所を宛がっている文書と捉えられ、景虎の蒲原郡における闕所地の知行宛行権を持っていたことがわかる。天正9年には上杉景勝が当主として「任先例之旨玉虫新左衛門尉分令寄進候」(*7)と同一の土地を安堵していることや、玉虫氏が府内長尾氏の被官であったことなどから本来は当主に帰属する権利と考えられ、この知行宛行権は景虎が当主より委任されたものと考えられる。景虎の蒲原郡と古志郡における領域支配の一端が示される。
[史料6]同上、59号
去霜月廿日火事、御文書以下御失候事、笑止存候、雖然御寺領等本地新地共、不可有相違候、以次 御上判可有御申候、仍件如、
天文二十一年
四月三日 (山吉)政応
本成寺 参
[史料6]は景虎の家督相続後に発給された山吉恕称軒政応の証状である。景虎の「御上判可有御申候」とあり、景虎の安堵が求められたとわかる。家督相続後も栃尾入城時に獲得した蒲原郡古志郡の領域支配権を維持し、山吉氏の代官としての立場がより鮮明になる文書であると考えている。
家督相続後も両郡への影響力を保持したことから、後に戦国大名化を図る景虎の強い権力基盤となっていたことが想定されるであろう。例えば、庄田定賢や五十嵐盛惟といった栖吉長尾氏関連の武将や古志郡の本庄実乃、蒲原郡の山吉豊守、吉江忠景、金津新右兵衛尉といった重臣らの活躍がそれを裏づけていると思う。近接する山東郡の直江氏、松本氏、神余氏(大積保に所領があった)らの活動にも無関係ではないかも知れない。さらには、のちに家中で高い地位にあった揚北衆中条氏との関係もこの頃生まれた可能性がある。景虎が反抗勢力との戦いの中で自らの権力基盤を固めっていったと考えられる。
長尾景虎は天文12年頃の不安定な国内情勢に伴い栃尾城に入城し周囲の敵対勢力と交戦、天文12年9月には周辺を鎮静化させその支配を開始した。それは府内長尾氏一族且つ栖吉長尾氏を継承する者として蒲原郡と古志郡に対しての領域支配であった。そこで築かれた勢力は景虎が戦国大名への転化を遂げるに至っても重要な権力基盤と成り得るものだった。以上が栃尾城を拠点とした景虎の部将としての姿である。
*1)『上越市史』別編1、134号
*2)『新潟県史』資料編4、1495号
*3)同上、1496号
*4) 『上杉氏の研究』戦国大名論集9
*5)『新潟県史』資料編5、2687号
*6)『戦国期東国社会論』戦国史研究会編
*7)『新潟県史』資料編5、2727号
※20/8/14 長尾為景の没年に誤記があったため訂正した。
※20/11/7 玉虫新左衛門尉について加筆した。また、只見氏を景虎期以降所見がないことから景虎へ反抗した存在と推測したが、『上杉御年譜』に味方として名前が挙げられているため撤回した。
※21/1/10 「古志長尾氏」という表記を、「栖吉長尾氏」に変更した。