鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

堀江玄蕃頭の動向

2022-08-27 18:01:15 | 堀江氏
戦国期越後に所見される堀江氏として堀江玄蕃頭がいる。前回検討した堀江駿河守の一族である可能性が高く、御館の乱での活動からその名についてはよく知られているものの、正確な把握は難しい人物である。今回は、堀江玄蕃頭について検討する。


その初見は永禄13年2月3日進藤家清書状(*1)である。越相同盟について進藤家清が「堀玄」へ連絡している書状である。

さらに越相同盟の交渉に関連して元亀元年4月16日遠山康英書状(*2)に「為御使節堀玄御着府、氏康父子満足此事迄候」とあり、「堀玄」が越後から小田原へ使者として使わされた状況が読み取れる。

堀江玄蕃頭が越相同盟における交渉に関して重要な役割を担っていたことが窺われる。


[史料1]海老沼真治氏「御館の乱に関わる新出の武田勝頼書状」(『戦国史研究』65号)
其表之鉾楯無際限候条、和策之儀可有如何之由、去比景虎へ以飛脚申候、定可為参着歟、于今無帰参候条、為噯愚存可申達、以龍花・得願両寺申候、宜為馳走祝着候、恐々謹言、
  三月廿三日  勝頼
   堀江玄葉頭殿
   遠山左衛門入道殿

続く所見は[史料1]である。武田勝頼による上杉景虎と上杉景勝の和睦仲介に関する文書であり、御館の乱の最中天正6年に比定される。海老沼氏は御館の乱の推移と写本であることを踏まえると、実際にはくずし字の似る「六月廿三日」の日付と推測している。

この堀江玄蕃頭が上記で見てきた「堀玄」のことであろう。『覚上公御書集』など所伝類では「堀江玄蕃允」と表記されることが多いが、[史料1]より実際には「玄蕃頭」であった可能性がある。このあたりは表記の揺れもあり、史料の少ない人物では難しいところである。

「遠山左衛門入道」は小田原北条氏重臣で上杉景虎に従い越後へ入国した遠山康英である。従って、御館の乱において堀江玄蕃頭は康英と並ぶ景虎方の中心人物の一人であったことが明らかとなる。玄蕃頭は越相同盟において重要な役割を担っており、当時から小田原北条氏・上杉景虎の関係が続いていたと考えられる。

玄蕃頭として個人を特定できる文書はこれが最後である。


[史料2]
書中差越具見届、委細心へ候、然者、爰元之儀無何事候、可心安候、一昨十七館落居、敵悉討捕之候、さめかを一城成置候、種々計策成之、堀江かたへ申越候条、落着程有間敷候、可心安候、(後略)
三月十九日             景勝
   浅間修理亮殿

[史料2]は天正7年3月、上杉景虎が御館を逃れ鮫ヶ尾城に籠城した際の上杉景勝書状である。『上杉御年譜』や『景勝一代略記』、『越後古実聞書』に代表されるように江戸期の記録では「堀江玄蕃」もしくは「堀江駿河守」の内通によって鮫ヶ尾城が落城する。鮫ヶ尾城攻防戦に登場する[史料2]の「堀江かた」も、堀江玄蕃頭或いは駿河守のことであろう。どちらにせよ両人共に在城していた可能性もある。

堀江氏の内通の詳細については当時の史料からはよくわからない。「計策」とあるが、これは単に軍事作戦を表わしており寝返りと同義ではない。例えば、この年の上杉景勝書状(*3)にて一貫して味方の築地修理亮へ「計策」を命じている。

ただ、[史料1]により玄蕃頭が上杉景虎方として活動していたことは明らかであり、大勢が決した時点で景勝方へ下ったという流れは筋が通る。また、堀江駿河守が頸城郡の領主山村氏出身で信越国境で活動していたことを踏まえると、堀江氏が信越国境に近く山村氏の拠点青木に近い鮫ヶ尾城に入城していた点も納得できる。

『上杉御年譜』などは、玄蕃頭は御館の落城時点で既に景勝方への降伏を申し出ていたが予期せず景虎が入城しやむを得ず籠城その後景勝方へ内通した、と伝える。この辺りは後世の所伝でありどこまで信用できるかはわからない。実際のところは領の防衛のため御館から鮫ケ尾城へ移り、その後情勢の悪化に伴い景虎を迎え入れるも堪えられずに内通した、といったところではないか。本庄清七郎も途中で自領栃尾の防衛のため御館を離れており、似たような事例ではなかろうか。

御館の乱以降の堀江玄蕃頭については史料がない。前稿でみたように堀江駿河守が生存していた可能性が高いことを踏まえると、御館の乱後も上杉氏家中にいたことが推測されるが定かではない。

そもそも、堀江駿河守と堀江玄蕃頭の関係であるが、これも明らかではない。所伝において両者が混同されていることを考えると血縁関係にある可能性が高いと推測されるが、確実な史料での裏付けはない。ただ、先述したように鮫ケ尾城は駿河守の出身山村氏の拠点青木に近く、そういった関連からも両者は同族とみてよいのではないか。

堀江駿河守は旗本として信越国境など要地を任されており、玄蕃頭も越相同盟の使者という大役を任されている。家中での立場も両者が同族であることに矛盾しない。


不明な点が多く不十分な検討になった点は申し訳ないが、史料が少なく確実なことが言えないという背景がある。軍記物などで鮫ケ尾城は御館の乱のクライマックスであり、様々に描かれているがそれらを無批判に信用することは危険であることを付言しておきたい。


ちなみに、天正期以降堀江甚五左衛門尉という人物が所見される。同じ堀江姓を名乗る人物として触れておきたい。

御館の乱の最中、天正6年6月12日上杉景勝書状(*4)にて景勝が堀江甚五左衛門尉、菅名孫四郎らへ上杉十郎らを討ち取ったことを伝えている。文中では景勝が路地不自由のため千坂景親と連絡が取れず、その点考慮すべきことを伝えられている。甚五左衛門尉の在陣地は宛名に菅名氏がいることから菅名庄周辺か、天正8年4月に菅名綱輔が加茂に在陣していることからその周辺とも考えられる。『御家中諸士略系譜』には「茅原」へ置かれたことが記され、現在同じ地名が三条市に残る。いずれにせよ、御館の乱の頃は千坂氏の拠点がある白川庄にも近い、蒲原郡での活動が推測されよう。『文禄定納員数帳』にて甚五左衛門尉は栃尾衆に属している。

『御家中諸士略系譜』によると堀江甚五左衛門尉は、越前出身で上杉謙信の代に越後に来たという。子に「文之丞 重頼」がおり、米沢藩士として存続する。

ただ、甚五左衛門尉の系統と堀江駿河守、玄蕃頭の間には接点が全く見いだせない。別系統であるか、もしくは山村氏出身の駿河守が越前堀江氏の血を引く甚五左衛門系と縁組により堀江姓を名乗ったのか。今後越後における堀江氏の所を詮索し上杉家中における縁組の事例などを検討してみたいところである。


堀江駿河守、堀江玄蕃頭については史料が少なく不明な点が多い。しかし、駿河守の上杉謙信の旗本としての活動や玄蕃頭の上杉景虎との関係など政治の中枢に深く関わっていた様相が伺われ、上杉家中を考察する上で忘れてはならない一族であろう。後考に期待したい。


*1) 『新潟県史』資料編3、580号
*2) 『上越市史』別編1、907号
*3) 『新潟県史』資料編4、1451号
*4) 『上越市史』別編2、1542号

堀江駿河守の動向

2022-08-20 17:50:31 | 堀江氏
戦国期上杉氏の家臣として堀江駿河守が所見される。「堀江宗親」の名で知られる人物である。今回は、駿河守について検討していく。


その初見は永禄7年9月5日直江政綱書状(*1)である。第五次川中島合戦に関連して発給された書状である。この頃川中島に在陣する武田信玄に対抗するため、飯山城に在城し普請を行う上杉謙信が直江政綱を通じて、信玄の陣所の探索、旭山城、髻山城、北国街道小玉坂への偵察を堀江駿河守、岩船藤左衛門尉に命じている。

文中に「其地打振、日々小玉坂相働由申候」とあり、追而書には「堀駿に申候、日夜之御辛労之由、御諚候間、弥御稼、簡要候、以上」とある。堀江駿河守が前線に立って軍事活動に励んでいたことがわかる。駿河守がいた「其地」はわからないが、飯山城と小玉坂の立地を考えると、野尻湖周辺であろうか。

同年10月2日上杉輝虎書状(*2)において、輝虎が飯山城普請完成と自身の春日山城帰城を堀江駿河守、岩船藤左衛門尉に伝え、なお武田軍の動向の動向を探るように命じている。この書状で岩船藤左衛門尉へは帰府が命じられており、駿河守がこれ以後も信越国境の守備を任されたと推測される。


続いて、永禄8年4月24日上杉輝虎書状(*3)に堀江駿河守の名が見える。この頃、輝虎の関東出陣が計画されており、その先陣として金津新兵衛尉、村上義清、桃井伊豆守、新発田右衛門大夫、長尾顕景と堀江駿河守が上野国長井まで出陣したことが記されている。輝虎の軍事力の中核を担った有力武将らに堀江駿河守が併記されている点は、駿河守の家中での立場が彼らに比肩するものであったことを示唆している。


さらに、元亀2年4月24日上杉謙信感状(*4)にも駿河守が登場する。当時謙信の影響下にあった越中神保長職の要請を受け越中の反上杉派を制圧した際、窪田右近允が敵を討取ったことを賞した文書である。そして窪田右近允の活躍は「堀江駿河守ニ敵地江調義申付候処」になされたことが記されており、駿河守が「敵地」攻めを任される武将であったことがわかる。やはり駿河守が一定規模の軍団の指揮権を保持していたことが理解される。

駿河守は天正5年12月成立の『上杉家家中名字尽手本』にも「堀江駿河守」と記載される。


続く所見は天正8年9月25日上杉景勝判物(*5)である。ここで安田能元の所領として「本地并今度出置候堀江駿河守一跡」が挙げられている。御館の乱が終結し、戦後処理がなされていた頃の文書である。つまり、御館の乱後に駿河守の領地が毛利安田氏へ褒賞として与えられている。

御館の乱と堀江氏の動向については堀江玄蕃頭なる人物への言及が必要なためここでは割愛し、後日検討していく。

問題は駿河守の活動時期の下限が不明瞭な点である。御館の乱を契機に没落したのか、それ以前に死去し闕所となっていた所領のみ分配されたのか、はたまた没収された領地は一部で御館の乱を生き延びその後も武将として活動を続けたのか。


結論から言えば、堀江駿河守は御館の乱後においても生存し活動を続けていた可能性が高い。

その根拠となるのが、天正13年上条冝順書状(*6)である。

[史料1](*6)
御書謹而頂戴奉忝存候、仍而此表之御普請、先日以絵図被申上候所ヨリ三里近ニ可然所候間、各見立候而、則普請仕候、水も御座候、少も無油断申付候間、乍恐可被 御心安思召候、併人脚漸々卅計御座候間、迷惑存候、於様子者鴎閑斎可被申上候、随而、両地武者之儀、誠推参ニ雖可被 思召不顧憚申上候キ、謙信様御代ニも、堀江新地ニ被差置候条、彼者ヲ可被 仰付候、尤宝蔵院・芋川ニ被差添候者、大略五百余可有御座候由、奉存候、如 御意之万事御急相極存候、当口被明 御隙上下被合 御覧候而、無二被成 御出馬、被直御備尤奉存候旨、可預御取成候、恐惶謹言、
尚々、越中表無相替儀候由、御肝要候、殊下筋御仕合、御天道目出難申上候、又小倉・村山・宇野相稼申候、以上
  四月十一日     上條入道 宜順
  直江殿


これは海津城へ派遣された上条冝順(政繁)が周辺の状況を直江兼続へ報告している文書である。この中に「謙信様御代ニも、堀江新地ニ被差置候条、彼者ヲ可被 仰付候」、謙信の頃には「新地」に「堀江」が置かれており今回も「彼者」に任せるべきである、との一文がある。内容から「彼者」は「堀江」と同一人物と考えられる。

ここで堀江駿河守が永禄7年に「其地」にて活動したこととの関連が想起される。「謙信様御代」に任された「新地」とは「其地」のことではなかったか。当時第五次川中島合戦の最中で、信越国境の防衛のため普請が急がれていた。

永禄12年8月23日上杉輝虎書状(*7)にて輝虎が直江景綱、本庄宗緩に「其内信州口堅固之仕置簡心候、飯山、市川、野尻新地用心目付油断有間敷候」と伝えている。「新地」=「野尻新地」=「其地」と考えれば、自然である。

つまり「彼者」こそが堀江駿河守であり、御館の乱後も一拠点を任される立場にあったことが示されるのである。尤も上条宜順が議題にしている「新地」は直近に見立てて普請していることが記されているから、「謙信様御代」に堀江を差し置いた「新地」とは別の場所である可能性が高い。当時、上条宜順と直江兼続は政治的に対立しており、宜順は自らの主張を補強するために駿河守の実績を強調したのだろう。


さて、ここまで文書類をもとに堀江駿河守の動向を見てきた。系図や所伝類ではどうだろうか。

『諸士系図』では堀江氏として「宗親」という人物が挙げられている。この他に堀江氏の記載はない。「宗親」に関する記載は次の通り


[史料2]『諸士系図』
堀江駿河守実山村若狭守三男、越中鮫尾城守天正六年五月十五日三郎景虎ニ一味シ手勢数百騎ヲ召具シ御館ニ楯篭ル、同七年二月十一日宗信(ママ)御館方勢衰ルニ付安田景元エ内通シ降参ノ色顕シ御館ヲ立退手勢ヲ引連鮫尾城ニ帰ル、三月十七日景虎勢究リ御館ヲ立出テ鮫尾ニ入テ宗親ヲ頼マル、宗親一旦奉□頼ト雖モ景虎ノ頼ナキヲ知リ□ニ安田摠八郎ニ内通シ二ノ丸ニ火ヲ揚ケ鮫尾城落居宗親助命アリ


非常に興味深い内容である。

まず、実名については『謙信公御書集』にも「堀江駿河守宗親」の記載がある。堀江玄蕃頭との混同や所伝の信憑性など注意点は多いが、ひとまず「堀江駿河守」=「宗親」と伝わっていることを示しておく。


また、駿河守が山村氏出身という点も気になる。山村氏は大永期から天文初期にかけて所見がある。山村若狭守は長尾為景の家臣として能登畠山氏と音信を交わし(*8)、三分一原合戦では山村藤三が活躍している(*9)。

この山村氏出身説は一見信じられないように思えるが、『上杉御年譜』や『越後名寄』などで山村氏の拠点が頸城郡青木とされている点は同説に真実味を与えている。この青木は現在の上越市にあり、御館の乱で堀江氏が籠城する鮫ケ尾城に近接しているのである。

また、三分一原合戦で負傷した山村藤蔵へ信濃の領主高梨政盛から慰問の書状(*10)が届けられている。これらの点から山村氏が信越国境近くに拠点を持ち信濃との関係も深かったことが推測されるのである。堀江駿河守が信越国境での活動が目立つ理由として、地縁的な関係が存在したからではないかと考えられるのである。

さらに、『先祖由緒帳』などから永禄7年で駿河守と共に活動していた岩舟氏は信濃岩船出身であることがわかっている。上記の点を踏まえると、堀江駿河守もその出自が信越国境に深く関わっていた可能性は高いといえる。

『諸士系図』の記載自体は信憑性の疑われるものが多く、堀江駿河守についてもそのまま信じることはできないが、駿河守が山村氏出身であれば信越国境や鮫ケ尾城との関係も説明がつくことは事実であり、岩舟氏のような類似例も所見されている。駿河守が山村氏出身であるという点は蓋然性の高いものと考えている。


ただ、駿河守が継いだ堀江氏自体についてはよくわからない。天正期に堀江甚五左衛門という人物が見えるが、『先祖由緒帳』によると越前出身で上杉謙信の代に登用されたという。朝倉氏家臣の越前堀江氏の一族が想定される。ただ、駿河守との関連性は史料からは見いだせない。全くの憶測であるが、上杉謙信の旗本強化の一環としてこういった人物と縁組を結ばせ箔付けとして堀江氏を名乗っていたのだろうか。


ここまで、堀江駿河守について検討してきた。研究が少なく出自から動向まで不明瞭な点が多い武将であったが、文書や史料類を参考にすればその軍事活動の動向や家中で担っていた役割など明らかになる点も多数あった。特に、堀江氏という名前から俗説では越前との関連が取沙汰されるが、実際には山村氏出身の可能性がありその地縁的関係を元に信越国境の守備に関わっていたと推測される点は注目すべきである。

続いて、駿河守の一族と推定される堀江玄蕃頭についても検討を進めていきたい。


*1) 『上越市史』別編1、433号
*2) 同上、436号
*3) 『新潟県史』資料編5、4040号
*4) 『上越市史』別編1、1046号
*5) 『新潟県史』資料編4、1576号
*6) 『越佐史料』6巻、172頁
*7) 『越佐史料』4巻、813頁
*8)『越佐史料』3巻、676頁
*9)同上、830頁
*10)同上、831頁

※23/6/24 三分一原合戦について一部修正した。