鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

越後守護代長尾氏の系譜2 ー為景・晴景ー

2021-06-11 21:53:14 | 長尾氏
越後長尾氏の内、守護代長尾氏=府内長尾氏の系統について検討していく。前回は長尾頼景・重景・能景の三代を見たが、今回は能景の次代為景とその子晴景について簡単にまとめてみたい。


1>為景
能景の跡は、嫡男為景が継承する。

永正16年上杉房安等寄進状写(*1)に、寄進者の上杉房安、長尾為景、長尾安景の年齢が記されている。そこには当時34歳とあり、文明18年生まれであることが判明する。永正3年に21歳で守護代を継承したことになる。

没年は、信頼性の高い『越後過去名簿』の記載より天文10年12月24日であることがわかっている。

没年は系図や所伝などで様々に伝えられるが、天文9年8月5日の日付で出された後奈良天皇女房奉書(*2)に「長尾信濃守」=為景が綸旨の御礼として五千疋を献上したことが記されており、天文9年までの生存が確実である。そしてそれ以後為景の所見はなく、天文11年4月には上杉玄清(定実)が長尾晴景に宛てて、晴景とその兄弟に別条がない旨起請文(*3)で提出している。

文書から読み取れる当時の情勢を考えても、天文10年12月の死去は事実であろう。享年は56歳となる。


為景は、初見は永正元年上杉房能書状(*4)において「為景」が関東から帰陣することが伝えられるものである。

永正5年11月室町幕府御内書(*5)に「長尾六郎」が「越後守護職」に任じられた「兵庫頭」=定実を補佐するように命じられ、永正7年8月上杉憲房書状(*6)に「長尾六郎」が上杉房能、上杉可諄を殺害したことが記されているなど、為景の仮名が「六郎」であることは確実である。


また、永正4年11月(*7)から永正10年8月(*8)まで散発的に「桃渓庵宗弘」という入道名で所見される場合がある。これが為景自身であることは花押型から明らかにされており、木村康裕氏は守護上杉房能を自刃に追い込んだことに対する為景の配慮であることを指摘している(*9)。


為景が弾正左衛門尉として初見されるのは、永正10年2月守護年寄連署奉書(*10)である。発給文書では、永正10年3月上杉定実袖判長尾為景安堵状(*11)の署名「左衛門尉為景」、続いて同年8月長尾為景起請文(*12)「長尾左衛門尉為景」、永正10年10月長尾為景書状(*13)において「弾正左衛門尉為景」と見える。

永正10年2月までに六郎から弾正左衛門尉に名乗りを改めたことがわかる。

弾正左衛門尉の終見は大永元年12月畠山朴山書状(*14)であり、信濃守の初見は大永4年4月長尾為景書状(*15)である。

長尾為景譲状(*16)から、為景から晴景へ家督が継承されたことが明かである。

追記:23/12/22
従来為景から晴景への家督相続は天文5年8月と考えられてきたが、実際には天文9年8月であったことが指摘されている。長尾為景から晴景への家督相続について - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~にて天文9年8月である蓋然性が高いことを示した。

2>晴景
為景の跡は、嫡男晴景が継ぐ。

その生年は、諸説ある。代表的なものは『平姓長尾氏系図』に載る享年から逆算した永正6年説である。

晴景は、長尾政景妻の血縁者が記された『長尾政景夫妻画像』の記載から為景の正室天甫喜清の所生であり、同腹の兄弟姉妹が4人いたと推定される。天甫喜清は永正11年に「為景御新蔵」(*17)と見えることから、永正初期の婚姻と見られる。すると、晴景が永正6年の誕生という所伝も頷ける。為景、24歳の年である。

『長尾系図』は大永6年生まれと伝えるが、これに従うと晴景の弟妹たちの誕生が享禄、天文に偏ることになり不自然である。大永末期には「長尾道一」の幼名で晴景が室町幕府関係者から文書(*18)を受給しており、大永6年誕生は無理があるだろう。

『夫妻画像』や『越後過去名簿』等の記録を総合すると、為景の子供として同腹兄弟姉妹4人の他、少なくとも2人の異母兄弟姉妹がいることは確実である。『実隆公記』に大永7年6月「長尾男子誕生」という記事があり、弟の誕生記録と晴景の生年が混同されたことで大永6年説が伝えられたのではないか。

よって、晴景の生年としては永正6年が最も有力といえる。ただ、系図の記載に依存するため、今後の検討が求められる。


享禄元年には将軍足利義晴より「晴」字と「弥六郎」の名乗りが与えられている(*19)。晴景は生涯その実名と共に「弥六郎」を名乗るが、これは将軍から与えられたという権威に由来するのではないかと思っている。


晴景の没年は『越後過去名簿』より天文20年2月10日であることが明らかになっている。


晴景の次代は、長尾景虎(上杉謙信)である。家督交代は天文17年12月である(*20)。景虎についてはあまりに有名であるからここでは言及しない。

ただ、景虎(謙信)の血縁者については様々な説があり、難解な点の一つである。具体的に言えば、実母のことである。これについて、また別のページで検討していきたいと思う。


*1)片桐昭彦氏「春日社越後御師と上杉氏・直江氏-『大宮家文書』所収文書の紹介-」(『新潟史学』75号)
上杉房安についての記事はこちら
*2) 『新潟県史』資料編3、979号
*3) 同上、242号
*4) 同上、資料編5、2827号
*5) 『越佐史料』三巻、508頁
*6)同上、560頁
*7) 『新潟県史』資料編4、1321号
*8) 同上、1324号
*9) 木村康裕氏「桃渓庵宗弘の発給文書」(『戦国期越後上杉氏の検討』岩田書院)
*10) 『新潟県史』資料編5、2796号
*11) 同上、資料編4、2253号
*12) 同上、1861号
*13) 同上、資料編3、157号
*14) 『越佐史料』三巻、681頁
*15) 同上、691頁
*16) 『新潟県史』資料編3、109号
*17)『越後過去名簿』
*18) 『新潟県史』資料編3、119~124号
*19) 同上、66、116~118、112号
*20)『越佐史料』四巻、2頁

※23/9/8 為景の入道名を絞竹庵へ修正した。


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