越後国における長尾氏の活動は、南北朝期に守護上杉憲顕と共に長尾景忠が越後に入国した時から始まる。越後守護代職は、景忠-景恒-景春-高景-邦景、と継承されたという(*1)。景恒は景忠の弟であり、景春と高景は景恒の次男と三男という。邦景は高景の子である。
邦景は入道性景として文書上に見える。応永の大乱に勝利し、その後も嫡子実景と共に活躍するが、宝徳2年11月に前年守護に就任した上杉房定によって邦景は切腹させられ実景も国外へ追放される。守護代は邦景の甥にあたる頼景に継承された。
今回は、邦景(性景)・実景父子が没落した後の守護代長尾氏の系譜を検討していきたい。いわゆる府内長尾氏と呼ばれる系統である。
1>頼景
長尾頼景の初見は文安2年2月守護年寄奉書(*2)である。つまり、長尾邦景(性景)・実景父子が守護代である時点から守護上杉房定の近臣として活動していたことがわかる。
宝徳2年11月に長尾邦景(性景)が切腹し、実景が亡命したことにより頼景が守護代を継承した。上杉房定の意向があったことは間違いないだろう。
『越後長尾殿之次第』は頼景を、高景の三男「信濃守定景」の次男とする。これに依ると、「定景」は初め「弾正左衛門」、「景房」を名乗ったという。享徳3年中条房資記録(*3)中、応永33年の項に「長尾信濃守定景」の活動が見えその存在は確実である。
頼景へ信濃守の名乗りが受け継がれることを考えても、定景-頼景という関係は妥当である。
[史料1]『新潟県史』資料編3、174号
御料所御恩之地所々事、方々相分候之由、内々被聞召候、不可然候、所詮、如故備州之時可有支配之由、被仰出候、此分可被相心得之由候、恐々謹言、
十二月十三日 沙弥太西
左衛門尉頼景
長尾弥四郎殿
ここで長尾頼景の発給文書である[史料1]の年次比定について言及したい。これは従来文明2年に比定されている。文明2年に「長尾弥四郎」=孝景に安堵状(*4)が発給されており、それに関連した文書と捉えられたからである。しかし、[史料1]の内容は「御料所」を家臣へ分配したことを咎める内容であり、文明2年安堵状とは整合性に欠く。
そして、頼景の名乗り「左衛門尉」に注目するとこの比定は誤りであると推測される。
長尾頼景は文安2年2月から「左衛門尉頼景」の署名で見えるが(*5)、宝徳3年4月と長禄3年12月には「信濃守」(*6)として見える。文明2年より大きく遡る時点で既に左衛門尉から信濃守へと名乗りを変更していたことが分かる。
すると、[史料1]は「左衛門尉」の初見文安2年2月から、「信濃守」の初見宝徳3年4月の間の文書であると言える。
ちなみに、文書上頼景は左衛門尉として見えるが、代々弾正左衛門尉を名乗った家系であるから頼景も正確には弾正左衛門尉であった可能性もある。
2>重景
重景の初見は応仁2年千坂定高書状(*7)であろう。「長尾弾正左衛門尉」と宛名され、重景の名乗りが弾正左衛門尉であったことが確認できる。
ここで、先代頼景の没年に言及したい。『上杉家記』に「頼景ノ卒、文安元年九月朔日八十歳」とあり、これが一般に頼景の没年とされる。しかし、その後の文書が残るため明らかな誤りである。
頼景の終見は文明5年である。文明5年5月黒川氏実書状中(*8)に「長尾信濃守」と所見されるものである。
同書状には「長尾弾正方へ申きかせ候て、一筆取其礼いたし候」とあり、対応するように文明5年7月に頼景の嫡子重景が黒川氏実へ「預御礼候」と返信している(*9)。よって、文明5年において「信濃守」=頼景、「弾正」=重景が存在したことが確実である。
これらからは、頼景の晩年には既に重景が活動を始めていたことが理解される。
重景は文明12年に「信濃守重景」(*10)として所見されるから、この時点までに頼景は死去したと推定できる。
重景は文明14年2月に死去したことが、『浦佐普光寺文書』、『曇英禅師語録』に見える。『長尾系図』に享年58歳と伝わる。
頼景、重景の没年は近接しており、重景の享年を踏まえると頼景は長命であったと見られる。後年、上杉謙信が祖先について記した書状(*11)を見ると高景、実景、能景、為景はそれぞれの事蹟が記される一方で「通窓并実渓関東在陣、於所々之軍功」と「通窓」=頼景と「実渓」=重景は父子まとめて記されており、その活動時期が重複していたことを窺わせる。
3>能景
重景の跡を継いだのは嫡子能景である。能景は生没年共に明らかである。
延徳3年上杉房定一門・被官交名(*12)に当時28歳とあるから、数え年であることを踏まえると生年は寛正5年とわかる。そして、永正3年の9月越中般若野合戦で戦死する(*13)。
家督を継いだ文明14年時点で19歳、享年は43歳となる。
能景の年齢に関しては、『上杉長尾系図』(『天文上杉長尾系図』とは異なる)にある享年48歳という記載が引用されている場合もあるが、信頼性の低い系図を参考にした古い考えである。延徳3年上杉房定一門・被官交名は近年注目されている一次史料であり、それもとにした年齢が正しいといえる。
能景の年齢に関する誤りは系図類に記される年齢の不正確さを示すものであり、他の人物についても系図に伝わる年齢をそのまま信じるのは危険であるといえる。とはいえ、所伝も大まかな世代は正しく認識していたと捉えられ、参考として利用することは肯定される。
能景の発給文書における初見は、「左衛門尉能景」と署名が見える長享元年10月長尾能景書状(*14)である。文明15年から17年の記録がある『越後検地帳』(*15)には古志郡大島庄、高波保に「長尾弾正左衛門尉方分」の所領が見え、能景の名乗りが弾正左衛門尉であったことがわかる。
延徳元年9月長尾能景書状(*16)に「信濃守能景」とあることから、この時点までに受領名信濃守を名乗ったとわかる。その後、死去まで信濃守能景を名乗る。
守護上杉房定は明応3年10月に死去しその三男九郎房能がその跡を継ぐが、実名「房能」と「能景」の関係が注目される。山田邦明氏(*17)は、長享2年千坂定高書状(*18)「自九郎方者、未無名乗候」からこの時点で「房能」という実名が定まっていないことを示し、長享2年以前から実名「能景」で活動が確認される守護代長尾能景からの一字をもらったと指摘している。
同氏はここに、長尾氏の協力あって越後を支配する守護上杉房定と越後国内に伝統的な基盤を有する守護代長尾能景との政治的な力関係が表れていると見ている。
能景の子が為景であり、守護代長尾氏と守護上杉氏の関係は大きく変化していくが、為景以降の検討はまた次稿で行っていきたい。
*1)山田邦明氏『上杉謙信』(吉川弘文館)
*2) 『新潟県史』資料編4、1519号
*3)『越佐史料』三巻、
*4) 『新潟県史』資料編3、169号
*5) 同上、資料編5、1519号、1520号
*6) 同上、資料編3、193号、資料編4、2671号
*7) 『越佐史料』三巻、163頁
*8) 同上、197頁
*9) 同上、198頁
*10) 『新潟県史』資料編4、1399号
*11)『越佐史料』四巻、129頁
*12)『高野山正智院文書集一』82
*13) 『越佐史料』三巻、479頁
*14) 『新潟県史』資料編4、1319号
*15) 『越佐史料』三巻、271号
*16) 『新潟県史』資料編3、190号
*17)山田邦明氏「上杉房定」(『関東上杉氏一族』、戒光祥出版)
*18) 同上、資料編4、1844号
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