鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

古志上条上杉氏の系譜

2020-11-14 17:48:50 | 上条上杉氏
戦国期越後国において古志郡を拠点に活動した上条上杉氏の系統が確認される(以下古志上条氏とする)。しかし、上条氏は刈羽郡上条を拠点とした系統(以下刈羽上条氏)や詳細不明の人物も散見されその系譜は複雑である。また、上杉定実や上条定憲など越後史上の重要人物も上条氏の系譜に深く関わっていながら、その位置づけは未だに明確ではない。今回は、系図類をベースに一次史料や研究により明らかにされている点を加味して古志上条氏の系譜を検討してみたい。

まず、『天文上杉長尾系図』は古志上条氏について、次の様な系譜を記している(=は入嗣)。
清方-房実-定明=夜叉安丸=頼房

『天文上杉長尾系図』(以下『天文系図』)は古志上条氏の系譜関係が記載された重要史料である。片桐昭彦氏(*2)によれば、その作成は天文19年以降、同22年頃までに守護代長尾氏によって成されたと推測される。また、その上でこれら系図の作成は政治的混乱に際しての正統性の表明であると考えられることから、結果として勝者側の主張であり、敗者側が残せなかった裏の系図も念頭におく必要がある、としている。要するに、『天文系図』は戦国期中に作られたことから信憑性は高いものであり、不自然な点があればそれは守護代長尾氏の意図が含まれている、ということになる。


ここから、一次史料を用いて検討してみたい。

長尾為景と上条定憲の間で勃発した享禄の乱において、享禄4年越後衆連判群壁書(*1)が作成され当時の有力武将らが署名している。その中に「十郎」とのみ署名する人物が存在し、その人名比定は重要である。

署名は多くの武将が名字-官途名/受領名-実名という記名形式であるが、「十郎」の他に「山浦」と「又四郎定種」が壁書の内で非定型的な形式となっている。山浦氏と山本寺定種が共に上杉氏一族であることから、「十郎」も上杉氏一族であると考えられよう。

今福匡氏(*3)は、『越後過去名簿』に天文3年8月9日に供養されている上条上杉十郎(法名「天祥祖晃」)という人物が見えその法名が『天文系図』の「定明」と一致することから、連判群壁書の「十郎」は上条上杉定明と明らかにした。また、森田真一氏(*4)も連判軍壁書の署名「十郎」は上杉氏とした上で、長岡市に地名定明(ジョウミョウ)が現存すること、『越後名寄』などに上杉定明が古志郡を拠点とした所伝が残ることから、上条上杉定明が古志郡を拠点に十郎を名乗り活動していたとしている。

以上より、古志を拠点とした古志上条氏の存在と、天文3年の死去まで定明が活動したことが確認される。

定明が名乗った十郎は上条氏初代清方の名乗りであるから、「十郎」は古志上条氏が代々継承する仮名と推測できる。


次に、系譜にその名がないものの永正期に所見される上条定俊について考える。『三条山吉家伝記写』に所伝があり、定俊は守護上杉定実の父にあたる人物だという。また、同伝記中の家伝文書群によって、永正7年上越国境の紛争に際して定俊が山吉孫五郎らと活動している様子が所見される。同じ時、上条上杉氏一族と推定される「兵部」という人物が、山吉孫五郎と繋がりを持ち上越国境で軍事活動にあたっている(*5)。よって、上条定俊は兵部を名乗ったと考える。『三条山吉家伝記写』は長尾為景を左京大夫とする他、山吉氏内でも人物の混同が見られるなど細部の正確性に欠く部分があり、定俊の名乗りと伝わる「掃部頭」は誤りだろう。

この「兵部」は上条定憲に比定する意見もあるが(*4)、定憲は「上条弥五郎」として永正7年6月時点で山内上杉方として為景に敵対していることが確認され(*6)、花押型も上杉顕定と酷似しており、明らかな親顕定派であった。そのため、同年6月の顕定戦死後まもなく、まだ山内上杉氏勢力の抵抗も確認できる同年9月という時期に、為景味方の中心人物として軍事活動に及んでいる「兵部」(*7)は定憲とは別人と考えるのが妥当ではないか。

定俊に関して他に和田山修理亮宛定俊書状(*8)がある。森田氏(*4)は和田山氏が栃尾周辺の領主であることから上条定俊が古志郡を拠点としたと推定し、古志上杉氏の系統の人物であるとしている。すると、定俊が山吉氏と関係の深いのは、山吉氏の拠点三条から近い古志の人物であったから、と考えられよう。

よって、永正期において古志上杉氏として定俊が存在したことが理解される。


定明と定俊の関係は、定俊が永正期に所見され定明が享禄期に所見されることから、定俊の次代に定明が存在したと考えられる。『天文系図』において定明と上杉定実は兄弟であるとされ、『藤原姓上杉氏系図』では定実の弟に定明がいる。定俊の子に定実、定俊の兄弟がいたと推測できる。『天文系図』と異なることについては、後述する。


さて、次に定俊の先代を考える。『天文系図』において定実、定明の父とされているのが「淡路守」「蓮器玄澄」を名乗ったとする「房実」であるから、定俊の父が房実と推測できるだろう。房実の父は『天文系図』より上条氏の祖清方である。

明応4年に成立した『新撰菟玖波集』には、作者部類で「上杉淡路守」とされる「玄澄法師」という人物が句を収めているという(*4)。『天文系図』の房実の存在は史料的にも裏づけられる。房実は文安年間(1450頃)に死去した清方の子であり、明応年間には入道していることから、既に高齢であったであろう。

また、房実と同時期に史料上、「上杉播磨守」が所見されることから、清方の次代で既に古志上条氏と刈羽上条氏に分岐したことがわかる。

よって、古志上杉氏として房実入道玄澄が存在したと理解され、刈羽上条氏との分岐は房実世代に生じたとわかった。


さて、ここに房実、定俊、定明と古志上杉氏の人物を検出し、房実-定俊-定明という系譜を推定した。『天文系図』の記載と異なるが、明応期に既に高齢であった房実と天文まで所見される定実、定明兄弟の活動時期は親子としてはやや離れていると感じられる。すると、上述したように定俊が存在したことは確実であるから、『三条山吉家伝記』にある通り実際は「房実」と定実、定明の世代間には定俊が存在した、と考えるべきであろう。では、なぜ定俊が『天文系図』に見えないのか、「上杉十郎憲明」という人物を検討した上で後述する。


憲明は『上杉系図 系図部四十九』に「憲明 十郎長茂」、『上杉系図 浅羽本』に「憲明 十郎」と、それぞれ山内上杉憲房の実弟、山内上杉房顕の甥として記載されている。「憲明」という実名こそ史料で確認できないものの、永正7年6月山内上杉可諄書状中に「長茂」が見え、その存在と入道名が確認される(*6)。「上杉系図 系図部四十九」に「於越州討死 六月十二日」とあり、これは日付から椎谷の戦いを指す。森田氏(*4)は、憲明が憲房同様に顕定の養子であった可能性を指摘し、黒田基樹氏(*9)は憲明が古志上条氏を継承しそれは延徳から明応のことと推測している。

追記:2023/3/2
山内上杉憲房は可諄の養子ではなかったことが黒田氏によって明らかにされている。憲房の動向については以下の記事で詳しく検討している。山内上杉憲房の政治的立場 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

『藤原姓上杉氏系図』にも憲明の徴証はある。「定明」の次代として「定憲」「安夜叉丸」が挙げられ、上杉顕定の養子でのちに「定明」の家督を継ぎ、顕定と共に長森原で討死しという。人物関係については誤りが多いが、古志上条氏で且顕定の近親、永正6、7年の顕定の越後侵攻で顕定と共に戦死している点から、内容は憲明を表わしたものと考えられる。同系図は憲明を「定憲」としてしまったようで、顕定の養子で憲房の弟に「定憲」が載り「十郎定明」の家督を継いだ、とある。

以上より、山内上杉氏の流れを汲む十郎憲明入道長茂が古志上条氏に入嗣していたことが理解された。


しかし、そうすると憲明と前述の定俊は同世代にあたり、古志上条氏の当主が重複してしまう。二人の位置づけを考察してみたい。

結論から言えば、房実の次代に古志上条氏を継承したのは憲明であり、定俊は傍流という位置づけであった、と考え、憲明戦死後に定俊の子定明が古志上条氏を継承していった、と推測する。

憲明が古志上杉氏を継承した背景は、越後出身の関東管領上杉顕定の意向であることは間違いなく、仮名が古志上杉氏伝統の十郎であることから幼少からの計画的入嗣であることがわかる。黒田氏の推測した時期も上杉房実の終見時期に一致する。そしてこれを以て、本来の古志上条氏の流れを汲む定俊が傍流に弾き出されたと見る。

さらに『天文系図』の房実世代と定実世代の間の不自然な欠落がそれを補強する。すなわち、古志上条氏であった憲明の存在が同系図の作成主体守護代長尾氏によって意図的に消去されたと考える。例えば、上杉顕定との関係が深かった上杉定憲の存在が系図類に見えないことについて、森田氏(*4)守護代長尾氏の意図による隠蔽であると推測している。山内上杉顕定と関係が深く、長尾為景と対立し戦死した人物である憲明の存在は、定憲同様に守護代長尾氏の正統性を損なわせるものだったと推測できる。これが、憲明を消去し房実に直接接続した理由ではなかろうか。

十郎憲明と十郎定明の二人は仮名、実名に共通性があるから、憲明戦死後は定俊が影響力を保ちながらも定明が古志上条氏を継承していったのであろう。


またさらに、定俊、定実父子が越後上杉氏と山内上杉氏の一体化の煽りをくらい”傍流の傍流”に転落してしまったこと不満を抱き、為景と共に下克上を果たすという結果に繋がったのでないか、という推測も成り立つ。定実は始めから守護上杉房能の後継者として位置づけられていたとする所伝もあるが、これは八条龍松が房能の後継者として存在したことが森田真一氏(*10)によって明らかにされているから、実際に定俊、定実父子が上記の推測の様に政権中枢から離れた存在であった可能性は高い。定俊、定実父子が問題なく古志上条氏を継承していたら越後上杉氏体制を破壊する必要はなく、定実の為景への加担は単なる野心としか説明できなくなる。

憲明の存在は、混乱する古志上杉氏の系譜と、定実が為景と共に下克上を果たした理由について、仮説を提示してくれる。


ここまで定明から遡って考察してきたがここからは定明以降の系譜を考える。

『天文系図』によれば、定明には子がなく「朴峯様ノ御息 安夜叉丸殿」が跡を継いだという。同系図より、「朴峯」は「上杉少弼入道殿」、安夜叉丸は法名を「長福院殿 齢仙永寿」である。後継者のいない定明の跡を、上杉弾正少弼入道という人物の子が継いだということになる。

しかし、『越後過去名簿』によれば、「長福院トノ齢仙永寿大禅定門」が大永2年3月13日に供養されている。これは、定明の没年天文3年の12年前になり、定明の跡を安夜叉丸が継いだとは考えられない。定明が後継として安夜叉丸を養子にするも、定明死去以前に早逝してしまった、と考えるのが最も自然であろう。ただ、安夜叉丸の父上杉弾正少弼/朴峯も為景妻の実父でありながら詳細不明の人物であるから、安夜叉丸も何か政治的背景を持った存在であるかもしれない。


『天文系図』によれば安夜叉丸の跡を継いだのは、安夜叉丸の兄弟、すなわち上杉弾正少弼入道の子である「惣五郎殿」「頼房」(法名「峯泉寺殿天受玄信」)である。『越後過去名簿』において「上杉頼房」が天文22年10月12日に長尾景虎によって供養されており、その実在が確認できる。安夜叉丸と定明の関係は上述の通りであるから、頼房は定明の死後古志上杉氏を継承したと考えられる。

頼房の没年であるが、今福匡氏(*11)は天文7年以前とする。これは『天文上杉長尾系図』に頼房が「定実御孫子」つまり定実の近親とあることから、上杉定実の養子を伊達氏から迎える計画がなされる天文7年時には死去しているはずという推測であろう。しかし頼房の父が長尾為景の舅の上杉弾正少弼朴峰であることを踏まえ世代関係を見れば、定実の孫として頼房が存在することは不自然である。頼房が定実の孫である可能性は低くいことから、上の理由から天文7年までの死去を想定することは難しい。

やはり没年は『名簿』にある天文22年、と見て良いだろう。


そして、この後永禄期から天正にかけて「越ノ十郎」と呼ばれる人物が登場する。これが父に長尾景信を持つ「上杉十郎信虎」であり、古志上条氏を継承した存在であろう。信虎については、また別の機会に詳述したい。


以上から、古志上条上杉氏の系譜は次のように推定できる。

清方(十郎/兵庫頭)-房実(淡路守/入道玄澄)=憲明(十郎/入道長茂)
         -定俊(兵部)-定明(十郎)=安夜叉丸=頼房(惣五郎)=信虎(十郎)

房実の兄弟に守護上杉房定、刈羽郡上条氏の上杉播磨守が存在する。憲明は山内上杉房顕の弟周晃の子、山内上杉憲房の弟。定俊は房実の子と推定。定俊の子、定明の兄に守護上杉定実が存在する。安夜叉丸、頼房は実父を上条弾正少弼入道とする。信虎は実父を長尾景信とする。


*1)『新潟県史』資料編3、269号
*2) 片桐昭彦氏(「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜-米沢上杉家本の基礎的考察-」『山内上杉氏』戒光祥出版)
*3)今福匡氏『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派の盟主』(宮帯出版社)
*4)森田真一氏「上条定憲と享禄天文の乱」「上条家と享禄天文の乱」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)、『上杉顕定』(戒光祥出版)
*5)『三条山吉家伝記写』家伝文書
*6)『越佐史料』三巻、538頁
*7)『新潟県史』資料編5、2457号
*8)『新潟県史』資料編3、536号
*9)黒田基樹氏「上杉憲房と長尾景春」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*10)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川荘」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*11)今福匡氏『上杉謙信』(星海社)

※2021/2/17 頼房の没年について加筆した。



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