鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾景明とその系譜

2021-10-13 14:55:04 | 長尾氏
ここまで二回に渡って長尾右京亮景信・上杉十郎信虎の検討を行った。今回は、長尾景明という人物について確認していき、景明から景信、信虎へと続く系譜を整理してみたい。



1>系図類からみる景明
まず、最初の課題として景明の系譜が系図類によって全く異なる点がある。

『平姓府中長尾系図』には守護代長尾為景の三男として「左京亮 景明」(別名「景直」とある)と見える一方、『越後長尾殿之次第写』には上田長尾顕吉の長子「右京亮 景明」と載る。


ここで『越後長尾殿之次第写』(以下『長尾次第』)の記載に言及しておきたい。

『長尾次第』は「当丙戌五月御上洛、六月廿二日参内正四位左近衛権少将摂任、七月六日御帰国」という部分から、これが天正14年の上洛と同じ年に記された記録であることがわかっている。関係者が多く生存していた頃の記録であり、正確性へ信頼がおける史料である。

しかし、不自然な点もあり、それが今回の検討対象である長尾景明とその父顕吉に関する部分である。これについては以前に検討しているため、詳しくは割愛する。

簡単に言うと、顕吉の次世代以降が後世において改変された可能性がある。よって、景明の系統に関しても『長尾次第』を利用する際は慎重な姿勢が必要である。

以前の記事はこちら


『長尾次第』の記載は以下の通りである。(男子/女子)
長尾顕吉の実子:右京亮景明・玖圓侍者・伊勢守景貞/天甫喜清・光室妙智
長尾景明の実子:上杉十郎景信・右京亮景満・小四郎景直/本庄殿内儀

顕吉の実子については、以前に検討した通り天甫喜清や光室妙智など明らかな誤りが所見される。

すると、景明の所伝の信憑性も問題になる。しかし、景明は後述するように文書から上田長尾氏一族としての活動が確認できるから、顕吉の実子である可能性は十分に考えられる。景明の弟とされる「伊勢守景貞」も、文書にて伊勢守を名乗る上田長尾氏一族が確認できることから、一定の史実を伝えるものであろう。

よって『長尾次第』における顕吉の次世代は、正しい所伝に誤った情報が加えられたものと見ることができる。


景明の子供について見ていく。

『長尾次第』において景明の嫡子「景信」が上杉十郎を名乗り、天正6年居多浜合戦で戦死したとあるが、明らかに上杉信虎との混同である。「本庄殿内儀」=本庄繁長妻は『本庄系図』等でも見られる人物で、「上杉信虎妹」とされる人物である。

つまり、景信世代が抜け、信虎が景信に置き換わってしまったと推測できる。景明の子供とされる兄弟「右京亮景満」「小四郎景直」は、実は景信の子供、信虎の兄弟であったと見られる。

ちなみに、永禄4年上杉政虎書状(*1)などから景信は右京亮を名乗り、右京亮景満は上杉景勝判物(*2)より上田庄に所領を持っていたと推定されるから、景信や景満兄弟が景明の系統であることは確かであろう。


よって、景明に関する『長尾次第』の記載は、明らかな誤りを除くと概ね信頼できるといえる。


一方『平姓府中長尾系図』は後世の作であり、「左京亮」という名乗りも右京亮の誤伝であろう。景信の妻は為景娘であり、それがこの一族が守護代長尾氏の系譜に紐付けられた原因であろう。また、景直と景明が混同されている点も、二人が血縁関係にあることの徴証であろう。


以上『長尾次第』より、景明は上田長尾顕吉の長子である、と推測される。


2>文書から見る景明
さて景明について、実際の文書から探ってみたい。


[史料1]
源左衛門尉望、不可有相違候、謹言
 四月廿三日      景明
 穴澤源左衛門殿

[史料1]は、景明の活動を示す史料である。宛名の穴澤氏は上田長尾氏被官である。

『穴澤系図』に拠ると、その系譜は「次郎右衛門尉景長」-「源左衛門尉泰長」-「新右兵衛尉長勝」と続くという。穴澤次郎右衛門尉は長尾顕吉の活動時期に所見され、新右兵衛尉は天文4年1月上条定憲書状(*3)に初見される。つまり、穴澤源左衛門尉は永正期から天文初期の間の穴澤氏当主と推定される。

以前検討したように永正7年9月から翌年1月までに顕吉からその甥房長へ家督交代が行われたと推定され、長尾景明が上田長尾氏の当主である可能性はないが上田長尾氏一族として穴澤氏に対して文書を発給していたようだ。


永正8年1月月洲書状(*4)が穴澤源左衛門尉へ宛てられており、[史料1]は永正8年1月以前の文書であるといえる。

文書の年次比定は以前行った長尾平六の乱の検討結果によるものである。


この事実を換言すると、守護代長尾氏と上田長尾氏の対立が続いていた時期の発給文書となり、長尾景明が上田長尾氏として守護代長尾氏とは別陣営に属していた人物とわかる。

よって『平姓府中長尾系図』に見えるような、景明が守護代長尾氏系統の出身という説を文書から否定でき、上田長尾氏の人物と見られる。つまり、『長尾次第』にある顕吉の長子という説を裏づける。


また、天文9年6月には「長尾右京亮分」が栗林政頼に与えられている(*5)。これは長尾景明の孫にあたる右京亮景満の所領である。

そこには「野田」という地域を含んでいることが記され、野田は現在の南魚沼市に存在する。つまり、景明の系統が上田庄周辺に所領を持っていたことが示され、景明と景満らに血縁関係にあること、景明が上田長尾氏出身であることを示すとものいえる。


[史料2]『新潟県史』資料編3、854号
就新六殿御下向、慮外儀出来、誠口惜存候、此上毎篇御遠慮簡要候、為景事、奉対貴所吉凶共不可有疎欝候、長景事同意候、八幡大菩薩、春日大明神、諏方上下大明神、可有照覧候、全不存別心候、只自幾も御思惟専一候、委曲景明へ申候間、抛筆候、恐々謹言、
   十一月十三日        中務小輔長景
謹上 長尾肥前守殿

[史料3]は長尾為景・上杉定実による府内政権の中枢に位置する長尾長景から長尾顕吉に対して発給された文書である。「新六殿」=上田長尾房長の下向が問題となっており、上田長尾氏が為景に従属する際の条件についての交渉の一端であると推測できる。その場合、自然と上杉可諄敗死後の永正7年11月に比定することができる。詳しくは以前検討した。


「委曲景明へ申候間」とあり、守護代長尾氏へ上田長尾氏側の使者として景明が派遣されたことがわかる。


[史料3]『越佐史料』三巻、815頁
十二日六郎致同心奥へ可参候、速見之可供候、穴澤兵衛太郎・彦三郎・五郎三郎可申付候、謹言
 六月六日       景明
 穴澤源左衛門尉殿

[史料3]で、景明が穴澤源左衛門尉へ「六郎」=長尾為景に従い奥郡へ従軍するように命じている。長尾為景が奥郡を攻撃していることから、永正9年5月に発生した鮎川式部大輔入道の反乱に関する文書であると理解される。

鮎川氏の乱では穴澤氏と地理的に近い福王寺氏や江口氏の出陣も確認でき(*6)、穴澤氏の出陣も不自然ではない。


3>景明の政治的立場
文明から永正にかけての上田長尾氏当主、顕吉は早逝した兄憲長の子房長へ家督を譲っており、景明は長子でありながら家督を相続していない。

ただ、米沢藩により延宝年間に作成された『先祖由緒書』にも穴澤氏が家伝文書として「上杉房長様御一家」の御書と、「長尾景明様御一家」の御書を所持していることが記される。「上杉房長」とは上田長尾房長のことであり、房長と景明がそれぞれ別家として区別されていることは注目である。

ここから推測すると、前当主の実子であることにより相応の立場があったと見るべきであろう。それが[史料1]に見られた穴澤氏への官途状発給や、[史料2]守護代長尾氏への使者、[史料3]穴澤氏への軍事に関する命令などの行為につながったのではないか。


さて、[史料3]、[史料4]を見て気になる点がある。それは、景明が府内政権=為景と距離が近い、ということである。

もちろん数が少なく断定できないが、景明の次代景信の妻が守護代長尾為景の娘である点、孫世代の上杉信虎、長尾景直らが上杉謙信に重用された点を考えると、景明の系統は上田長尾氏出身でありながらも守護代長尾氏に接近していることは明らかである。

そして、長尾景直が「春日山御屋敷」とよばれ、その父景信を指すと思われる法名も「御屋敷」と記されることを踏まえると、景信の代には既に上田長尾氏との関係が消滅していたとみて間違いないだろう。


景明の系統が上田長尾氏を離反し守護代長尾氏に帰属した時期とはいつだろうか。

推測するに、それは天文2年に勃発した天文の乱の際ではなかったか。

まず、景明の父顕吉の三回忌を享禄5年6月に房長が行っているから、その時点まで上田長尾氏との関係は維持していたと考えるべきであろう。また、この時までは長い間守護代長尾氏と上田長尾氏は友好関係にあり離反の機会もない。

天文2年以降数年間に渡り為景と房長は抗争関係にあるから、この際に景明は守護代長尾氏に味方したのであろう。

景明の孫で為景娘の子である景直が天文23年に活動しているから、守護代長尾氏との婚姻は天文期における離反以前のことと推測される。永正7年以降の友好関係にあった期間に、為景は上田長尾氏内部に自らの味方となる勢力として景明系統と関係を深めていたのではないか。

天文期という時期を考えると、離反主体は景明の次代で為景娘を妻に持つ景信であった可能性もある。

ともかく、為景が上田長尾氏に対して打ち込んだ楔である景明・景信父子との婚姻関係が天文の乱に際して景明系統の離反という結果に繋がったといえるだろう。「御屋敷」という呼称も上田庄を離れ、春日山へ寄寓する立場に由来するとも考えられる。


4>景明-景信-上杉信虎の系統についての整理
さて、ここまで長尾景明、景信、上杉信虎の三世代を見てきた。三人を検討し終えた所で、世代間の整合性などが取れているか、確認しよう。

まず、起点とする人物は上田長尾顕吉である。以前の検討で、顕吉の生年は文明期前半から中頃と推測した。

すると、長尾景明の確実な初見である永正7年には顕吉は30代前半程度となる。長子が活動を始める年頃として矛盾ない。

よって、景明は永正7年時には10代後半くらいの若者と見られる。

景明の子である景信は所見が少なく活動時期を絞れないが、末子景直が天文23年に活動しているから天文初期には子供がいたと見られる。

前回までに景信の妻は長尾為景娘=上杉謙信姉と推定したが、それにふさわしい年齢である。


以上、三世代が矛盾なく接続している様子が理解される。



ここまで、景明とその一族について検討した。

今回私が示した考察は私見であり、不十分な点も多い。ただ、従来の「長尾景信」や「上杉十郎」に関する通説はあまりに短絡的であり、彼らを語るには私が紹介したような史料の十分な検討が必要であることを理解してほしい。

次回以降、長尾右京亮景満、長尾小四郎景直についても検討していく。


参考:長尾景明関連文書一覧
永正7年11月3日長尾肥前守宛長尾長景書状(『新潟県史』資料編3、854号)
年不詳4月23日穴澤源左衛門尉宛長尾景明官途書出(『越佐史料』三巻、815頁)
永正9年6月6日穴澤源左衛門尉宛長尾景明書状(『越佐史料』三巻、815頁)


*1) 『越佐史料』四巻、370頁
*2) 『新潟県史』資料編5 、3996号
*3)同上、3727号
*4)同上、3616号
*5)『新潟県史』資料編5、3996号
*6)『越佐史料』三巻、583頁


※24/6/29  長尾景信を永正期生年と想定していたが、享禄年間等も否定できないため、当該箇所を削除した。


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