鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

上杉定昌の政治的立場

2024-02-12 15:28:51 | 越後上杉氏
上杉定昌(五郎、左馬助、民部大輔)は越後守護上杉房定の息子の一人であり、その生年は『実隆公記』にある享年から逆算して享徳2年であり、3人の兄弟の中で最も早い。定昌は左馬助、民部大輔と父の名乗りを受け継いだことから房定の嫡子とされ、弟顕定とも同腹と推測されてきた(*1)。

しかし、森田真一氏(*2)は顕定母(青蔭庵月山妙皓)の七回忌に関する史料である『玉隠和尚語録』に「月山第一子藤家棟梁顕定公」とあり、山内上杉顕定はその母の第一子であったことが指摘されている。また、顕定は享徳3年の誕生であることが明らかであり(*3)、定昌とは年子の関係になる。朝倉直美氏(*4)は福田千鶴氏の研究などを踏まえて戦国期の女性が年子で出産する可能性が高くないと推測した上で「母体の回復のために戦国大名家正妻が年子で出産することはないとみた方が良い」と結論づけており、この指摘は年子である定昌と顕定が別腹であるとする論説を補強するものとなる。つまり、定昌と顕定が異母兄弟であったことは確実であるといえよう。

これは定昌の動向と、兄弟関係を考える上で画期となる事実であり、これを踏まえた上でその関係性を見直してみたい。ちなみに、定昌の初名は「定方」(読みは同じサダマサ)であり、文明5年4月から翌年4月までの間に「定昌」に改名しているが、煩雑なため定昌で統一する。

1>定昌と顕定はどちらが嫡出か
最も大きな問題はそれぞれのどちらが嫡出かという点である。定昌と顕定が異母兄弟である以上、どちらかが正妻の子=嫡出、妾の子=庶出ということになる。そして、そのヒントが顕定の幼名にある。

応仁2年に発給された2通の感状(*5)の署名より顕定の幼名「龍若」が明らかである。森田真一氏(*2)は龍若の名は越後での出生時よりものとした上で、歴代の越後守護、山内上杉家の人物と同様に「龍」を冠しており、「越後守護家にふさわしい幼名を名付けられる環境にあったことがうかがえる」とする。嫡男の後に生まれた庶出の次男にそのような立場が与えられるはずもないから、顕定は嫡出であったと考えるべきである。顕定は生まれながらにして越後守護家を継承すべくその幼名がつけられたということになる。そして、定昌は妾より出生した庶兄であったと推定され、当初において家督相続などは想定されていない存在であったと考えられる。

そして、越後上杉氏から山内上杉氏へ顕定が入嗣した点も、房定が庶子を送り込んだという見方ではなく、家督継承予定者であった嫡男顕定が山内上杉氏を継承し庶兄定昌がそれに代わって越後上杉氏の後継に位置付けられたと考えるべきであろう。顕定が山内上杉氏を継いだのは元服前13歳の文正元年であり、この時庶兄定昌は14歳である。これ以降、越後上杉氏にふさわしい左馬助・民部大輔の名乗りが定昌へ与えられていったと推測できる。

ちなみに、定昌と顕定の関係は良好であったと思われる。両者の関係悪化や何らかのトラブルを伝える史料もなく、文明6年には太田道灌が家宰職と武蔵守護代についての意見を定昌を介して顕定へと伝えようとするなど周囲からもその関係性が認められていた。また、五十子陣においてが「山内(=顕定)・典厩(=定昌)・河越(=扇谷上杉定正)」(*6)が三大将と並び称されている。定昌、顕定に関して、山内上杉氏・越後上杉氏間での家督変更は、その後において大きな齟齬なく機能していたといえる。

2>定昌の活動
越後上杉氏として定昌の活動が所見され始めるのは、享徳の乱の対応のための関東出兵である。文明5年4月には関東に在陣し文書を発給しているが、その具体的な場所は森田真一氏(*7)により武蔵五十子陣であったと比定されている。こういった所見から、この頃より関東での軍事行動は定昌へ任せられたと山田邦明氏(*8)は推測している。そしてその後も関東在陣を続けた定昌であったが、転機となったのが文明8年6月の長尾景春の反乱である。文明9年1月に景春の攻撃を受け、五十子陣が崩壊、定昌はその拠点を上野白井城へと移したと推測される。

その後、古河公方足利成氏と抗争も包含し混戦となった関東情勢であったが、結局上杉房定の仲介もあって文明14年に将軍足利義政と成氏の和睦=都鄙合体が実現、結果から見ると一時的なものだったが関東へ和平が訪れることになった。このような中で、房定は文明18年に従四位下相模守に任官し、肩書の上では鎌倉期の執権と同等の地位という破格の待遇を得た。この年の9月には定昌が上野白井城に在城しつつ民部大輔の名乗りで所見されている(*9)。片桐昭彦氏(*1)はさらに翌長享元年10月までに房定が出家し常泰を名乗ることから、この頃に房定から定昌への家督移譲が行われたとする。定昌の家督相続を明確に示す文書はないが、上述の推測に加え、越後上杉氏家臣団に定昌の偏諱である「昌」を冠した人物が多数所見されること、後世の系図(*10)においても房定と房能の間に定昌が家督を相続していたとする認識があったことなどからも、定昌が家督を継承していた蓋然性は高いと考えられる。また一方で、定昌は越後守護ではなかったとされる(*2)。房定も越後府中において健在であり、その権力は依然として房定が掌握していた部分は大きかったと考えるべきであろう。

そして、定昌は家督相続後まもなく長享2年3月24日に上野白井において自殺を遂げる。『蔭涼軒日録』では「上杉民部大輔殿三月廿四日自害」したという一報が4月6日に届いたとあり、『実隆公記』には「上杉相模入道子息民部大輔生年卅六歳、於関東去月廿四日頓死云々、若切腹歟云々」とあり、定昌の自殺は確かである。

3>自殺の原因
自殺の原因について、確実なことは記録になく不明である。

片桐昭彦氏(*1)は、文明18年7月太田道灌暗殺に端を発する長享の乱における山内上杉氏・越後上杉氏と扇谷上杉氏の抗争に関連した、扇谷上杉氏方による謀殺であったとする。ただ、具体的な根拠に乏しく、個人的には懐疑的である。同氏はさらに、「定昌」の実名も扇谷上杉氏一族朝昌の一字拝領の可能性を提起し、失敗に終ったものの朝昌との関係を深め定昌が扇谷上杉氏を継承する計画があったとする。しかし、定昌へ改名した文明5~6 年頃には越後上杉氏を継承可能な人物は定昌のみであり、そのような中で扇谷上杉氏への養子計画などは不自然であろう。

山田邦明氏(*8)は、定昌が自殺後半年で房能が元服している点に注目し、兄弟間での家督争いがあり、房能を擁立する一派により自殺に追い込まれたと推測する。そして、その一派の中心人物は、元服に際して房能へ「能」を与えた長尾能景であった可能性を指摘している。森田氏(*2)も定昌自殺の原因は越後守護家の家督継承問題にあったのではないか、としている。房能は文明6年に誕生し、長禄2年15歳で元服する。兄たちとは約20歳離れた弟であった。結果的に、明応3年房定の死をもって房能が越後上杉氏の家督と越後守護を継承することになる。

私も山田氏らの主張するように、定昌の死は越後上杉氏の内部問題に起因すると考える。房定、定昌、房能の個人的な感情や思惑もあっただろうが、最も大きな問題は家臣団の権力争いではなかったか。定昌は長期間にわたり関東に在陣していたため、後述のようにその権力基盤も上野北部から越後魚沼にかけて形成された。すると定昌が房定から越後上杉氏権力を継承したのちに、権力中枢にはそういった地域出身のものが少なからず入ってくることになる。この事態は従来の権力中枢を構成する越後諸将にとって望ましくないことだったのではないか。越後府中を中心とした房定政権から上野白井を中心とした定昌権力への転換により、従来の重臣層は自らの地位の低下を危惧し、定昌が越後へその支配を強める前に弟房能を擁立し抵抗を見せたのではないか。その結果が、定昌の自殺、房能の元服と後継者化であったと考えられよう。

さらに、定昌が庶出であったことも不利に働いたのではないか。正嫡であればその支配の正統性に疑いはないが、庶子である定昌はやや弱い立場であった可能性がある。房能の母は詳細不明であり、定昌、顕定との年齢差からは両者の母らとも別人であると思われるから房能が嫡出を理由に家督奪取を目指したとも考えづらいが、こういった血縁的な要因は反定昌派の付け込む隙となったことは十分に推測できるであろう。

4>定昌と白井
定昌について考えるべきはその活動拠点が一貫して関東にある点である。特に上野国白井は定昌の本拠地として確立されていた。これは定昌の死について発智景儀が言及する際に、定昌を「白井之殿様」と表現していることからもわかる。

森田真一氏(*2)は文明15年夏には連歌師宗祇が「上杉典厩(=定昌)の亭」で和歌を詠み、文明18年9月には歌僧尭恵が白井に宿泊し定昌主宰の歌会に参加していることを踏まえ、定昌が白井において恒常的に活動していたことを指摘する。さらに、その家臣団に発智氏など越後魚沼郡を拠点とする者がいることから、影響力は魚沼郡にまで及んでいたと推測する。その期間は少なくとも文明5年から長享2年までの15年間にわたるとされ、定昌が白井を中心に上野国北部から越後魚沼郡にかけて政治的基盤を築いていたことが理解される。

この権力圏は定昌死後、山内上杉憲房が継承している。憲房は定昌と同じく仮名五郎を名乗っており、定昌権力の後継者と位置付けられている。憲房については次回に検討する。


以上、上杉定昌について検討した。その出生から関東における動向と越後上杉氏における位置づけ、そして自殺に至るまで検討すべき課題は多い。次回は、定昌権力の後継とされる山内上杉憲房を検討していきたい。


*1) 片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*2) 森田真一氏『上杉顕定-古河公方の対立と関東の大乱-』(戒光祥出版)
*3)「上杉房定一門・被官交名」(『正智院文書集一』82)
*4) 「北条氏規と家臣」『小田原北条氏一門と家臣』
*5) 『戦国期山内上杉氏文書集』18、19号(黒田基樹氏『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*6) 『松陰私語』
*7) 森田真一氏「上杉定昌と飯沼次郎左衛門尉」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*8)山田邦明氏 「上杉房定」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*9)『上越市史』資料編3、388
*10)『上杉系図』(『続群書類従』第六輯下、87頁)、房能を定昌弟と注釈を付けながら房定-定昌-房能とする系譜を作成している。


コメントを投稿