鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

赤堀上野介の動向

2024-08-04 20:49:51 | 赤堀氏
赤堀氏は上野国佐位荘(淵名荘)赤堀の領主である。秀郷流藤原氏の流れを汲む一族という。戦国期には越後上杉氏、横瀬由良氏、小田原北条氏といった大勢力の間で活動を見せる。赤堀氏は近隣の有力領主であった厩橋長野氏や由良氏、厩橋北条氏を寄親としていたように、領主としての規模を大きくはない。しかし、在地勢力として根を張る彼らの存在は決して無視できるものではなかった。このような領主の動向を検討することで当時の上野国における勢力図が詳細に浮かび上がってくると考える。今回は、特に永禄期から天正期にかけて活動した赤堀上野介(実名不明)の動向について検討したい。実名「景秀」とされることもあるが、確実な史料はなく信頼性の低い系図等の所伝にすぎないため、ここでは参考程度に留めておきたい。


1>永禄期以前の赤堀氏
観応3年(1352年)から赤堀氏の所見があり、南北朝期においても赤堀氏の活躍が見られる。その後しばらく赤堀氏の消息を伝えるものはないが、戦国期になり享徳の乱が勃発してから再び歴史の表舞台に現れる。

享徳3年に鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏の間で享徳の乱が生じると近隣の新田岩松氏、館林舞木氏らと共に赤堀下野守時綱は足利成氏方につく。享徳4年2月には赤堀氏が善氏を攻撃している(*1)。時綱は康正2年2月に深巣合戦で上杉方と戦い戦死し、嫡子亀増丸=孫太郎政綱が跡を継いだ(*1)。長禄2年になると岩松氏が上杉氏に内応するなど政情の変化があり、状況に応じて足利方から上杉方へつくこともあったようだ(*2)。結局文明・長享期において赤堀上野介=政綱は上杉方としての立場を取るようになる(*3)。

文明14年閏7月には山内上杉顕定より政綱の子彦四郎が善三河守の後継となることを認められている(*4)。つまり当時、赤堀氏と善氏は血縁的に一体のものとなったと推測される。永禄期頃においても赤堀氏と善氏の動向は概ね一致していると考えられ、両者が血縁的に深い関係あったことが想定できる。

明応3年には山内上杉顕定と古河公方足利政氏が連携し、顕定の養子として政氏の子が入るなど両者の融和が見られる。政綱が次男彦九郎を足利政氏のもとに参陣していることを示す明応6年以降の文書(*5)があるが、善氏へ入嗣した彦四郎が長子であれば彦九郎が赤堀氏の後継者であった可能性もあろう。

天文15年4月に山内上杉憲政が「赤堀上野守娘」へ川越合戦で戦死した「赤堀上野守」=赤堀上野介の名代=家督を認めている。明応期から天文15年まで約50年の空白があり、戦死した上野介は政綱ではなく、後代の人物である。詳細な系譜関係は不明である。こののち時期はわからないが、上野介娘から赤堀氏の家督を継承した人物が永禄期より所見される赤堀又次郎=上野介と考えられる。女性を挟んでの家督継承の形であることから、上野介(永禄期)は戦死した上野介と父子関係ではなく、庶流から家督を継承した存在と想定される(*6)。


2>赤堀上野介の動向 -謙信の在世期-
永禄3年秋に越後長尾景虎が山内上杉憲政と共に関東へ出陣し、参陣した諸将の書き上げとして永禄4年初頭に『関東幕注文』が作成された(*7)。その中に横瀬成繁傘下(=新田衆)の同心として「赤堀又次郎」が見える。以降に見える上野介の前身だろう。上野介の後継者が又太郎を名乗ることから見ても妥当と考える。

享徳の乱以降の戦乱において地理的関係から金山城を拠点とした新田岩松氏とその家宰横瀬氏の影響は大きかったと思われ、その傘下として編成されたと見られる。しかし、それも状況によっては変化したようで、天文10年に厩橋長野賢忠、深谷上杉憲盛、那波宗俊らが横瀬泰繁を攻めた際に、当時横瀬氏の同心であった善氏、山上氏が横瀬氏を離反し厩橋長尾氏へ帰属し、その後永禄3年の長尾景虎越山までその状況が続いていたという(*8)。「関東幕注文」の時点で善氏、山上氏は新田衆に見えるため、永禄4年初頭までに横瀬氏に再び帰属したことになる。久保田順一氏(*9)は厩橋長野氏が長尾景虎に軍事的抵抗を見せたため、その間に善氏ら同心は厩橋長野氏から離反した可能性を推測している。赤堀氏については史料がないが、善・山上氏と同様の経過を辿った可能性は高い。

永禄4年以降、赤堀又次郎は横瀬成繁の同心として位置づけられ活動していたと見られる。新田荘長楽寺の義哲により記された『永禄日記』には赤堀氏が所見され、永禄8年3月23日に「赤堀御料人」が22歳で死去し義哲が焼香のため赤堀に行ったことが記録されている。赤堀御料人の詳細は不明である。当時御料人は息女を指し、年齢や由良氏に属する義哲の視点から記されることなどから由良氏関係者の娘が赤堀氏へ嫁いだと見るべきだろう。義哲が知らせを受けて金山から赤堀へ向かったのも御料人が由良氏関係者であれば頷ける。もちろん「赤堀御料人」は赤堀上野介の妻であろうから、上野介と由良氏方との間には婚姻関係が結ばれていたことが想定される。

上杉輝虎が永禄9年3月下総臼井城攻めに失敗すると関東諸将の離反が相次ぎ閏8月に由良(横瀬)成繁も上杉氏を離反し小田原北条氏に帰属する。ここで善氏、山上氏は由良氏に従わず上杉氏方として残るが、同年末に北条氏政が佐野まで進軍した際に小田原北条氏に従属し、再び由良氏の同心として位置づけられた(*8)。赤堀氏の動向を示すものはないが、当時赤堀氏の周囲の由良氏、厩橋北条氏は共に小田原北条氏に服属しており、善氏らの動向と同じく永禄9年内には由良氏の元に編成されたのではないか。

永禄12年6月に越相同盟が成立すると上野国は上杉輝虎の管轄となり、由良氏も名目上は上杉氏傘下となる。由良成繁はその後も小田原北条氏寄りの立場を取っていたが、赤堀氏は永禄13年3月22日上杉輝虎安堵状(*10)において「度々譜代之筋目無拠申由、殊誓詞亦神妙ニ候」とあり、上杉氏の直臣となることを申し出て了承されている。

元亀2年末に越相同盟が崩壊し甲相同盟が復活、再び上杉氏と小田原北条氏の対決姿勢が鮮明となると、由良成繁は小田原北条氏へ味方する。一方で、赤堀氏、善氏らは由良氏に従わず上杉氏への従属を維持した。その結果、善氏は元亀3年6月に由良成繁から居城善城を攻撃されている(*11)。『関八州古戦録』はこの時に「善備中守宗次」が戦死し善城が落城したことを伝えており、この後に善氏の所見がないことからも同氏は没落したと考えられる。山上氏についてもこの後所見がないことから同時期に由良氏の攻撃を受け没落したことが想定される。女淵城についても城将沼田平八郎が上杉氏から離反し由良氏に帰属している(*12)。さらには天正元年3月には上杉方桐生城とその領域も併呑し、黒川谷の領主阿久沢氏も従属させた(*13)。ここにおいて赤堀氏は周囲を由良氏に囲まれる形となる。この際の状況について述べられているのが前回(赤堀上野介関連文書の年次比定 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)で検討した元亀4年3月上杉謙信書状(*14)、同年5月上杉謙信書状(*15)である。前者において赤堀上野介が厩橋北条高広へ自身の窮状を訴え近いうちの謙信越山を要請していることがわかり、謙信は赤堀城の堅守を指示している。後者においては近日中に援軍を送るため安心してほしいことを伝え、北条高広・景広父子と相談の上赤堀城の防衛を指示している。この頃、謙信は越中方面の対応に追われ元亀4年=天正元年において関東へ出陣できる状況ではなかった。天正2年2月までに後藤勝元が越後から由良氏との前線に派遣され、敵を討取り首験は厩橋城へ送っていたことが同年2月上杉謙信書状(*16)に記される。後藤勝元が赤堀上野介へ伝えられた援軍である可能性もあろう。

しかし、謙信の激励も届かず赤堀氏も小田原北条氏、由良氏方へ従属したと考えられる(*17)。その契機は天正元年7、8月の北条氏政の上野国出陣であろう(*18)。同年8月1日には氏政が厩橋を攻める動きを見せており、赤堀氏もこの際の圧力に屈して小田原北条氏へ帰属したことが想定される。永禄9年末における善氏や山上氏らの事例を踏まえると、やはり従来の関係性により由良氏の同心とされたのではないか。

上杉謙信は天正2年1月26日になって関東出陣の陣触れを出し2月5日に沼田に着陣した(*19)。同年3月10日北条高広書状(*20)において「赤堀・善・山上・女淵属御手」とあり、この時までに由良氏から赤堀城、善城、山上城、女淵城を奪還したことがわかる。ちなみに、同年3月13日上杉謙信書状(*21)では「善・山上・女淵付落居候」と諸城の攻略を伝えているが、赤堀城について記載はない。善・山上・女淵城は善氏・山上氏ら領主層の没落と由良氏の家臣の入城が想定されるため謙信に対して抵抗を見せたことが推測できるが、赤堀上野介は周辺勢力の中では最後まで謙信へ従っていた存在であり、他城とは異なり越山した謙信に呼応して積極的に再従属したのではないだろうか。

この天正2年初頭の攻勢によって謙信は女淵城へ後藤勝元、善城へ河田九朗三郎(後に備前守)、山上城へ倉賀野尚行、新たに築城した今村城那波顕宗が配属され(*22)、深沢城阿久左馬助も上杉氏へ帰属しており、赤堀城赤堀上野介も彼らと共に小田原北条氏、由良氏への防衛線として機能していくこととなる。天正2年7月赤堀上野介宛上杉謙信書状(*23)はこのような中で発給された文書である。

その後、天正2年8月には北条氏照の厩橋・大胡攻め(*24)などの小田原北条氏との攻防も見られるが、謙信死去まで赤堀城周辺の勢力図は大きくは変わっていない。天正4年2月(*25)、同年7月(*26)に由良成繁による善城攻めが確認されるが、謙信死去まで善城は上杉方であるから赤堀氏ら一帯の武将の防戦により由良氏を撃退した状況が想定される。女淵の地衆北爪氏が記した『北爪大学覚書』(*27)には「赤堀ノ御働ノ時首壱ツ取申候」などと北爪氏が上杉氏方として活躍したことが記され、年不詳ながら赤堀城を巡って合戦があった可能性が示唆される。『群馬県古城塁址の研究』はこれをもって天正2年3月に赤堀氏が上杉氏へ帰属した際に合戦があったと推測するが、時系列で記される同覚書の中で上記は天正2年閏11月に上杉謙信が羽生城衆を引き取った記載の直後に記されているため、それ以降のことと想定される。先述の通り天正2年3月において赤堀城での合戦は明らかでなく、また同地域一帯が由良氏・北条氏へ帰属していた状況で女淵を拠点とする北爪氏が上杉氏方として活動していたとは考えにくいという点などからも、同記載は史料に現れない由良氏と上杉氏方の境界線における紛争を示していると思われる。

3>赤堀上野介の動向 -謙信死後-
さて、このような状況が一変したのが上杉謙信の死去である。越後国内では上杉景勝と上杉景虎が対立し御館の乱が勃発し、景虎の実家小田原北条氏も積極的に介入する姿勢を見せる。上野国へも北条氏の影響力が強まり、天正6年6月には白井長尾憲景、厩橋北条高広・景広、河田重親らが同氏へ従属し、同年7月には北条氏方が沼田城を攻略している。天正7年5月北条氏政条書写(*28)には善城は「去冬沼田本意依頼属味方」とあり、「赤堀之地」は善と同様と記される頃から、沼田城が小田原北条氏に攻略された天正7年7月頃に赤堀上野介も当時の善城主河田備前守らと共に同氏へ帰属したとわかる。また、同条書には両氏を従来の通り由良氏の「馬寄」=同心とするともあり、やはり赤堀上野介は由良氏(当時は成繁の次代国繁)の同心と位置付けられた。

しかし、天正11年3月北条芳林(安芸守高広)覚書(*29)には当時小田原北条氏から離反し、上杉景勝と交信していた北条芳林が自身の支配領域として「大胡・山上・田留・赤堀」が挙げられており、当時赤堀上野介が厩橋北条氏に従属していたことが推測される。このような状況に至った経緯として武田勝頼の上野国への攻勢が想定される。天正7年、上杉景勝と同盟を結んだ武田勝頼は、上杉景虎を支持した小田原北条氏とは断絶することとなり、以降両氏の間で抗争が開始される。天正7年8月に厩橋北条氏が武田氏へ従属し、翌年5月には沼田城も武田氏が攻略している。その中で勝頼は天正8年9月に上野国へ出陣し新田領を始めとする東上野を攻撃し、善城を攻め落とし河田備前守を討取っている(*30)。赤堀氏周辺は武田氏の影響力が強まったことが想定され、同時期に赤堀氏は武田氏へ従属し厩橋北条氏の同心として位置づけられた可能性が考えられる。同時期玉村の領主宇津木氏が厩橋北条氏の同心と推測され (*31)、赤堀氏も同様の形態であったと考える。そして天正10年3月に武田氏が滅亡すると、厩橋北条氏は滝川一益に帰属した。この間、赤堀上野介は厩橋北条氏の同心として行動を共にしていたことが想定される。当時の厩橋北条氏は戦国大名である上杉氏や武田氏に従う有力な国衆として存在し、以前赤堀氏が従属していた厩橋長野氏、由良氏と同質の存在といえる。つまりこの頃においても、大名クラス-有力国衆-中小領主である赤堀氏、という階層構造が大きく変わることはなかったといえる。

天正10年6月に本能寺の変が生じ滝川氏が没落すると厩橋北条高広は一時小田原北条氏へ従属したものの、同年11月には上杉景勝へ接近し小田原北条氏から離反した。このような状況で発給されたものが天正11年3月北条芳林覚書(*29)であり、上杉景勝重臣直江兼続に対して関東出陣を要請し、自らの支配領域として大胡、山上、赤堀などの守備に努めることを伝えている。厩橋北条氏は天正11年9月に小田原北条氏に降伏し、厩橋城を没収の上小田原北条氏に服属する(*32)。赤堀氏もこの時までに小田原北条氏への帰属を遂げたと考えられる。『石川忠総留書』「牧和泉守事」(*33)には赤堀上野介の嫡子又太郎が白井長尾氏家臣牧和泉守の聟であったことが記され、天正11年10月には東上野に在陣する北条氏直に赤堀上野介が牧氏は自らの赤堀城に居住していることを言上したことが伝えられる。赤堀氏の姻戚関係と厩橋北条氏降伏直後の動向が記されていて興味深い。

天正11年以降赤堀上野介は、小田原北条氏に直接に従属関係を結ぶ関係となり、黒田氏により大名クラスへの「旗本化」として指摘されている(*34)。以降も赤堀氏が由良氏や厩橋北条氏らの傘下となることはなかった。これまでの国衆の傘下として位置づけられる立場からの脱皮を遂げたと捉えられる。

天正13年北条朱印状(*35)に厩橋城の在番を宇津木下総守、高山彦四郎らから「赤堀上野」ら3人に交代するように指示がある。小田原北条氏の元で自らの赤堀城だけでなく、主要な城郭への在番が求められたことがわかる。宇津木氏らは在番を交代したのちは「可致参陣」とあり、同様に赤堀氏に対しても北条氏の軍事行動への従軍が求められていたことであろう。こういった北条氏からの直接の指示は大名への「旗本化」を示すものであろう。

天正16年12月北条氏邦書状(*36)、同日北条氏直書状(*37)で赤堀又太郎が利根郡阿曾城に在番することとなったことが記されている。この時までに上野介からその嫡子又太郎へ代替りしていたことがわかる。その後天正18年に至り、小田原北条氏の滅亡と共に領主としての赤堀氏は没落したと考えられる。



ここまで永禄-天正期に活動した赤堀上野介を中心に検討した。赤堀氏のような規模としては大きくない領主が戦国大名、有力国衆の動向に大きく左右されながら存続していく様子が理解される。これは中小領主がより自身の維持のためには大規模な勢力を頼る必要があることを示すと同時に、国衆や大名クラスにおいても在地の領主を味方とすることが地域支配の鍵となっていたことを示唆している。赤堀氏の動向は戦国期における境目における支配、紛争などを考える上で貴重な一例であるといえよう。


*1)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、21号
*2)同上、28号
*3)同上、36~45号
*4)同上、41号
*5)同上、46号
*6)女性が家督を相続した例では越後水原氏が挙げられるが、同氏では水原景家の戦死後息女祢々松が相続し、その後伯父政家が継承している(大見水原氏の系譜 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~)。
*7)池上裕子氏「『関東幕注文』をめぐって」(『上杉謙信』戒光祥出版)
*8)『戦国遺文後北条氏編』補逸編、4899号
*9)久保田順一氏「『関東幕注文』と上野国衆」(『室町・戦国期上野の地域社会』岩田書院)
*10)『新潟県史』資料編5、4035号
*11)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、445号
*12)『新潟県史』資料編5、3551号
*13)黒田基樹氏「阿久沢氏の動向」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*14)『新潟県史』資料編3、927号
*15)同上、928号
*16)『新潟県史』資料編5、3414号
*17) 同上、3773号
*18) 同上、3444号
*19) 同上、3414号・4020号
*20) 同上、3773号
*21) 同上、3551号
*22)栗原修氏「上杉氏の勢多地域支配」(『戦国期上杉氏・武田氏の上野支配』岩田書院)
*23)『新潟県史』資料編3、929号
*24)『戦国遺文後北条氏編』2巻、1718号
*25)『戦国遺文後北条氏編』3巻、1833号
*26)『金山城と由良氏』、291号
*27)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、1124号
*28)『戦国遺文後北条氏編』3巻、2067号
*29)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、807号
*30)同上、661号
*31)同上、622号
*32) 栗原修氏「厩橋北条氏の族縁関係」(『戦国期上杉氏・武田氏の上野支配』岩田書院)
*33) 黒田基樹氏「白井長尾氏の研究」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*34) 黒田基樹氏「由良氏の研究」(『戦国大名と外様国衆』戒光祥出版)
*35)『戦国遺文後北条氏編』4巻、2832号
*36)『群馬県古城塁址の研究』補逸編上巻、938号
*37) 同上、879号



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