鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

三条山吉氏の系譜3

2020-09-21 22:03:18 | 三条山吉氏
前回に引き続き山吉氏の系譜を辿っていきたい。山吉政久は永正16年に初見され(*1)、見附の給人や大関氏との折衝に当たっていたようであるからこの時既に山吉氏当主として活動していたと考えられる。

天文後期には政久は所見されず、代わりに恕称軒政応が見られる。花押型は異なるが、受領名丹波守が共通していることから同一人物と見る。

『越後過去名簿』に「月清政應 三条山吉但馬守立之 取次大串ヌイノ助 天文廿二 七月廿日」とあり、政応の死去は天文22年(1553)である。その生年を父と想定される能盛の活動が見られる永正(1504~1521)の初期とすると享年は50歳前後であろう。また、供養依頼者としてみえる山吉但馬守は有力な一族であろうか。

[史料1]『上越市史』別編1、99号
(前略)
年内云無余日、云遠路、巨砕山吉孫四郎所へ申遣候、雖若輩候、其口之儀候間、被加申御詞、急度御調可為本望候、恐々謹言、
 十二月五日     長尾弾正少弼
                景虎
 色部弥三郎殿 御宿所

[史料2]『新潟県史』資料編5、2678号
一、於当寺内狼藉人之事、被任前々御壁書之旨、可有打擲、万一違乱輩在之者、承而可加成敗事、
一、せつしやうきんたん(殺生禁断)の事、
一、とか人(科人)至于時走入候共、不可有御許容事、
一、同竹木きりとるへからさる事、
一、於御門前不可乗馬事、
右条々如前々御壁書、可守此旨、若違乱之族在之者、可在之者可処罪科之状、如件、
天文二十一年七月十六日      政応
                 景盛
                 豊守
本成寺

[史料3]『三条山吉家伝記之写』
再乱之砌、大渡之地下人悉退散之処、以其方荷責還住にて走廻り之段、神妙感之、雖然連々退屈之由尤無拠、然者其地之代官職申付之、無如在可致奉公者也、仍如件、
 正月廿八日     景久判
   西枝海右馬之助殿


[史料1]は黒川氏と中条氏の所領相論に関する天文21年の長尾景虎書状である。景虎が色部勝長に対し二氏の仲介を依頼している書状であり、奥郡と府中は遠いため三条の山吉氏と連絡を取るようにと伝えている。文中の山吉孫四郎はここで初見される人物であるが、山吉政久(入道政応)と同様に孫四郎を名乗る所から、その嫡子と推定できる。「若輩」とあることから、生年は発給者である景虎が誕生した享禄3年以降だと考えられよう。

『越後過去名簿』に「香雲宗清禅定門 越後三条山吉孫四郎殿御タメ直ニ立之 代六貫五百文取也 永禄元年九月廿二日戌午」とあり、これは上述した山吉孫四郎である。政久の嫡子孫四郎が早逝し、その後を孫次郎豊守が継いだと考えられる。

さて、これらを踏まえて『三条山吉家伝記』(以下『伝記』)を見ると「政久」の子として「政応」が挙げられ、「病身故若死ト云々」と記述されている。父子関係や死去についての点より、「政応」は史料に現れる孫四郎を指すと考えられる。「政応」の子として「豊守」がおり、その弟に「景長」がいる。「景長」ははじめ幼少で家督を継ぎ、「玄蕃入道」の後見を受けたとあるが、米房丸との混同があるように思える。「景長」を後見した「玄蕃入道」こそ後の景長にあたるだろう。要するに、系譜は米房丸の存在を把握せず「政久」と「政応」を別人としたため一代ずれが生じてしまっている。

こう考えると『伝記』中の「政応」の弟とされる「景久」の存在は示唆的である。「景久」の項には西海枝右馬助、又八郎に宛てられた書状が数通掲載されている。[史料3]はその一通である。代官職を与えていることから、景久は山吉家当主と見て然るべきである。『伝記』において、「政応」と「豊守」の中間に位置する人物であり、「景久」は政久の次代当主としてふさわしい実名である。正確性に欠く史料ではあるが『山吉家家譜』においても当主の一人に「景久」が挙げられるように、その存在は『伝記』以外にも見受けられる。ウェブ上においても孫四郎を景久に比定する考察があり、参考にさせていただいた(*2)。よって、孫四郎の実名は「景久」と推測しておきたい。


[史料2]は[史料1]と同年の連署制札である。ここで山吉豊守が初見される(*3)。豊守は政応と連署していること、花押型が類似していること、そして諸系図が一貫して父子関係を伝えることなどに従い政応の子として良いと考える。孫四郎の弟であろう。

さて、山吉豊守は永禄9年頃から本格的な活動が見られる。そして、豊守の嫡子と想定される山吉米房丸が天正4年12月に現れるから(*4)、この頃に死去したと考えられる。『伝記』が没年とする天正5年6月9日は米房丸の存在を把握していないためあまり信用できないが、享年36という記述を参考にすれば没年を天正4年とした豊守の生年は天文9年となる。

そして、豊守の後継者である米房丸も天正5年9月の『三条領闕所帳』(*5)作成までに死去した。天正5年6月9日は米房丸の没した日付かもしれない。

その後は天正5年12月の「上杉家家中名字尽手本」(*6)に「山吉」とだけ見える。

[史料4]『上越市史』別編2、1586号
急度染一筆候、仍当国惑乱、景虎・景勝辜負歎敷候間、為和親媒介与風出馬、越府在陣、因茲、弥次郎方へ及鴻鯉之音門候、自先代入魂之事候条、弥無疎略無様諫言可為喜悦候、委曲大熊可申候、恐々謹言、
  七月廿三日           勝頼
   山吉掃部助殿
   同 玄蕃允殿
   同 四郎右衛門尉殿
   仁科中務丞殿

[史料5]『上越市史』別編2、1967号
今度抽諸人忠信、神妙之至候、因茲、本領并木場之地、同河中嶋之内浄蓮寺分宛行候、弥奉公可致之者也、仍後日之状、如件、
天正八
  五月二十六日     景勝御朱印
       山吉玄蕃允殿

[史料4]は天正6年に武田勝頼が山吉氏関係者四名に宛てて本庄繁長への「諫言」を依頼したものである。この中で山吉玄蕃允は米房丸の次の当主山吉景長にあたる。しかし、この宛名をみると玄蕃允と他三名に全く差が無い。一方、[史料5]を見ると景勝から玄蕃允のみを宛名として本領、木場その他の土地を安堵されている。よって、景長の家督相続は、米房丸死去から数年経た御館の乱終結と共に景勝に認められたものであろう。それまで数年の間、正式な当主が不在という状況が推察できる。上述の天正5年12月の「名字尽」における「山吉」という表記は個人というより山吉家中を表している可能性があろう。『伝記』は景長が「天正八年ニ元服して玄蕃ト改ル」としているが、天正8年の家督相続を表していると考えられる。

本来庶子であった景長のその実名は、この時景勝から与えられたと見るべきだろう。景長の実名は、天正13年山吉景長判物(*7)における署名「景長」から史料的に裏づけられている。

景長については、『伝記』に詳しい。それによると、豊守の弟で、仮名は孫五郎を名乗ったとある。慶長16年に66歳で病死したという。逆算すると生年は天文14年となる。先に見た豊守の推定生年と合わせても弟と考えることは妥当である。天正8年時は、景長35歳であった。

この頃の山吉氏の一族は『三条衆給分御帳』に詳しく、[史料4]でみられる掃部助、四郎右衛門尉に加え、孫右衛門尉、右衛門尉、源衛門尉、兵部少輔が確認できる。

また、一族として『上越市史』が天正11年に比定する甘糟長重書状(*8)に「木場之儀者、山吉一悠斎証人御当地ニ差置申候」と山吉一悠斎という人物が見られる。一悠斎は山吉景長の混同が見られることがあるが、以降も玄蕃や景長の名が見られることから別人だろう(*9)。上述の6名の誰かかもしれない。

以上、今回は政久(入道政応)の子として孫四郎、豊守、景長の三者を推定しそれぞれ家督を継承したと考える。また、政久の頃に庶家として但馬守が、豊守、景長の頃には庶家として孫右衛門尉、掃部助、右衛門尉、源衛門尉、四郎右衛門尉、兵部少輔、らがいた。


よって、これまでの考察より山吉氏当主の系譜を推定すると以下の通りである。数字は文書上山吉氏初見の行盛を一代目とした時の代数である。

行盛¹-久盛²-正盛³-能盛⁴-政久/政応⁵-景久⁶
                    -豊守⁷-米房丸⁸
                  -景長⁹


*1) 『新潟県史』資料編3、451号
*2) gooブログ『越後長尾・上杉氏雑考』様を参考にさせていただいた。
*3)嫡子である孫四郎を差し置いてこの年10歳程度の庶子豊守が署名しているのは不自然にも思われる。本成寺文書は永禄年間に焼亡したと伝わりこれが複製である可能性もあり、注意は必要である。ただ、個人的には能盛の代にも正盛や孫五郎の活動が見られたように一族としての役割があったかもしれない。
*4)『上越市史』別編1、1315号
*5)同上、1351号
*6)同上、1369号
*7)『上越市史』別編2、3070号
*8) 『上越市史』別編2、2733号、『越佐史料』『三条山吉家伝記写』は「一悠斎」、『上越市史』は「一応斎」とする。


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