鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

永正10年上杉定実の挙兵とそれに前後する抗争の実態について2

2022-04-16 16:31:02 | 長尾氏
前回は永正10年前後に生じた上杉定実の挙兵とその前後の抗争について概観し、定実の反抗が長尾為景と八条上杉氏ら旧守護上杉氏勢力の対立に乗じたものであり、その背景には山内上杉憲房の存在があった可能性を提示した。今回は、特に越後国内の抗争の動向について、さらに具体的に見ていく。

国内情勢は為景、定実、旧守護上杉勢力の動向によって大きく三つフェーズに分けられる。それぞれの時期における対立構図を明確にしながら、その推移を追っていく。


1>長尾為景・上杉定実vs旧守護勢力
事態が動いたのは永正10年8月5日である。「井上、海野、島津、栗田其外信州衆相談自関口可乱入」が為景へと伝えられたという(*1)。

信濃勢力が為景に敵対し軍事行動に及んでいることから、同年に生じていた親為景派の高梨氏を中心とした抗争も、この年の越後情勢と相互に関連していると推測される。

それに対し、為景は中条藤資、黒川盛実へ上田庄に反乱軍が攻め込むことを想定しそれに対する出陣を要請している(*2)。さらに、同様の内容を守護年寄奉書の発給者として名が見える斉藤昌信、千坂景長が上田長尾房長へ伝えている。

※追記 23/6/20
前嶋敏氏「越後永正の内乱と信濃」(『長尾為景』戒光祥出版)、阿部洋輔氏「長尾為景の花押と編年」(同)より、永正10年と比定していた8月5日斎藤昌信・千坂景長連署状及び8月8日桃渓庵宗弘書状は永正6年8月と指摘されている。上記の信濃勢力の軍事行動は永正10年ではなく、永正6年のことであったと推測される。永正10年の乱と信濃勢力の関連は明らかではない。訂正したい。


9月下旬には宇佐美房忠による白川庄での軍事行動も確認され、[史料1]はその際の書状である。

[史料1]『新潟県史』資料編4、1709号
一昨日者雨故、其地迄御取除、無是非候、然者中条殿被仰合、七松要害際急度御着陣奉待候、今日者向白川庄成働、今明日中ニ安田但馬守を可仕居候、早々有御相談、七松際へ御動奉待候、恐々謹言、
「永正十」
  九月廿九日              宇佐美弥七郎
                         房忠
黒川弾正左衛門尉殿 御宿所

永正10年と記す押紙は当時の物とされる。ここから、房忠が白川庄に進軍し安田但馬守を攻めていること、さらに黒川盛実、中条藤資も宇佐美氏と連携を取って軍事行動に及んでいることがわかる。また、これとは別に宇佐美房忠書状封紙(*3)も残っており、この頃のものと見られる。

この時の大見安田氏は反為景派安田但馬守と親為景派安田実秀の両派に分裂しており、これについては以前に検討している。
過去記事

また、[史料1]封紙には「自新発田」とあり、房忠が新発田に着陣していたことがわかる。

新発田は当時新発田能敦の拠点であり、能敦は10月17日書状(*4)で中条藤資と進退を共にすることを望んでいるから、能敦も親為景派とみて良いだろう。


つまりこの時点において、反為景派安田但馬守を攻め、親為景派である能敦と同陣していた宇佐美房忠も親為景派と見ることができる。

房忠はこの後春日山城に籠城した上杉定実に従い、その結果為景に滅ぼされる人物である。永正10年10月下旬には交戦が確認される房忠と為景が、9月時点では同陣営にいることになる。

ここから推測されるのは、永正10年9月時点ではまだ定実と為景は決裂していなかったということである。8月時点で両者が同陣営にあり八条上杉氏らと対立していたことは前回確認しており、それは9月においても維持されていたと考えられる。

よって、宇佐美氏を含む定実勢力は、為景と旧守護勢力の抗争が開始されたのちも為景と決裂には至らず、為景の意向によって白川庄などでの軍事活動に及んでいたとわかる。


さらに、場所が白川庄というのもポイントである。『越後過去名簿』の記載より八条氏の拠点の一つが白川庄にあったことが明らかであり、9月の抗争が為景方による八条上杉氏支配地域の制圧と見ることができる。つまり、為景の敵はやはり八条上杉氏ら旧守護勢力と推測できるのである。


永正10年7月から9月にかけて八条氏等の旧守護勢力と為景が対立し、定実は為景に従っていたという構図が理解されるであろう。

2>長尾為景vs上杉定実
さて、定実と為景決裂は10月23日長尾為景書状(*5)に「去十三日上様春日山御登城申候、則帰府、十九日及進陣、廿二日御刷上様御出城無相違致御供、今日為景堀内江奉移」とあることから、永正10年10月上旬に決定的になったことがわかる。

10月13日に為景が府内を留守にした時を狙い、定実が春日山城に籠城、為景はそれを聞いて府中へ反転し、19日に春日山城へ着陣したという。そして、22日には定実を降した、という。その10月23日の時点で定実は敗北し、為景の拠点「堀内」へ移送されていることがわかる。

翌年上条憲定が「長尾弾正左衛門尉慮外之刷、前代未聞、依之宇佐美弥七郎忠露信候」(*6)と述べているが、これの「慮外之刷」は為景が定実を攻め、降伏させたことを指すだろう。


定実と為景の軍事的対立が10月13日になって突然生じたことは、10月17日新発田能敦書状(*4)に「今時分加様之事出来」、10月23日長尾為景書状(*7)「爰元之儀去十三以不思議之子細、上様春日山へ御登城候」とあることからもわかる。


その後の為景の動向は、22日に定実に従う宇佐美房忠の籠もる頸城郡小野城への進軍を予定し(*8)、28日までには小野城を周辺に着陣したことがわかっている(*9)。


ちなみに、房忠と同じく上杉氏重臣をルーツとする斉藤昌信、千坂景長は大永元年の無碍光宗禁止の掟書(*10)に署名があるから、これ以後も為景政権の中枢を担っていたと思われ、定実には味方せず、為景に味方したことがわかる。


定実と八条氏等旧守護勢力の連携は文書等から読み取ることはできないが、為景と八条氏の抗争が激化し為景自身も出陣したタイミングから見て、両者が共闘を意図していたことは十分に考えられる。

為景の対応が早く数日で鎮圧されために、現在の研究等においても定実の単独行動と見られ、八条上杉氏らとの繋がりが看過されたのではないか。


3>長尾為景vs旧守護勢力
10年の乱は10年10月定実の敗北の後、翌11年1月六日町の戦いにて為景方の中条藤資、上田長尾房長により反乱主体であった八条左衛門尉(*11)、石川氏、飯沼氏らが討捕られ、為景方の勝利に終わる。


[史料2]『新潟県史』資料編3、162号
去年至于上田庄、当国諸牢人乱入処、向彼口御張陣、書夜御加世義、就中、去十六日、於同庄六日市、遂一戦得大利、為始八条左衛門佑殿、石川、飯沼以下千余人被討捕留由示給候、殊其方御手へ七十余人討捕験註文越給候、誠御粉骨無比類、至于末代御忠信不可如之候、併御武略故、成根切段、満足大慶此事候、御同心御家中動、一段感之候、何も進切紙候、被御覧分可頂御届候、旁御出府上、以面拝可申承候、恐々謹言、
    正月十六日         為景
     長尾弥四郎殿

[史料2]はこの合戦の動向が具体的に説明されている貴重な史料である。

旧守護勢力は「当国諸牢人」と表現されており、その多くがこの合戦において討捕られたという。


そして、抵抗を続けていた宇佐美房忠も永正11年5月26日に籠もっていた頸城郡岩手城を落とされ自害する(*12)。これを以て軍事抗争は終息し、10年の乱の終結といえるだろう。



今回は越後国内の動向に注目し、為景と旧守護勢力の抗争と為景と定実の対立が絡み合う様子を概観した。次回は、山内上杉氏がこの抗争にどのように関係していたか見ていきたい。


*1) 『越佐史料』三巻、598頁
*2) 同上、598頁
*3) 『新潟県史』資料編4、1709号
*4) 『越佐史料』三巻、596頁
*5) 『新潟県史』資料編3、157号
*6) 『越佐史料』三巻、609頁
*7) 同上、599頁
*8) 同上、601頁
*9) 同上、600頁
*10) 同上、678頁
*11)[史料2]に記される八条上杉氏「八条左衛門佑」は、同年1月16日築地修理亮入道宛長尾為景書状における「八条左衛門尉」と同一人物である。どちらかが誤記と捉えられる。当ブログでは『越佐史料』に従い八条左衛門尉の表記で統一している。
*12) 『越佐史料』三巻、609頁



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