鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾為景から晴景への家督相続について

2023-09-23 13:46:15 | 長尾為景
長尾為景から長尾晴景への家督相続は晴景宛為景譲状[史料1]に明らかであり、通説では天文5年8月に比定され、私もそれに従ってきた。しかし、前嶋敏氏(*1)は[史料1]は天文9年8月の文書であり、家督相続も同年同月であったことを主張している。家督相続の時期は為景権力、晴景権力の存在形態を考える上でも重要であり、この問題について検討する。


1>前嶋氏の主張
[史料1]『新潟県史』資料編1、109号
日柄好候間、従今日籏・文書、重代相譲候所帯等之義、別紙日記有之、至于子孫万劫も相続繁昌可目出候、恐々謹言
  八月三日               為景
   長尾弥六郎殿

まず、前嶋氏の主張を見ていきたい。為景は天文5年に入道し以降「張恕」や「信濃入道」などと見えるが、天文9年8月5日広橋兼秀女房奉書副状(*2)宛名に「長尾信濃守」とある以降は再び「信濃守」として所見されることから入道ではなくなっていたと推測する。そのため「為景」署名だけで[史料1]を天文5年以前のものとすることはできず、天文9年以降の可能性も考慮すべきという。さらに、伊達時宗丸入嗣問題を詳しくみると、天文8年10月までは為景は交渉推進方と協調しているが天文9年9月には晴景が交渉反対派として推進派中条氏への攻撃を賞賛していることから、為景=推進派・晴景=反対派として天文9年に大きな転換があったと推測している。そしての転換は方針の相違により対立し、晴景が為景体制を否定し自身の権力を形成していった結果と捉えている。よって、為景譲状はこの転換点にある天文9年8月であったと推定している。

上記主張の内、為景が天文5年より入道し天文9年半ばに再び入道でなくなった点については文書上の裏付けがあり首肯される。

しかし、前嶋氏は家督相続の時期と伊達入嗣問題における父子の政治的立場という二点を一体として考えているが、それぞれは独立した課題であり安易に関連付けるべきではない。天文の乱において優勢であったことで天文5年における家督相続を否定できるはずもなく、また伊達入嗣問題が直接的に家督相続に繋がるとも言い難い。つまり、前嶋氏の主張は論理的な飛躍があり、家督相続と伊達入嗣問題における政治的立場をそれぞれ慎重に考える必要がある。

私の考えとして結論的に言えば、家督相続は前嶋氏の主張の通り天文9年8月であった可能性が高いが伊達入嗣問題において為景・晴景間の政治的対立はなかった、と推測できる。下記において家督相続、伊達入嗣問題での政治的立場の二点において詳しく見ていく。


2>伊達入嗣問題における父子の政治的立場
伊達入嗣問題において為景と晴景に政治的対立があったことは肯定できない。まず、前嶋氏が為景の意向に反して晴景が入嗣反対派である証左として挙げる田中兵部少輔宛晴景書状(*3)は、実際には天文11年9月であったと推測されるからである。この文書が為景死後のものであれば、前嶋氏の主張は根幹から否定されることとなる。

前嶋氏はその書状を天文9年9月に比定、晴景が色部氏による中条氏の攻撃を賞する文書とし、晴景の伊達氏への敵対的な立場を表すとしている。前嶋氏が天文9年9月に比定する根拠を引用すると「色部氏は天文9年6月には孤立していたが、天文十年二月以後には本庄氏等と起請文取り交わしの交渉を行っている。このことと、後掲注(※県史1482号のこと)に示す通り「伊達問題」において中条氏が孤立していることに鑑みれば、色部氏による中条氏への攻撃はその間に行われたものと考えられる」とある。しかし、本庄氏らとの起請文取り交わしに中条氏は関与しておらず、それ以降に色部氏・中条氏間に抗争が生じない理由には全くならない。むしろ中条氏が居城に追い込まれるほどの状況としては、色部氏が孤立していた天文9年より本庄氏ら周辺領主と和睦し体制を整えた天文10年以降の方が自然である。つまり、前嶋氏の比定には当時の状況的にも不自然であり文書上の根拠も乏しい。

私が天文11年9月に比定する理由は次の通りである。まず、起点となる文書は当時を回想する天文21年黒川実氏書状案(*4)であり、そこには「色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き」とある。中条氏の居城が落城目前となると伊達晴宗が中条氏と長尾晴景の「無事」を仲介しそれが成立したとある。伊達氏として晴景の主体性が見えており、中条氏の窮状が伊達稙宗と晴宗が対立し分裂する伊達天文の乱が勃発する天文11年6月以降(*5)のことであることを示す。また、中条氏攻めが「揚北中申合」の上で行われたという記載も、前嶋氏が本庄氏らと起請文を取り交わす以前に色部氏のみで行われたとする推測を覆すものであろう。さらに中条氏の降伏を巡る伊達氏と晴景、色部氏の交渉は11月長尾晴景文書(*6)にも記されており、使者が「門目丹後守」であったことがわかる。門目丹後守は天文11年12月伊達晴宗書状(*7)に「去秋門目丹後守為使」と見え、中条氏を巡る交渉が天文11年秋であったことを補強する。

以上より、文書的な裏付けを取ると長尾晴景・色部氏ら陣営による中条氏攻撃は天文11年9月に行われその後伊達稙宗に敵対し晴景と協調路線をとる伊達晴宗の仲介のもと中条氏が降伏したと考えられる。尤も、中条氏はまもなく再び反抗し伊達稙宗陣営につくがこの点は別稿を参照してほしい。黒川実氏書状案の検討 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

ここまでの見てきたように、伊達入嗣問題において為景と晴景の政治的立場の相違があったとはできない。文書の年次比定の誤謬からその政治的立場の解釈にも誤解を生じたと考えられる。為景と晴景が政治的に協調していたことは次の史料群からも示される。

[史料2]『新潟県史』資料編3、999号
尊書祝着之至候、抑為先年 綸旨御礼御申段珍重存候、次対私五百疋被送下候、御懇之儀畏存候、只今又弥六郎殿御申綸旨之儀、内海被申候条、随分被申調被遣候、希代御面目候、急度御礼御進上之儀可然存候、巨細内海可被申候条、不能詳候、恐々謹言
    九月廿七日              宗頼
   長尾信濃守殿 尊報

[史料3]『新潟県史』資料編3、998号
私敵治罰 綸旨事、所望由候条、申調進入之候、弥可為本意之次第候、猶宗頼可申候也、謹言
    九月廿七日              (広橋兼秀)
    長尾弥六郎殿

[史料2]、[史料3]は天文9年における治罰の綸旨発給についての朝廷側から発給された文書である。[史料2]で晴景に綸旨発給がなされたこと、[史料3]は[史料2]の副状であり為景に同様の内容が伝えられている。つまり、天文9年9月の時点で為景・晴景は共同して治罰の綸旨を獲得し伊達稙宗・中条氏を始めとする敵対勢力に対抗していたことがわかる。ここからも、入嗣問題の是非を巡り父子間の対立があったとは考えられない。

[史料4] 『新潟県史』資料編3、104号
其地敵退散、奥方所々御本意之由、其聞得候、如此頓道行候事、誠以きとくまで候、御留守中無何事候、おそなき御かたがた御堅固候、可有御心安候、恐々謹言
  十月廿三日                  玄清
  信濃守殿

[史料4]はその年次比定が問題となる文書であるが、天文8年7月まで上杉定実は「玄繁」の名乗りで見えることから、玄清の署名で発給された[史料4]は天文8年11月以降の文書と考えられる。次回以降検討する同時期の奥郡の情勢を考えると天文9年10月である可能性が高い。天文9年より還俗したことを踏まえると、宛名「信濃守殿」は矛盾ない。内容からは「奥郡所々御本意」とあり、為景が奥郡を制圧しつつある様子が窺われる。為景も積極的に軍事行動に及んでおり、前嶋氏の推測する入嗣推進派=親稙宗派としての姿とは異なる。実際には為景・晴景の父子関係は良好であり、伊達稙宗に与する奥郡の勢力と交戦を続けていたことがわかる。


3>家督相続の時期
一方で、家督相続の時期については通説の天文5年8月よりも前嶋氏説・天文9年8月である蓋然性が高いように思う。その理由は長尾晴景の発給文書が為景生前に全く所見されないこと、天文9年8月治罰の綸旨において晴景が申請者として認められる点にある。

まず、晴景の発給文書であるがその初見は田中兵部少輔宛長尾晴景書状(*3)であり、上述の通り天文11年9月と推定される。為景の死去する天文10年末まで発給文書が一通もなくその死後から確認される点は、史料的偏りよりも実際にそれまで晴景の発給文書が少なかったことを示唆している。この場合天文5年8月に家督相続があったとすると5年以上にわたり家督にありながら発給文書が確認できない状況となり不自然である。つまり、家督相続は天文9年8月であり、そのために晴景の発給文書が少なかったと考えるべきであろう。

また、天文9年8月において晴景は治罰の綸旨の受給者となっており(*8)、その申請も晴景の名によるものであったことが明らかである(*9)。これ以前の綸旨や御旗の申請においてその主体は為景であり、晴景の登場はなかった。天文9年8月において晴景の政治的立場はそれまでと明らかに変化しており、それは家督相続であったと考えられる。

家督相続の理由ははっきりとはしない。そもそも生前に家督を譲渡することは他の戦国大名でも見られるが、その理由を明確にすることは難しく、また様々な要因があったなかでの総合的な判断であったと考えられる。前嶋氏の主張のような優勢だから家督相続はしないという考え方は短絡的に過ぎるだろう。個人的には伊達入嗣問題や為景が当時50才半ばで天文10年末に死去することを踏まえると、不安定な国内情勢と自身の体力的衰えなどといった複数の要因があったのではないかと憶測している。

ただ家督相続が天文9年8月であったとすると天文5年以降の入道には別の意味があった推測され、それを考える必要がある。私は、入道の理由として上条定兼の死亡を考えている。為景は永正期にも一時期入道し桃渓庵宗弘を名乗っているが、これは上杉房能の死亡への配慮と推測されている(*10)。この事例を参考にすれば、天文の乱における上条定兼(定憲)の死亡に配慮した形で一時期入道したと考えられないだろうか。越後過去名簿より上条定兼の死去は天文5年4月であることが明らかであり、為景との抗争に関連して敗死した可能性は十分に考えられよう。上条定兼の政治的立場については別の機会に検討したいが、佐渡の抗争を仲介した実績(*11)や、本願寺へ「上杉惣領」を自称していた(*12)ことを踏まえると、当時の定兼の立場は守護上杉氏に比肩するものであったことは疑いなく、この推測は十分に成立すると考えている。


以上、長尾為景から晴景への家督相続について前嶋敏氏の主張を元に検討してきた。その結果、家督相続は天文9年8月であった可能性が高いと考えられるが、伊達入嗣問題における父子間の対立は認められないことを示した。天文9年8月における治罰綸旨の発給が長尾晴景の家督相続と密接に関連していたことが示唆されよう。天文10年末為景の死去後、本格的に晴景の活動が所見されることとなる。



*1)前嶋敏氏「戦国期越後における長尾晴景の権力形成-伊達時宗丸入嗣問題を通して-」(『日本歴史』2015年9月号、吉川弘文館)
*2)『新潟県史』資料編3、997号
*3)『新潟県史』資料編4、2076号
*4)『新潟県史』資料編4、1482号、黒川実氏は実際には「平実」の可能性があるがここでは史料名として「黒川実氏書状案」を利用している。
*5)『晴宗公采地下賜録』奥書に「天文十一年六月乱之後」とあり、伊達天文の乱の勃発が天文11年6月であることが確実である。
*6)『新潟県史』資料編4、1056号
従伊達為使門目丹後守方上府、中弾前事、雖被申之候、各へ時宜談合申、於其上可及御返事之由、於其上可及御返事之由、令挨拶候、依之先日以使者申宣候き、定可為参着候、恐々謹言          
   十一月廿一日        長尾弥六郎 晴景
   色部弥三郎殿 御宿所
森田真一氏・長谷川伸氏(*13)は上記書状を「入嗣問題に否定的な守護代長尾晴景は「国内の諸将に相談した上で入嗣問題の返事をする」として使者を追い返し、この旨を色部氏に伝えた」と解釈しているが、晴景は「従府内も承筋目候」とあり使者の提案に同意しており、さらにこの時晴景が諸将に相談したことは「中弾前事」=中条弾正忠の処遇であり入嗣問題の是非ではない。
*7)『新潟県史』資料編4、2045号
*8)『新潟県史』資料編3、775号
*9)『新潟県史』資料編3、998号
*10)木村康裕氏「桃渓庵宗弘の発給文書」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*11)『新潟県史』資料編5、3096号-12
*12)『石山本願寺日記』
*13)森田真一氏・長谷川伸氏「守護上杉定実と守護代長尾為景」(『長尾為景』戒光祥出版)


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