鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川盛実(盛重)の動向

2020-07-15 10:30:58 | 和田黒川氏
今回からは数回かけて、和田黒川氏の系譜をたどりその動向を歴代当主ごとに詳しく追跡検討してみたい。まずは、黒川盛実(盛重)から始めることとする。

文明から明応年間にかけて黒川氏は祖父氏実入道応田から家督を継承した当主四郎次郎頼実を伯父駿河守治実が補佐する形で成立していた。明応9年の胎内川の戦いでは頼実が守護上杉氏から寝返り、中条土佐守を討ち取っている(*1)(*5)。

これ以降しばらく黒川氏は史料上に確認できない。永正4年の抗争では、長尾為景が敵として挙げるのは「本庄三河入道(時長)、色部修理進(昌長)、竹俣式部丞(清綱)」(*2)であるから、直接の敵対関係にはなかったとみられるが、黒川氏の所領である高野郷を上杉定実が中条藤資に宛がっているため(*3)、本庄氏ら寄りの立場であったかもしれない。どちらにしろ、この後は他の揚北衆同様為景に従ったと見られる。

永正6年の山内上杉可諄の侵攻により長尾為景・上杉定実が越中に逃れた際は、「黒川弾正左衛門尉」が為景陣営として伊達尚宗と連携していることが確認できる(*4)。これが盛実であり、黒川頼実の子であると考えられる(*5)。9月には「以旁御動揚北一遍、加地庄張陣之由申候」(*6)とあり、中条藤資らと共に周辺の敵対勢力と交戦していることもわかる。永正7年8月には黒川氏影響下にあると思われる土沢氏に上杉定実から知行宛行状(*7)が発給されていることからも、盛実が一貫して為景・定実方についていたと推測できる。

永正6年8月の中条藤資が盛実へ高野郷返還していることが確認できる(*8)。中条氏と黒川氏の所領を巡る複雑な動きが垣間見えるが、盛実の代においておおむね中条氏とは協調関係にあったといえる。

永正10年の為景と上杉定実の抗争においても、為景から中条氏への書状中で「御一覧後黒川殿へ可被進之候」とあることから、中条氏と共に為景方についたことが推測される。宇佐美房忠から七松城攻めを要請されているのもこの年である(*9)。盛実が弾正左衛門尉としてみえるのはこの史料が最後である。

永正16年西実助等連署書状(*10)に「去夏下野所へ被仰届候哉」とみえる。大永4年4月の「乙宝寺金銅製華鬘陰刻銘」(*11)に「平朝臣盛実」とあることから、この頃も盛実は当主として活動している。よって、盛実が永正16年までに下野守を名乗り活動していたことがわかる。

大永6年(1526年)1月の起請文(*12)には「黒川下野守盛重」とあり、大永4年から5年の内に盛実が改名したと考えられる。起請文の内容は以下の通りである。

「或本庄・色部・中条、其外国中面々、或親類被官等、縦雖被致不儀、某之事、至于為景御子孫、致不儀奉引弓事不可有之候、於国役等儀も、各前不可見合申候、此儀偽申候者(以下神文)」

黒川盛重はこの時まで一貫して長尾為景方につき、起請文を提出するなど他の揚北衆と同様に為景への従属を強めていったと理解されよう。この起請文が盛実の終見であり、享禄4年からは次代清実が見られるようになる。

生年は頼実の活動が見られるようになる文明18年(1486)以降と考えられる(*5)。史料上の活動期間は17年であり、その没年は大永末期から享禄始めであろう。


追記:実名について
黒川盛実は史料上度々「盛実」の実名で所見され、その実名は確実である。『新潟県史』において大永6年起請文署名が「盛重」とされることから、その盛実が後に盛重を名乗ったと解釈した。当ブログ黒川為実に関する考察の中で、「為重」とする文書があるも「実」と「重」の混同による誤記ではないかとした。そこで、「盛重」に関する検討も必要と考え、ここではよりくわしく実名「盛重」について検討する。

『越佐史料』は署名を「黒河下野守盛實」とし、綱文においても「黒河盛實」と表記している。ただページ上部には「黒川盛重ノ誓書」という注意書きがある。混乱が見られるものの、文書署名においては「盛実」と解釈しているようである。

『新潟県史』資料編3の付録においてこの起請文の写真が掲載されておりその署名を確認することができる。個人的な意見としては「盛実」と判読できるのではないかと考える。同じ頃黒川氏関係の文書である永正16年西実助等連署状(*13)における4名の家臣の署名にみえる「実」と比較した。起請文は花押と一部被っているためわかりにくいが、連署状における「実」字との共通点があると見た。

ただ、黒川盛実の文書における署名は起請文以外には所見がないため、本人の筆跡で比較ができないのが残念な部分である。

他に、状況から考えれば大永4年まで確実に「盛実」の実名が見えること、改名の契機が不明なこと、揚北衆において改名の事例がわずかであることなどから、一貫して盛実を名乗ったとするのは自然である。

以上から黒川盛実は『新潟県史』などにおいて「盛重」とされるが、『越佐史料』は「盛実」とし、私自身の見解としても署名が「盛実」であると考えることから、その晩年においても実名「盛実」を名乗り続けていた可能性について留意するべきである。


*1)『新潟県史』資料編4、1317号
*2)同上、1423号
*3) 同上、1320号
*4)『中条町史』資料編1、1-505号
*5)頼実は幼名宮福丸と名乗っていた文明12年に家督を相続、文明18年(1486年)には頼実の名で発給文書がみえる。盛実の初見は永正6年(1509年)である。よって、年齢的にも頼実と盛実の父子関係は矛盾しない。受領名下野守も黒川氏代々のものであり、盛実も嫡流とみてよいと考えられる。盛実の生年を文明末期頃としても明応9年の胎内川の戦いでは10歳程度とまだ若年であり、この年に見られる黒川四郎次郎は頼実で間違いないだろう。
*6) 『中条町史』資料編1、1-506号
*7)『新潟県史』資料編4、1323号、土沢氏は天正3年の『上杉家軍役帳』に黒川氏の同心として見える。
*8) 『越佐史料』三巻、522頁
*9) 『新潟県史』資料編4、1710号
*10)同上、1858号
*11) 乙宝寺へ仏殿装具の寄進に伴う銘文のこと。『中条町史』資料編1、3-19
*12) 『新潟県史』資料編4、236号
*13)『中条町史』資料編1、1-534号

※20/8/31 追記


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