鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川清実の動向

2020-07-18 14:22:40 | 和田黒川氏
前回の黒川盛実に引き続き、その次代清実の動向を追っていきたい。

黒川清実は享禄4年1月の越後衆連判軍陣壁書(*1)に「黒川四郎右兵衛尉 清実」と署名しているのが初見である。よって、享禄の乱では他領主と共に長尾為景に与したとわかる。

天文の乱では揚北衆は一転して上条定憲へ味方し、清実も例外ではなかった。天文4年6月に蒲原津に在陣していた上条定憲の元へ参陣した「奥山、瀬波の衆」(*2)に清実も含まると考えられ、8月には清実が上条方として本庄房長、鮎川清長、中条藤資と共に平子氏へ西古志郡領有を認める書状を発給している(*3)。9月には清実を含め揚北衆7名の連署で羽前庄内の砂越氏へ援軍の要請をしている(*4)。天文の乱以降は中条氏らと同様に天文6年までには為景と和睦したと考えられる(*5)。

天文8年までに出された長尾張恕(為景)書状(6*)の中で「中弾并黒兵へ度々覚悟旨申越候処、無相違返章」とあり、和睦以降は為景に協力する姿勢をみせている。この文書の後天文11年(1542)には次代黒川四郎次郎が史料上に現われ、清実から権力移行が図られたと考えられる(*7)。

しかし、清実は以降も史料に散見される。例えば、『越後過去名簿』において天文16年に黒川右兵衛尉を依頼者とする供養が複数確認できる。前嶋敏氏「景虎の権力形成と晴景」(*8)において『越後過去名簿』には権力中枢と関わりがある武将が多く、黒川氏もそうであった可能性が指摘されている。伊達入嗣問題を巡る揚北衆の混乱において伊達氏に協力した中条氏と相反する形で、清実父子は府内長尾氏との連携が深まっていったといえるだろう。

清実の終見は天文23年直江酒椿が清実へ知行する上条の地について郡司不入を認めたものである(*9)。よって、天文末期から弘治年間の死去と見られるだろう。

清実の初見は享禄4年(1531)、終見が天文23年(1554)である。前代の盛実は永正6年(1509)が初見であり、天文11年(1542)には次代四郎次郎がみえる。清実は永正前期から中期の誕生とみられる。四郎を名乗るのも、黒川氏代々の仮名四郎次郎に通じており盛実の嫡子とみていいのではないかと思う。

*1)『新潟県史』資料編4、269号
*2)『越佐史料』三巻、812頁
*3)同上、818頁
*4)同上、822頁
*5)同上、817頁、中条氏の回で検討した。
*6)『新潟県史』資料編4、1439号
*7)『越佐史料』三巻、856頁
*8)『上杉謙信』編福原圭一・前嶋敏、高志書院
*9)『上越市史』別編1、119号


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