鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

中条房資の動向

2020-07-12 10:17:38 | 和田中条氏
前回まで、中条景資を中心に見てきたが、今回はその次代房資の活動を史料から読み取っていきたい。

伊達入嗣問題、伊達天文の乱以後、中条氏はしばらく史料上に現われない。天文後期になって中条黒川間の所領相論関係の書状にその名が見られる。所領相論の詳細は省略し中条氏に注目して見ていく。天文21年長尾景虎書状(*1)に「中弥爰元へ被絶音問候」とあるのが注目される。「中弥」は「中条方」と同等の意味で用いられていることからより中条弥三郎を表すのではないか、と考えられる。すなわち、景資の嫡子と考えられ房資のことであろう。天文21年(1552)には中条氏は既に房資を中心に活動していたと考えられる。この時、景資は40歳前後、房資の生年は享禄5年(1532)であるから既に21歳となっていた。

[史料1]『新潟県史』資料編1、1482号
(前略)将亦先年中条弾正忠(景資)伊達之義馳走、(中略) 中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、(中略)、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候、如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候、(後略)
天文廿一年
  六月廿一日     黒川実(実氏)
山吉丹波入道(政応)殿

景資と房資の交代時期はいつになるのだろうか。[史料1]は前回も載せた物の後半部分である。ここで「弥三郎」に注目したい。従来色部弥三郎勝長に比定されることが多く、確かに「弥三郎家中横合」は色部中務少輔の反乱とも取れる。しかし、「弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事」すなわち伊達氏に再び協力し黒川氏と敵対したという部分は色部勝長には当てはまらない。これを中条弥三郎とすれば立場が一致し「重而」という細かい部分も当てはまる。鳥坂城の落城を天文11年(1542)としたが、その際享禄5年(1532)生まれの房資は12歳になっている。若年だが既に元服を終えていてもおかしくはない。さらに、[史料1]において鳥坂城の落城を境に中条氏を代表する人物が「弾正忠」から「弥三郎」に代わっていることが注目される。これは、鳥坂城落城とその復帰に伴う家督交代と捉えられよう。これの例として、永正5年に村上本庄城を落とされた本庄時長が隠居し家督を子房長に譲った(*2)ことが挙げられる。景資も他の揚北衆、長尾晴景、伊達晴宗と周囲の全てを敵に回し、隠居するほかなくなったと考えられよう。ここに、若干10代前半で弥三郎房資が中条氏の家督となった。むろん弾正忠景資は後見として家中にその存在感を示していたことは想定できよう。[史料1]に「中条前」という表現が見えるが、「前」とは『戦国古文書用語辞典』(監修小和田哲夫、編鈴木正人)によれば意味の1つに「(父子の)持前、責任というぐらいの事」とあり、この頃の中条氏が景資房資父子での活動だったことを示唆するのではないだろうか。黒川氏も同じ時期に父清実、子実氏二人が史料上見えていることからも、自然なことといえるだろう。『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』において景資の受領名は越前守と山城守が併記されていることから、景資は家督移譲後に山城守を名乗ったと考えられよう。

さて天文21年(1552)に続いて弘治元年(1555)にも中条氏と黒川氏間の所領相論が史料に見える。ここで「中条越前守」が見える(*3)。相手方の黒川実氏も下野守の受領名を名乗っており(*4)、景虎との関わりの中で実氏、房資共に受領名の獲得に至ったと考えられようか。よって、天文末期から弘治元年に中条房資は越前守を名乗ったといえる。

そして、永禄2年(1559)『祝儀太刀之次第写』によれば、中条房資は「披露太刀之衆」の第一位に「中条殿」と記載されている。これは「直太刀之衆」の三人に次ぐ、地位を獲得していることを表している。伊達入嗣問題で長尾晴景、他揚北衆と対立し鳥坂城を落とされるまでに至った中条氏が、景虎政権下でここまで地位を向上させたのはいかなる理由であろうか。

『中条越前守藤資伝』において「景虎公兵を栃尾ニ挙ケ玉う時、藤資第一番ニ御味方ニ属シ、逆賊長尾俊景・黒田秀忠等ト大イニ戦フ」とあるのが興味深い。中条景資・房資父子は晴景政権から景虎政権へ転換する時、素早く景虎へ接近しその初期の権力基盤を構成することによって復権を狙ったといえるのではないか(*5)。その際、中条氏が府内長尾氏と姻戚にあったことは有利に働いただろう。『中条氏家譜略記』では景虎引退騒動に際し「藤資無二之以忠信一番出証人」とありここでも親景虎派の一面を見せる。上杉謙信から景勝への権力移行の際に鮎川氏の重用が終わり本庄氏の復権が見られたように、府内権力の移行期に諸将はその政治的立場を大きく変えることになったと考えられる。ただ、親景虎派といっても永禄期から柿崎氏や斉藤氏など領主層の政権への参画がみられる中、中条氏にそのような動きはみられずやはり揚北衆としての自立性は維持されていたと見るべきだろう(*6)。

永禄4年(1561)第四次川中島合戦では上杉政虎より房資へ感状が発給されている(*7)。これがいわゆる「血染めの感状」である。

そして、所伝を参考にすれば永禄11年(1568)2月に景資が死去する。この時、景資は55歳前後。房資は37歳であった。

永禄11年には「夏中茂従本庄弥次郎方之計策之書中指出」と武田信玄らに与した本庄繁長から誘いが来るも上杉輝虎寄りの立場を明らかにしている。11月には本庄繁長に内通した石塚玄蕃允という人物について対処し「輝虎一世中忘失有間敷候」と感謝されている(*8)。そしてこの頃再び、黒川氏との所領相論が勃発する。

この所領相論の関係文書を最後に房資は史料に見えず、所伝より天正元年(1573)8月22日に死去したと思われる。42歳であった(*9)。

以上、中条房資の動向について検討した。伊達入嗣問題や黒川氏との所領問題など複雑な問題との絡みが多く、言及できていない部分も多い。これらの問題は後日の課題としたい。

*1)『上越市史』別編1、99号
*2)『本荘氏記録』、『本庄系図』
*3)同上、130-132号
*4)同上、133号
*5)ただし、伊達入嗣問題及び伊達天文の乱にかけて中条氏は伊達氏に付いたと見られ、景虎の栃尾入城時にはむしろ敵対関係であった可能性がある。景虎の栃尾城主期はその期間の長さにくらべ史料が少なく、慎重に検討する必要があると考える。
*6) 上杉十郎や上条政繁など一門層でも参画がみられず、中条氏も一門として政権中枢から距離を取っていた可能性もゼロとは言えないと考えるが、景虎の近親「おまつ」が嫁いでいる領主層の斉藤朝信の活動は見られることから中条氏の参画がない理由は揚北の独立性故といってよいと思う。
*7)『上越市史』別編1、287号
*8)同上、626号
*9)所伝はこの没年を景資のものとするが、ここまでの考察よりこれは房資のものであろう。


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